「ふっふっふ…」

 広々としたホールに、彼は佇んでいた。

 重たげな両開きのドアから続く、長い赤の敷布の先には玉座。玉座の背にした壁の上方には巨大なステンド・グラスがはめ込まれており、薄暗くなりがちなそこに七色の光を降り注がせている。

 その光を浴びる彼は、この広大な空間にただ一人だった。――今は。

 目を閉じ、低く笑いを含んだ声を漏らす。

「準備は万端、整った。……さぁ、早く来るがよい。ふっふっふ………ふはははは!」

 ガラガラ ピシャーン!

 彼の笑いに合わせるかのごとく(実際、それは彼の演出だったのかもしれない)、閃いた雷光が一瞬、彼の影を石の床に刻み付けた。



 

トラブルテリブル
バレンタイン


 

 

1.竜虎激突す、のコト

 

「……ビックリしたぁ〜。すごい雷だったねぇー」

「ぐー!」

 ところ変わって、青空の下。

 道の端に立ち止まって、アルルは大きな目で天を見上げていた。

「こんないい天気なのに……"青天の霹靂"ってヤツかな?」

「ぐぅ?」

「うん。"滅多にないこと"ってカンジのもののたとえなんだケドね。……なにか起こるのかなぁ?」

 そう言いながら、再び道を歩き出す。珍しく手にはバスケットを持っていて、アルルが大きな動作で歩を進めるごとにコトコトと軽い音をたてた。何かが入っているようだ。

 やがて別れ道に差し掛かったとき。

「あっ? アルル!」

「あれっ、ルルー」

 ばったりと、青い髪をなびかせたルルーと鉢合わせた。背後には例によってミノタウロスが控えており、赤いリボンを結んだ大きな包みを抱えている。

「アルルっ。あんた、どこに行くつもり?」

 ルルーは素早くアルルの全身に視線を巡らせると、その柳眉を逆立てた。

「えっ? どこって……」

「さては……。あんたもサタン様のところへ行く気なのね!?」

 鋭く叫んで、ルルーは道を塞ぐようにアルルの前に立ち塞がった。

「ちょ、ちょっと」

 その気迫に気圧されて、数歩アルルは後ずさる。マズい時に会っちゃったなぁ……と思いながら。

「あのさルルー。何度も言うケド、ボクは別に……」

「許さないわぁ! サタン様にチョコをさし上げるのは、あたくしだけよ!!」

「ちょっ。待って、待ってってば! ぐるひ……、首を絞めないでぇえ〜〜! 分かった、分かったからっ」

 ようやくルルーの手から逃れて、ゲホゲホと咳き込む。

「じゃあ、サタン様のところへは行かないのね?」

「い、行かない」

「ホホホ! そうでなくてはね。今日という日にサタン様にお会いする資格があるのは、このあたくしだけよ!」

 勝ち誇ったルルーが高らかに笑った時。

「ちょおーっと待った! なんでアンタがそんなコト決めるのよっ! サタン様は、アンタのものじゃないんだから!」

 翼を鳴らして、第三の少女が舞い下りてきた。金色の瞳のドラコケンタウロスだ。

「ドラコ! あなたもサタン様に!?」

 ざざっと向き直り、ルルーが身構える。ドラコはミノタウロスの抱えたリボンの包みを一瞥すると、馬鹿にしたように鼻で笑った。

「ふっふーん。相変らず置き場所に困るようなものを持って来てるわね。どーせまた、カレーチョコとか怪しげなもの作ってきたんでしょ」

「ふん。今年は違うわよ!」

「今年は塩辛チョコとか?」

「違うっ。聞いて驚きなさい。海外から取り寄せた最高級のチョコに新鮮な生クリームとフルーツで作った、ウルトラデリシャスエクセレントな愛情チョコよっ!」

 ルルーの目配せでささっとミノタウロスが包装を取ると、その名に恥じぬ見事なまでのチョコレートが姿を現した。ミノタウロスが抱えなければならないほど巨大で、しかし繊細なデザインで作られた芸術品は、文句のつけようがない。

「あたくしの手作りよ」

「うわぁー……」「ぐぐーぅ!」

 最早傍観者となったアルルは、ただただ感嘆の声を上げている。カーバンクルはよだれも垂らしているが。

「ホーッホッホ! で、そういうあなたは………あらあら、そこらの店で買ったできあいの安物みたいねぇ?」

「うっ……」

 なるほど。思わず後ろ手に隠されたドラコのそれは、お馴染みのぷよまん本舗の包装紙に包まれていた。チョコとしては結構大きいが、ルルーのそれのグレードには及ぶべくもない。

「て、手作りだからいいってわけじゃないわよ。これはあたしがバイトして買ったんだ。見かけがマシだからって、怪しげなモノ食べさせられるよりよっぽどいいわよ!」

「んなっ……、怪しいとは何よっ」

「自覚がない女は困るわよね〜。いつもサタン様にあれだけご迷惑かけといて。ま、恥を知らないから毎度毎度押しかけたり出来るんだろうケド」

「なんですってぇ〜〜!?」

 一瞬で紅潮したルルーの顔が、すっと引き締まった。腰を落とし、身構える。

「どうやら、あなたとは一度決着をつけておかなきゃならないようね!」

「がお〜っ、望むところだよ!」

 口からちろちろと火を吐きながら、同じく身構えるドラコ。

 ビシビシビシッと音をたてて空間に火花が散っている。

「……あ、あのぉ〜〜。じゃあ、ボクはもう行くから」

 返事がないのを幸いに、アルルはそそくさと睨み合う少女達の横を摺り抜けた。

 

