雪の中の夢 |
ゆるゆると雪が降っていた。
触れればすぐさま水になってしまうような、薄い雪。降り積もったそれを踏みしめるブーツの中にも水がじんわりと染み込んできていたが、今更気にすることでもなかった。
森の際の崖道。
ここを抜ければ、村が見えてくる。
長い仕事だった。魔導師としての腕を見込まれて、この一年の間、さる領主館に逗留していた。仕事は無事終わり、相応の報酬を得て、自分は今、家に帰るところだ。
懐の道具袋にはいくつかのみやげ物が収められていた。
彼を待つ家族、それぞれに向けて。
娘は、相変わらず小さな主婦のように働いているのだろうか。息子は、そろそろ生意気盛りになった頃か。
先日受け取った手紙の文章を思い出し、ふと目元を緩める。懐の道具袋のふくらみを再度確認して。
なんにしても、後少し。
少しの辛抱だ。
この崖道を抜ければ。
踏み出した足を、男はふと止めた。
強大な魔力を感じた。――人としては強大過ぎて、いっそ禍禍しいとさえ言える程の。
それを隠そうともせず、空の中から現れる気配がある。
羽のように舞い散る雪の中。暗くなりかけた崖道に、黒い影が立ちふさがった。
「こぉーらっ、起きろ!」「ぐーっ!」
「うわあっ!?」
突然、体にどさりと落ちてくる重みを感じて、シェゾ・ウィグィィは飛び起きた。
キョロキョロしてから腹を見ると、黄色い怪生物が乗っている。
「ぐっ」
それはぴょーんと弾むと、傍らにしゃがみこんでいた少女の肩に飛び乗った。
肩で切りそろえられた栗色の髪、青に金の縁取りの魔導装甲。
「なっ、なんだ……アルル? なにをする!」
睨むと、少女は屈託なく白い歯を見せて笑った。
「いやぁ。よく寝てるなーと思ったから、つい」
「あのな……」
晴れた日の午後。森の木陰で本を読むうち、いつのまにか眠ってしまっていたらしい。
「だったら、気を利かせて静かに寝かせとくもんだろうが」
「ボクの通り道に寝てるキミが悪いんだよ」
「はぁ? ……こんなところをお前は通るのか?」
ここはかなりな森の奥だ。普通は人の通わないような。
「森の探検してたんだよ。キミだってここにいるんだからお互い様じゃないか」
アルルはけろりと言ってのける。
――テレポートも使えないくせに無謀なヤツだ……。
それ以前に、暇人と言うべきだろうか?
ムツッとして落ちた本を拾っていたシェゾは、続くアルルの声で顔を上げた。
「それにキミ、なんだか苦しそうな顔して眠ってたんだもん。
起こしてあげた方がいいかなって思ったんだよ」
「……そんな顔をしてたか?」
「うん。悪い夢でも見ているみたいだったよ」
「………」
「もうちょっとで泣きそうな感じだったもんね」「ぐーっ」
「気が済んだんならさっさと帰れ」
少し考え込む顔を見せたシェゾだったが、アルル達のこのセリフで憮然となった。
「あーっ、なんだよその言い方。人が折角心配してあげたのに!」
「要らん世話だっ」
「そういう言い方はないでしょ? ――もうっ。分かったよ。行こっ、カーくん」
頬を膨らませてアルルは立ちあがる。彼女の背にかかった赤い短套が広がり、一瞬、血の華を錯覚させてシェゾは目を瞬かせた。
――昏い夢を見るのはいつものことだ。
消えていく少女の背を見送りながら、胸の裡でシェゾは一人ごちた。
だが、誰かに心配されることではないのだ。――実際。
夢を見る者は、常に俺自身とは限らないのだから。
自分は、常に”力”を求めてきた。
何故こんなにも”力”にこだわるのか、その理由を己自身知らない。
だが、それさえ無くなってしまったら、今の自分に生きる意味など全く存在しないというのも、紛れもない事実だった。だから、力を求める。求めるしかない。
いわゆる修行や勉強というものは、子供の頃に死ぬほどやった。今となっては、そういった正攻法で己の力を上げるのは生半可なことではなかった。その程度には完成され、安定している。
よって――最も手っ取り早い方法として始めたのが、他者から”力”を奪う、ということだった。
