低く唸るような駆動音が聞こえる。恐らく、あれは譜業装置の響きだ。巨大な陸艦を動かす音機関。

 近付いてきた足音が立ち止まり、音を立てて扉が開いた。その動きに淀みはない。扉に鍵はかけられていないのだ。そんなことをせずとも逃げ出せはしないと踏んでいるのだろうし、悔しいが、それは事実だった。――そもそも、自分にここを抜け出せるだけの体力があるのなら、扉に鍵がかかっていようとも無意味なのだから。鍵どころか、扉や壁を破壊してしまえるだけの譜力を自分は持っている。……譜力だけは。

「目が覚めましたか」

 入って来た長身の男は、そう言うと薄く笑った。片手に掛けていた白い衣服を部屋の中央の四角い卓に置く。

「着替えるといい。『導師』にいつまでもそんな格好をさせてはおけませんからな」

「ヴァン……」

 男の名を呟いて、イオンは無意識に己の法衣の裾を握った。

 一見では簡素にも見えるそれは、白い糸で細かな刺繍が施され、光の加減でそれが浮き上がって見える上質なものだ。だが今は、飛び散った赤黒い染みがそれを台無しにしていた。

「ジョンは……彼はどうなったのです。それにルークやアニス、ティアとガイも。彼らは無事なのですか」

「さて」

「ヴァン!」

「ユリアシティから報告が来ています。ティアとガイ、導師守護役フォンマスターガーディアン。そしてあの『出来損ない』は、無事シティに収容されたと」

「……」

 イオンは僅かに目を伏せる。アニスたちが助かっていることは喜ばしかったが、恐れていた通り、数え上げられた中にあの子供の名はなかった。――剣で斬られ、飛び散らせた血でイオンの法衣を染めた、あのジョンという少年の名は。

「何故あんなことを……」

「アクゼリュスは元々崩落する定めでした」

秘預言クローズドスコア……」

 眉を曇らせたイオンの前で、ヴァンは朗々とその言葉を唱える。

「『ND2018。ローレライの力を継ぐ若者、人々を引き連れ鉱山の街へと向かう。そこで若者は力を災いとし、キムラスカの武器となって街と共に消滅す。しかる後にルグニカの大地は戦乱に包まれ、マルクトは領土を失うだろう。結果キムラスカ・ランバルディアは栄え、それが未曾有の大繁栄の第一歩となる』……」

「だからルークを騙し、迷い込んできたジョンを斬ったと言うのですか。ですがヴァン、あなたは以前、僕に教えてくれたはすです。預言スコアは盲従すべきものではないと。預言は、生きる上での指針の一つに過ぎない。預言に縛られて街を破壊し、人の命を奪うなど、あってはなりません」

「そう。『お前』は預言の呪縛から解き放たれている。――レプリカ」

 ガラリとヴァンの口調が変わった。ハッとしてイオンは口をつぐむ。

「しかし、この世界に生きる人間の大半はそうではない。預言通りに生き、預言通りに死ぬ。それに何の疑問も抱かぬ者が殆どだ。教団の上層部やユリアシティの人間に至っては、預言通りに人類の歴史を運ぶことにこそ存在意義を見出し、己を監視者と呼んでいる始末」

 ふ、とヴァンは口元を歪めた。

「愚かしい。そうは思わぬか」

 イオンは困惑する。この男こそ、監視者として預言通りに歴史を運ぶためにアクゼリュスを崩落させたのではなかったのだろうか。――預言に名を詠まれていたあの赤い髪の少年を騙し、その力を利用してまでも……。

「……ヴァン。あなたはあの時呼んでいましたね。ルークのことを、『愚かなレプリカルーク』と。まさか、ルークは僕と同じ……」

「アレはもはや用済みだ。生き延びたのは想定外だったが、キムラスカと監視者たちの目を眩ます当座の役には立ってくれた。だが、『お前』は違う」

 歪んだ笑みを浮かべたまま、ヴァンはイオンを見た。

「お前にはこれから役立ってもらう。そのために、二年前に死んだ導師イオンを模してお前を作ったのだからな。――『七番目のレプリカイオン』」

「……」

 イオンが唇を噛んだとき、パタパタと軽い足音が聞こえてきた。「来たようだな」とヴァンが笑い、すぐに戸口に淡い朱の髪を垂らした少女が現われる。少女はヴァンに気付くと、不細工なヌイグルミを抱く腕に僅かに力を込めたが、彼が笑っているのを見ておずおずと中に入って来た。