「………こ、怖かったよ〜〜」

「ぐぅー」

 かなり歩いて、ようやくアルルは安堵の息をついた。それから、思い出したようにバスケットを覗き込む。

「それにしても……チョコが一個無駄になっちゃったなぁ」

「ぐう!」

「え? カーくんが食べるって? ってカーくんの分はもうあげたでしょ。おっきなチョコケーキ」

「ぐー」

「まだまだ大丈夫? ……ふふっ、そうだね。じゃあこれもカーくんにあげよっか」

「ぐー!」

 表情をほころばせてから、アルルはふと首を傾げた。

「さて。残るはアイツだけど……。どこにいるのか全然わかんないもんなぁ……」 

「ぐぐぅ?」

 

 

2.ヘンタイ、マッドに倒れる、のコト

 

「あなたに渡したいものがあるんですわ」

「……はぁ?」

 まもなく昼になろうかという時刻の魔導アイテムショップ。

 カウンターに置かれた商品を清算するなり突然そう告げられて、シェゾは思いっきり胡乱な声を上げた。

「聞こえませんでしたの? 案外耳が遠いんですのね。トシかしら、白髪ですし」

「誰がトシだ、これは銀髪だっ! ……って、いきなりなんの話だ」

「冗談ですわ。……冗談っていうのはトシの話ですわよ。ですから、あなたに渡したいものがあるんですわ、シェゾ。受け取ってくださいますわよね?」

 小首をかしげてにっこりと笑われて、シェゾは目を瞬かせたが、すぐに不審げに眉を寄せた。

「………お前が俺に何をよこそうっていうんだ? ウィッチ」

「ご挨拶ですわね。今日が何の日だか覚えていませんの?」

「……何かあったか?」

「信じられませんわね! 今日は二月十四日、バレンタインですわよ。この日に女の子があげるものといったらチョコに決まってるじゃありませんの」

「バレンタイン……」

 呟いて、ああ、そういえばそんなもんもあったか、とひとりごちる。そんな青年の様子を呆れた目で見つめて、年若い魔女は息を吐いた。

「ホンキで年寄りみたいな浮世離れ振りですわね……。ま、あなたみたいな朴念仁にこうした方面の知識を期待する方が間違ってたんですわ。とにかく、バレンタインですから。チョコを受け取ってくださいましね」

 言って、ウィッチはカウンターの下から小さな包みを取り出した。ほんのボンボン一粒ほどの、けれど色とりどりの紙とリボンで奇麗に飾りつけられた包みだ。

 シェゾはまじまじとそれを見詰め、信じられないものを見たように呟いた。

「知らなかったぜ……。お前、俺に惚れてたのか。生憎だが、俺はガキには興味な」

 言葉は、衝撃と音で中断された。ウィッチが箒で彼の頭をはたいたのだ。

「何カンチガイしてますのっ! それは、ただのお店のサービス品ですわよ!」

「………………(舌を噛んだ…)、チッ、まぎらわしーんだよ!」

「私だって客商売ですもの。世知辛い売り上げ競争の中で生き残るために、このくらいのサービスもいたしますわ。……それよりシェゾ、早く食べていただけません?」

「……は? 今ここで食えって言うのか?」

「実はそれ、新商品の試作ですの。モニターを兼ねていただきたいんですわ」

 ウィッチは舌を出した。

 なんだ、そうか……とシェゾは感情のラインを落とした。別にがっかりしたわけでもないが……。サービスとはいっても所詮はこんなもの。美味い話なんてものは――こと商売人の手にかかっては益々――ありはしない。

「フン、バカバカしい。なんで俺が試作品のモニターなんぞをせねばならんのだ?」

「まぁ、いいじゃありませんのそのくらい」

「あのなぁ……俺にはそんなことしなきゃならん義理も義務もないぞ」

「あら。そんなこと言ってもいいのかしら」

「なに?」

 すました顔でウィッチは続ける。

「あなたの態度次第で、私の今後の接客態度も変わりますのよ」

「なんだそりゃ!?」

「このあいだ、解呪の魔導薬、ツケでお渡ししましたけれど」

「あ、あれはちゃんと後で全額払っただろうが!」

「そうですわね。でもわたくしにだってツケで商品をお渡ししなければならない義理も義務もありませんわ」

「ぐぬっ……!」

 シェゾは目の前の少女を睨み付けた。数瞬。……が、諦めたように肩を落とした。

 実際、マニアックな品揃えのこの店は貴重だ。それに、先日のような非常事態とて、今後いつ起こらないともいえない。(あんな目には二度と遭いたくないが。)その時にこの店が使えなければ、あるいはとてもマズい事態も起こりうるのかもしれなかった。魔導学校やサタンの居城に行けばここと同等かそれ以上の品揃えもあろうが、それらの場所に赴く、そして頭を下げるという行為は、はっきりいって彼には耐え難い。