勿論、相手は必死に抵抗するので簡単に手に入るものではないが、それもいい刺激になった。一方的に相手のものを奪おうというのだから、相応のリスクはあってしかるべきだと思う。その結果己が勝利したのなら、相手の魔力を奪う正当性とてある。それが勝者の証であり、権利だ。そう思っているし、間違っているとは考えない。
だが――。
ゆるゆると雪は舞っていた。撒き散らされた羽根のように。
暗くなり始めた雪の崖道。ブーツに貼りついた雪の塊を時折掻き落としつつ、足を速めていく。
後少し。
少しの辛抱だ。
この崖道を抜ければ。
男はこれまで何度もしたように、それを思い浮かべた。
子供たちが待っているのだ。彼らには、自分しか寄る辺がない。
帰らなければ。
あの家へ。待っている家族の元へ。
「………」
ゆっくりと、シェゾはその蒼の双眸を開いた。
うすぼんやりとした朝の光の中に、見慣れた天井が見える。自分の家の自分のベッドの上。
寝転がったまま左手で前髪を掻きあげ、窓の外の景色に目を眇めた。
昨日までとさして変わらない。緑にほんの少し影の差し始めた、晩夏の風景だ。雪が降り積もるには、まだ随分と遠い。
「今更………何が言いたいんだ?」
誰に言うともない呟きは、返る言葉のないまま宙に消える。
それでも起きあがると、彼は手早く出かける支度を始めた。
森から抜けると、森の際の崖へと道は続いていく。
森の際を削って作られた道は決して狭いものではないが、広々としているわけでもない。
この季節、森の緑を落としたこの道に、あの日の面影はなかった。それでもなんとか”あの場所”に見当をつけ、立ち止まる。一度崖下を覗きこみ、口の中で小さく呪文を唱えた。
「ライト・レビテーション」
すうっと、彼の体に光の帯がすり抜ける。そのまま、躊躇なく崖下へと飛び降りた。
浮遊の魔法がかかった体は、ゆったりと崖下へと舞い降りていく。
あの日も、こうして崖下へと降りた。舞い落ちる雪ひらと一緒になって。
「バーニング・ルアク・ダグアガイザン!」
勝負はあっけなくついた。雪道を歩き詰めた男の動作に切れはなかったし、元々、研究者畑で戦闘実践に長けてはいないものだったらしい。
それでも、噂通り純度の高いそれなりの量の魔力を、男は有していた。
倒れこんだ男の頭にてのひらを押し当て、シェゾは朗々と魔力吸収の呪文を唱えた。勝者である自分にはそうする権利がある。
魔力の熱い奔流がなだれ込み、瞬間、揺らいだ。いつになってもこれには慣れない。自身の奥を掻き回されるような、快感とも悪寒ともつかない感触。
暫くそれに耐えて、シェゾは深い吐気と共にてのひらを離した。
魔力とは奇妙なもので、アイテムに吹きこんで保存することはできるのに、人間自体の持つそれは、その人物の命が尽きると消失してしまう。逆に、魔力の殆どを失ったとしても、その人物が生きている限り再び元の状態近くにまで復活させることも可能なわけで、要するにその人間の生命力と精神力に由来するものらしい。
よって、極限以上に魔力を奪い去ってしまうと、その人物は体力か精神力が極端に磨耗してしまう。場合によっては死に至ることすらあった。
だが、この男にそうする気はなかった。
そこまでがっついてはいなかったし、そうするほどの価値も感じなかったのだ。
だから――それは全くの予定外の結果だった。
男はよろよろと立ちあがった。
魔力を失い、武具も持たないこの男に、何をできるはずもない。だからシェゾは取りたててそれを気にしなかった。
実際、男はただその場から逃げようと思っただけだったのかもしれない。
あるいは、魔力を急激に失ったことにより、意識に軽い混濁を起こしていたのかもしれなかった。
――男は、崖から落ちた。
降り立った崖下には、何もなかった。
あの時、降り積もった雪の中で見た”あれ”は、跡形すらない。夢か幻のように。
あの後、誰かによって見つけられ、片付けられたのか。
しかし、近辺に石積のようなものは何も見当たらず、誰にも見つけられないまま獣や魔物に漁られて消え去ったというのが真相のような気がした。崖は深く、魔法なしでは容易には降りてこられない。魔物の跋扈する現在、旅人一人の姿が消えることは珍しくなく、消息を断った地点が余程はっきりしていない限りは強いて捜索されるということもない。深き野に倒れた者はそこで朽ちるのが定めなのだった。
