喉が焼ける。

 呼吸をする度にヒリつくような痛みが走った。荒く乱れたそれは、たった今まで全力で体を使っていたためだが、焼ける痛みはそのせいとばかりは言えまい。

 木の幹にもたれて座り込み、肩で息をしながら、伏せていた目を上げる。

 目の前には散らばり折り重なる死体。彼らを刺し貫いた剣は、今も己の右手に握られていた。視線を上げれば、まばらな木々の枝の向こうに見える空は暗澹とした紫に染まっている。

 世界が再びこの毒の大気に覆われてから、どれほどの年月が過ぎたのだろう。

 そう長くもなかったはずだが、その間に木々の葉は落ちて枝が目立ち、魔物や家畜は数を減らすと共に凶暴化して、人間の数も減った。櫛の歯が折れるように、子供や年寄りから死んでいく。内臓に毒を蓄積させ、ある日突然咳き込みはじめて、そうなれば衰弱はあっという間だ。医師は患者の身体から毒を抜くことが出来ない。治癒術師ヒーラーがどんなに癒しの力を注ぎ込もうと、焼け石に水だった。今、完全な健康を保っている人間は、果たしてどの程度残っているのだろう。

 こんな世界に住む人々が不安にならない訳がなく、それはまず信仰へ向かい、次いで為政者たちへと噴き出した。出来うる限り抑えはしたが――かつてと同じ鮮やかな奇跡は、もう起こす事は出来はしなかった。

 その奇跡を起こせたのかもしれない唯一の可能性を持った男は、既に消息を絶って久しい。

(いや……)

 彼が消息を絶ったということが。この地獄の始まりだったのかもしれない。

 そんな思いがよぎっていく。

 

『障気は星の地核から発生していました』

 

 脳裏に声が浮かんだ。かつて一年近い間、星の全てを巡る旅を共にし、それ以上の年月を同じ主君に仕える朋輩として過ごした。怜悧な赤い瞳の男の声だ。

『何故、地核から障気が発生したのか。その正確な原因は分かっていませんが、地核の震動が原因の一つであった事は確かです。創生の時代にプラネットストームに生じた歪み、そしてヴァンが地核に閉じ込められていたローレライから無理に力を奪い、第七音素セブンスフォニムを欠乏させたこと……これらが地核を震動させ、星を覆うほどの障気を生み出した』

 だが、既にプラネットストームは停止しているだろう? ローレライも音譜帯に去った。――あいつが。確かに二つのゲートを閉ざし、ローレライを解放したんだ。

 なのに、どうして今更障気が発生する!

 こんな苛立ちをぶつけられて、彼――ジェイドも、随分と困ったことだろう。いくら天才だともてはやされていようと、人間だ。出来ないことも分からないことも厳然としてあるというのに。

『私たちは二度、ローレライの鍵を失いました。一度はエルドラントで。今度は――レムの村で。ローレライの鍵とその使い手がいれば、今回も何とか出来たのかもしれませんが』

 鍵の使い手と大勢のレプリカたちを生贄にして、か? と皮肉に言ってやれば、ジェイドは『ええ』と答える。『かつて、彼にそうさせたようにね』と。

(そうだ。俺たちはかつて、一人の子供に星の全ての命を担う責任を負わせた)

 存続させるか見殺しにするか。あまりに重過ぎる選択を。けれど彼は逃げずにそれを負って、責任を果たし、引き換えるように崩壊する大地の底に消えていった。

(選ばせた俺たちには、その遺したものを護り継続させる義務があり、責任がある。それが……あいつを知る、あいつの戦いを見届けた仲間たちの誓いだった)

 なのに、なんてザマだ。そう思う。

 最初は上手くいっているように見えた。二国間の和平、教団の安定、それらの協調によって行われたレプリカの保護。だが、レプリカと一部オリジナルの間で争いが起こり、長引いたそれの調停役として、レプリカ保護を積極的に行ってきたナタリアがレプリカたちの住むレムの村に出向いて――命を落とした。

 どんな状況だったのかはよく分からない。それが事実だったのかも。

 数年前に地の底から一人戻り、ナタリアの夫となっていたアッシュは、報せを受けるなり自らもレムの村へ向かった。

 そして、消え失せたのだ。

 文字通り、レムの村と付近のレムの塔ごと。そこにいたはずの大勢のレプリカたちや幾ばくかのオリジナルをも含めて、跡形もなく消失した。恐らくは、超振動によって。

 何が起こったのかは、それこそ分からない。中心にいたはずのアッシュとその携えていたローレライの鍵がどうなったのかも分からなかったが、それ以降、彼の消息がぷっつりと途絶えたのは確かだ。

 そして、あたかもその報復のように、消失していたはずの障気が湧き起こって世界を覆い尽くしたのだった。

 

『――まるで、ユリアの預言スコアのやり直しみたいだね』

 

 最後に会った時、アニスはそう言っていた。かつてこの星を支配していた預言に、こう詠われていた。ローレライの力を継ぐ若者は鉱山の街へと向かい、力を災いとして街と共に消滅する、と。そして、創世の時代にはレムの塔の辺りは鉱山都市だったという。

 一度は回避したはずの筋書きをなぞるように、奇跡の英雄を失った世界は脆く崩れ始めた。

 ローレライ教団は内部から揺らぎ、やがて砕けた。アニスはフローリアンを連れて教会から逃れたらしいが、その後の消息は知れない。

 

『アニスのことだから、無事でいてくれるだろうと思っているけれど』

 

 その報せを携えて訪れ、そう言っていたティアとも、連絡が取れなくなって久しかった。

 教団の崩壊は世界に大きな波となって襲い掛かった。先に傾いたのはキムラスカ王国だ。若き後継者たちを一度に失って、老いた王は国を支えきれなかったのかもしれない。そして、一つの国を破壊した荒れ狂う波は、残ったこの国にも及んできたのだった。

 

 遠く轟音が聞こえる。目をやれば、彼方の空に渦を巻いて流れ落ちる輝きが見えた。あれは最強と呼ばれた譜術の雷だ。

 

『しっかりやれよ。この国を――世界を滅ぼすわけにはいかないからな』

 

 十年余りを仕えた破天荒で闊達な主君は、半ば道楽で、宮殿から各所への抜け道を張り巡らせていた。だが、最終的にその恩恵に預かれたのは己一人だ。宮殿から軍本部まで、その抜け道を使って移動することは出来たものの、主君が負った傷は深すぎた。それでも例の口調でそう言い、最期まで笑った彼の姿に何を思ったのか。共に軍本部まで逃れた、皇帝の懐刀と呼ばれた男は、『あなたは逃げなさい』と道を示したのだ。

『私は譜術で彼らを焼き払います。どうせこちらの勢力で残っている者は殆どいない。味方識別マーキングなど気にしないで済みますよ』

 と、本気ともつかない笑みを浮かべて。

(あんたは馬鹿だよ、旦那)

 薄れて消えていく輝きを見ながら考える。

 未来の為に。為すべき事を為すために。どんな時も、どんなに多くの犠牲を払おうとも生き抜いてきた。彼はそんな男であったはずだ。

(人を逃がして自分は残るだなんて、あんたには似合わない。柄にもないことをしでかした大馬鹿だ)

 最後の皇帝の血で玉座は汚され、死体に埋もれた世界は死病によって滅び去る。かつて、星の記憶はそんな未来を告げていた。とうに回避されていたはずのそれは、歪んだ形で成就されてしまったのか。――今頃になって。

(もう十年。だが、たった十年だ。俺たちのした事は……それだけの先延ばしの意味しかなかったのか?)

 いや。本来の預言では、この後、数十年間の未曾有の大繁栄が起こるはずだった。……世界が病毒に侵され尽くし、障気によって塵と化すのは、その後だったはずだ。しかし、今のこの世界はそこまで保ちはしないだろう。遠からず、大繁栄を見ることもなく……滅びる。

(これは呪いか。罰なのか。定められた運命を強引に変えた俺たちを嘲笑うための)

 彼を失った。世界を生かすために死地に送り出した。その結果がこれなのか?

 だとしたら。俺たちは。俺は、何のために。

 ギリ、と爪が大地に食い込んだ。

(これが運命のしっぺ返しだとしたら。人の力の限界なのだとしたら。俺はお前を憎む。呪うぞ、ローレライよ!)

 どんなに足掻こうとも、犠牲を払おうとも。たわめた枝が戻るように、易々と元に戻されてしまう。それが世界のことわりなら、何故未来の姿を見せ付けた。そんな未来をユリアに詠ませたのだ! 苦しめるためか。不安と絶望に慄き、ただ自分の無力にうちのめされる。その姿を見たいがためだけの仕打ちだったのか。

(ヴァンデスデルカ……)

 不意に、かつて自らの手で殺した幼なじみの顔が浮かんだ。

(お前も、こんな思いを噛み締めていたのか……?)