 それに比べれば、今ここで小さなチョコレートのひとかけを口に入れる方が、まだいくらかマシであろう。

 腹立ち紛れに美しい包装を毟り取ると、シェゾはそのままチョコを口に放り込もうとして――瞬間、期待に満ち満ちた魔女と目が合って、すんででその手を止めた。

「………何かヘンなものが入ってないだろうな?」

「失礼ですわね! おかしなものなんて入れてませんわよ!」

 ウィッチは本気で憤慨している。

 シェゾは、チョコを口に入れた。咀嚼し、嚥下する。一口サイズのチョコなど、あっという間だ。

「………ど、どうですの?」

 おそるおそる、といった感じでウィッチが問うた。

「どうって……美味いも不味いもない。ただのチョコだろ」

 と、シェゾは言い掛けたが。

「………な!?」

 ぐにゃり、と視界が歪む。足に力が入らない。ナンダコレハ。

 ――やっぱり、ヘンなものが入ってたんじゃねぇか……!

 己のうかつさを呪いながら、闇の魔導師は床に昏倒した。

 

「シェゾ!」

 突然ぶっ倒れられて、ウィッチは驚いてカウンターから店側に出て来た。床に倒れたまま寝息を立てている青年の顔を見て、呟く。

「……やっぱり、ヒメモネのエキスが多すぎたかしら」

 ケロリと言って何やらメモを取った。

「……脈拍、呼吸には異常なし。寝てるだけですわ。この組み合わせではこんな効果が得られますのね」

 ちなみに、彼女にはシェゾを騙したつもりはない。チョコには一切、"ヘンなもの"は入っていなかった。入っていたのはみんな"ちゃんとした"薬材の数々なのだ。

「………ホントによく寝てますわねぇ」

 あちこち触ったり持ち上げたりしたが、青年は全く目覚める様子を見せない。

 しばし端正な寝顔を見ていたウィッチは、ふいにニヤリと笑った。何かとても楽しいことを思いついたかのように。

「そうですわ……これは絶好のチャンスですわ!」

 そして、手を伸ばす。

 

「だめだぁ……やっぱり見つかんないよ」

 立ち止まり、アルルは誰に言うわけでもなく情けない声を上げた。

 そこは湖のほとりの道。正午の強い光でキラキラと水面が煌いている。

「いっつも恥ずかしいセリフを言いながら勝手に現れるくせに、こっちが探すといないんだからなぁ」

 全くぅ、と溜息をつくと、肩のカーバンクルがぐぅ、と"鳴った"。

「カーくん、お腹すいたの?」

「ぐぅ〜…」

「そうだね。まだ見つからないけど……。別にどうしても渡さなきゃならないってワケでもないし。もう諦めて帰ろっか」

「ぐー」

「あの……」

 アルルは歩き出す。

「それじゃ、帰ってご飯作ろうね。カレーにしよっか。っていっても、いつも晩御飯はカレーだケド」

「ぐ!」

「あの〜……」

「あ、いっけない! カレールーを切らしてたんだったよ。……うーん。ここからぷよまん本舗に買いに戻るのは大変だなぁ……」

「あのーー」

 すたすたと歩いてその場を立ち去ろうかというとき。ようやく、アルルはか細い声に気が付いた。

「あっ、あれ? ……セリリちゃん」

「こんにちは、アルルさん」

 湖から胸から上だけ出して、青い髪のうろこさかなびとが小犬のような目で笑っている。

「久しぶりだね。元気だった?」

「はい、おかげさまで。アルルさんもお元気そうでよかったです。どこかへお出かけですか?」

「えっ? うん。もう帰ろうかと思ってたんだけど……。あ、そうだセリリちゃん、この辺でカレーのルーを売ってる場所って知らないかな?」

 セリリは小首を傾げた。

「カレーのルー……ですか? そうですね……ウィッチさんのお店にならあった気がしますけど」

「そっか! ここからだとウィッチの店なら近いもんね。ありがとう、セリリちゃん」

「いえ、そんな……」

 ほんのり紅潮して、セリリは照れ照れに照れている。

「そ、それより可愛いバスケットですね。カレーの材料が入ってるんですか?」

「え? ううん、これはチョコレートを入れてきたんだ。なんだか無駄になっちゃったみたいだけどさ。ほら、今日ってバレンタインだしね」

「……バレンタイン?」

「あれ、知らないの?」

「っ! ご、ごめんなさい! 私、何も知らなくて……」

「えっ!? そ、そんな謝ることなんてないよ!」

 一瞬でセリリに泣きそうな顔をされて、アルルは慌てふためいた。

「でも、そっか。セリリちゃんはずっと湖に一人で住んでたんだもんね。バレンタインなんて知らなくても当然かも。気にすることなんてないよ」

「………あの、バレンタインって……?」

「うん。つまり……女の子が、好きな人にチョコレートをプレゼントする日、かな?」

 考えながら言葉を紡ぎ、アルルは慌てて付け加えた。

「っていっても義理チョコっていうのもあって、単に知り合いとか友達とかお世話になった人にあげるってのもアリなんだケド」

「そうなんですか……」

 セリリはまじめな顔で聞いている。

「ぐー!」

「あ、ごめんカーくん。カレーだよね。それじゃセリリちゃん、ボクはカレールーを買いに行くから」

「あ、はい。じゃあ私も失礼します」

 ぺこりと頭を下げ、水飛沫を上げてうろこさかなびとは湖の中に消えた。

 

