予定のない昼下がり、街外れの原っぱを通りかかったら、シェゾに会った。
「あれ、シェゾじゃない」
「ああ」
「なんだか久しぶりだね」
「ああ」
「天気がいいから、気持ちいいね」
「ああ」
「今日は勝負しないの?」
「ああ」
「……どうかしたの?」
あんまり生返事なので、ボクはシェゾを覗き込んだ。そうしたら、いきなり怒鳴られてしまった。
「ごちゃごちゃうるさいぞ! 俺は今、本を読んでるんだ。用事があるんなら読み終わるまで待ってろ!」
すごい剣幕だったんで、ボクはビックリして目をパチクリした。
……まあ、いいか。どうせ今日は暇なんだもんね。
ずっと立っているのも疲れるので、ボクはシェゾの隣に腰を下ろした。いつもだったら、シェゾに「自分から魔力を吸われに来たか」とか、そうでなければ「何のつもりだ!」とか言われてしまうような距離だ。でも、今日のシェゾは何も言わない。ホントに広げた本のページに集中しているようで、ちょっとつまらない。
一体、どんな本を読んでいるんだろう……。
ボクは肩越しに本を覗き込んでみたけれど、魔導関連らしいというのが判ったくらいで、後はちんぷんかんぷんの専門書だった。……ボクは元々、あまり本を読むのは得意じゃないのだ。絵の沢山入った物語の本なんかは大好きだけど……。
ボクはシェゾの背中に寄りかかった。シェゾの背中は広いから、寄りかかっていると楽だったけど、いつもだったらやっぱり怒鳴られていたと思う。でも何も言われなかったから、ボクはずっとそのままにしていた。
「あれ、カーくん……」
原っぱにはいい風が吹いている。午後の日差しは柔らかい。
カーくんは、ボクのひざの上でしっかり舟をこいでいた。
うーん……ボクも何だか、眠くなってきちゃったなぁ……。
あらかた内容を確認し終わって、俺は本の表紙を閉じた。
随分長いこと探していた本だ。版元を突き止めて王都から取り寄せるのにも結構時間がかかった。そんなわけなので、家に帰り着く前に、ついついこの草原に座り込んで中の拾い読みを始めてしまった。
ようやく、意識が外に帰ってくる。
……つまり、俺はまさにその時まで、周囲の状況というものにまるで気付いていなかったのだ。なんとも間の抜けた話だが。
最初に気付いたのは、背中が妙に重いということだった。ついでに言うなら暖かい。
「…………っ!?」
背中に誰かがもたれかかっている。それだけでも結構ギョッとしたが、なおも驚いたのは、それがよく見知っている……見忘れようのない、アルル・ナジャだったということだ。
な…………なんじゃこりゃぁあ!
などと内心叫びつつ、現実には俺はその場に固まっていた。……アルルはどうやら眠っているようで、規則正しい呼吸が背中から伝わってくる。
一体、何がどうなってこういう状況になったんだ?
ぐるぐるする頭を立て直して考えるに、ふと、誰かが何かごちゃごちゃと話し掛けてきていたような記憶がよぎった。うっとうしかったので、終わるまで待てとか……言った気がする、な……。そういえば。
なるほど。
コイツは素直にそれを鵜呑みにして、待っているうちに待ちくたびれて眠っちまった……ってことなのだろう、多分。
……とはいえ。
仮にも、自分を狙っている相手の前で、呑気に眠りこけるか、普通。……あきれた奴だ。
この時の俺にはアルルに対する闘争心のようなものは湧いてこなかった。まだ頭が完全に切り替わっていなかったのかもしれないし、なにより、こいつののほほんとした寝顔を見ていたら、そんな気力は萎えてしまった。本当に気持ちよさそうによく寝ている。
……って。俺はこれからどうすりゃいいんだ?
なんだか、俺は困ってしまった。
放っといて帰るにしても、俺がここから動こうものなら、コイツはそのまま地面に頭をぶつけて痛い思いをしそうだし……いや、別にアルルが痛い思いをしようが何だろうがどうでもいいんだが……実際、コイツなら頭を打ってもそのまま夜まで眠りこけていそうな気もするし。
……待てよ。それはそれでヤバくないか?
