春一番

 

 

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 柔らかな陽光が降り注いでいる。肌も髪の毛もぬくぬくとして、目覚めかけのベッドの中のように心地がよい。

「春だねぇー」

 温まった土と若い緑の匂いを吸い込んで、代わりに大きく息を吐きながら呟くと、頭の横に寝転んでいる黄色い小動物――カーバンクルが、「ぐぐぅー」と同意の声を返した。

 見上げる視界いっぱいに広がる輝くばかりの青い空。ピチピチと可愛らしくさえずりながら、茶色い小鳥が宙で翼をバタつかせているのが見える。

「こんな日にはさぁ、ダンジョンに潜りたいところなんだけど……」

「ぐぐぅ?」

「近場のダンジョンはみーんな制覇しちゃったからなぁ。あんまり遠くに出かけられる余裕はないし……」

 よっこいせ、と上半身を起こしたアルル・ナジャは、少し離れた道を歩く見知った人影を認めて、手を振って声をかけた。

「おーい、ルルー!」

「ア、アルル!?」

 何故か、少しばかり慌てたような挙動で、ルルーが振り返った。いつものごとく、豊満な肢体を白いきわどいドレスに包み、背後に従う牛頭人身の巨漢ミノタウロスが、白いレースの日傘を差しかけている。

「あなた、そんなところで何をしているの?」

「日光浴してたんだよ。草がベッドみたいにふかふかで、すっごく気持ちがいいよ。ルルーもやってみない?」

「遠慮しておくわ。草の汁でもついてドレスが汚れたら大変だもの。……あなた、背中に土がついてるわよ、アルル」

「えっ、ホント?」

 慌ててパタパタと背をはたくアルルを見ながら、ルルーは軽く息をつく。

「まったく、小さな子供じゃないんだから……。これで、あたくしと二つ違いだなんて、信じられないわね」

「あ、ははは……。えーと、ルルーはどこに行くの?」

 苦笑いして尋ねると、ルルーは再び動揺した。

「なっ。な、なんでそんなこと訊くのよ」

「なんでって……ただ、何処に行くのかなって思ったから。またサタンの所にでも行くの?」

 そう言ってから、思わずアルルは口元を引きつらせた。ルルーが肩を怒らせ、ずんずんと地面を踏みしめながら詰め寄ってきたからだ。

「アルルっ! あんた、やっぱり……!」

「え……ええ?」

「やっぱり、あたくしとサタン様の仲を妨害する気なのねぇえ!?」

 後一歩で般若、というような形相で、ルルーはアルルに掴み掛かろうとした。

「な……何でそうなるのよ! ぼくはただ、訊いてみたってだけだよ」

「嘘おっしゃい! こうして、サタン様のお屋敷への道筋で待ち伏せしているのが何よりの証拠じゃないの! なによ、あたくしを牽制しようったって、そうはいきませんからね!」

「わぁあああ、誤解だってばぁあ!」

「甘いっ、逃がさないわ!」

 二人がジタバタしていたとき、一陣の風が音を鳴らして辺りを吹きぬけた。

「きゃあっ!?」

「ブモッ」

 アルルとルルーは、髪や衣服を巻き上げられて思わず目を閉じる。ミノタウロスは持っていた日傘を飛ばされてしまい、慌てて遠くを転がるそれを拾いに走った。

「すっごい風……」「春一番、ってヤツね。春の初めに吹く強い南風」

 掴み合いを忘れて、少女たちはそれぞれ髪や服を整えなおした。だがそれも空しく、再び強い風が吹きぬける。

きゃ あ あ あ あ あぁあ!!