「こんにちはー」

 いつものように声をかけて、チコは店の扉をくぐった。

 週に一度、納品と称してこの店を訪れるのが、最近の彼女の楽しみの一つになっている。数少ない現金収入――お小遣い稼ぎの方途でもあるし、厳しい修行から公然と抜け出せる息抜きでもある。

 おばあさま、厳しいから。

 どこが目なんだか分からないしわくちゃの大巫女の顔を思い浮かべて、小さな巫女は息をついた。

 ドラゴンさんも連れてこれたら楽しいんだけどな。でも、そうしたらウィッチさん、ドラゴンのハナミズだしっぽだ角だって、目の色を変えちゃうから……。

 一度連れてきたら、竜の子はすっかり怯えてしまった。ウィッチに害意がないのは分かるのだけれど。

 ウィッチの店は、ぷんと薬草の匂いがする。今日は何故か甘い香りも。

 様々な生薬――スパイスを合成して作り上げられるカレーライスは、大人気の定番おかずであると同時に、旅する者にとって欠かせない携帯食料だ。実を言えばチコはこのカレーという食べ物があまり好きではない。かなり甘口にしないと辛くて食べられない。けれど、神殿の携帯食用に自分でスパイスを合わせてカレールーを作ることはよくあって、人に分けているうちに、いつのまにか評判になっていた。

 そこで、暫く前からウィッチの店に商品として置くことになり、作ったルーを定期的に納めに来るようになったというわけだ。

 元々、この店の主であるウィッチ自身が一族に伝わる秘伝のカレールー――伝説のカレールーを作って売り物にしていたのだが、これは必要材料がかなり稀少で、棚に常備しておくのが難しいらしい。

「ウィッチさん?」

 チコは首を傾げた。

 扉の正面にはカウンターがあり、いつもならそこにウィッチが座ってこちらを見ている。なのに、今日はそこはカラッポだ。

 留守かしら?

 チコはぐるりと店内に視線を巡らし、最後に床に視線をやった。

 そしてビクンッと震えて固まる。

 ――見てはいけないモノを見てしまった……!!

 こ、これは……アレよね? 話にしか聞いたことがないけれど、アレなのよね、どう見てもアレだわっ。

「あ、ああああああの、すみません、お取り込み中のところお邪魔して……って、あの、ご、ごめんなさい、失礼しましたっ!」

 頭に血が上って、自分でも何言ってるんだか何が何やら。

 それでもどうにか一足で店の外に飛び出ると、バン! と背中で扉を閉めた。

 呼吸を整える。

「……ビ、ビックリしたわ……」

「チコ、何してるの?」

「きゃああっ!?」

 突然かけられた声に、長い耳がまたもやピーンと立った。

「うわっ。なに、どうしたの?」

「………あ。アルルさん」

 目の前にアルルが立っていた。

「あのあの。私は別に覗きたかったとかいうワケじゃなくて、事故ですっ、事故!」

「何言ってるの? それより、ちょっと通してくれないかな。ボク、そのお店に入りたいんだ」

「あっ。駄目ですよアルルさん! 今は……」

 しかし、既にアルルは扉を開いていた。

「こんにちはー、ウィッチ」

 ガラガラとドアベルが鳴り響く。その音が鳴り終わる前に。

 アルルはチコと同じ順番で視線を巡らし、床の上のそれで動きを止めた。

 床に、背の高い男が仰臥している。そして、その上に小柄な女が馬乗りになっていた。

 それ自体も目を疑う情景だが。問題は、男は見慣れた銀髪の青年――シェゾ・ウィグィィで、女はこれまた見慣れた――つまるところこの店の主のウィッチで。更に言えばシェゾはマントも上着もシャツも着ておらず、半裸に近い状態で、上に乗ったウィッチは今しも彼のズボンのベルトを引き抜こうとしているところだった。

 開きっぱなしのドアの向こうからは、チチチ、と鳥ののどかな鳴き声が聞こえている。

「キ……、キ……………

 キミたちは、昼間っからこんなところで、一体ナニをやってるんだぁーーーーーっ!!」

 トリオ・ザ・バンシーの絶叫もかくや。

 アルルの怒声が、午後ののどかな空気を突き破った。

「きゃああっ」

 チコが両手で耳をふさいでいる。

「シェゾ! ボクは情けないよっ。ヘンタイだとは思ってたけど、まさかホントに女の子を襲うだなんて!!」

 寝ているシェゾに飛び掛かると、アルルは彼の首を掴んで(絞めて?)がくがくと揺さぶった。

「黙ってないでなんとか言えってば!」

 べちべちと頬を叩く。

「あの……。今の場合、どちらかというとシェゾさんがウィッチさんに襲われていた、と言うべきなんじゃないでしょうか……」

 後ろから、ぼそぼそとチコが呟いた。アルルが騒いでいる分、だいぶ冷静になったらしい。一方アルルに弾き飛ばされた形になったウィッチは、頬を膨らませて不満の声を吐いた。