 預言スコアを、ローレライを。それに支配された世界を消滅させようとしていた。全てから解放された、新たな世界を生み出すために。

(間違っていたのか。俺たちの選択は)

 きな臭い匂いが鼻をついて顔を上げた。彼方から薄く煙が流れ始めている。水路の巡る都市だ。全てが燃えることはないだろうが。

 口元に緩い笑みが浮かぶ。

 間違っていたのだとしても。

「ここで諦める訳には……いかねぇよな」

 声を吐き出したが、直後に咳き込んだ。紫の大気にむせてしまったかのようだ。それでも、口を拭ってよろりと立ち上がる。

 この道が誤りであり、もはや先がないのだろうと。それでも出来る事はせねばなるまい。それがこうして生かされた、今まで多くの屍を踏み越えてきた、己の果たすべき責任…………いや。誇りだ。

 これから何が出来るのだろう。もう一度、地核の震動を中和する音機関を用意するか。――しかし、キムラスカはこの国以上に荒れている。シェリダンもベルケンドもあてに出来るかは怪しい。……ディストを探すか? どこにいるかも分からない、すんなり協力するのかも怪しい奴だが。音機関が用意できたら、地核へ運び入れねばならないだろう。一人では難しいだろうが、どうにかして……。

 間近で物音が聞こえた。

 反射的な動きで剣を動かす。一太刀は止めた。だが、もう一人の刃が迫っている。「いたぞ、マルクトの貴族だ!」と叫ぶ声が聞こえ、バラバラと集まってくる足音が感じられた。譜文を唱える声も耳を掠める。

 

『……でもさ、思ったんだ』

 

 幾つもの衝撃と、ぶれる視界と。急速に閉じていく思考のどこかに、いつか聞いた、彼の声が浮かんだ。

 

『俺たちは預言スコアを妄信する世界を否定してるけど……最初から、本当に結果が分かっていたなら……例えば、俺が「ルーク」に関する預言を全部知ってたなら、……もっと違う道も選べたのかなって』

 

(本当に)

(本当に、それが叶うというのならば)

 不思議な音色が響いている。

 闇に沈んだ世界の中に、チカリと黄金きんの輝きが生じ、爆発したように広がると視界を覆い尽くした。炎のようにうねる光の彼方から、声が聞こえる。

『――……イ』

 覚えがあった。

『 ガイ 』

 耳に馴染んだ、懐かしい響きだ。これは、この声は……。








「ガイ!」

 ハッとして、『目を開けた』。たちまち広がったのは抜けるような青い空、流れる白い雲。磯臭い湿った風が頬を撫でる。そして、その風に微かに揺れる、炎の色の髪があった。

「……ルーク」

「大丈夫か? お前。こんなところで寝てるんじゃねーよ」

「……あ、ああ」

 曖昧に頷きを返したが、ルークが眉を曇らせたのを見て、ガイは笑みを繕った。

「すまない。少し船に酔っちまったかな。大丈夫だ」

「ふーん。ならいいけど。お前、結構だらしねぇのな」

 イオンみたいじゃん。ニヤッと笑ってそんなことを言うお坊ちゃまに今度は本物の苦笑を返して、立ち上がって隣に並ぶ。連絡船の甲板の手すりの向こうには、海が広がっていた。ルークは、吸い込まれるようにそれを見つめている。

「いいよな、海は」

「なっ。お、俺は別に……海なんてどーでもいいっつーの」

 笑いかけると、何故なのか、慌てたようにルークは言い繕い始めた。

「別に大したことねーじゃん。水ばっかで、することもねーし、飽きちまったっての。なんか揺れるし、髪はベタベタするしよ」

「そうか? お前、屋敷にいた頃は海が見たい、連れてけーって大騒ぎしてたじゃないか」

「そ、それは……ガキの頃の話だろ。ばっか。ガイ、お前いちいちうるせーんだよ」

「ははは」

 いかにも子供っぽい物言いがおかしくて声を上げて笑うと、「だーっ! 笑うな!」とますます膨れている。

「ガキ扱いすんなっつーの。俺はキムラスカの親善大使なんだからな!」

「だったら、もう少し落ち着いた言動を心がけて欲しいものですわ」

 涼やかな声がした。軽くブーツの踵を鳴らして、金色の髪の少女が近付いてくる。

「ルーク。あなたはキムラスカを代表して、マルクトの人々を救いに行くのですわよ。今は穏やかな旅でも、アクゼリュスに着いたら大変なのですから。ちゃんと考えていますの?」

「ナタリア……」

 ルークは、ぶすりと唇を尖らせた。『出た、説教魔人』という心の呟きが聞こえてきそうな表情だ。

「うぜーなぁ……。別にいーだろ。着いて何するかなんて考えるのは他の奴の仕事だし。俺は治癒術師ヒーラーでもねーしな」

「まあ。救助活動に治癒術師であるかどうかは関係ないでしょう」

「あーっ、うっせぇ! 大体なんでお前が付いて来るんだよ。伯父上はお前は行くなって言ってただろ」

「何を仰いますの。長年の敵国だったマルクトと和平を結ぶという時に、王女のわたくしが行かなくてどうするというのですか!」

「まあまあ……。いいじゃないか、ルーク。ナタリアは癒しの力を使える第七音譜術士セブンスフォニマーだ。これから行くアクゼリュスには障気に侵された人たちが沢山いる。治癒術師ヒーラーは一人でも多い方がありがたいからな」

「まあ……ガイがそう言うならいいけどよ」

 ルークは口を閉ざす。親善使節団としてバチカルから出港したが、ナタリアはその船に密航していた。バチカルへ引き返そう、そんなことさせませんわ、と言い争いが起こった時にも、『いいじゃないか』と言い出したのはガイだったのだ。『もう船は出ちまってる。アクゼリュスへは一刻も早く行かなきゃならないし、ナタリアは優秀な治癒術師だからな』と。

「ありがとう、ガイ。……旅の間は王女ではなく、仲間の一人として扱うというあなたの言葉も、今はありがたく思っていますわ。あなたとも幼なじみでしたのに、様付けで呼ばれるというのも、思えば寂しいことでしたものね」

「いや……。突拍子もない申し出をして、すまないね」

 つい、慣れた呼び方をしちまっただけなんだがな。苦笑しながら、ガイは内心で独りごちていた。現時点では王女と一介の使用人なのだ。対等な口をきくなど許されないことで、実際、同行しているキムラスカの軍人たちはいい顔をしていない。ナタリアとルークが許しているからこそ口出しされずに済んでいる。

「とにかく、ルーク。一国の大使として恥ずかしくないように、しっかりお願いしますわよ。――それから」

「なんだよ」

「……いえ。何でもありませんわ」

 一瞬目を伏せて、ナタリアは船室の方へ去っていく。それを見送って「なんだ、あいつ」と呟いたルークに、ガイが言った。

「彼女も寂しいんだよ。……『ルーク』に置いて行かれたことがな」

 そう言われて、ルークは僅かに目を見開く。

「……んなこと言ったって……。俺、覚えてねーんだもんよ。ガキの頃にあいつとした約束なんて」

 気まずげに目線をそらした少年の頭を、グローブをはめた手がくしゃりとかき回した。見上げれば、幼なじみが青い瞳で笑っている。

「気にするなよ。昔の事は考えなくていい。お前は、未来を生きるんだろ?」

「……うん」

 頷いて、嬉しそうにルークは笑う。その顔を見下ろしていたガイは、近づいてきた新たな気配に顔を上げた。軽やかで開け広げなナタリアのそれとはまるで違う。重く、しかし絞られ抑えられた。

「ルーク。ここにいたのか」

「ヴァン師匠せんせい!」

 灰褐色の髪を高く結い、神託の盾オラクル騎士団の軍服を着たその男を見て、ルークが顔を輝かせた。

「どうかしたんですか?」

「ああ。お前に少し話があるのだ。一緒に来てもらえるか」

「俺に……? はい、分かりました」

 僅かに首を傾げたものの、ルークはすぐに頷いて歩き出そうとする。しかし、背後からの声がその足を止めた。

「ルーク。イオンが船酔いで寝込んじまってるだろ。心細いだろうし、側に付いていてやってくれないか」

「え……。でも、師匠が……」

「悪いが、頼む」

 ルークは暫く逡巡している様子だったが、やがて頷くとヴァンを振り仰いだ。

「ごめん、師匠。俺、イオンの所に行くから、話はまた今度な!」

 笑って言って、パタパタと甲板を駆けて行く。その気配が完全に遠ざかると、残った男たちの間には尖った空気が流れた。

「……邪魔をするつもりですか」

 低く吐かれたヴァンの声に、ガイは飄々と答える。

「さて、な」

「いつの間にか、よくもまあ、ああも手懐けたものですな」

「元々、ルークの世話係は俺だ。あいつが俺に懐いたところで、何の不思議もないだろう?」

「フ……。どうやら貴公はお忘れのようだ。アレが我らにとってどんな存在であるのかを。先日の脱走といい、いささか肩入れが過ぎるのではありませんか。――よもや、あの生誕祭を忘れたわけではありますまい。所詮、アレは……」

