そんなある日の昼ごろだった。
私を突き動かす望みに導かれ、水面を越えた。
とても静かな世界だった。
辺りには誰もいない。…いや、いた。木立の影に隠れて、存在を消している。
恐る恐る近寄ってみた。水の中から近寄れるところまで。
反応はない。
水の中から首だけ、怖くないとわかると上半身、乗り出してみる。
強い日差しの落とす影にまぎれて、その人は眠っているようだった。
暗い影に黒い衣装の人。
「あ、あの」
規則正しい寝息が聞こえる。
「あの」
声が小さいのか、反応はない。なんとなく怖いことはないような気がして水面に身を浮かべてみた。水を掻くようにして、空中を掻いてみる。楽に移動できた。
すうっと空中を泳いで、その人に近づいてみた。
規則正しい寝息。気づいていない。耳元で声をかけてみる。
「あのぉ〜」
「うわぁ」
今度は跳ね起きた。
「俺は何も悪いことはしていないぞっ」
いきなり叫ぶ。その声に驚いて涙ぐんでしまった。
「…やっぱり嫌われているんだわ」
すすす、と後ずさるようにして、湖に逃げ帰ろうとした。
「やめんか。それでは俺がおまえをいじめたみたいじゃないか。俺は何もしていない…」
そこまで勢いよく言って、少し不安そうになる。
「だろう?」
返事もできずに、ただただうなずく。
そう、びっくりしただけ。
「あ、あのぉ〜」
「泣くな、いじめたみたいじゃないか」
「泣くつもりはないけど、涙声になっちゃうんです」とは言えなかった。
男は、困ったように座りなおした。
行くに行けない、退くに退けない雰囲気が漂う。
意を決して…。
「あのぉ〜」
「あのな…」
まったく同時にしゃべり出して、今度はお互い黙り込む。
「なんだ」
男が促した。その促しにのって私は再び口を開く。
「はい、あのぅ、私のこと嫌いじゃないんですか」
「はあぁ?」
男は素っ頓狂な声をあげて、まじまじと私を見た。
青い瞳にまじまじと見られて、ちょっとどきりとする。
「…今会ったばかりなのになんで嫌うんだ」
不思議そうに言った。
「あ、あの、だって、みんな私のことを嫌っているし…」
言葉を聞いて顔をしかめる。そして、なんとも言えない奇妙な目で私を見た。
「…そうか、湖の魔物っておまえのことか」
「え」
「人を脅して、物を奪い、また襲う、湖に引き込んでしまう等々の恐ろしい魔物」
「え」
「だろう?」
「あの、どういう意味ですか」
何を言っているかわからない。そして、私の顔にも明らかにそう書いていたのだろう。
「噂には尾ひれがつくものだ」
クククと笑う。本当におかしそうに。
「肝試しみたいにここまで来る物好きもいるが、たいていの奴は来ない。魔物に襲われでもしたら困るからな」
私の顔を見て笑う。
「俺にはわかるから、気にもしなかったがな」
「はぁ」
言いたいことがよく分からない。
その様子を見た男は少し顔をしかめた。わからないことが腹立たしいのだと、わかる。
首を振って続けた。
「つまり、街の連中はここにとんでもない魔物が住んでいると思っているわけだ」
「ここにそんな怖い魔物が住んでいるんですか?」
とんでもない魔物という言葉を聞いて私は驚いた。そうならば本当に泣きたい。
「………」
男はなぜか硬直している。そして、ゆっくりと指をさした。
「おまえのことだ」
「はい?」
何故指をさされたのかわからない。
「おまえが極悪非道のとんでもない魔物」
「ええ〜っ!!」
驚くと同時に不安に襲われる。
「私、私何もしていない」
「だろうなぁ、おまえみたいな奴が何かできるとは思えない」
男は硬直していた筋肉を弛緩させた。
「変な噂が立ったのを不幸だと思うんだな」
「そんなぁ」
それでは、湖に変な気配が満ちたのも、物を投げつけられたりしたのもそのせいだというのだろうか。全部私のせいなの?
「そんなのひどすぎるわぁ〜」
結局泣き出してしまった。

「…そろそろ日も暮れるんだが」
泣き疲れた頃、そう言う声が聞こえた。…誰だろう人がいる。
「誰?」
「誰じゃないだろう、ずーっと付き合ってやっているのに」
うんざりとした声が応える。
「落ち着いて昼寝もできなかった。妙な魔物もいない静かな森だったのに」
首を振って夕日に髪がきらめいた。
「ずっと?」
「女って言うのは、一日中でも泣きつづけられるのか…」
大きなため息を吐いて男が言う。
「はぁ」
なんと応えていいかわからなかった。
「…俺は行くぞ」
「え」
「おまえが泣き止んだのなら、俺は行く。おまえもねぐらに帰るんだな」
それはひどく寂しいことのような気がした。また、…ひとりになってしまう。
男はさっさと荷物をまとめる。荷物といえるほどの荷物などないが。
私はどうしていいかわからず、男を見ていた。その視線に男が気づく。
「俺には俺の都合がある」
私の瞳がまた潤んだのを見て取ったのだろう。
「…泣いたって何も変わりはしないぞ」
そう言った。
「寂しいの」
ポツリと言葉が出た。
「おまえが解決すべき問題だな。寂しいのなら友達でも作ったらどうだ」
そう言うと男は去っていった。

日はかなり沈んだ。
宵闇がまた寂しさを誘う。
男の言葉を思い出した。
「友達…」
どうやって作ればいいのかしら。見当がつかない。

誰かそばにいて…。







あとがき

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