 風と共に、彼方の空から悲鳴を上げて黒い塊が近付いて来て、そのまま地面に転がり落ちた。

「ぶぎゃっ。いててだよー」

 落ちてきたのは、黒衣に金髪の魔女。片手に、星の飾りをつけたほうきを持っている。おそらくは、この箒で飛行中に、風に煽られて墜落したのだろう。

「ウィッチ、大丈夫?」

 アルルは声をかけて駆け寄った。ウィッチは箒を杖にして立ち上がり、しきりに腰をさすっている。

「あいたたた……。もうっ、信じられませんわぁ〜!」

「すごい風だったよね」

「まったくですわ。このエリート魔女のわたくしを墜落させるだなんて、なんて失礼な風なのですかしら!」

 ぷんぷんと怒っているウィッチの一方で、ルルーが口元に手を当てて、小さくぷっと吹き出している。

「何がおかしいんですの?」

「あら、聞こえちゃったかしら? 魔女が箒で墜落するだなんて、今日は珍しいものが見られたわねぇ、って思って」

「なんですって!?」

「ちょっとちょっと、二人ともやめてよ」

 アルルはにらみ合う二人の間に割り込んだ。

「アルルさん、止めないで下さいまし! 今日こそは、この のーみそまで筋肉で出来たメスゴリラに、魔女族の実力を知らしめてやるのですから!」

「あら、箒にもロクに乗れない、頭でっかちのへっぽこ魔女が、あたくしの相手になるのかしら?」

「もう、やめてってば!」

 アルルが大声で叫んだ。

「二人とも、どうしてそう相手を挑発するようなことばっかり言うのさ。ケンカしたってしょうがないでしょ。折角、こんなに素敵な春の日なのに……」

「う……」「それは、まぁ……」

 改めて見回すと、確かに、いがみ合うのは相応しからぬ、うららかな辺りの風景である。

「そうね……。大体、あたくしには大事な用があるんだったわ。こんなところで争っている場合じゃないわね」

「わたくしも、今日中に読んでおきたい本があるんでしたわ。ぐずぐずはしていられません」

 と、それぞれに背を向けて動き出したところで、満足そうな笑みを浮かべたアルルが口を開く。

「そうそう。大体、魔女が箒で墜落するのなんて、珍しくもなんともないじゃない」

「え?」

 サラリと放たれた台詞に、ウィッチとルルーは思わず動作を止めてアルルを凝視したが。その視線も気にせず、「ぼくの故郷にあった仙人の山には、いっつも箒で墜落してる魔女のおねーさんがいたもんね」と続ける彼女の様子に、なんとなく気勢をそがれて、再びそれぞれ背を向けた。

「じゃ、じゃあ、あたくしはサタン様のお屋敷へ行くから。行くわよ、ミノっ」

「わたくしも、家に帰りますわ。それでは」

 そしてルルーが歩き出し、箒にまたがったウィッチがふわりと宙に浮き上がったところで。

 再び風が吹きぬけた。

「ぎゃっ!」「ふぎゅっ!」

 ごん、と大変景気のいい音が響き渡った。

 いたずらな風はルルーの髪を巻き上げて視界を奪い、浮かびかけたウィッチの衣服をはらませて後ろに吹き戻した。側頭部と後頭部をぶつけ合って、二人は諸共にひっくり返っていた。

「う……うぅう」「な、なんですのぉ〜、一体」

「だ、大丈夫? 二人とも」「ご無事ですか、ルルー様ぁ!」

「だ、大丈夫じゃないわよ……この、石アタマ」「石頭はそっちも同じですわ。あぅう〜……。目から星が散りましたわぁ」

 相当痛かったようで、互いに頭を押さえて涙目になっている。そこにまた強い風が吹きぬけて、芽が膨らみ始めた木の梢が、あざ笑うかのようにひゅうひゅうと震えて鳴った。

「ううう……ゆ、許せませんわぁ〜〜!!」

「そうよっ! 風の分際で、生意気だわ。お仕置きしてやらなきゃ気がすまないわ!」

「お仕置きって言っても……相手は風だよ?」

 困ったなぁ、という風にアルルは苦笑いしたが、ウィッチは怯まない。

「アルルさん、わたくしを誰だと思っていますの? エリート魔女のわたくしに、不可能はありません!」

 ウィッチは片袖に手を突っ込んで、一つ一つアイテムを取り出し始めた。道具袋と同じような空間圧縮の効果を袖に持たせているものらしい。

 草の上に魔法陣の描かれた紙を広げ、中央に何かの干物のようなもの、変な模様の石、バサバサした風切り羽根などを並べていく。

「な……なにするの?」

 アルルが思わずという風に尋ねると、ウィッチはニッと笑って問うた。

「アルルさん、さっき『相手は風だ』っておっしゃいましたよね。どうして風だといけないんですか?」

「え? だって、ほら、風は見えないし、捕まえることも出来ないもの」

「そう。では、見て触れるようになれば問題ないのですわね」

 ウィッチはひとしきり高笑いする。

「そ、それってまさか……」

「森羅万象、この世に存在する万物には精霊が宿っている……。風もまた、そうなのです。

 歴史上まれに見る優秀な魔女のわたくしは、精霊を実体化させる方法を開発していたのですわ!」

 言うなり、ウィッチは袖から小瓶を取り出し、中に入っていた何ともいえない色の液体を、魔法陣の中に置いた品々に振りかけた。液体はビンの口からこぼれるとキラキラした星屑のようになり、降りかかった品々も光りだす。

「うわっ」「くっ」「ブモッ」

 激しい風が唸り声を上げ、魔法陣の中央に吸い込まれるように渦を巻いた。アルルたちはそれぞれ、反射的に目を閉じる。閉じたまぶたの向こうに透ける光がひときわ輝きを増し、ぼうんっ、と大きな音と爆圧が肌に感じられた。