「ヴァンデスデルカ」

 真の名を呼んでやると、男は口をつぐんだ。ガイは言葉を紡ぐ。

「故郷のことを、俺は決して忘れる事はない。だが、過去に囚われるのはやめたんだ」

 青い瞳を軽く見開いて、ヴァンは若き主君を見た。

「だから、お前にもやめてもらいたい。――ルークを利用するのはやめろ」

「……お変わりになられた」

 ヴァンは呟く。その表情が険を帯び、瞳に窺う色が浮かんだ。

「何故だ。――何を考えている?」

「俺にそれを問う前に、お前こそ俺に話すべきことがあるんじゃないのか」

 だが、ガイは怖じることがない。今はまだ従者のままの男をまっすぐに見て、強く言い切った。

「俺もルークも、お前の――ましてやローレライの操り人形なんかじゃない。俺は……今度こそ、それを証明したいんだよ」




「おいイオン、調子はどうだ?」

 言いながら船室の扉を開けると、ベッドサイドに座っていたティアと視線が合った。

「なんだ、お前もいんのかよ」

 顔を顰めてルークが言い放つと、無表情なティアの顔に僅かな険が走る。

「悪かったわね」

「ティアは、僕の様子を看てくれていたんです」

 取り成すように、ベッドの中からイオンが言った。その顔色はさして悪くはないようだ。

「調子戻ったみてぇだな」

「ええ。ティアが癒しの力を当ててくれたおかげです」

「ふーん……」

「……何」

 座ったまま、ティアがジロリと冷たい目で見上げてくる。そ知らぬ顔をして、揶揄の口調でルークは言った。

「お前みたいな陰険女でも、たまにはマトモなことするんだな」

「なんですって?」

「うっせぇな。お前が余計なことしなけりゃ、今頃俺とガイは自由になってたんだぞ。師匠の妹だからって、お前を許す気なんざカケラもねー」

「結構よ」

「お二人とも、ケンカしないで下さい……」

 イオンが困った顔で言い、「フン」とルークは顔を背ける。――その時だ。

「――っ!?」

「ルーク!? どうしたんです!」

 突然頭を押さえてがくりとうずくまったルークを見て、イオンが驚いて声をあげた。

「ってぇ……っ。この声、いつもの幻聴…………違う、のか……? 誰だ……? 誰なんだよお前!」

「ルーク? しっかりして」

 ティアが床に膝をついて、苦悶に歪んだルークの顔を覗き込む。だが、伸ばした手が触れる前に、彼はうずくまった時と同じように勢いよく立ち上がった。腰から抜かれた剣がピタリとティアの眼前に突きつけられる。

「ルーク!?」

 色を変えたイオンの叫びを聞きながら、ティアはルークの真意を量りかねていた。確かに、彼と自分の仲は良好とは言えない。つい先ほども口論したばかりだ。だが――この行動は突飛に過ぎる。これまでの短い旅の間で見てきた限り、このお坊ちゃんは確かに多少の癇癪持ちではあったが、ここまで短絡ではないように見えていたが。

 突きつけられた刃先は、しかしカタカタと震えていた。ティアを見るルークの瞳は、むしろ怯えているように見える。

「ルーク……? なんのつもりなの」

「ち……違……身体が勝手に……」

 そう言いながら、ゆっくりと剣を持った手が振り上げられていく。

「いや……やだ………やめろぉ!!」

「ルーク!!」

 開けられたままだった扉の向こうから、叫ぶ声が聞こえた。

「ちょっとちょっと、何なのぉ!?」

 戸口に並んで、ガイとアニスが唖然とした顔でこの状況を見ている。

「ガイ!」

 救いを求めるように叫んだルークの身体が、くるりと反転してガイの方に向かった。両手で剣を構え直す。

「やめろ……。何だよお前。いやだ。――俺を操るな!」

「ルーク!」

 もう一度ガイが叫んだ。ゆらゆらと揺らぎながら己に向かってくる刃を見て顔を歪め、一際高く声を出す。

「やめろ、アッシュ!」

 その刹那。ピタリとルークの動きが止まった。腕がだらりと下がり、持っていた剣がゴトンと床に落ちる。そのまま意識を失って倒れた体を、ガイが両腕を広げて抱き止めていた。








 鉱山の街は紫のもやの中に沈んでいた。

「これは……予想以上ですね」

 流石に衝撃を受けたのか、ジェイドが辺りに目を配りながら呟いている。

 連絡船はカイツール軍港に入港し、親善使節団はそこから旧道を通って国境を越え、マルクト帝国領アクゼリュスに到着した。この都市は、先頃起こった地震によって噴き出した障気に侵されている。

「しっかりなさい」

 倒れ伏して呻く鉱夫の一人に気付いて、ナタリアが素早く駆け寄った。慌てたようにルークが片手をさし伸ばす。

「お、おい、ナタリア。汚ねぇからやめろよ。伝染るかもしれないぞ」

 だが、振り向いたナタリアの視線に気圧されて息を呑んだ。

「何が汚いの? 何が伝染るの! 馬鹿なこと仰らないで!」

 鉱夫に労わりの声をかけながら、ナタリアは癒しの光を当て始める。憤りと不安の入り混じった顔でそれを眺めるルークの肩を、ポンとガイが叩いた。

「心配するな、ルーク。障気蝕害インテルナルオーガンは患者に触っても感染しない。障気はあまり吸い過ぎないようにしないといけないけどな」

「おや。随分と詳しいのですね、ガイ」

 傍らからジェイドが言う。

「ああ。街が障気に侵されてるってことは聞いてたからな。少し調べておいたんだ」

「……なるほど」

 向こうで鉱夫たちと話していたヴァンが、年長の一人を伴ってこちらに戻ってきた。ルークを示して言う。

「こちらがキムラスカの親善大使です」

「おお、あなたが」

「あ、あの……」

 咄嗟に、ルークは喉を詰まらせる。だが、「ほら、ルーク」と小さくガイが言う声が聞こえて、ぐっと姿勢を正し、胸をそらした。

「ルーク・フォン・ファブレだ」

「ようこそおいで下さいました。私はこの鉱夫村の村長を務めております、アインと申します。この度のキムラスカからの救援に感謝いたします」

 次いで、イオン、ナタリア、ジェイドにアニスにティア、ガイと、一通りの自己紹介をしたところで、イオンが訊ねる。

「状況はどうなのですか」

「芳しくはありませんな。まだ障気の発生からさほど時間が経っていないせいか、障気蝕害の症状が出た者はそう多くはないそうですが」

 ヴァンが答え、村長が続けた。

「地震で坑道の足場が壊れたり、地割れが出来たりしまして……。今はむしろ、それで怪我をした者や坑道の奥に取り残された者をどうするかが問題です。障気のせいか、坑道を魔物が徘徊するようになって、わしらにはどうにも」

「坑道に取り残された人たちの救助が最優先ね」と、ティアが言う。

「そうだね。坑道をウロウロしてる魔物をぶっ潰さないと」

「ここまで運んできた物資の分配も行わねばなりませんわ」

 アニスとナタリアが主張し、「では、手分けをすることにしよう」とヴァンが言った。

「まずは少人数で坑道の様子を調べる。他の者は、街で病人の看護と物資の運搬にあたればよい」

「ふむ……。それが妥当でしょうね」

 ジェイドが頷くと、ヴァンは傍らの妹を見て言った。

「ティアは、私と一緒に坑道に来てくれ。それからルークも。イオン様もご同行願えますか」

「ええ」「はい、師匠せんせい」「もちろん、僕は構いません」

 頷く三人を見やってから、ヴァンは視線をジェイドとナタリアに巡らせる。

「ナタリア殿下は、残ってキムラスカ軍の統括をお願いします。カーティス大佐にはその助力をお願い出来ますかな」

「分かりましたわ」

「いいでしょう。カイツール軍港を使う許可が出ましたから、じきにマルクト側からも救援物資が届くはずです」

「一番被害がひどいのは第14坑道です。そこまでは村の者に案内させましょう。――おい、パイロープ」

 村長は背後を向いて、鉱夫の一人を呼んだ。

「はい。何でしょうか、村長」

「皆さんを第14坑道まで案内してくれ」

「ああ。分かりました」

 鉱夫らしくごつごつした体つきの男は、屈託なく頷いている。

「では、ここで別れよう。各々で……」

「――待ってくれ」

 決定を下しかけたヴァンの声は、不意に上がった別の声に遮られた。

「確かに坑道に取り残された人の救助は必要だが、そこにルークとイオンを連れて行くのは反対だ」

「ガイ?」

 驚いて、ルークは傍らの幼なじみを見つめる。「おや? どうしてです」と訊ねたジェイドに、彼は両腕を組んだまま答えた。

「坑道には魔物が出る。障気も濃い」

「な、なーに言ってんだよ。魔物なんか俺の剣でやっつけてやるっつーの。それに、師匠が一緒じゃんか。ヤバいことなんて何もねぇだろ」

「ルーク。実戦を甘く見るな。それに、お前はよくても体の弱いイオンにはよくないだろう?」

「僕なら平気です。折角、ヴァンがモースを説得して、僕のアクゼリュスへの同行を許可してくれたのですし……」

 イオンは言ったが、傍らからアニスが口を出した。

「イオン様。私も、イオン様が危険な場所に行くのは反対ですぅ」

「アニス……」

「それに、障気蝕害は障気に触れていればいるほど悪化する。このまま、街に留まって看護を続けるのは無意味だ」

「じゃあ、どうするというのですか?」

 訝しげにナタリアが問うている。

「街の人々をカイツールまで避難させる」

 それを聞いて、人々は一様に驚きの表情を作った。

「確かに……それが最も合理的な行動かもしれないけれど」

 ティアは口元に手を当てて言ったが、歯切れは悪い。ジェイドが異を唱えた。

「現時点で使える道はデオ峠を通る旧道だけです。あの峠を病人を連れて越えるのは難しいでしょう」

「だが、他に道はない。俺たちだってあの峠を越えてきたんだ。やれるさ」

「マジ!? そりゃ、イオン様を危ない目に遭わせないっていうのは賛成だけど、今の人数で街の人全員を連れて行く訳?」

「アクゼリュスの人口は、確か……」

「今は、確か八千人ほどでさぁ」

 呟いたイオンにパイロープが答えている。ナタリアが言った。

「数日中に両国から救助の増援が来るはずですわ。それを待ってからの方がよいのでは?」

「駄目だ。そんな時間はない」

 頑なに言い張る『親善大使の世話係』を前にして、人々は困惑した色を浮かべる。黙ってガイを見つめていたヴァンが、何か口を開き掛けた。――が。

「ガイの言う通りにしろ!」

 それより早く、人々の輪の中に一歩踏み出して、ルークが声を張り上げていた。

「ルーク?」

 呆気に取られた顔で言ったティアをチラリと見て、視線を逸らし、ルークは両腰に手を当てて胸を反らす。

「だから、ガイの言う通りにしろっつってんだよ。街の奴らを今すぐに避難させる。それで、坑道には俺とイオン以外の奴が行けばいいんだろ」

「ああ」

 視線を送れば、ガイは頷きを返した。「でも、ルーク……」と言いかけたナタリアを、ルークは怒鳴りつける。

「うっせぇな! つべこべ言わねぇで俺の言うこと聞いてりゃいいんだよ。親善大使は俺なんだからな!!」

 暫くの間その場に満ちたのは、どこか白々とした空気だったか。

「……仕方ありませんね。親善大使殿の仰せに従いましょうか」

 ややあって、小さく息を落として言ったのはジェイドだった。「えー!?」と、不満そうなアニスの声が聞こえる。指で軽く眼鏡のブリッジを押し上げてから、ジェイドはヴァンに視線を移して言った。