それでも暫くその場所を眺めていたシェゾは、やがて何かを見つけて地面に手をついた。
地面に殆ど埋もれて同化しているそれを注意深く引っ張り出す。
魔導師特有のアイテム。――道具袋だった。空間圧縮の魔法の効果は――かろうじて切れていない。
中身を確認すると、シェゾは立ちあがった。
たまに、生々しい夢を見ることがある。
それは奪った魔力の主や、あるいはアイテムに魔力を吹きこんだり所持していた人物の、断片的な記憶だ。魔力を完全に取り込み、己のものとするうちに、その夢も薄れて消えていく。
――消えた、はずなのに。
明日を控えて、家の中は僅かに色めき立っている。子供の頃から親代わりに可愛がってくれた近所の小母さん達が慌ただしく出入りし、準備に余念がない。だから、そんな折の突然の訪問者は、まったく邪魔っけな存在とも言えた。
「あの、旅の人ですか? ……ウチに何か?」
この家の者に用がある、というその旅人に、彼女は全く見覚えはなかった。――あれば忘れるはずもない。美しい銀色の髪で、とても整った顔立ちをしていた。こんな田舎には似つかわしくない美丈夫だ。自分の頬が僅かに紅潮するのを感じて、彼女は居住まいを正した。
「これを届けに来た」
対して、淡々と旅人は告げた。
――あまり愛想のいい質ではないらしい。
そんな感想は、旅人の差し出してきたものを見て吹き飛んだ。
「これは……!」
ボロボロの道具袋に入った、古ぼけた櫛と壊れたおもちゃ。
今となってはただのガラクタに過ぎないもの。けれど。
「この袋は父のものです! ……この櫛、私がねだっていたものだわ。おもちゃは弟の……」
彼女は声を震わせた。忘れていた思いがよみがえり、目頭が熱くなる。
「でも、どうして……どこでこれを?」
「旅の途中で拾ったものだ。どこだったかは忘れた。長旅をしているんでな」
ボロボロになって崩れてしまったが、ここの住所の書付が入っていたので、と言う。わざわざ届けに来てくれたらしい。
「ありがとうございます! ……父が亡くなった――いえ、行方知れずになったのは、もう十年以上も前なのに、こうして父の買ってくれた品が手元にやってくるなんて」
嬉しいのか悲しいのか分からない。溢れてしまった涙をぬぐって、彼女は側にいた弟の名を呼んだ。それから、再び旅人に向き直る。
「とにかく、座ってください。もっと詳しくお話も聞きたいですし……」
愛想を込めて言うと、後ろで聞いていた弟が軽口をたたいた。
「姉ちゃん、いくら美形の男だからって、あからさまに頬を染めるなよなー。明日嫁に行く花嫁がそんななんて、問題あると思うぜ?」
「なっ……! 何よ、この人はお父さんのお土産を届けてくれた恩人なのよ? 愛想よくして当然でしょっ?
すみません、この弟ときたら体ばかり大きくなってまだまだ子供っぽくて……あらっ?」
振り向いて、彼女は目を瞬かせた。
既に、戸口に美しい旅人の姿はなかった。
「……あんたの家族は、元気でやってるみたいだぜ」
村外れに向けて歩きながら、シェゾは呟いた。
夢の中の男の感覚では、子供たちはまだほんの幼く、弱い存在だった。だからこそ帰らねばならなかった。彼の帰りを待ち望んでいる、弱き者たち。
だが、生者は強きもの。
穏やかなことばかりではなかっただろうが、ああして立派に成長し、生き抜いている。
十年以上も昔の夢が、何故今頃になって現れたのか。その理屈も理由も知れるところではないが――。
「これで満足したか?」
どこかで可笑しさを感じながらも、シェゾはひとりごちた。
――何故あの時、わざわざ崖を降りて見に行ってしまったのだろう。
自分にとって重要なのは魔力を備えた存在――獲物だけで、それを奪い去った吸いカスがどうなろうと知ったことではない。それに、あの男がああなったのは結局のところ自業自得で、自分が直接手を下したわけでもない。
だから、わざわざ崖の下にまで様子を確かめに行く必要はなかった。――助かっている可能性などまずなく、実際その予想通りだったのだし。
なのにそうしたのは――。
――後味が悪かったから、か?