「まったく、乱暴ですわね! 折角シェゾの服を奪うチャンスでしたのに………邪魔しないでほしいですわ!」

 憤慨しながら立ちあがった鼻先に、突然何かが突き付けられた。独特の香りの茶色い塊――チョコレートだ。

「こんにちは、ウィッチさん!」

「え………セリリさん?」

 宙を泳ぐうろこさかなびと――第三の闖入者に、ウィッチは目を白黒させた。いつのまに入ってきたんだろう? それに、突き付けられているこれ。ハート型をしている。

「あの、これはなんですの?」

「チョコレートです」

「それは分かりますけれど……」

「今日はバレンタインですから」

 にっこり笑ったセリリの台詞に、ウィッチは何故か赤面してざざっと身を退いた。

「セリリさん! あなた、まさか……?」

「バレンタインって、女の子がお友達にチョコレートをあげる日なんでしょう?」

「……は?」

「私達、お友達ですよね」

「は、はぁ」

 セリリはウィッチにチョコレートを渡した。同じようにチコにも渡し、最後にシェゾに掴み掛かっているアルルの側に行った。

「はい、アルルさんの分です。急いで作ったから、ちょっといびつで恥ずかしいんですけど」

「え……。は、ははは。ゴメンね。なんだか気を遣わせたみたいで……」

「いいんですよ。だって私達、お友達じゃありませんか」

 そう言ってアルルにチョコレートを握らせると、セリリは寝ているシェゾの顔を覗き込んだ。

「ところで、どうしてシェゾさんは寝ていらっしゃるんですか?」

 アルルがあれだけ揺さぶったり叩いたりしたのに、シェゾは眉一つ動かさず眠っている。

「シェゾ! いつまで寝たフリなんかしてるんだよ!」

 もう一発。それでも起きない。

「ちょっと変じゃないですか?」

 チコが言った。なんとなく、場が沈黙する。

「………」

「……な、なんですの、その目は」

 全員にじっと見られて、ウィッチが慌てた声を上げた。

「わたくしはそんな目で見られるようなコトは何もしてませんわよ!

 シェゾには、ちょっと新薬のモニターになっていただいただけです。この結果は予想外で、意図したものではありませんわ! ついでに服をいただきましょうと思っただけで」

「ウィッチー!」

 一声に声が集中して、ウィッチは顔を顰めた。

「もう、静かにしてくださいな。そんな声を上げなくても、中和剤を飲ませればすぐに起きますわよ」

「えっ? なぁんだ、解毒剤があるんだ」

「解毒じゃなくて、中和です! わたくしを何だと思ってるんですの? 中和剤の用意も無しに臨床実験なんてしませんわ」

 ウィッチだから心配なのだ……とアルルは思ったが、賢明に口には出さなかった。ややこしくなるし。

「それで、解毒剤はどこにあるの?」

「中和剤! それはまだ鍋の中に……」

 カウンターの奥に入ったウィッチは、きょろきょろと辺りを見回した。

「あら? おかしいですわね。確かここに置いていたはず……」

 見回して、ぎょっとした。

 カウンターの奥に、いつのまにかカーバンクルが入り込んでいた。

 しかも、普段とは激しく様子が違う。

「カーくん!」

 アルルが叫んだ。

 カーバンクルの形が変わっていたのだ。ずんぐりと丸い、鍋の形に。

「はっ……その鍋は!?」

 戦慄するウィッチを意に介することなく、カーバンクルはぐむぐむと咀嚼し、ごくんっと嚥下した。たちまち鍋の形は消えて元の小さな体型が戻った。消化してしまったらしい。

「あぁああああーー!! 中和剤が!」

「こらっ、カーくんっ!」

 叫んでも、もう遅い。

 中和剤は消えてしまったのだった。鍋ごと、カーバンクルの謎めいた腹の中に。

「カーくんってばなんてことを……。ど、どうしよう〜〜」

「ぐぐー!」

 満腹のカーバンクルはご機嫌で踊っている。美味しかったのだろうか?