 あれほど激しかった風が、ぴたりとやんでいる。

「あ……!?」

 目を開けて、アルルは声を漏らした。魔法陣の中央に、六、七歳くらいの小さな子供がペタリと座っていたからだ。

 髪の毛は蜜色でくるくる渦を巻いており、白っぽい、ヒラヒラした感じの衣服を身にまとっている。

「この子が、春一番の風の精霊……?」

「そうですわ。今は、物理的に触ることも出来ましてよ。さぁ、どんなお仕置きをして差し上げようかしら」

「ちょ、ちょっと待ってよ」

 慌てて、アルルはウィッチの前に回りこんだ。

「こんな小さな子にお仕置きだなんて、可哀想じゃないか」

「まっ、何をバカなことをおっしゃいますの、アルルさん。この姿はあくまで仮のもので、これは、ただの風なんですのよ」

 鼻白んでウィッチは指摘したが、一方でルルーも肩をすくめた。

「そうねぇ……。確かに、こんな姿じゃやりにくいわね。子供を殴るなんて、あたくしの主義にはそぐわないもの」

「え、そうでしたか?」

 素でそう言ったミノタウロスは、直後にルルーの拳で轟沈され、地面にめり込んだ。

「な、なんですの、ルルーさんまで……。これじゃ、まるでわたくしが悪者みたいじゃありませんの。……わかりましたわよ、だったら、わたくしだってもう知りません。関与しませんわ」

 ウィッチはぷりぷりしながら背を向けた。片手を伸ばして指で招くようにすると、近くに寝ていた箒が、糸で引かれたようにウィッチの掌めがけて飛んでくる。

 その背後で、魔法陣の上の子供が、くすくすと声を上げて笑ったのを、アルルは見た。

 途端に強い風か吹き抜け、一直線に飛んできた箒は僅かにそれてウィッチの指先に当たり、弾かれて地面をころころと転がった。

「ああっ。わたくしの、マックスウェル五型スーパーゴージャスブリリアント流星弐號が!」

「……それ、箒の名前?」

 と、アルルが尋ねる間もあればこそ。

「あっ、ちょっとあんた、何するのよ!」

 ルルーの鋭い声がして、振り向きざま、またも激しい風がアルルの体全体にぶつかった。

「わっ」

 きゃはははは……と、子供が甲高い声で笑う声がして、白いレースの日傘がくるくると回りながら舞い上がっていく。薄く開けた目でそれを追うと、日傘の柄に蜜色の髪の子供がぶら下がっていて、ふうわりと木の梢に降り立つのが見えた。

 傘を肩に傾けて、回しながら、とても愉快そうに笑っている。

 どこかで見たことのある表情だなぁ……とアルルは思い、あっそうか、近所のいたずらっ子の表情だ、と思い当たった。それも、特別に手ごわい部類の。

「な……なんだか、姿が見えなかったときの倍くらい腹が立つわねぇ〜」

「十割り増しにムカつきますわぁ」

 眉根を寄せてそう言うルルーとウィッチをまるで恐れる様子もなく、子供は笑いながら、ぽんと木から飛び降りた。風が起こり、傘をさしたまま、すいすいと辺りを漂いだす。ルルー、ウィッチ、ミノタウロスは、それぞれ間近に来た子供を捕まえようとするが、上に下にするするとすり抜けられてしまう。左右から飛び掛って上に逃げられ、頭をぶつけ合ってしまったり、勢いあまって転んだり、完全にからかわれている様相だ。

「くぅうっ……。こうなったら容赦しませんわ」

 あちこち打ち身を作ったウィッチは、箒に乗ったまま片袖に手を突っ込むと、その柄の長さにもかかわらず、さっと大きな捕虫網を取り出した。

「この魔女印精霊ホカクスール網V(商品名)で一網打尽にして差し上げますわ!」

「そんなものがあるならさっさと出しなさいよっ」と怒鳴ったルルーとミノタウロス、そしてアルルにも同じ網を投げ落とす。

「えっ、ぼくも?」

「そうよ、ボケボケっとしてないで、あんたも手伝いなさい!」

 網を持って目を瞬かせたアルルに言い放つと、ルルーは勢いよく網を宙の子供めがけて振り下ろす。子供はするりとよけたが、そこにウィッチの網が襲い掛かってくる。

 まずい状況になった、と思ったのかどうか。子供はひときわ強い風をまとって網を押しのけると、ルルーとウィッチをころころと転ばして、天高く舞い上がった。あっという間に彼方へ飛んでいく。ケラケラと笑い声を残しながら。

「ああっ、待ちなさい!」

「逃がしませんわ!」

「ちょ、ちょっと、二人とも……」

 アルルは少しばかりうろたえた。ルルーたちは風を追ってどんどん小さくなっていく。その後姿をしばらく見送っていたが。

「〜〜もうっ、仕方がないなぁ。ぼくたちも行こっ、カーくん」

「ぐー!」

 足元のカーバンクルに声をかけて、アルルもまた走り出した。

 


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