ソラリス

 はあっ、はあっ、はあっ……。

 喉が痛かった。でも、肺はもっともっとと貪欲に酸素を欲しがってる。

 ぴたぴたぴたぴたと、足下からは間抜けな音が響いている。一歩ごとにぺらぺらした感触がかかとに当たるし、濡れた床で滑りそうで、いっそ脱いじゃった方がいい気もしたけど、それで尖った小石でも踏んだら洒落にならない。ううん、脱いでる時間だって惜しい。今は、一歩だって無駄にできやしないんだから。

 ぶわ、と後ろから魔力含みの圧力が迫ってくるのを感じた。必死になって走る速度を上げると、ギリギリ後ろの床に当たって砕け散る。

「うっわぁああああっ!」

 起こった風に背中を押されながら走って、危うく前のめりに転がりそうになったのを、トットット……と爪先立って、なんとかこらえた。そのまま走る。止まるわけにはいかないんだ。だって、追いつかれてしまう。

 それを証明するように、カッカッカッカッと駆けてくる硬い足音が後ろから聞こえた。そして、声。

「待ぁああああてぇえええええ……!」

 地の底から湧き上がるような不気味なそれに、ぼくは思わず振り返ってしまう。鼻をつままれても解らなさそうな真っ暗なダンジョン。その深淵の闇よりなお黒いマントを広げて、彼が追ってきていた。銀の髪、額に巻かれた青いバンダナ。切れ長の瞳はそのバンダナと同じ色のはずなんだけど、今は血走ってて、怪しく光っているようにさえ見える。変態の目だ。

「お〜ま〜え〜が〜、欲し〜〜ぃい!!」

「ひっいぃぃぃい〜〜!!」

 ぞわぞわぞわ〜っと背筋を寒気が這いあがって、ぼくは顔を前に戻すといっそう真剣に走る。

「だらぁ〜〜!! 闇の剣よぉ〜っ!!」

「うわぁーーっ!!」

 彼が振った剣から放たれた空気の刃が、またも、ぼくが走り抜けたばかりの石の床を抉り取った。足下ばかりを狙うのは、文字通り足止めしたいからなんだろうけど。スカートでなくてよかった、なんて考えがよぎったのは、ほんの一瞬。そんな暇もないっ。

「待〜ち〜や〜が〜れ〜っ!」

「いーやーだーっ!」

 よりによって、今日っていう日に。

 もうっ。なんでぼくがこんな目に遭わなくちゃならないんだよーーっ!



 ぼくはアルル。アルル・ナジャ。古代魔導学校の課程二年目の魔導師の卵。

 魔導師の本分はダンジョン探索だ……って言うのは言い過ぎなんだけど、ぼく自身に関しては、あながち間違ってはいない。だから今、ぼくがこうしてダンジョンの中を走っているのは、いつものことだと言うこともできるんだろう。ついでに、不本意だけど、後ろの変態おにーさんに追いかけられてるのも。

 でも、違う。今日はちょっと違うんだよ。だから困る。どうにもこうにも参ってしまう。

 事の起こりは、今朝のこと。目を覚まして朝ごはんを作ろうとしていた時のことだった。





「ぐー、ぐぐーっ」

「はいはい、カーくん。すぐに朝ごはん作るから、もう少し待ってよ」

 朝ごはんはこんがりトーストにカリカリベーコン付き目玉焼き。いやいやシャケの塩焼きに出し巻き卵にナスのお味噌汁。それとも、簡単に冷たい朝カレーで済ませちゃおうかな。

 お湯を沸かしながらそんなことを考えてるぼくの周りを、カーくんがウサギみたいな耳をふりふりしながら飛びまわってる。よっぽどお腹がすいているんだね。

 カーくんはちっちゃくて黄色くて黒くて丸い可愛い目をしていて、額には赤い宝石・ルベルクラクが輝いている。魔導学校の入学試験の途中で知り合って以来、ずっと一緒の大切な友達だ。ただ、いやしんぼなのが玉にきずで、すぐにお腹をすかせるし、放っておくと何でも食べてしまう。