らしくもなく。
今、自分にとって何の得にもならないことで動いてしまったのも、また。
俺は悔いているのか?
――そんなはずはない。
あれからも幾多の魔力を奪いつづけたのだし。
――アルル・ナジャという、強固な壁に阻まれるまでは。
「――って、キミはまた何を独り言喋ってるのさ」
「どわぉぅっ!!?」
本気で奇声を上げて、シェゾは飛び退った。目の前の、見慣れた少女の姿を捉えながら。
「アルルっ。なんでお前がここにいる!?」
「昨日、あれから森の奥にダンジョンを見つけて、そこから転送の魔法陣に乗って、ももんが特急に乗って、ついさっきこの村に着いたところだよ」
簡潔に自らの冒険譚を語って、アルルは目の前の男を見上げた。
「で。シェゾはどうしてここにいるのさ。随分遠くまで来たと思ったのに……。ボクが遠出すると、いっつもキミがいるんだよねー」「ぐっ」
首を傾げ、まさかボクをストーキングしてるんじゃ? などと言い出した少女をシェゾは怒鳴りつけた。
「んなワケあるかっ!! 大体、お前の行くところにいつも俺がいるわけじゃない、俺のいるところにお前が来るんだ!」
「ホントかなぁー。怪しいよね、カーくん」「ぐー!」
「何がだっ!」
「だって、シェゾはボクのこと狙ってるんでしょう?」
「当たり前だ! お前を手に入れるまで、俺は絶対に諦めんからな!」
「ほら、やっぱり」
「やっぱりって何だ! 俺が言ってるのはっ……!」
叫び過ぎで咳き込んでしまった。
「シェゾ、大丈夫?」
覗き込んでくる少女を、恨めしげに見やる。
「ったく……。
……お前は、どんな夢を見るんだろうな」
「へ?」
いつか、この少女の魔力を奪い取れる日が来たら。
この少女の見ていたものを、夢として見ることがあるのだろうか?
それはひどく甘美なことである気もしたし、逆にこのうえなく恐ろしい事態である気もした。
「うーん……。とりあえず、昨日見た夢はね。福神漬けを山盛りつけてカレーショップで10倍大盛りカレーを十杯食べて、それからスタンドでタコスを五個食べて、スパゲティ食べて、高菜ピラフ食べて、最後にぷよまんパフェを……」「ぐーぐぐー!」
「やめろ……気持ち悪くなってきた」
想像して胃を押さえたシェゾの前で、アルルのお腹が景気よく、くるる〜〜、と鳴った。
「あはは……実は食料が尽きちゃって。昨日の夜から何も食べてないんだよね。お金もないし」
「………」
シェゾは黙ってアルルを見た。アルルも、黙って見上げてくる。
「…………」
「……………」
「………………」
「…………………。
……分かった、おごってやる」
根負けしたのは、やはりシェゾの方だった。
「わーいっ。やったぁ!」「ぐぐー!」
アルルは飛び跳ねて喜んだ。その肩でカーバンクルも飛び跳ねている。
「っておい……。まさか、その黄色いヤツの分まで俺がおごることになるわけか?」
「そうだよ。カーくんもお腹ペコペコなんだから。ね、カーくん」「ぐー!」
「………俺は今、これまでの人生で一番後悔しているのかもしれんな……」
どんよりしたシェゾの腕を、アルルがつかんで引っ張った。
「じゃ、行こっ。ボク、お腹ペコペコでもう目が回りそう。お皿だって食べちゃいそうだよ」
「ぐーっ!」
「……皿の代金までは面倒みないからな」
シェゾの宣言が聞き入れられるかは、疑問である。
終 |
白いモニタ画面を眺めていたら冒頭が浮かんだので書いた話です。元は裏用の書き下ろし(2001.9.10)でした。
05/4/23 すわさき