「グランツ謡将も、それで構いませんか」

「この使節団の責任者はルークだ。止むを得ませんな」

 ヴァンはそう答える。鋭い視線が、一瞬、ガイの上を通り過ぎた。








 峠を渡る風は心地よい。ここにはまだ、あの毒の大気は流れていなかったから。

「それにしても。ルークとガイって、どういう関係なワケぇ?」

「どういう……とは?」

 傍らに腰を下ろしているアニスに、ナタリアは不思議そうな顔を向けた。波を持った金色の髪がフワフワと揺れる。

 そこは、アクゼリュスからキムラスカ領へ抜けるデオ峠の半ばに位置する場所だった。住民をアクゼリュスから出す作業に一日以上かかり、坑道に残っていた人々を連れ出せたのは翌日の午後。峠を越える前に日が暮れるのは確実だった。そのため、峠の半ばにキムラスカ軍が幾つもの天幕を張り、仮の拠点が作られたのだ。

「だからぁ。ルークっておバカでワガママでぜんっぜん人の言うことなんて聞かないくせに、ガイの言うことだけはハイハイって聞いてるじゃん。な〜んか、いつもくっついてるし」

「ルークはおバカではありませんわよ。……そんなには」

 少しむくれて婚約者の擁護をしてから、ナタリアは思考を巡らせる顔をした。

「そうですわね。ガイはルークの世話係で親友ですから、以前から仲はよかったですけれど。確かに、この旅に出てからルークの聞き分けが妙にいい……とは思いますわ」

「怪しい」

 顎に片手を当てて、アニスはジトリと目をすがめる。

「は?」

「だって、二人で家出しようとしてたんでしょ。あれって、いわゆる駆け落ち? 実は、二人はただならぬ関係なのだった……な〜んて。貴族にはそっちのケの人が多いって言うしぃ」

「馬鹿なことを言うものではありません、アニス」

 ナタリアがムッとした顔をした。

「確かに、貴族の子弟とその使用人としては、あの二人の関係は少し変わっているかもしれませんわ。ですが、それには……事情があるのです」

 ナタリアの瞳が僅かに翳りを帯びる。だがそれを気にかけずに、アニスは顔を向けて問い返した。

「変わってるっていえば、ルークって記憶障害なんだっけ?」

「ええ。今のルークには、十歳からの七年分の記憶しかありません。それに、ルークを屋敷から出さないようにお父様が命じていましたから……」

「ふーん。だからあれだけ非常識なんだ。それにしたって、オールドラントに生きてて、ローレライ教団の導師イオンを知らないだなんてアリ? 馴れ馴れしく呼び捨てにするし、いつの間にかガイやナタリアにもそれが移ってるし、でもイオン様はニコニコ笑ってるし。もーっ!」

 手足をジタバタさせてアニスは喚く。そこに長身の影が歩み寄ってきた。

「アニス。あまり頬を膨らませていると、ブウサギみたいな顔になりますよ」

「ぶー。大佐」

 片手をポケットに突っ込んだまま歩いてくると、ジェイドは柔和な笑みを浮かべてアニスの傍らに立ち止まる。

「それに、あなたは将来玉の輿に乗りたいと言っていたでしょう。ルークにはいい顔を見せていた方がいいんじゃないですか?」

「う。そ、そりゃあ、公爵って言うのは魅力的ですけどぉ……あいつはダメ。ダメですぅ! しっかり婚約者だっていますもん」

「おやおや。ルークも嫌われたものですね」

 くつくつと笑うジェイドに、アニスはむくれた顔を向けた。

「大佐は頭にこないんですか。そりゃ、キムラスカの使節団の責任者はルークですけど。厳密には、私たちや大佐は関係ないじゃないですか。なのに偉そーに命令して。しかも、それをさせてるのはガイだしっ」

「確かに、親善大使殿は、よほどガイがお気に入りと見えますねぇ」

 ジェイドは小さく失笑を漏らす。しかしすぐに表情を戻して、ナタリアに訊ねた。

「ところで、今の話ですが……。ルークには七年前以前の記憶がないのですか?」

「え? ええ……。お医者様は誘拐されたショックだろうと」

「誘拐?」

「マルクト軍に誘拐された、って言ってましたよ」

 アニスが言い、ジェイドは眉をひそめる。

「私は知りませんね。先帝時代のことですから、隠されていたのかもしれませんが……」

「はっきりしたことは分かっていないのですわ。けれど、ファブレ公爵家の嫡子を誘拐するのはマルクトぐらいのものだろうと……。発見されたのも、マルクトとの国境に近いコーラル城でしたし」

「ふむ……」

「一体、どんな恐ろしい目に遭ったのか……。戻って来た頃のルークに、わたくしは面会を許されなかったのですが……。その頃のルークは自分の名前も家族の顔も、それどころか、言葉も、歩き方すらも忘れてしまっていたそうです」

「げ。それって、殆ど赤ちゃんと一緒じゃん」

「ええ。そんなルークの手を引いて、言葉を教え、歩き方を教えたのが、ガイなのですわ」

 両手を胸で組んで、ナタリアは静かに幼なじみたちの過去を語っている。

(赤ん坊に戻ったかのような記憶喪失、ね……。まさか……)

 その声を聞きながら、ジェイドは口の中で呟いていた。




 天幕から少し離れて、ルークは一人歩いていた。峠道にはまばらに木が生えている。その根元近くに見知った人影が見えて足を止めた。

 立っていたのはティアだ。胸に何かを抱いているようだが、それを覗き込む顔は穏やかに微笑んでいて、頬は微かに赤味を帯びている。思わず見入っていると、気配に気付いたのか、彼女は顔色を変えて振り向いた。

「――誰!? ……ルーク」

 たちまち、ティアはばつの悪そうな顔になる。見れば、彼女が抱いているのは青い毛並みで長い耳を揺らした小動物だ。近付いて「なんだそれ」と訊ねると、「チーグルよ」と答えが返った。

「チーグル?」

「始祖ユリアに第七音素セブンスフォニムの扱い方を教えたとされる、ローレライ教団の聖獣よ。ルグニカ大陸北部の森に棲むと言われているわね」

「それが、何でこんなところをウロついてるんだよ」

「さあ……。さっきそこで見つけたの。群れからはぐれたのかもしれない」

 そう言うティアの腕の中から、青いチーグルはまん丸な目をくりくりとさせて細い声で鳴いている。ルークの眉間にじわりと皺が寄った。

「……なんかコイツ、ムカつくぞ」

「そんなことないわ。可愛いじゃない」

「みゅう、みゅみゅう〜〜」

「くぁーーーっ!! イライラする。みゅーみゅー鳴・く・な!」

 髪の毛をかきむしって喚くと、「怒鳴るのはやめて。この仔が怖がるでしょ」と、ティアは身を背けた。「大丈夫よ。怖くないからね」と腕の中のチーグルに優しく話しかけている様子を見て、ルークはぶすりとして呟く。

「ふーん……。お前でも笑うことってあるんだな」

「……失礼な人ね」

 今度はティアが憮然とした顔になった。

「だってそうだろ。いっつもムスッとした顔しやがって。気分悪ぃっつーの!」

「あなたに言われたくないわ!」

 怒鳴り合いはじめた二人に、天幕の方から近付いてきた人影が笑って声を掛けた。

「ははは。相変わらず、二人は仲がいいな」

 ガイだ。背後には数人を連れている。だが、二人に揃って睨まれて、笑顔のまま引きつって半歩後ずさった。

「冗談よせよ、ガイ。こんな女と仲いい訳ねぇだろ」

「それはこっちの台詞よ」

「なんだと!?」

「なによ!」

「まあまあ……。お二人とも、落ち着いてください」

 ガイの隣から微笑んでイオンが言う。その体を軽く押し退けて、「あ!」と叫ぶと、小さな人影が駆け寄ってきた。

「こんなところにいた」

 そう言ってティアの腕の中のチーグルに手を伸ばす。八歳ほどの男の子だ。俄かに、チーグルがジタバタともがくようにした。

「なんだ、このガキ」

「どうして子供がこんな所に……」

「すみません、そいつは自分の息子です」

 目を瞬かせるルークとティアに向かい、ガイの後ろから鉱夫が口を開いてくる。確か、パイロープという名前だったか。「おいジョン、そちらの方はキムラスカの親善大使様だ。挨拶しなさい」と言いつけると、子供はチーグルに伸ばしていた手を止めてルークを見上げ、「こんにちは」と頭を下げた。