「ぐー、ぐー」

「そうだね。それじゃ、朝カレーにしよっか。それならすぐに食べられるし」

「ぐぐー!」

「うん。それじゃ席についてね。……はっ!?」

 その時、ぼくは重大な事態に気付いてしまった。

「らっきょが……ないっ!!?」

 ががーん。

 棚に置いていた珍味入れの中に満たされていたはずのらっきょが、影も形も、ひとかけらすらもないっ。おかしいな。昨日までは確かにあったのに。

 ……なんて、理由は考えるまでもない。

「カーく〜ん……」

「ぐー」

 食卓の椅子に座って口を開け、身長以上に伸びる舌をピロピロさせている友達を見やって、ぼくは肩を落とした。ま、いつものことなんだけどね。

 らっきょはネギの仲間の薬草で、根元の白い部分を甘酢に漬けて金色の漬物にする。漬物になると薬効をアップして疲労を癒してくれるし、小さくて持ち運びしやすいから、魔導師の定番携帯食だ。だけどそんな効果は別にして、人気の高さは単純に美味しいからじゃないかなって、昔から思ってる。カリカリした歯ごたえに適度な刺激がたまらない。特に、カレーの付け合わせには欠かせないよ。そう。らっきょのないカレーなんて、カレーじゃないっ。

「ぐー」

「んんんん……」

 悪びれないカーくんの声を聞きながら、ぼくはぐっと空の珍味入れを握りしめる。このままじゃ朝カレーに雪崩れ込めないわ。

「よし! まだちょっと早いけど、今年漬けたらっきょを少し出そう」

「ぐぅ!」

 一ヶ月ほど前に今年のらっきょを漬けたばかり。食べられるんだけど、もう少し漬かった方が好きだから、地下室につぼごと置いてあった。でも、今日はちょっと特別な日でもある。らっきょ無しのカレーで始めるなんて験が悪いよ。

 そうと決まれば善は急げだ。ぼくは黄色い耳付きスリッパをぴたぴた言わせて、石の階段を下りて行った。

 魔導学校は希望する生徒一人一人に寮代わりの一軒家を貸し出していて、ぼくもそんな一軒に住んでいる。この家には地下室があって、ぼくは漬物やなんかを保存していた。

「……うん。これでよし」

 珍味入れいっぱいにらっきょを移して――なにしろカーくんがいるから、すぐになくなっちゃうんだよね――ぼくは重くなったそれを両手で抱え上げる。ところが、珍味入れのふたが外れて足下に転がってしまった。

「あっ……」

 慌てて片手を伸ばして少しかがんだ時、ぼくはそれに気づいたのだ。

 床に敷かれた敷石の一つ。その端が少し欠けていて、下に何かが見えている。

「あれ……?」

 割れて浮いている敷石をそっとどけると、その下にはつやつや光る象牙色のスイッチがあった。周りには模様とも文字ともつかないものが刻んである。……辞書なしじゃ殆ど読めないけど、これは古代魔導文字だね。

 ………どうしよう。

 珍味入れを抱えたまま、ぼくはスイッチを睨んで考え込んだ。

 曰くありげなスイッチは、いかにも押してくださいって感じに魅力的に光っている。ポチッとにゃと押せたら、どんなに気持ちがいいだろう。だけど今のぼくには、カーくんと朝カレーするっていう重要な任務があるのだ。

 それに、幾つものダンジョンを渡り歩いてきた経験が警鐘を鳴らしていた。うかつな行動は慎むべきだって。いかにもなスイッチ。これは……罠かもしれない。

 漬物置き場の床に罠なんて作ってどうするかなとも思うけど、何しろ魔導学校が提供した家なんだし。何かあってもおかしくない、かも。

 むむむ。

「……とりあえず、朝ごはんだよね」

 かがめていた腰を伸ばして、ぼくは立ち上がった。

 まずはごはんを食べて、顔を洗って服を着替えて、それから考えよう。何が起こってもいいように、万全の準備を整えて。

 そんな風に考えた、その時だった。

「アルルーっ!!」

 大音量の呼び声が耳をつんざいた。聞き覚えのある、おねーさんの声。

「アルルっ? いるんでしょ? 出てきなさいっ!」

「ルルー様、勝手に入っては……」

「うるさいわね、このあたくしがこれだけ呼んでるのに出てこないんだから、仕方ないでしょ? ここでずっと待っているわけにはいかないのよ」

「だからと言って扉を鍵ごと千切り取るのはやり過……ブフォッ!