「あっ、でも、また作れますよね、中和剤」

 何とかとりなそうとするチコの声に、どんよりとしたウィッチの背中が応えた。

「駄目ですわ……」

「駄目……って?」

「難しいの? ボク、手伝うから!」

「作り直すのは簡単ですわ。………でも、材料が。タマユラ草がないと……。稀少な薬草ですから、ウチにはもうありませんわ」

「分かった。ボク、取りに行ってくるよ!」

 言ってもう戸口に行きかけたアルルに、ウィッチの無情な声が追いすがった。

「無駄ですわ。アルルさんには取ってくることは出来ません」

「タマユラ草……って、確か深い海の底に生える海草ですよね。浜にたまたま打ち揚げられるのを待つしかないから、滅多に手に入らないって聞いたことがあります」

 と、チコ。

「そ、そんなぁ……」

「わたくし達が取りに行こうにも、息が詰まって溺れるか、水圧でぺちゃんこになるかのどちらかですわね」

 そして、申し合わせたようにその場の視線が一点に集中した。――うろこさかなびとのセリリに。

「………え。ええっ?」

「セリリちゃん!」

 がしっとアルルの両手がセリリのそれを掴んだ。

「お願い、セリリちゃん。タマユラ草を取ってこれるのはキミだけなんだ!」

「あ、あの……」

 どぎまぎしている碧の瞳を覗き込み、力強く。

「ボク達……友達だよね」

「は、はい! お友達です」

「ありがとう。それに、もしもセリリちゃんのおかげて目を醒ませたなら、きっとシェゾも感謝するよ。セリリちゃんのこと"親友"だって言うと思うんだ」

「はいっ!」

 まかせてください、と言い残すと、セリリは店を飛び出していった。

「気をつけてね!」

 にこやかに手を振るアルルを見ながら、顔を寄せてボソボソとチコとウィッチは呟いた。

「アルルさんってすごいんですね……」

「完璧なコントロールですわね。流石、普段から人を使うのには慣れてますわ」

 


 

3.サカナ、純情に殉ず、のコト

 

 水面近くは明るい日差しに満ちた海も、潜れば潜るほど暗く過酷になっていく。

 そんな海の中深度の辺りを、すけとうだらはゆったりと泳いでいた。

「ふんふんふ〜〜ん♪」

 機嫌良く鼻歌など歌いつつ。ずんぐりした体を器用に滑らせていく。

 なにしろ、今日は特別な日なのだ。

 恥ずかしくてなかなか声のかけられなかった去年までとは違う。言葉を交わし、何度か"デート"もした。以上の親密度や心優しい彼女の性格からして、恐らくは間違いなく。

 今年こそもらえるはずだ。毎年憧れつつも無縁だった、あの物体を!

「んっ……? あ、あれは!」

 やがて、たらはその視界に、待ち望んでいた美しい青い影を見つけた。

「セリリちゃ〜〜ん!」

「……えっ? あ、すけとうだらさん!」

 美しいうろこさかなびとが、こちらを見て顔を輝かせる。

 くぅ〜〜っ、いつ見ても可愛いぜ!

「やあ、これから行こうと思ってたのに、ワザワザここまで来てくれたんだね!」

「えっ? なんですか?」

「またぁ、照れちゃって。恥ずかしがらなくてもいいんだぜぇ。なにしろ俺とセリリちゃんは、こここここここ………恋……」

「あの、すけとうだらさん、タマユラ草ってご存知ありませんか?」

「……びと………え? なんだって?」

 間の抜けたタイミングで、すけとうだらは聞き返した。

「私、タマユラ草を探しに来たんです。でもなかなか見つからなくて……」

「タマユラ草……探しに……」

 オウム返して、がくりと肩を落とす。

「な、なんだ……。チョコを渡しに来てくれたってわけじゃないのか……」

「え? なんて言ったんですか?」

「い、いやっ。なんでもないよセリリちゃん!」

 ぶるぶると首を振り、すけとうだらは笑顔を貼りつかせた。男の意地である。

「すけとうだらさんは、この辺に詳しいんですよね? タマユラ草のある場所をご存知ありませんか?」

「タマユラ草ねぇ……。おっ、そういえばいつだったか話に聞いたことがあるぜ! この下の、海溝の奥の洞穴にあるってな!」

「本当ですか! じゃあ、私すぐに……」

「おっと、待つんだセリリちゃん! 行っちゃいけねぇ!」

「え?」

「なんでも、そこにはおっきな海竜がいるらしい。おまけに潮の流れがきつくて、とても危険だって話だぜ」

「そ、そんな……」

 両手で口元を抑えて、セリリは青ざめた。

「でも、タマユラ草がないと、私……」

 逡巡したように視線がさまよう。

 すけとうだらは、そんなセリリの様子をじっと見ていた。両手を組んで目を閉じ、ややあって開く。決意を込めて。

「セリリちゃん、やっぱりキミは行っちゃ駄目だ。俺が行くよ」

「えっ!?」

 驚いたセリリににっと笑ってみせると、

「なぁに。海の男の実力を見せてやるぜ。少し待っててくれよな、すぐに取って来るから!」

「あっ……。すけとうだらさぁん!」

 親指をぐっと立ててサインを残し、すけとうだらは深い海溝の奥へ降りていった。

 

 すけとうだらが、深海の洞窟でいかなる冒険を繰り広げたのか。

(うんうん、大変だったんだぜぇ)

 話が長くなるので、ここでは割愛する。

(ちょっと待てぇええ!)

 

 海に射す光が少し弱くなった頃、彼はボロボロの姿で帰ってきた。

「すけとうだらさん! 大丈夫ですか!?」

「へへへ……。このくらいヘでもないぜぇ。そんな顔しないでくれよセリリちゃん」

 傷だらけのままでにやりと笑うと、すけとうだらは手に握り締めていた一束の海草を差し出した。不思議にも白い実のようなものがついている。そこらでは見ない海草だ。

「ほら、タマユラ草。取ってきたぜ」

「すけとうだらさん……」

 セリリは、濡れた目で(海の中だから当たり前だが)すけとうだらを見上げた。二人の間に、ゆっくりと暖かなものが満ちていく。

「ありがとうございます……」

「へへ……。いいってことよ。セリリちゃんのためなら、このくらい……」

「きっとシェゾさんも喜びます」

「……へっ? ――な、なんであのヘンタイ野郎が」

「あっ、私もう行かないと。シェゾさんが待ってるからこれで失礼しますね。本当に有り難うございました、すけとうだらさん!」

「ちょっ……待ってくれよセリリちゃん! なんであのヘンタイ野郎なんだぁあ!?」

 すけとうだらのある意味悲痛な声も最早届かず。あっという間にセリリの姿は海面へと消えていった。

 後に残るは、度し難い想いに煩悶する泣き声一つ。

 

 泣くな、すけとうだら。君は男の中の男だ!