「自分はアクゼリュスへは出稼ぎで来てましてね。女房と子供はエンゲーブに住んでるんですが、たまたま息子が遊びに来た日に地震が起きちまって。障気は噴き出すし、街道の橋は壊れて使えないし、息子を帰すに帰せなくて、ほとほと困ってたんでさぁ。こうしてキムラスカ側の道を使わせてもらえて、本当に感謝してます」

「ん、ああ………んぶっ!?」

 真っ直ぐな感謝の目を向けられて、どこか落ち着かなげに片手で頭を掻いていたルークは、唐突に暖かいものに顔面を覆われて息を詰まらせた。チーグルだ。ティアの腕から抜け出してルークの顔をよじ登ろうとするそれに、ジョンが懸命に手を伸ばしている。

「なにしやがる、こいつ!」「み゛ゅっ!!」

 顔面から引き剥がすと、ルークはそれを地面に叩き落として踏みつけた。

「ルーク! ひどいわ。可哀相じゃない」

「うっせー!!」

 怒鳴り返しながら、ルークは踏みつけたチーグルをぐりぐりと踏みにじっている。

「まあまあ、落ち着けよ二人とも……」

 苦笑いしながらガイが近付いてきて、ぐりぐりの刑から解放されたチーグルを覗き込んだ。ぱっと顔をほころばせる。

「やっぱりミュウか!」

「ミュウ?」

 眉根を寄せたルークに、ガイは繕うような笑みを向けた。

「あ、いや。みゅうみゅう鳴いてただろ。だからな」

「なんだそれ。お前のネーミングセンスって、ちょっと安易じゃね?」

「そんなことないわ。可愛い……♥」

「は? 今なんつった、ティア」

「な、なんでもないわ」

 頬を赤らめてティアはそっぽを向く。

「ふーん……。いいけどよ。名前を付けるってんなら、こいつはブタザルだろ」

「やっぱりそう来るのか……」

 人知れず呟いたガイだった。再び言い争いはじめたルークとティアの様子を、どこか懐かしげに見つめる。

「ブタザルって……。あんまりじゃない!」

「うっせーな!! こんなちっこくて変な奴、ブタザルで充分なんだよ。大体こいつ、どっから見てもブタザルって感じだろ」

「ケンカはやめて下さい……。そのチーグルは、エンゲーブで捕獲されたそうなんです」

 雰囲気を変えるようにイオンが言った。

「僕とジェイドたちはピオニー陛下の親書を受け取るためにエンゲーブに滞在したんですが、その時、ちょうど村の食料が盗まれる事件が発生していました。気になったので調べてみたんですが……どうやら、近くの森に棲むチーグルの仕業だったみたいで」

「じゃ、こいつが盗んでたってのか」

 そう言うルークの前で、ジョンがチーグルを捕まえている。それは長い耳を掴んで持ち上げるというやり方で、チーグルはジタバタともがいていた。

「どうでしょう。チーグルは本来草食で、人間の食べ物を盗むはずがないんです。それに、チーグルは教団の聖獣でもあります。放っておけないと思ったので、僕はチーグルの森へ行ってみたんですが……」

「導師イオン! まさかお一人で? 危険です!」

 顔色を変えたティアに、イオンはばつが悪そうな笑みを返す。

「ええ。アニスとジェイドが追いかけてきてくれて。散々叱られました。チーグルの森には何故かライガが大量発生していて、結局、僕はチーグルには会えなかったんです。……僕たちが村を立ち去った後で、このチーグルは村の近くに倒れていたのを発見されたそうです」

「こいつが犯人だろうってことになったそうですが、なにせ聖獣ですからね。殺すわけにもいかないってんで村の連中も困り果てて、ウチのガキが飼うことになったらしくて」

 パイロープがイオンの言葉の後を継いだ。

「父ちゃんに、こいつを見せてやろうって思ったんだよ」

 ジョンが言う。「そうか……」と呟いて、ガイはしゃがんだまま、子供の手にぶら下げられたチーグルを指で撫でた。「みゅう、みゅうう」とくすぐったそうに鳴くそれに、「ソーサラーリングがあれば話せたんだがなぁ……」と残念そうに呟く。

「ソーサラーリング? 譜術の訓練に使う響律符キャパシティコアのこと?」

「そういえば、ユリアはソーサラーリングを用いてチーグルと言葉を交わしたと聞いたことがあります」

 ティアとイオンが言い、「お前も変なこと知ってるよなー」とガイに言いながら、ルークは腰を屈めてチーグルを見やった。

「ふーん……。こいつと言葉をねぇ……」

「ソーサラーリング……」

 一方で、パイロープは顎に手を当てて考え込んでいる。

「おいジョン、この間、父ちゃんに腕輪型の響律符をくれたよなぁ。あれは……」

「うん。このチーグルを見つけた時に拾った奴だよ」

「それだ! それはどこにあるんですか?」

 立ち上がってガイは訊ねた。だがパイロープはハタと気付いた顔をしてポケットなどを探り、考え込んでいる。

「いや、それがどうも……。ここ最近の騒ぎでなくしちまったみたいで」

 すみません、と苦笑いする男を見やって、「そうですか……」とガイは僅かに肩を落とした。その様子を眺めていたルークは、吹き込んできた風に目をすがめる。見れば、峠から見渡せる空はそろそろ茜に染まろうとしていた。

「もう夕方か……」

「そうですね」

 呟きに応えるイオンの向こうで、チーグルを持ったジョンがパイロープに訴えている。

「父ちゃーん。おいら腹が減ったよ」

「そうか。軍人さんたちが飯の支度をしてくれていたぞ。――それじゃ、自分たちはこれで」

 父子は連れ立って歩いていく。

「……」

 仲睦まじげな背中を暫く見送ってから、ルークは組んだ両手を後頭部に当てて「あーあ。俺も戻るか」と背を伸ばした。

「ガイ、行こうぜ」

「ああ」

 ガイのいらえを聞きながら、ルークはふとイオンに目を向ける。

「イオン、お前も戻れよ。風が冷たくなってきたからな」

 華奢な少年は、そう言われると花のように微笑んだ。

「ありがとうございます。ルークは優しいですね」

「――は!? な、なな何いきなりワケ分かんねーこと言ってんだよ!」

 あたかも沸騰したかのごとく、一気にルークは赤くなる。ティアは少しばかり呆気に取られてそれを見つめた。

「俺はただ、お前がなんか弱っちいから。すーぐ真っ青になるし、導師なんつっても役に立たねぇし、また倒れられたら迷惑だろっ」

「ルーク、そんな言い方はひどいわ」

「はは。ルークは素直じゃないよな」

 ティアが眉を吊り上げたが、ガイは笑いをこぼしていた。

「僕の体のことを心配してくれているんですか。嬉しいです」

「違うっつーの! ガイまでアホなこと言ってんじゃねー!」

 イオンは微笑み、ルークは噛み付きそうな勢いでガイに向かう。しかし笑顔で「ルーク」と呼ばれると「う……」と赤い顔で口ごもった。

「と、とにかくっ。もう行くぞ!」

「はい、ルーク」

 白い上着の裾をなびかせ、背を向けて歩き出したルークの後を、やや小走りにイオンが付いて行く。チラリと後ろを見て、ルークはむすりとした顔のまま少し歩を緩めた。

「ガイ」

 彼らの後に続こうとしたガイを、ティアが呼び止める。振り向けば、彼女は腕を組んでじっとこちらを見据えていた。

「なんだい、ティア」

「こんなことを私が言っていいのかは分からないけれど……。あなた、ルークを甘やかしすぎだと思うわ」

 直裁にティアは言った。晴れた冬空のように澄んだ瞳に見つめられて、ガイは押し黙る。

「ルークが記憶に障害を持っていて、最近まで軟禁されていたということは兄から聞いたわ。でも、彼は十七歳でしょう。相応の分別はつけているべきだと思う。もう外の世界に出ているんだもの。

 ルークはあなたに甘えすぎてるし、頼りすぎてる。あなたがルークを大事にしているのは分かるけれど……。あれじゃまるきり小さな子供よ。このままだと、いつかルークは……」

「子供なんだよ。本当にさ」

「え?」

 口元を僅かに歪めて笑ったガイを、ティアは怪訝な目で見つめた。ガイは目を伏せて呟いている。

「ずっと昔、俺は一度あいつを突き放した。それがあいつのためだと思ったし、今でもそれが間違っていたとは思わない。……だがな」

 

 ――最初から。あんな結末になるのだと知っていたのなら。

 