「あ〜ら。この家ってホントにもろいわねぇ〜。ちょっと引っ張っただけで扉は外れるし、あんたが軽〜くぶつかっただけで穴が開くなんて。ホホホ。いいこと、ミノ。これでもここは魔導学校の施設なんですからね。壊したあんたが責任を持って修理しておくのよ」

「は、はい〜〜」

 上から聞こえてくるのが、魔導学校の同級生のルルーと、その従者のミノタロウスだってことは分かってたけど。ぼくは、ルルーの呼びかけに応えることが出来なかった。

 足下に瀬戸物のかけらと、まだ若いらっきょが汁まみれになって散らばっている。

 ルルーの最初の呼び声に驚いて、ぼくは抱えていた珍味入れを落としてしまったのだ。

 そして、瀬戸物の珍味入れは粉々に砕ける前に、床にあった象牙色のスイッチを、しっかり奥まで押しこめてくれていた。

 カチッ、と音が聞こえたと思う間もなく。

「わぁーーーっ!!」

 パカッと床が開いて、ぼくは足先から暗闇の中に落っこちてしまったのだった。



 気が付いたら、真っ暗だった。

「ライト!」

 小さな魔導の光を灯して起き上がり、辺りを見回してみる。

 そこは、どうやら黒い石で造られたダンジョンで、そのせいかとても暗く思えた。魔導の灯りライトがあってさえ、伸ばした手の先も見えないくらいに。

 どうしようかなぁ……。

 ぼくはちょっと途方に暮れる。

「おーーいっ! ルルー、カーくーん!」

 カーくんやルルーを呼んでみたけど返事はない。よっぽど深くまで落ちちゃったんだろうか。ううん。もしかすると落ちたこと自体が見せかけで、転送系の魔導でも仕掛けられていたのかもしれない。だって、あれだけ落ちたのに体のどこも痛めてなかったし、見上げても出口らしいものは確かめられなかったから。だとすれば厄介だった。ここがどこなのかも、どうすれば出られるのかもまるで分からないんだから。

 おまけに、今のぼくは何も持っていない。らっきょのひとかけもないし、魔導酒もカレーもない。杖もマップも方向石もなければ、装甲魔導スーツも身につけていやしない。

「でも、行かなきゃ仕方ないかぁ……」

 ここに座っていたって始まらないもの。

 大丈夫、きっとなんとかなるよ。そう自分を励まして、ぼくは心もとない装備のまま、壁を伝って進み始めた。



「……はぁあああ〜……」

 思わず、大きなため息が一つ。

 足を進めていくうちに、ぼくはこのダンジョンのおかしさに嫌でも気づかされることになった。

 なにしろ、本当に暗い。大抵のダンジョンは、そこが人間にとって未踏査であろうとも、松明たいまつなり光苔なり、何かしらの照明設備が整っている。それは、そこに棲み着いた魔物たちが自分のために用意したものなんだけど。そうした一切がここには見当たらなかった。

 そう。驚いたんだけど、ここには魔物がいないみたいなんだよね。

 襲われないのは楽だけど、魔物が時々落としていく食料や薬をあてにしていた身としてはガッカリするよりない。それどころか、どんな秘境だろうと現れる商魂たくましい魔物商人にすらも、まだ一度も出会えていなかった。こんなことってあるんだろうか。

 不安な気持ちでそろそろと足を進めていたぼくは、踏みしめた敷石が突然、すごい勢いでぐるぐる回り出したので、「きゃっ!」と悲鳴をあげて尻餅をついた。うう。かっこわるい。敷石は止まったけど、撹拌されたぼくののーみそはまだぐるぐる回っている。あれ。ぼく、どっちから歩いてきたんだっけ……。

 これで何度目かの方向喪失。ああ、方向石かマップがあればなぁ。

 このダンジョンに魔物はいないようだけど、罠や仕掛けだけはやたらとあって、ぼくはそれに翻弄されっぱなし。回転床やワープゾーンで方向を見失い、滑る床で壁に激突して目から星。一番参ったのが魔力を吸収する床で、一本道だから回避もできず、かなりの魔力を失ってしまった。壁のスイッチも幾つか見つけて、過去にとらわれない魔導師魂にのっとって押してはみたものの、パンチンググローブに殴られたり、上から石が落ちてきたり、ろくなことがない。一度だけ、押したらピンポーンとチャイムが鳴って、壁の向こうから『ただいま留守にしております。御用の方は後日改めてお越しください』と取り澄ました声が聞こえたんだけど、それ以上は何も起こらなかった。

 ここは、放棄されたダンジョンなのかもしれない。どうしてそうなったのかは分からないけど……。もしもそうだとしたら、ここに出口はあるんだろうか?