「ヴァン総長。あ、あの。イオン様……」

「アリエッタ。これから暫くはお前にイオン様の世話を任せる」

 ヴァンは穏やかな口調で告げる。「元・導師守護役フォンマスターガーディアンのお前が最も適任だろうからな」と言われて、少女は笑顔を輝かせた。

「うん! アリエッタ、頑張る。もう絶対、アニスなんかに連れて行かせないモン」

「ヴァン……!」

 非難するような目を向けたイオンにヴァンは言った。

「御身お大事に。……でなければ、アリエッタが悲しむことでしょう」

「……」

 イオンは口をつぐむ。自分は二年もの間、この無邪気な少女を欺き続けている。だが……だからこそ、今以上に傷つけたくはないのだ。――そんなことも、ヴァンはよく承知しているのだろう。

「三時間後に次のセフィロトに到着します。少し歩いていただくことになる。今のうちに体を休めておいて下さい。――頼んだぞ、アリエッタ」

「はい!」

 笑うアリエッタを見ながら、イオンはただ押し黙っていることしか出来なかった。








 譜業の光に彩られた街角は、どこか夢幻の光景のようだ。金属の光沢を持った床。それと一体化し、緩やかな曲線を描きながら伸びている柱。それらが手を結び合った天井はガラスのような透き通った殻で覆われ、しかしその向こうに見える空には太陽レムはなくルナもなく、どろりと紫に淀んで時折雷光を放っている。あれは障気だ。アクゼリュスに噴き出していたものとは比べ物にならないほど濃密な毒の霧。

「あーあ。朝も昼も夜も障気で曇り。もう七日もお日様見てないよ〜。魔界クリフォトって空の色はヤバめだし外は障気だらけだし、このままじゃアニスちゃんどうにかなっちゃう。早く外殻大地に帰りた〜い」

 中央監視施設と居住区を繋ぐ通路の片隅で、手すりに寄りかかってアニスは大きく息を落とした。

 魔界クリフォト。それがこの世界の名前だ。三万メートル高空に浮かんでいる外殻大地によって隠された、この星本来の地表。毒の大気と液状化した大地の上、ごく僅かな人間だけがドーム都市ユリアシティの中で息を潜めている、放棄された死の世界。

 周囲を歩いていく独特の長衣を着た市民たちからチラチラと視線が流れていたが、初めてこの都市に踏み込んだ日ほどひどくはない。彼らもこの闖入者たちに慣れてきているのだろう。

「なのに出口はユリアロードだけだって言うし、使うには詠師職以上の許可がいるって言うし、でも詠師テオドーロは許可をくれないし、そりゃイオン様を連れてったのは総長なんだから心配はいらないって言われたらそうかもしれないけど、私は導師守護役フォンマスターガーディアンだし、このままじゃモース様に叱られちゃうし、下手したらクビになっちゃうかもだし、パパとママは今日も騙されてそうだし、なんかもうグチャグチャぁ〜。ねぇ、ガイ。ガイ? ガイってば」

 何度か呼びかけてようやく、隣に立っていた青年は身じろぎしてこちらに視線を向けた。

「あ、ああ。悪い、ボーっとしてた。なんだい、アニス」

「ぶー。ガイは気にしすぎ。あんなお坊ちゃまのことなんて放っておけばいいのに」

「そんな訳にはいかないさ。……そうだな。アニスには怖い思いをさせることになっちまったから、済まないと思ってる」

 幾分陰を含んで青年は微笑う。唇を尖らせたまま、アニスは手すりに顎を乗せた。

「ガイのせいじゃないでしょ。アクゼリュスが崩落したのは――ルークがセフィロトツリーを消しちゃったせいだもん」

 二千年前、第七音譜術士セブンスフォニマーにして譜業科学者でもあったユリア・ジュエは、星の外殻をエネルギー柱で浮き上がらせるフロート計画を実行し、障気によって滅びに瀕していた世界を救った。その柱――セフィロトツリーを、己の持つ超振動の力で消滅させてしまったのはルークだ。