「後悔したんだ」

「……」

「あんな思いは、二度としたくない。俺はあいつを護ってやりたい。幸せにしてやりたいんだよ。――今度こそ、絶対に」

「ガイ、あなた……」

 何か言いかけてティアは口を閉ざし、沈黙が落ちた。

 いつしか太陽は熟して落ち、辺りは夜のとばりに包まれ始めている。

 遠くから、パタパタと駆けて来る足音が聞こえた。

「あっ、ティアー! それにガイもっ」

 ティアに手を振り、ガイにはしかめっ面を向けて、背に不気味可愛いヌイグルミを負った少女が足を止める。

「アニス。どうしたの」

「二人とも、イオン様を知らない?」

 波を持った黒いツインテールを揺らし、伸び上がってアニスは訊ねた。

「導師イオン? 少し前にルークと一緒に天幕の方に戻ったはずよ」

「えー? だっていないんだもん。イオン様も、ルークも」

「おかしいわね……」

「んもー。暗くなったのに、イオン様ってばどこ行っちゃったんだろ。主席総長までいないし」

 両腰に手を当ててアニスは頬を膨らませている。一方で、ガイが愕然と目を見開いていた。

「ヴァンがいない……!?」

「ガイ?」

「まさか、あいつ……。くそっ! 今からやる気なのか!」

 怪訝な目でティアとアニスが見ている。それにもまるで気付かずに、ガイは己の失態を呪いながら歯を噛み締めていた。

「ルーク……!」








 障気に覆われたアクゼリュスは暗い。日が落ちているのだから尚更だ。

「なあ師匠せんせい。どこまで行くんだよ」

 迷いなく進むヴァンの後に、イオンと共に付いて歩きながら、ルークが僅かに不安を滲ませた声で問うた。

「もうすぐだ」

 天幕に戻りかけたところで、ヴァンに声をかけられた。どうしてもルークとイオンの力が必要なことがある、一緒にアクゼリュスまで来て欲しいと。大好きな師に強く依頼され、一も二もなく付いてきてしまったが……。

 灯り一つない街は気味が悪い。残骸のような街並みを抜けて坑道に入ると、ヴァンが音素フォニム灯に譜力を注いだ。おかげで、どうにか周囲が見える程度にはマシになったが。

「ルーク。どうした、怖いのか?」

 幾分笑いを含んだ声で言われ、ルークは「そ、そんなことねーよ」と反射的に言い返す。

「ふふ。頼もしいことだな」

「ちぇっ」

 少しむくれた顔をしてみせてから、ルークはもう一度ヴァンに訊ねた。

「師匠、俺とイオンの力が必要って……何をすればいいんですか?」

 ヴァンが足を止める。

「ルーク。お前は、バチカルを出立する際に聞かされたユリアの預言スコアについて覚えているか」

「え? あ、あの……。俺がアクゼリュスに行ってキムラスカに繁栄をもたらす、っていう」

「そうだ。だが、あの預言には続きがある。……聖なる焔の光はキムラスカの武器としてアクゼリュスへ向かい、それが原因となってルグニカの大地に戦乱が起きる、とな」

「え……?」

 碧の目を見開いたルークを、ヴァンは強い瞳で見据えた。イオンが口を挟む。

「ヴァン。それはもしや……秘預言クローズドスコアでは」

「はい」

「秘預言?」

「教団の機密事項です」

 イオンはルークに答えた。

「ユリアの預言のうち、滅亡と死に関する部分は、一般の人と、教団の詠師職より下には伏せられているんです。人は死の預言の前では冷静でいられませんから……」

「イオン様は、秘預言の内容はご存知ありませんでしたな」

「は、はい……。恥ずかしながら」

 イオンは顔を俯かせる。ヴァンは視線をルークに戻して言った。

「ルーク。お前に超振動という特殊な力が備わっている事は、公爵が話していただろう。

 アクゼリュスを救えばお前とガイを自由にすると、国王と公爵は約束したが、そんなことはありえない。生涯、お前は兵器としてキムラスカに飼い殺しにされる。七年間、屋敷に軟禁されていたのはそのためだ」

「な……何言ってるんだよ、師匠。そんな……」

 ルークはヴァンを見上げてぎこちなく笑った。だが、僅かな明かりの中の彼の表情が揺らがないのを見て取って、高く声を上げる。

「嘘だ! だって父上も伯父上も……約束したんだ! 俺と。俺がアクゼリュスの奴らを助けて、マルクトと平和条約を結んで、そうしたら、お前は自由だって」

 だが、やはりヴァンの表情は揺らがなかった。ルークの瞳に絶望と哀しみが浮かび、顔を俯けて肩を震わせる。その肩に、ヴァンの大きな手が置かれた。

「お前はこのままでは自由になれない。……だが、方法はある」

「師匠……?」

「お前の超振動で、この都市を覆っている障気を消すのだ。それは、お前以外の誰にも出来ない。成し遂げたなら、お前はキムラスカ、マルクト双方の英雄になる。少なくとも、理不尽な軟禁からは解放されるだろう」

「で、でも……。俺、どうやって超振動を使えばいいのか分からないし」

「心配は要らない。私が補佐をする。障気を消し、その上でダアトへ亡命するのだ」

「ダアト……。師匠のところへ?」

「そうだ。無論、ガイも一緒にな」

 そう言い、ヴァンはイオンに確かめる。

「イオン様。ルークをダアトに受け入れていただけますでしょうな」

「それは……。ルークが望むのなら、僕に異存はありません」

 二人の声を聞きながら、ゆっくりと、ルークの顔に希望が広がっていった。

(自由になれる。それに、ガイや師匠とずっと一緒だ)

「分かった。俺……やってみるよ!」

 ルークは言い、ヴァンは微笑って頷いた。イオンに視線を向ける。

「そのためには、イオン様にもご助力願わねばなりません。……あれを」

 ヴァンは奥を指し示す。そこには、光り輝く奇妙な扉があった。まるで地に突き立てられた剣のような文様の描かれた。

「あれは……シュレーの丘にあったのと同じ、ダアト式封咒。ではここもセフィロトなのですね」

 ルークには意味不明なことをイオンが言う。ヴァンを見上げて険しい顔をした。

「ですが、一体……。あれを解呪しても無意味でしょう」

 だが、ヴァンは口の端を上げて笑う。

「いいえ。あの扉の奥へ行くことこそが、『ルーク』を……キムラスカから、そして預言スコアから解放するために必要なのですよ」

 それは小さな笑みだ。しかし――どこか獰猛な印象を与える表情だった。まるで、獲物を捕らえた獣のような。




 ガイは闇に包まれた峠道を駆けている。その背中を、ティアとアニスが懸命に追っていた。

「もーっ! ガイってば、足速すぎ!」

「ガイ! イオン様とルークと……兄さんが、どうしたって言うの!?」

 走りながらアニスとティアが叫んでいるが、ガイは立ち止まらない。



 アニスにヴァンとルークとイオンがいないと聞かされるなり、ガイはアクゼリュスへの峠道を走り出していた。「すぐに、ここからカイツールまでみんなを移動させてくれ!」と叫び置いてから。

「え!? えーっ、ちょっと待ってよ」

 アニスが困惑して呼び止める。そこに、「どうしたんです。イオン様はいたんですか」と、ジェイドが歩いて来た。その声を聞いて、峠道を降りかけていたガイは立ち止まり、振り仰いでくる。