 そうして、どのくらいさまよったんだろう。いい加減ヘトヘトになった頃に、ぼくの耳に小さな音が聞こえた。リン、ロン、と澄んだ音が連なった響きは、……音楽、じゃないのかな。

 ってことは、それを演奏してる誰かがいるかもしれない! 急いで、ぼくはその音の聞こえる方へ行ってみた。

「……あっ……?」

 耳を澄ましながら辿り着いた場所は今までになく広く、天井高く開けていて、ぼくを驚かせた。何より、明るい。うっすらとだけれど、その場所自体が青光りしているみたいだ。

 鍾乳洞ほどではないけれど、そこの天井にも床にもでこぼこと石筍が盛り上がっていた。時々、天井のそれを伝い落ちた水滴が、床の石筍がえぐれて出来たんだろう小さな水盤に落ちていく。

 リン、と水音が響いた。その向こうの水盤にも波紋が広がっていて、ロン、と鳴る。幾つもの水盤に落ちる水滴の音が雨だれみたいに連なって、素敵な音楽のように響いている。

 今までの疲れも忘れて、ぼくはうっとりと聴き惚れた。

 ビシャッ。

 この、異質な音を聞くまでは。

 ビシャッ、ビシャッ。

 濡れた雑巾でも叩きつけてるみたいな音が移動してる。見回した視界に入ったのは、床を跳ねていく時計みたいに大きなカエル。

「ま、待って!」

 慌てて声をかけたけど、カエルは構わずに跳ねていく。ぼくは後を追った。だって、このダンジョンに落ちて以来、初めて見つけた生き物なのだ。

「ねぇ、待ってよ!」

 走りながら呼びかけると、カエルはちょっと止まって、「なんだい、うるさいねぇ」と、お婆さんの声で邪険に言った。

「あたしは急いでるんだよ。なにしろ今日は特別な日だからね」

「特別な日?」

 ドキッとしてぼくは尋ね返す。

「影が光に追い付くんだよ。そう定められているのさ。ああ、急がなきゃ、急がなきゃ」

「あっ、待ってってば。このダンジョンから出るには、どうしたら……」

 ビシャッ、ビシャッ。ドプン。

 一生懸命追いかけたけれど、カエルのお婆さんは広場の隅にあったひときわ大きな水盤に飛び込んで、そのまま消えてしまった。

 透き通った水の奥を覗き込んでみたものの、もうカエルは見えない。とほほほ……。折角手がかりを見つけたと思ったのに。

 その水盤は泉になっているようで、こぽこぽと水の流れが奥から湧きあがっている。

 ぼくは泉の水をすくって飲んでみた。まず一口。それから、お行儀が悪いけど、口をつけてごく、ごく、ごく。……ぷはぁ〜。んんんっ、美味しい。冷たい水が五臓六腑に染みるなぁ。なにしろ、朝からずっと飲まず食わずだったんだもの。あああ。考えたらますますお腹がすいてきたよ。この水のおかげで、せめて日干しにはならずに済みそうだけど。

 美味しい水だったけれど、ダンジョンによく設置されているような、魔力を持った水じゃないようだ。出口に関わるヒントが隠されているわけでもないようだし……。――あれ?

 水盤に湧く水が溢れて、片方に流れ落ちている。それは小さな流れになって、広場を出て暗い通路の奥に伸びていた。

 立ち上がると、ぼくはその流れに沿って歩き始めた。



 流れはどこまでも続いていた。

 幸いにもその道におかしな仕掛けはなく、それでも再び空っぽを主張し始めたお腹のせいで、ずっと灯していた魔導の光ライトの維持が難しくなった頃。流れは初めて直角に曲がって、角の向こうに消えていた。

 期待を込めて、ぼくは足早にその角を曲がる。

 ところが無情にも、その先にあったのは黒くて堅い壁だったのだ。水の流れは壁の下に潜って奥へ消えている。叩いてみた感じだとそんなに厚くはないみたいで、でも、今のぼくの力では崩すことができそうにない。

 勘だけど。この向こうに出口がありそうなのに……!

 ぐぅうう〜とお腹が可愛くなく鳴いて、ぼくはそこにしゃがみこんだ。あうう。今ならカーくんの気持ちも分かるかも。どんなに注意したって手持ちの食料を食べちゃうのは、それだけお腹が減ってるからなんだよね。そうだよ、ハラペコってこんなに辛いんだ。

 カーくんはどうしてるだろう。ちゃんと朝ご飯を食べたのかしら。

 ぼくが地下室に行ったことを、ちゃんとルルーに伝えてくれたかなぁ。でも、カーくんの言うことはルルーにはあまり分からないみたいだし。サタンなら大丈夫みたいだけど。

 会うたびに強引に結婚を迫ってくる魔王の顔を、ぼくは思い浮かべた。彼になら、ぼくがここにいることも分かるのかもしれない。そう思って、少しムッとして顔をしかめる。だってアイツ、ぼくが苦労するのを楽しんでるみたいなフシがあるから。分かってても何もしないかもしれない。

 ちゃんと頼りになると言えば、魔導学校の先生方とか。ちょっと変わり者だけど生徒思いのマスクド校長先生なら、ぼくを見つけてくれるんじゃないかな。明日ぼくが学校に行かなかったら心配して……。って。ああああっ、駄目だぁ。ダンジョンに潜ろうと思って、明日から四日間の休学申請してたんだった!