 



4.キスは甘〜いチョコの味、のコト

 

「……出来ましたわ」

 鍋をかき混ぜていた手を止め、ウィッチは言った。

「それが……?」

「ホットチョコレート、ですか?」

 肩越しに覗き込んで、アルル達が感想を漏らす。

 ごく小さな、普通サイズの鍋に満たされたそれは、チョコを溶かして薬材を混ぜたような、そんな液体だった。

「なんでチョコレートなの?」

「この薬の成分にはチョコレートが不可欠なんですわ。あなたがたはご存じないでしょうけど、チョコレートは元々薬として使用されていましたのよ。そもそも……」

 くどくどと喋り出す。

「あの。それより、早くシェゾさんを起こしてあげませんか?」

「そ、そうだね。ウィッチ、そうしようよ」

 話の腰を折られて、ウィッチは不満そうに唇を尖らせたが。

「まだ話は………。ま、それもそうですわね」

 しかし、少女達はここで重大な問題に直面したのだった。

「………ところで、どうやってシェゾさんに飲ませましょう。この薬」

 場の雰囲気が固まった。

「…………」

「…………」

 しばし、空虚な沈黙が続いた後。

「……口移し、ですか?」

 チコの呟きが、爆弾として投下された。

「わっ、わたくしは嫌ですわよ! 口移しだなんてじょーだんじゃありませんわ! ヘンタイが感染りますっ」

 最初に叫んだのはウィッチだ。

「ボ、ボクだって嫌だよ、そんなのっ」

「私も遠慮します。人助けは立派なことだけど……」

「く、く、口移しですか? そんな、無理です私」

 セリリは湯気が出そうに赤面し、卒倒しそうになっている。

 少女達はてんでにしり込みし、お互いに押し付け合った。全員がうら若き乙女であれば仕方のないことだろう。暫くその喧燥が続いたのだが……。

 ややあって、諦めたように息を付いたのは、アルルだった。

「って、いつまでも言い合っていても埒があかないし……。しょうがない、ボクがやるよ」

 殉教者のような顔で鍋の前に立った。

「アルルさん? あなた本気ですの!?」

 何故かウィッチが慌てた。

「だって……このままずっとモメてるわけにはいかないでしょ。ヘンタイといえども一応尊い命だから見捨てるわけにはいかないし。他のみんながイヤだって言うんなら、ボクがやるしかないじゃないか」

「で、でも……」

 逡巡して、ウィッチはぐっと決意した表情になった。

「そうですわ、元々はわたくしの薬のせいなんですもの。みすみすアルルさんをヘンタイの毒牙にかけるわけにはいきませんわ。それくらいでしたらいっそ わ、わたくしが……」

「ううん。ウィッチこそ無理しないで。犠牲になるのはボクだけでいいよ!」

 当の本人が意識不明とはいえ、大した物言いである。そんな少女達の脇を、黄色い小動物がてててーと小走りに駆け抜けた。

「ぐー」

 鍋に長い舌を伸ばして巻き付ける。未だ湯気の立ち昇るそれの熱ささえ頓着せず。

 ごくんっ。

 カーバンクルは一口で中身ごと鍋を飲み込んだ。

「カーくんっ!? また?」

「きゃーーっ! 何するんですの軟体動物、折角作り直しましたのに!!」

「ぐー」

 少女達の怒声もどこ吹く風。

 カーバンクルは再びてててーと少女達の脇を通りぬけると、横たわっているシェゾの側に行った。

「ぐーっ!」

 そして、その伸縮自在の巨大な口を開くと、ぱくっとシェゾの頭をくわえ込んだのだった。

「ぎゃーっ、シェゾ!」

「食べてる、食べてるっ!」

 カーバンクルは、シェゾの頭を含んだまま、もぐもぐと口を動かしている。

「ああっ……」

「きゃーっ、セリリさん、気絶しないでっ」

 チコが倒れ掛かってきたセリリを支えて悲鳴を上げた。

「カーくんっ。駄目でしょっそんなもの食べちゃ。ペッしなさい、ペーッ!」

「ぐぐー」

 ぽんっ。

 アルルが力いっぱい引っ張ると、カーバンクルは引っこ抜けて勢いよく宙を舞った。

「ぐぅー」

 くるくると回りながら落ちていく。

「あ……。大丈夫です、食べられてませんわ」

「よ、よかったぁ……」

 よもや、鍋のように跡形もなく消えてしまったのではないかと思ったが。シェゾの頭はちゃんと肩の上に付いていた。当然ながら、カーバンクルのよだれとホットチョコでべとべとに汚れてはいたが。