「旦那。今すぐ全員を連れてカイツールまで移動してくれ」

「……どういうことです?」

「今は詳しく話している暇はない。だが……このままだと、アクゼリュスを中心として、下手をすればこのフーブラス川付近一帯が崩落する」

 そう言い、ガイは「いや、そんなことをさせはしないが」と呟いていた。そして、背を向けて今度こそ脇目をふらずに走り出す。

「ガイ、待って! 崩落って……兄さんに関係あることなの!?」

「イオン様もアクゼリュスにいるってこと? だったら私も行く!」

 ティアとアニスも後を追って走り出した。闇の中に三人の姿はすぐに呑まれ、少し離れた場所にいたナタリアがジェイドに歩み寄ってくる。

「どういうことですの?」

「……今すぐ、全員をカイツールへ移動させましょう」

「大佐?」

「ここまでの旅の間だけの付き合いですが、ガイは、少なくとも妄言を吐く類の男ではありません。この一帯が崩落する可能性があるのなら、避難しておいた方がいい」

 背を向けると、ジェイドは足早に天幕へ向かっていく。戸惑いながらも、ナタリアもその後に従った。




 闇の中から、不意に光弾が放たれた。それはガイの足元で跳ね、光となって砕け散る。

 立ち止まって見上げた低い崖の上に、細いルナに照らされて一人の女が立っていた。長い金髪を結い、黒衣をまとって、二挺の譜銃を構えている。

「リグレット教官!?」

「げ。六神将の魔弾のリグレット!?」

 ティアが叫び、アニスが言った。「教官、どうしてここに」と重ねてティアが訊ねる。その疑問に直接は答えずに、リグレットは氷の瞳で教え子を見下ろして口を開いた。

「ティア。ここから先へ行ってはならない。引き返しなさい」

「どういうことですか。まさか……兄に、関係があるんですか? 兄は本当に、何か恐ろしいことを……」

「答える義務はない。ただ、ここから先へ行かせるわけにはいかないというだけだ」

 そう告げたリグレットは、不意にはっとして一方に顔を向け、体を動かした。だが間に合わず、ストールと右の二の腕が切り裂かれる。

「くっ……。油断したか」

 腕を押さえて悔しげに睨んだ先には、細身の剣を抜き放っているガイの姿があった。――魔神剣。剣から衝撃を飛ばす特技だ。

「悪いが、今はあんたに構っている暇はないんでね。さっさと済ませて先へ行かせてもらうぜ」

「……もう一人のホドの生き残り、か。お前も通すなと、閣下に命じられている」

「そんな訳にはいかないね。ウチのルークを連れ戻さないといけないからな」

「フ……。あの『出来損ない』か。愚かだな。あんなものに執着したところで、何の意味も……」

 言いかけて、リグレットは口をつぐんだ。僅かな足場を使って身軽に崖を跳躍し、剣を振り上げたガイが目の前に迫ってきていたからだ。

 リグレットは左手の譜銃から連続して光弾を放つ。だがガイの剣はその間をすり抜けてきた。

「くっ!」

 両手の譜銃を交差させて、ガキン、と刃を受け止める。

「うぁあっ!!」

 しかし傷ついた右腕に力が入らず、押し負けて跳ね飛ばされた。膝をついた首元に、月光を弾く刃が突きつけられる。

「あんたはティアの教官だ。出来れば、『今度』は殺したくないが」

「……聞いていた以上の使い手だな。閣下も人がお悪い」

 リグレットは皮肉に唇を歪ませる。――その時。

「ガイ!」

 ティアが叫んだ。空を舞って、巨大な怪鳥が飛びかかってくる。その爪をガイは咄嗟に避けて崖下に飛び降りたが、リグレットはそれに掴まって天に舞い上がった。

「根暗ッタ! どうしてあんたがここに出てくるのよ!」

 空にはもう一羽、怪鳥が舞っている。その背に乗った淡い赤毛の少女を認めて、アニスが片手を振り上げて怒鳴った。

「アリエッタ、根暗じゃないモン! アニスのイジワルぅ!」

 泣きそうな顔でアリエッタはアニスに言い返してくる。リグレットの声が聞こえた。

「アリエッタ……すまないな」

「ううん……。シンクも、ケガ、してる。だからリグレットを呼びに来たの」

「何……。アッシュの足止めに失敗したということか」

「こぉらぁあー! 降りて来ぉい、根暗ッタぁー!!」

 アニスの怒鳴り声が聞こえ、アリエッタは再び眼下に顔を向ける。

「イオン様を勝手に連れ出して、アニスなんか、大ッキライ! イオン様は、返してもらうんだからぁ」

「! イオン様をどうしたの!?」

「イオン様は、総長が連れて来てくれる……。アニスなんかに、渡さない」

「あっ……。ちょっ、ちょっと待ちなさいよっ! 空飛んで逃げるなんて卑怯だろーが、ゴルァー!!」

 大きくしたヌイグルミの背に乗ってアニスは喚いていたが、空高く飛んでいくものを捕まえられるはずがなかった。二羽の怪鳥は見る間に遠ざかっていく。

「ティア……。悪い事は言わない。引き返しなさい。閣下は既に動いておられる。もはや、さいは投げられたのだから」

「教官……!」

 遠く聞こえたリグレットの声を聞いて、ティアが悲しげに眉を曇らせる。だが、間近でガイが「ヴァンデスデルカ……」と呟いたのを聞いて不審な顔になった。

「ガイ、あなた兄さんと何か関係が……兄さんの過去を知っているの?」

「……リグレットが言ってただろ。俺は、ホドの生き残りだ」

 ガイは言った。

「だから、俺は二度とあの惨劇を繰り返させる気はない。大地の崩落も、大事な人間を死なせるのも……もう、まっぴらなんだ!」

 背を向けて、ガイは再び走り始める。その後をアニスが追い、ティアもまた走り出した。




 光り輝く扉の向こうには、広大な空間が広がっていた。薄暗かった坑道とはまるで違い、昼のように明るかったが、どこが光源なのかは分からない。キラキラと輝く粒子が立ち昇る中を螺旋に通路が降っており、降り切ったところには巨大な音叉型の音機関がそびえていた。

「これは、パッセージリング……?」

 音機関を見上げて、イオンが呟いている。

「なんだよ、それ」

「教団の最高機密なのですが……。そうですね、ヴァンがここまで連れてきたのですから、お話してもいいのでしょう。この世界はセフィロトツリーと呼ばれる柱によって支えられているんです。パッセージリングは、その柱を……」

「ルーク。こちらへ」

 遮るようにヴァンの声が聞こえて、ルークは意識をヴァンに向けた。彼はパッセージリングのすぐ側に立っている。近付くと、両手をパッセージリンクへ向けて集中するように指示された。

「今まで教えてきた剣術の集中法と同じだ。呼吸を整えて無駄な力を抜け」

「はい、師匠せんせい

(超振動で障気を消す……。そうしたら、俺は自由になれるんだ。ガイと、師匠と、ずっと、ずっと一緒に……)

「私の声に耳を傾けて……そうだ」

 ヴァンの優しい声が耳に響く。頭の芯がじんわりと痺れていくような気がした。閉じたまぶたの裏の暗闇に、ぽつりと光が灯ったイメージが生まれる。――あれは、己の奥底の力だ。そこ目指して意識を降下させていく。

 

 ――……!

 

「……っ!?」

 刹那、何かの『声』が意識を通り抜けた気がして、ルークはぐらりと体を揺らめかせた。

「ルーク? どうした」

「い、いえ……。なんか、誰かが……」

 頭がズキズキと痛んでいる。はっきりとした言葉は聞こえなかったが、いつもの幻聴だったのだろうか。それとも、いつぞや船で体を操ってきた奴なのか? いずれにせよ、声ははっきりとは聞こえなかったが。

(『やめろ』って……言ってたような気がする)

「ルーク、気を散らさずに集中しなさい」

「は、はい」

 額を押さえていた手を伸ばして、もう一度ルークは意識を集中しようとした。――が。

「うわ!?」

 突然大地が揺れた。よろめきながら、「地震?」とイオンが言う。アクゼリュスが障気に覆われたのは最近起こった地震のせいだという話だったが、またなのか。

 バチカルでは、地震は滅多に起こったためしがない。次第に治まっていく揺れの中で全身を強張らせていたルークは、足元に高い音を立てて何かが落ちてきたのを見て、それを拾い上げた。

「……腕輪?」

 金色に輝く古めかしいデザインのそれを怪訝な顔で見つめる。が、上空から甲高い悲鳴のような声が聞こえてきて、そちらに顔を向けた。

「――みゅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!

「げ!?」

 青くて小さな生き物がくるくる回りながら落ちてくる。片手に腕輪を持ったまま、咄嗟に手を伸ばしてそれを受け止めた。

「みゅ……。みゅうぅ〜〜!」

 小さな生き物はルークの手の中で呆然としていたが、やがて大きな目でルークを見上げると、ふるふると震えて飛びついてくる。暖かいものにぎゅーっとしがみつかれて、ルークはうろたえて喚いた。

「な、なんだよ! お前、やっぱあのチーグル……? くっそ、なんでこいつがここにいるんだ。――ブタザル! いい加減離れろっつーの!!」

「――そこにいるのは誰だ?」

 一方で、ヴァンはパッセージリングの周囲を取り巻く螺旋の通路を見上げて、険しい表情を見せている。

「ご、ごめんなさい……」

 小さな声が聞こえて、通路の端からハンチング帽をかぶった幼い顔が覗いた。イオンが目を丸くする。

「ジョン!? あなたがどうしてこんなところに……」

 子供はうな垂れて通路を降りてきた。

「父ちゃんが、腕輪はアクゼリュスの家に忘れたんだろうって言ったから、取りに来たんだ。そしたら、兄ちゃんたちがここに入っていくのが見えたから……」

「それでここまで来たってのか? 馬っ鹿な奴だな! 魔物だっているんだ、あぶねーだろ!」

 ルークは子供を叱り付ける。イオンが取り成すように微笑んだ。

「でも、ここまで無事で何よりでした。――パイロープ殿は?」

「どうせ黙って来たに決まってんだろ。ったく……しゃーねぇなあ」

 大仰に息を吐いて、ルークは背後のヴァンに向き直った。

「師匠、今日はこれでやめにしようぜ。こいつを帰さないといけないし……。あんまり遅くなったらこいつの親父が心配するだろ」

「そうですね。僕もそれがいいと思います。住民の避難は完了しているのですし、障気の消去はもっと慎重に行った方がいい。万が一、パッセージリングの機能を停止させるようなことがあったら大変なことになってしまいますから」