 とほほほ……。

 ぼくはガックリしてうつむく。

 どこからか、カツ、カツと足音が聞こえてくるような気がした。

「え……?」

 幻聴だろうか。そう疑っている間にもそれは足早に近づいてきて、曲がり角のすぐ向こうにまで迫ったのが分かった。

 ハッと身構えた、一拍の後に。

 角を越えてぬっと現れたのは、闇色のマントに銀色の髪。

「――シェゾっ?」

 そういえばしばらく顔を見ていなかった気がする闇の魔導師が、暗闇から切り取った影みたいに、蒼い瞳で無愛想に見下ろしている。

「……あ、ありがとう! 助けに来てくれたんだね!」

 ぼくは本気でそう思ったのだ。なにしろヘトヘトだったし、お腹はペコペコだったし、ずっと真っ暗で出口がなかったし。そんなところに、まがりなりにもよく知った顔を見たものだから。だから思わず飛びついたんだけど、そうしたらシェゾがぐらついて、ぼくらはそのまま床に勢いよく倒れ込んだ。

「うわぁっ!」

 シェゾが下敷きになっていたおかげであまり痛くはなかったものの、ぼくはひどく驚いた。だって彼が、両手でぼくの肩をがっしと掴んで半身を起こし、じーっと見つめてきたんだから。

「アルル……」

 その瞳は、いつになく真剣だ。

「え……? な、何……?」

「……が、……しい……」

「へ?」

 いやーな予感がして、背筋を冷たい汗が流れおちる。

「お前の………全てを、俺によこせぇええっっ!

「きゃあああーっ! 何言ってんのよーっ。ちょ、ボタンが取れるうっ。この変態っっ!」

「げぼっ!」

 変態魔導師の横っ面を張り倒して、素早く離れる。だけど向こうの動きもとんでもなく早くて、いつの間にか持っていた水晶の剣をかざすと、勢いよく振り下ろした。

「闇の剣よっ!」

「わあああっ!」

 危うく避けたぼくの後ろで、今まで行く手を塞いでいた壁が真っ二つに斬り開かれる。咄嗟に、その向こうに走り込んだ。

「待ぁてえええ!」

「ひぇええええっ」

 走るぼくの後ろから、鬼気迫る様子で刃物を持った変態男が追ってくる。

 そんなこんなで、鼻をつままれても分からないような真っ暗な道を、ぼくは全力で走らなければならない羽目に陥ったのだ。





 はあっ、はあっ、はぁっ……。

 酷使され続けた肺や足が悲鳴をあげている。それでも止まるわけにはいかない。

 壁に激突して鼻を折るような目に遭わずに済んでいるのは、ひとえに道がまっすぐでいてくれるから。さっきのように、いつ曲がり角が現れないとも限らなかったのだけど、幸いにしてぼくには確信があった。

 何故って、向こうに懐かしくも温かい光を見つけていたから。きっとあそこが出口なんだ。苦しさも忘れて、ぼくはそこ目指して走り込む。

 なのに。

 無情にも、辿り着く寸前に、光はすーっと細くなると消えてしまったのだ!

 そ、そんなぁあああ!

「うっ!」

 勢いづいていたぼくは、真っ暗なそこにある何かにぶつかった。幸いにも腰くらいまでの高さしかなかったから、鼻は無事。ぱしゃん、と指先が水に触れる。さっきの広場にあったのと同じような水盤らしいと分かったけど、問題はそこじゃない。

「ふっふっふっ……。追〜い〜つ〜い〜た〜ぞ〜〜、アルルぅ〜!」

 振り向いた視線の先に、肩で息をしている変態おにーさんの姿がある。

「ここで行き止まりだ。観念するんだな」

「うう……」

 青光りする目に射すくめられ、ぼくは蛇に睨まれたカエルの気分で身を縮める。

 シェゾの持ってる剣の刀身が淡く輝いていて、おかげで辺りの様子がぼんやり見えるんだけど、顔が斜め下から照らされてたり、かえっておどろおどろしい。剣を持たない方の手をぼくの目の前に伸ばすと、ついに彼はこう言った。

「お前の全て、いただくぞ!」

 逃げられない!