「う……」

 そして、ようやく。

 微かにまつげが震え、蒼い瞳が開く。

 シェゾが意識を取り戻した。

「つつ……」

 倒れたときに打ち付けたのだろう。顔を顰め、後頭部をさすっている。

「シェゾ! 目が覚めたんだね」

「アルル? 何故お前がいる………って……。なんなんだこれは」

 アルルだけではない。セリリと、チコとかいった巫女と。そして当然ウィッチがいて、彼を取り囲んで見下ろしていた。おまけに、何故か自分の服のボタンや留め金は外れてはだけていて、だらしなく裾が垂れているし。しかも、なんだか顔がベタベタする。

「何があったか……は、知らない方がいいと思いますわ、多分」

 ウィッチが言った。同意するように他の少女達は黙って視線を見交わしている。

「ぐー!」

 どこからかカーバンクルが駆け込んできたが、慌ててアルルが捕まえて、抱き上げた。

 



5.そして日は暮れる、のコト

 

 沈みかけた日は熟れ過ぎた果実のように赤い。

「ったく……。ロクでもない一日だったぜ」

 ぶちぶち言いながら歩いていくシェゾの隣を、カーバンクルを肩に乗せたアルルが歩いている。あの後、まずチコが「あっ、もう帰らないとおばあさまに叱られるわ!」と飛び出していき、セリリが「これで失礼しますね」と頭を下げて立ち去った。ウィッチは当然店に残るわけで、二人は森から街道へ出る道を歩いている。

「まあまあ……。女の子達に囲まれて、嬉しかったでしょ」

「なんでだ」

「嬉しくないの? ふぅん……。じゃ、男の子達に囲まれた方がよかったんだ」

「なんでそうなるっ!!」

「怒鳴らないでよ。ホントに短気だなぁ……」

 言いながら、アルルはごそごそとバスケットから包みを取り出した。

「はい、シェゾ」

「……あ?」

「反応鈍いなぁ。バレンタインに女の子にチョコもらったら、もっと喜んでみせるもんでしょ」

「………ヘンなものは入ってないだろうな」

「入ってないない。ほらっ」

 勢いに負けたのか、シェゾはのろのろと包みを受け取った。

「チョコレートは当分見たくもないんだが……」

 まだベタついている前髪をいじって、ぼやく。アルルは苦笑した。

「後でいいからちゃんと食べてよ、それ。折角甘さ控えめに作ったんだからさ。義理チョコでも、義理分の気持ちはこもってるんだぞ、一応」

「別にくれと言った覚えはないが……」

「あっ、ヤな言い方。キミ、もしかして他の女の子にもそーゆー言い方してるワケ?」

「生憎、バレンタインのチョコなんぞには無縁でな」

「うそ」

 アルルは、まじまじと傍らの青年を見上げた。

「まぁ……キミってヘンタイだしね」

「誰がヘンタイだっ! 大体、闇の魔導師がバレンタインのチョコなんぞもらっていてどーする」

「でも、闇の魔導師になる前とか――例えば、学生だった時なんかにももらったことないの? 学校って、そういうの流行るでしょ」

「ない」

「えーっ。

 ………キミってそんなにモテなかったんだ」

「あのなぁっ。男子校だったんだよ、俺の通ってたのは! それでもらってたら気色悪いだろーが!」

 アルルは、ぼかんとして目を瞬かせた。

「ふぅん……?」

「……今度は何だ」

「だって。………キミが昔のことを話したのって、初めてだから」

 しまった、という表情が一瞬漏れ、けれどすぐにいつもの仏頂面に塗りつぶされた。

「失言だ。忘れろ!」

「えーっ何で? 別に隠さなきゃならないようなコトじゃないじゃない」

「闇の魔導師に、過去は不要だ……」

「実はやっぱり、男子校でモテモテだったとか」

「だーっ、ちっがーう!!」

 いつものような会話をしながら、二人は並んで歩いていく。

 街道に出て、別れてそれぞれの帰途に就くまで。長いようで短い、あと僅かの道程を。



 

 広々としたホールに、彼は佇んでいた。

 重たげな両開きのドアから続く、長い赤の敷布の先には玉座。玉座の背にした壁の上方には巨大なステンド・グラスがはめ込まれており、月の光が白々と射し込んでいる。

 その光を浴びる彼は、この広大な空間にただ一人だった。――今も。

「何故だ……。何故、誰も来ないのだぁあ〜〜!!」

 

 その頃、魔王の城に至る別れ道では、女達の激しい死闘が繰り広げられていた。ルルーとドラコだけではない。あの後 続々と詰め掛けてきた魔物の少女達――サタン様ファンクラブの面々も加わって、激しくも過酷な愛の勝ち抜きバトルが展開していたのだ。

「サタン様にお会いするのは、あたくしよっ!」

「きぃい〜〜っ」「かぁ〜っ」「ぴぃ〜〜」

「どきなさい!」

「石におなり!」

「きゃーっ、やったわねっ!」

「がぁお〜〜っ、バーニングブレスっ!」

「なんの、破岩掌!」

 力がぶつかり合い、爆音が轟く!

 

 そして、その音も届かぬ古城のホールでは。

「うぉおおおお……………おおぉ〜〜〜!!」

 ただ魔王の悲痛な泣き声だけが、しじまを破って響き渡っていたのだった……。

 

終わり

 

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