「それじゃ、確かに渡したけぇの」
訛りのきつい口調でそう言うと、男はみずかきのついた手で金貨の入った袋をとりあげた。ずっしりとした重みを確かめるようにして、後は無言で、キョロキョロと辺りを確かめるようにして去っていく。
しかし、彼女がその様子を気にすることはなかった。視界の端には入っているだろうが、念頭にない。手の中の品物にすっかり気を奪われてしまっているので。
「ついに………ついに、手に入れましたわ」
知らず、彼女の口から呟きが漏れた。最初は小さく震え、あれよという間に大きく。
「伝説に謳われる、幻の花、バレンタインフラワー! これで、あ〜んな実験もこぉ〜んな調合も、どんな薬もそんなコトだって、思いがままですわぁ〜〜!!」
おーっほっほっほ!
こそこそと去りつつあった緑色の商人が泡を食って転ぶ勢いで、彼女の高笑いが暗い森にこだました。
バレンタインフラワーの |
「っゲホッ!」
思いっきりくしゃみ――というより
魔導の裏世界にその名を轟かせ、数々の闇の事件にその影を刻み、人々に底知れぬ恐怖と畏怖を与え続けた彼が、なんともしまらないと思われる向きもあろうが。闇の魔導師とて人の子。物も食べればトイレにも行くし、当然、風邪だってひくのである。
「くそ……ひどくなってきやがった。さっさと買い出しを済ませて帰ろう……」
夜のマントをかき合わせ、一人呟く。
闇に紛れ、人の世から遠ざかるべき存在としては、当然、日常生活は一人である。一人暮しはきままなものだが、こういう時には結構辛い。自分の看病は勿論、その間の買い出しも家事も、普段通り自分でやらなければならない。敵の多い身としては、こういう、いわば弱っている時に人前に身をさらしたくないものだが、そうも言っていられないというのが実情である。やらなければ日干しになる。決して冗談ではないところが悲しくも恐ろしい。
とはいえ、これまでは多少物資が乏しかろうと、じっと隠れ家にこもって一刻も早い回復に努めていたものなのだが。今回、あえて買い出しに出てきたのは、この街とその近辺に自分にとっての脅威がないと確信しているからである。
強力な力を持つ連中なら、むしろ数多くいるが……。
連中は、弱っている自分を見たからといって、ここぞとばかりに命を奪おうとは考えないだろう。
闇の魔導師が他人を信頼するというのも失笑すべき話だが、事実は事実だ。
なにより、今回、かなり風邪の程度がひどい。ひどくなりそうだ。このままでいけば、数日寝込むことになるかもしれない。動けなくなる前に、数日分の食料と、何はさておき薬を買い込んでおく必要があった。たとえ身の危険がなかろうとも、連中に風邪ひきの弱った姿を見られるのはかなり嫌だったが、僅かなプライドより
そんなわけで、まずは薬、とやってきたのは、森の中にたたずむ一軒家。ウィッチの魔導アイテムショップだった。街で食料品ごと買い揃えるのが楽かもしれないが、街のショップに確実に風邪薬があるとは限らないし、ウィッチの作る魔導薬と知識には一目を置いている。――その性格は別にして。
冷静に考えれば、この時、彼は大人しく街のショップに行くべきだったのだろう。こんな、体調に余裕のない時には。しかし、余裕がないからこそ、人は判断を誤るものなのだ。
「おい、ウィッチ。風邪薬をくれ」
ドアを開けて入るなり、シェゾは言った。
いつもならしばし品物を吟味するところ。しかし、今日の彼にはそんなゆとりはない。出来うる限り迅速に済ませてしまいたい。さもないと、そろそろ上がり始めた熱による倦怠感に捕まってしまいそうだ。
ところが、返事はなかった。
「ウィッチ?」
見れば、カウンターにあの小生意気な表情をした金髪の魔女の姿はない。代わりに、所狭しと液体入りのビンやら鍋やら試験管が散乱している。掃除でもしているのだろうか?
「おい、ウィッチ! いないのか?」
もう一度声を張り上げると、奥からでかい声が返ってきた。
「ああ、もう! うるさいですわね。休業の札が目に入りませんの!?」
「休業の札……? ………なかったと思うが」
「えぇ? かけわすれたかしら。……とにかく、今日は休業ですわ。さっさと出ていってくださいな」
「なに? おい、それがわざわざ来てやった客に対する言い草か?」
カウンターに置かれた道具類の隙間から身を乗り出して覗き込むと、奥の工房で何やら熱中して薬品を計ったり火にかけたりしている少女の背中が見えた。
「んもう、しつこい客ですわね〜。出ていってと………あら、シェゾですの」
振り返り、一瞥してウィッチは言った。長い髪をまとめ、あちこちに汚れのついたエプロンをつけている。
「わたくし、今、忙しいんですの。大事な実験中なんですわ。集中してやりたいんですから、他のことに構っている暇なんてありませんのよ」
わかったらさっさと出て行ってくださいな、とおざなりに言って、もう背中を向けている。
「札をかけ忘れたのはそっちのミスだろう。俺は風邪薬が欲しいんだ」
ムッとして食い下がると、目の前の泡の立ったビーカーから目を離さないまま、ウィッチは煩わしそうに言い捨てた。
「もうっ。大事なところなのに、失敗したらどうしてくれるんですの? 風邪薬ならそのカウンターの上にありますから、さっさと飲んで出て行ってくださいな。お代はいりませんわ!」
この言い様にはムカッ腹が立ったが、今日は小娘相手にケンカしている気力はない。シェゾは大人しく薬ビンを掴むと、中の液体を一気に飲み干した。空のビンをカウンターに置く。
「飲んだぞ。本当に代金はいいんだな?」
「………」
もはや返事すらない。溜息をついて、シェゾはドアを押し開け、外に出て行った。