 ぎゅっと、ぼくは目を閉じた。



 ………。

 ………………。

 ………………………………………。

 あれ?

 恐る恐る目を開ける。

「……あの、シェゾ?」

「………」

 シェゾは黙って、手をかざしたままの姿勢でいたけれど。

「………――畜生!」

 ひと言叫んで、ガクッと床に突っ伏した。

「何故だっ……。なんで今に限って、お前の魔力はすっからかんなんだぁーーっ!!」

 そう。ハラペコで罠にかかりまくった今のぼくの魔力は、殆ど底をついた状態だった。照明魔法ライトすら維持できないほどに。

「詐欺だろ、これは!」

「失礼しちゃうなぁ。だいたい、魔力があったら逃げたりしないで戦ってるよ」

 本当言うと、シェゾの様子がいつにも増して尋常じゃなかったから、色んな意味で身の危険を感じて逃げちゃったんだけどさ。それにしたって、ぼくの魔力が尽きていることくらい、魔力にはやたらと鋭敏なシェゾなら最初っから気が付いててもよさそうなものなのに。……んん?

「……もしかしてシェゾ。キミも魔力が無いんじゃない?」

「ぐっ」

 変な声でうめいて、シェゾは気まずそうに押し黙った。

「あはは。やっぱりそうなんだ。このダンジョン、魔力を吸う床ばかりだもんねぇ」

「……それどころかぷよぷよ一匹おらん。商人すらもいやしねぇ」

 ひげを切られた猫みたいに項垂れたまま、シェゾが低く唸る。

「俺はなっ。……俺が古代魔導の遺跡からここに転送されて以来、少なくとも八日は経っている」

「え?」

「アイテムは底を尽き、休んで少し回復し、回復しては罠を踏んで魔力を奪われる繰り返し」

「そ……それは大変だったね……」

「この偉大なる闇の魔導師シェゾ様が、魔力の尽きかけたゾンビ状態でフラフラフラフラ……だあああっ、これ以上耐えられるかぁ!」

 大声でわめくと、シェゾは顔を上げてぼくを睨み、もう一度手を伸ばしてきた。

「アルル! 魔力がないならないで構わん! 仙人酒でも竜の爪でも何でもいい。お前のアイテムがっ」

 言い終わらないうちに、ぐぅううう〜〜っと、彼のお腹が鳴り響く。

「――もしくは、食料品が欲しい!」

「そんなのないよ」

「何ぃ!? 嘘をつくと為にはならんぞ!」

「だから、そんなのあったらぼくだってお腹すかせてないってばっ。家の地下室からいきなり飛ばされてきたんだからね」

 胸を反らしてそう言ってやると、シェゾはようやく納得したみたいで、今度はパタリと床に潰れた。ありゃりゃ。ここまで全力疾走してきた分、力尽きたみたい。

 でも、それはぼくの方だっておんなじだ。

 またまたお腹の虫がくるくるきゅ〜と虚しい声を出す。……多分、二匹分。やるせない思いで息を落としたぼくは、それに気付いて目を丸くした。

「あれっ……?」

 天井に、大きな光の輪がある。

「ねえ。シェゾ、見て」

 ゆらゆら、ゆらゆら。波打つそれは、輪の内側はくっきりしているのに外側はぼやけていて。光の輪って言うよりは……。うん、光る黒い太陽みたいだ。

「……綺麗……」

 でも、そんな風に見えたのは暫くの間だけ。だんだん一方の縁が細く、反対側が太くなっていって、キラッと眩く光ったかと思ったら、今度は三日月みたいな形が現れた。

「……そうか。今日が日食だったのか……」

 いつの間にか立ち上がっていたシェゾが、天井の光を見上げて呟いている。

「ということは、俺は十日もここにいたのかよ。くそっ」

 不機嫌そうに言ってから、歩いてきて、ぼくの後ろにある水盤を覗き込むようにした。彼が剣を差し入れると、天井の三日月は万華鏡みたいに分散して、ゆらゆら激しく揺れ動く。