「へ、そうなのか!?」

 口と目を丸くしてルークが言った、その刹那。ヒュッ、と銀光が走って、赤い色が迸った。

「え……?」

 呆然とルークは呟く。胸を朱に染めて崩れていく子供の姿を見ながら。

「ジョン! ――ヴァン、一体何をするのです」

「師匠……?」

 何が起こったのか。理解できない。信じられない。そんな思いで、ルークは誰よりも敬愛してきた師を見つめた。

 その視線を何恥じることなく受け止め、ヴァンは軽く剣を振るって血を刃から跳ね飛ばしている。

「余計なことをしてくれたものだ。こんな所にまで来なければ、今はまだ死なずに済んでいたものを」

「師匠!」

 叫ぶルークをヴァンは見据えた。先ほどまでとはまるで違う、ひどく冷たい瞳で。

「戻っている暇などないのだ、ルーク。そろそろ、あの方も追いついてくる頃合だろうからな」

「あの方……?」

「フ。お前もよく知っているだろう。なにしろ、この七年間、実質お前を育てたのは、あの方のようなものだからな」

「…………ガイ?」

 思い至った名を、ルークは呟く。

「なんで、師匠がガイのことを『あの方』なんて……」

「哀れなルーク。お前に真実を教えてやろう」

 ヴァンは言った。口元を厭な形に歪めて。

「あの方の真の名は、ガイラルディア・ガラン・ガルディオス。お前の父、ファブレ公爵が滅ぼした、マルクト帝国領ホドを治めるガルディオス伯爵家の嫡男だ」

「え………? ……だ、だって、ガイは……俺がガキの頃から、ずっと」

「そう。ずっと、お前を殺す機会を窺っていた」

「………」

「ルーク。お前は随分とガイを信頼しているようだが、その先にあるのは裏切りと死だけだ」

 ヴァンがゆっくりと歩み寄ってくる。両膝をついたルークを見下ろして、言葉を続けた。

「悔しくはないか? お前の父も、伯父も、お前を兵器として使い殺すために育てていた。預言スコアにそう詠まれていたからだ。……ホドが滅びたのもまた、な。

 全てが、二千年前のカビの生えた言葉に支配されている。お前はその哀れな生贄だ。……だが、私なら、お前が運命に一矢を報いる手助けをしてやれる」

 ルークは俯いている。ヴァンの言葉が強く響いた。

「超振動を使え、ルーク。お前の力で、この歪んだ世界を変えるのだ!」

 ヴァンの手が、ルークに伸ばされていく。

「――ルーク!!」

 ヴァンに触れられる直前に。響いた声が、ルークの全身をビクリと震わせた。螺旋の通路の上方、坑道からの入り口の辺りに、肩で息をしながら三人の男女が立ち並んでいる。

「アニス! それにガイとティアも」

 ぐったりとした子供を膝に抱えて、白い法衣を斑に赤く染めたイオンが、彼らを見上げて叫んだ。

「兄さん! どういうことなの。こんな所で、一体何を……!」

 叫ぶティアの傍らから、うずくまって動かないルークを見下ろしてガイは顔を歪める。

「ヴァン! ルークに何をした!」

「何を、とは心外ですな」

 ヴァンは声に笑みを含ませた。

「私は、コレを正しく使おうとしただけ。少なくとも、貴公にそれを責め立てる資格はありますまい。コレを殺すために側に控えていた、復讐者である貴公には」

「な……!? ヴァン、お前、今それを……」

 ティアとアニス、そしてイオンが驚いた顔でガイを見つめる。そしてルークもまた、うつ伏せていた顔を上げて見上げていた。ガイと目が合う。その瞳の中に確かな狼狽とやましさがあるのを見て取って、ルークの顔にゆっくりと絶望が広がっていった。

「あ……」

 唇から声が零れ落ちる。

「あ、あ……あぁあああぁああああっ!!!」

 頭を抱えるようにして際限なく叫ぶルークの身体が、淡い金色に輝いた。それは見る間に強さを増し、白光となって彼の全身を覆い尽くす。

「ルーク!」

「超振動の暴走か……ちょうどいい」

 ルークの身体から震動が発され、空気が波打って風が起こり始めていた。目をすがめてそれに耐え、ヴァンは笑みと共にその言葉をルークに落とす。

「さあ……力を解放するのだ。『愚かなレプリカルーク』」




「どうかなさいましたの?」

 集団から離れて行こうとする人影を認めて、ナタリアはそう声をかけていた。

 既に日が暮れてからの移動の再開は無体な指示ではあったが、キムラスカ王国の王女とマルクト帝国の皇帝の懐刀が揃って『移動しなければ危険だ』と告げたのだ。さほどの混乱も起こさずに峠を降り、今はカイツールの街を目前にして少し休憩を取っているところだ。病人や怪我人の大半は前日に搬送を済ませていたので、残りは屈強な鉱夫と軍人たちばかりだったのも幸いした。

 そんな中、一行からそっと離れて道を戻ろうとしている鉱夫がいる。近付いてみて、それが見知った顔であることにナタリアは気付いた。

「あら、あなたは……。確か、パイロープさんでしたわね」

「ああ、ナタリア殿下」

 がっしりとした身体の男が、幾分背を丸めるようにして少女に会釈を返してくる。

「どうしたんです。道を戻るのは危険ですよ」

 声を聞きつけたのか、ジェイドが歩み寄ってきた。

「そ、それが……。どうにも、戻らねぇとマズいんで」

「何か忘れ物でもしましたの?」

「ジョンが……息子がいないんでさぁ」

「息子さんが?」

 ジェイドが眉をひそめる。

「峠を出る時から姿が見えなかったんだが、他の連中に紛れてるんだとばっかり……。だが、探してもいねぇんです。あいつ、まだ峠にいるのかもしれねぇ」

「まあ……。それは心配ですわね」

「しかし、夜の峠は危険です。――私が行きましょう」

「では、わたくしも」

「いえ、あなたは残って、兵たちを……」

「……行くんじゃねぇ」

 不意に、幾分掠れた声が聞こえた。暗闇の中から、黒衣をまとった男が歩み出てくる。怪我をしているのか、その動きはどこかぎこちなかった。

「今、アクゼリュスの方へ近付くのは危険だ。……同調フォンスロットが上手く繋がりやがらねぇ。くそ、出来損ないが……」

「え……。ルー……ク?」

 ナタリアの声もまた、掠れる。離れた野営の焚き火の光に淡く浮かんだ、その男の顔を見て。

 今のルークは髪が短い。その男は腰まで伸ばしていた。

 だが、それを除けば驚くほどにそっくりで。瓜二つと言っていいほどだ。

「……七年ぶりだな、ナタリア」

 小さく男は呟く。ナタリアが目を瞬かせた一方で、ジェイドはじっと、この男を見下ろしていた。

「ヴァンの奴が、あの屑……ルークを使って、アクゼリュスを落とそうとしている。今近付けば、崩落に巻き込まれるぞ」

「崩落? それはどういうことなのですか。それに、あなたは一体……」

 ナタリアは混乱の声を上げる。静かにジェイドが言った。

「あなたは……。ルークの、オリジナルですね」

「オリジナル……?」

 呟くナタリアから視線をそらして、男は暫く押し黙った。やがて口を開く。

「俺は……」

 その時、轟音が起こった。振動が走り、大地が揺れる。

「あれは……!?」

 彼方の空を見やって、パイロープが狼狽の声をあげた。東の方角、アクゼリュスのある辺りに、巨大な光の柱が立ち昇っている。それを呆然と見るばかりのジェイドとナタリアの後ろで、黒衣の男が悔しげに吐き捨てた。

「くそっ……。止められなかったか!」




 ルークの身体から白光は発される。それがそびえ立つ巨大な音機関に触れると、削り取られたかのように一部が消失した。音機関の周囲で輝き回転していた譜陣が、フッと消える。

「いけない……、パッセージリングが!」

 イオンがそう叫んだ、直後に。

 轟音が走った。大地が凄まじい勢いで揺れる。ルークたちのいる辺りには亀裂が走り、パッセージリングの周囲はがくん、と一気に十数メートル陥没した。アニスがたたらを踏んで悲鳴を上げている。

「くそっ。アクゼリュスが崩落する!」

「そんな……」

 揺れをこらえながら、ガイの言葉を受けてティアは青ざめた。

「ようやく役に立ってくれたな。レプリカ」

「せんせ……い……?」

 ルークの体を包んでいた光は薄れて消えていた。冷たい声に、ルークはぼんやりと顔を向ける。体中が酷く重かった。揺れ続ける世界とは別に、頭の中も揺らいでいる気がして、くたりと床に突っ伏す。

 その時、周囲に走っていた亀裂が隆起した。床が傾ぎ、イオンと、彼の抱えていたジョンが投げ出される。

「イオン様っ!」

 叫んで、アニスが数メートルの落差を飛び降りてきた。ガイもそれに続き、ぐったりとしたルークに駆け寄ってくる。ヴァンは指笛を吹き、二頭の飛行魔物グリフィンを呼び寄せた。その一頭の背に飛び乗る。舞い上がった兄を見上げて、ティアが悲憤を込めて叫んだ。

「兄さん! やっぱり裏切ったのね! この外殻大地を存続させるって言っていたじゃない!」

「メシュティアリカ。お前にもいずれ分かる筈だ。この世の仕組みの愚かさと醜さが。それを見届けるためにも……お前には生きていて欲しい。お前には譜歌がある。それで……」

「イオン様!?」

 アニスが叫んでいる。目の前で、イオンを残る飛行魔物に掠め取られたのだ。

 ヴァンが軽く片手を振ると、二頭の魔物は翼を鳴らして飛び去っていった。残されたルークたちの周囲は、いよいよ揺れを激しくしている。

「う……うぅ……父ちゃん……」

 抱き起こされ、力なくガイの肩に支えられていたルークは、小さな声に気付いて重いまぶたを上げた。傾いだ床の端に投げ出されていたジョンが、薄く目を開けて呻いている。

「父ちゃん……痛いよぅ……。母ちゃん……。助けて……」

 子供は、ズルズルと滑って奈落の底へ消えていこうとしていた。イオンの消えた後を見ていたアニスが気付いて、駆け寄ろうとしたが。

 一際激しい音を立てて周囲が揺れる。床の端が崩れ落ち、ジョンの姿は一瞬で奈落の底に消えた。

「あ……!」

 力の入らない手を、ルークは伸ばそうとする。しかし指先一つ動かせず、僅かに浮かんでいた意識は泥に沈んだ。

「いけない……。このままじゃ、崩落に巻き込まれるわ。――私の側へ!」

 ティアも飛び降りてきて、杖を構えた。フォンスロットから音素フォニムを取り込み、旋律を舌に載せる。

(この旋律はまだ完全には理解できていないけれど……。成功させるしかない!)

 堅固たる護り手の調べ。

 第二音素譜歌フォースフィールドを歌った彼女の周囲に、球状の結界が発生した。その中に、青いチーグルを抱きかかえたアニスと、ルークを支えたガイが駆け込む。

 轟音と崩壊は続き、辺りは粉々に砕け、陥没して消えて行った。






06/10/24 すわさき


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