俺は思った。
街からそう離れていないとはいえ、この辺りにだって夜になれば魔物は出る。そんなところにこんなのほほん女が一人で眠りこけていた日には……。
いや、ヤバいのは魔物だけではないかもしれない。人間にだとて、心持ちのよくない輩って奴は少なからずいるものだ。いくらのーてんきなガキとはいえ、一応コイツも十六歳の女なんだからな。それが、こんな無防備に……。
その時、寝返りをうつようにアルルが微かに身じろぎをした。
「……うっ」
紺のスカートの裾がめくれ、わずかに露出したヤツのふとももに、俺の目は瞬間的に引き付けられた。
……コイツのスカートって短いな……。これまで獲物の服装なんざ気にしたことがなかったが、ちょっと短すぎるんじゃないのか? いかんぞ、こういうことでは風紀良俗がだな…………って、俺はいつまでふとももを見てるんだ? これではマジにヘンタイではないかっ。
俺は何とか視線をそらしたが、首が固まってしまっていて、ギギギと音がする気がした。
い、いかん……このままでは。
俺は苦労して、脇に外していたマントを手繰り寄せると、アルルの体に引っ掛けた。……とりあえずふとももは隠れた。やれやれ……。
………………。
……しかし、俺はなんでこんなことでおたおたしてるんだ?
俺は急に馬鹿馬鹿しくなってきた。
こいつが勝手に俺にくっついて寝ていたのだ。別に後ろめたいことがあるわけじゃない。そうだ、結局のところ、こいつを蹴飛ばして起こしてやればいいだけのことではないか。
俺はアルルを起こすことにした。
流石に、いきなり蹴飛ばすのもなんだと思ったので、背中を支えたまま、体をひねって肩を揺さぶる。
「おい、アルル。……起きろ!」
だが、アルルはなかなか目を覚まさない。……こいつ、結構寝起きが悪かったんだな……。
「おい、アルル」
「ん……」
……寝起きだけじゃない。コイツは、寝相も悪かった!
身じろぎしたアルルが倒れ掛かってきて、俺はアルルを抱きとめるような形になった。 すっぽりと、俺の腕の中にアルルの体がおさまっている。
間近に、アルルの顔があった。考えてみれば、こんなに側にコイツの顔を見たのは初めてだ。
微かに開いた唇からは、規則正しい呼気がもれている。……薄紅色の唇は、触れたらひどく柔らかそうだ。
瞬間、鼓動とともに、奥底から何かの衝動が駆け上ってきた。
(……オイ)
俺は、アルルを支えている腕にわずかに力をこめ、
(ちょっと待て!)
ゆっくりとアルルに己の顔を近づけ
(だぁ〜っ! 待て、ヤバい、ヤバいと言っとろうがぁ――っ!!)
運命の神ってヤツは、つくづくこういった悪戯がお好みらしい。
「ぐーっ!」
「どわぁっ!!」
俺の迷走(?)を止めたのは、例によってカーバンクルのヤツだった。
「な……な……」
思いっきり飛びすさり、ドカドカ鳴ってる胸を押さえて見ている前で、カーバンクルはぐーぐーと喚き暴れている。
「カーくん……どうしたの?」
そして、ここに至ってようやく、アルルが目を覚ました。
「そっか、お腹がすいたんだね」
「ぐー」
「もう夕方だもんね。じゃ、帰ってご飯作ろっか」
「ぐっぐー!」
そしてアルルは立ち上がった。初めて俺の方に視線を向けて、まっすぐに歩いてくる。
ま、まさか……。
「シェゾ」
「は、はい!」
だが、アルルはじゅげむを放ってきたりはしなかった。
「これ、ありがとう」
そう言って差し出してきたのは、ヤツに掛けていた俺のマントだ。
「あ、ああ……」
「本……読み終わったんだね。……これから勝負する?」
「い、いや……もう日が落ちるからな」
「そっか」
カーバンクルがまた騒ぐ。
「分かってるよカーくん、今から帰るから。……じゃあね、シェゾ」
そしてアルルは去っていった。
俺はその場に座り込んだ。……な、なんか、今の数分間だけでむちゃくちゃ疲れちまったぜ……。
「ぐー」
「はいはい、早く帰ろうね」
「ぐー」
「今晩は何作ろうかなぁ。ナスカレー……チーズカレー……いっそハヤシライスとか」
「ぐっぐぐー!」
「分かった分かった。カレーじゃなきゃイヤなのね」
「ぐー!」
暗くなり始めた空にはもう月が浮かんでいる。
ボクは月を仰いだ。今日の月は誰かさんみたいな銀色だ。
「ちょっと惜しかったかな……」
「ぐう?」
カーくんがどうしたの? ってカンジに首を傾げたから、ボクは慌ててにっこり笑った。
「なんでもないよ、急ごう、カーくん」
「ぐぅ!」