 光は、この水盤の中から射していたんだ。

「どうやら、目的はここのようだな」

「えっ……? ――わ、シェゾ?」

 剣を手の中に消した彼が、いきなりぼくの手を掴んで引き寄せたから驚いた。苦情を言う間もなく、背中をドンと押されて足が浮く。

「う、わぁあっ!?」





 とぷん。

 音が聞こえて、水面に波紋が広がった。カエルでもいたんだろうか。張り出した枝から木イチゴの実が落っこちたのかもしれない。

「ばーか。かーば。あほー。いけずー」

「……」

「おたくでネクラでインケンでー」

「…………」

「キノコが生えてる変態魔導師〜」

「どぁ〜れ〜が、変態かっ!」

 黙々と木イチゴを口に運んでいた手を止めて、とうとうシェゾはこっちを向いた。

「って言うか、キノコってのは何なんだ!」

「じゃあ、カビが生えてる?」

「生えとらんわ! ったく……。それが出口を見つけてやった恩人への言い草か?」

「いきなり水の中に突き落としたくせに」

「ハッ。レディーファーストって奴だろうが」

 澄まして彼は言ったけど。ぜったい嘘だ。ぼくを使って安全を確かめようとしたに違いない。

 憮然として、ぼくは手の中の残りの木イチゴを口に放り込んだ。だってホントにビックリしたんだからね。

 太陽の形を映しだした水盤は外につながる脱出口で、ぼくらはそこから、この森に移動することができた。水を潜ったはずなのに全然濡れてないし、やっぱり転送の仕掛けだったんだろう。今の季節、ちょうど春に咲いた花が実を結ぶ頃だったおかげで、その辺りの木の実をつまんで、やっと人心地つけたところ。

「――さて、と」

 空になった手を軽くはたいて親指に付いた果汁を舐め取ると、シェゾはさっさときびすを返した。

「え? どこに行くの?」

「帰るんだよ。そのくらいの魔力は回復したからな」

 シェゾは転移魔法テレポートの使い手だ。条件さえ揃ってさえいれば、一瞬で移動することが出来る。

「ま、待ってよ!」

 咄嗟に、ぼくは彼のマントを掴んで引っ張っていた。

「ぐぇっ! ――お、お前。それはするなと、いつもあれだけ」

 留め金が食い込んだ喉を押さえて、シェゾは涙目で抗議していたけれど、それどころじゃない。

「キミ、ぼくを置いていく気?」

「――はぁ? 勝手に帰ればいいだろうが」

「だ、だって……」

「……ははーん?」

 するとシェゾはニヤリと笑った。

「さてはお前、俺と離れるのが寂しいのか?」

「ち・が・う!!」

 自意識過剰変態ナルシストのマントを、悲鳴に構わず、もう一度ギューッと喉に食い込ませてやる。

「そうじゃなくて! ぼく、こんな恰好なんだよ?」

「………ん?」

 シェゾは目をすがめて、まじまじとぼくを見た。

「そういえばお前、いつもとなんか違うな。……って言うか……。もしかしてそれはパジャマじゃないのか?」

「遅いよ、シェゾ……」

 色んな意味でとほほな気分で、ぼくは肩を落とす。カーくんの模様が沢山プリントされた黄色いそれは、耳付きのカーくんスリッパと一緒にサタンがプレゼントしてくれた逸品だ。贈り主のことを考えるとアレだけど、品物自体は可愛くて気に入っている。

 そのパジャマもダンジョンで転んだせいでドロドロだし、髪の毛だって、いつもならサイドアップにして青い布で結ってるのに、櫛も通していないバサバサのまま。まあつまり、女の子として許されざる姿なんだよね、今のぼくは。

「こんな時間までパジャマのままとは、案外だらしのない奴だな」

「不可抗力だったの! 家からいきなり飛ばされちゃったんだから。

 とにかく、こんな恰好じゃ道を歩けないし……。でも、キミのテレポートだったら、家まで一瞬じゃない」

「お前。俺をタクシー代わりにしようってのか?」

 シェゾは不機嫌そうに眉根を寄せる。

「俺は知らん。一人で帰れ」

「えぇーっ。いいじゃない、友達でしょ?」

「都合のいい時だけ友達呼ばわりするな」

「キミが変態発言しないなら、いつだって呼んであげるよ。ねえお願い。シェゾ〜」

「だから引っ張るなと言ってる! なんで俺がそうまでしてやらなきゃならんのだ」

「そのくらいサービスしてよ。だって今日はさ……」

 引っ張りながら爪先立って耳打ちすると、シェゾは軽く目を丸くして、「チッ」と舌打ちをしてから、ぶっきらぼうに言った。

「……まあいい。今日は特別だ。だが、次はないからな」

 彼が広げたマントの影が、ぼくを覆い隠す。







「あーあ。おっそいなぁ〜」

 赤いチャイナドレスの半人半竜の少女は溜め息をついた。

 テーブルにはクロスを掛け、その上にご馳走を所狭しと並べて、壁にも紙の花やら色紙の鎖やら垂れ幕やらを飾り付けて、準備は万端整っていると言うのに。

「そうよねぇ。折角あたくしが朝から呼びに来てあげたのに、空振りさせてくれるんですもの。いつまでウロついているつもりなのかしら」

 女性的な肢体に海の波のような髪を流して、大人びた少女が相槌を打つ。

「ルルーさんたちが日食観測に連れ出している間に、私たちが部屋を片付けてパーティーの準備、という手筈でしたものね。おかげで、心行くまでお掃除できましたけど」

 赤いメイド服の少女が、窓枠をこちょこちょと拭きながら言った。汚れを見つけて気になったのかもしれないが、モップを使うのはどうであろうかと思われる。

「フフフ……。この家に古代地下遺跡への転移装置が隠されていようとは盲点だったが、それはそれで刺激的なプレゼントになったことだろう。パーティーは、サプライズが重要だからな」

 エメラルドの長い髪を垂らした男は、両腕を組み威厳ある様子で食卓の椅子に腰かけている。頭頂には見事な二本の角が屹立しているはずだが、今は黄色い頭巾のようなもので覆い隠されていた。

「ところでサタン様、頭のソレは何だなーす?」

 部屋をうろうろしている魚やガイコツらの中から、空気を読めない茄子が尋ねる。よくぞ聞いたとばかりに鼻高々に男は答えた。立って片足を椅子に掛けてカッコよくポーズを決め、角の代わりに頭巾の黄色い耳をぴょこぴょこさせながら。

「プレゼントその2、特製・カーバンクルちゃんナイトキャップだ。これで頭から足先まで、コーディネイトは完璧だぞ! フハハハハ」

「サタン様もアレさえなければねぇ……」と半人半竜の少女が半眼で呟いたが、海の髪の少女は「あら、お茶目で可愛いじゃない」とうっとり見つめている。最近色んな壁を突破しちゃってるなぁ、と周りが思ったとか思わなかったとかいう話は別にして、「ルルー様……」と、牛頭の巨漢が泣いているのはいつものことだ。

「ぐー!」

 テーブルの上の小さな生き物が不意に踊りをやめ、黄色い長耳を揺らして可愛く鳴いた。男は牙のある口でにやりと笑うと、周囲の面々に呼びかける。

「さあお前たち、主賓の帰還だぞ。……どうも余計な奴もくっついているようだが、まあいい。今日は特別な日だ。祝う人数は多いに越したことはないからな」

 壁に飾られた垂れ幕には、『おめでとう』の文字。

 パーティーを始める、その瞬間を待ちうけて、彼らは扉の内側で息を殺す。




『だって今日はさ』

 ぼくは爪先立ってシェゾを引き寄せ、耳に囁いた。色々あったけど、やっぱり今日は特別な日になったかもしれないね、なんて思いながら。

『今日は、ぼくの誕生日なんだ』




おわり


2009年7月22日は、46年ぶりに日本で皆既日食が観測できる日でした。
また、7月22日はアルル・ナジャの誕生日として設定された日です。
これらにちなんで小説を書きませんかとリクエストをいただいたので書いた話でした。

…が。なんかどーも、満足できる出来にならなくて。
日食前に書きあげていたのですが、アップするのを躊躇してました。(^_^;)
何なんだろうこの話。

皆既日食で誕生日とくれば、シェゾもしくはサタン、大穴でラグナス辺りがアルルを連れ出して
日食のダイヤモンドリングを二人で鑑賞しつつ「これが誕生日プレゼントの指輪さ☆」と言うとか、
偶然ふたりで皆既日食を見て「キミからの誕生日プレゼントだね♥」とアルルが言うとか
そういうネタが無難だったのかもしれませんが、度胸がないので無理でした。ははは。


とりあえず、「『イクリプス』と似た感じにはせず、明るく」
「アルルの能力を封じて、無力にする」
「ダンジョン探索は初期魔導っぽく」
という縛りを、自分に課してみた次第です。そしてピンホール(?)観測。

あ。誕生日パーティーにウィッチがいないのは、魔女族にとって日食は重要なものなので
一族の集会みたいなのが行われてる、とかいうどーでもいい裏設定があります(笑)。


09/07/25 すわさき

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