 三万メートルの高さからの崩落。それからアニスたちを救ったのはティアの詠った譜歌だった。実は彼女はユリア・ジュエの子孫であり、ユリアシティの出身なのだと、アニスは後になって聞いた。ティアが祖先から引き継いだ力のおかげで崩落からは護られたが、そこまでだ。濃密な障気と、それを含んだ泥の海。その中に佇んで、アニスたちは狭い陸地が端から砕けて泥に呑まれていく様を眺めているよりなかった。その恐ろしい時間は一昼夜ほど続いただろうか。ユリアシティからの調査船が訪れなかったら、今頃、全員が泥に沈んでいたことだろう。

 紫の薄闇の中でじりじりと死を待ち続ける、その恐ろしい時間を、元凶であるはずのルークは知らない。彼はずっと気を失ったままだった。目を覚ましたのは調査船の上で、起きた事実と世界の構造について一通りの説明を受けた後、彼はまずこう言ったのだ。

『俺のせいじゃねぇ! 俺は……俺は、悪くないぞ!』

「確かにわざとやった訳じゃないんだろうし、本当に悪いのはそそのかした総長かもしれないけど。でも、ルークがツリーを消しちゃったのはホントのことでしょ。なのに、最初に言うことが『自分のせいじゃない』って、あんまり無責任すぎなんじゃーありませんかぁ?」

「そう言うなよ。あいつはまだ混乱してるんだ」

「そんなこと言って、もう三日も引きこもってるし。そんな風にガイが甘やかしすぎたから、あんな自己中でひ弱なお坊ちゃまに育っちゃったんじゃないの〜?」

 尖ったアニスの声にガイが苦笑を返した時、呼び声が聞こえた。



「ご主人様ーーっ」

 甲高い、子供じみた声が聞こえる。

 薄く目を開けて顔を上げると、空調で緩く揺れる花々が目に入った。ここは金属の壁とガラスの屋根に囲まれた、人工物の隙間のような空間だ。だが床には厚く土が敷かれ、まるで自然の造作のように一面、白い花が咲き誇っている。こういう場所を『花畑』だと言うのだと、書いてあったのは絵本だったろうか図鑑だっただろうか。お決まりのように、いつか本物を見てみたいと言った。判で押したように声が返る。お前が大人になったら連れて行ってやるよ。同じような会話を何回繰り返したのか知れやしない。それほどまでに自分の周囲に『本物』は乏しく、真実からは遠ざけられていた。

 カサカサと掻き分ける音が近付いてきて、やがて大きく揺れた花の間から青い毛並みの小動物チーグルが飛び出してくる。

「ご主人様。ご飯の準備が出来たですの!」

「……いらねぇ」

「でもでも、ティアさんが一所懸命作ってくれたですの。とっても美味しそうですの」

 ボクもちょっとだけお手伝いしたですの、とチーグルは笑う。その明るさがむやみに癇に障って、「うぜーんだよお前!」とルークは声を荒げていた。

「こないだまでみゅーみゅーしか言えなかったくせにペラペラペラペラ妙な口調で喋りやがって」

「それはこのソーサラーリングのおかげですの」

 チーグルは腰に穿いて短い手で支えるようにしている金の腕輪を示す。

「これは一族の秘宝なんですの。森を出るとき、長老が持たせてくれたですの。これさえあれば人間ともお喋り出来るし、仔供のボクでも火を吐けるんですの」

「うぜーっつーの! 黙れ!」

「みゅうぅ」

「ミュウを怒鳴るのはやめて」

 少女の声が聞こえた。花を踏み分けて、長い灰褐色の髪を垂らした少女が歩いてくる。「ティアさん」と呼ぶチーグルの声を聞きながら、ルークは唇を引き結ぶと僅かに顔を背けた。

「食事……まだ食べないの?」

「……食わねぇ」

「でもあなた、ここに来てから殆ど何も食べていないじゃない。次の行動に備えるためにも、食事はきちんと摂るべきだわ。身体にも良くないし、それに……」

 保護者めいた物言いが誰かを思い出させて、瞬間、血が沸騰する。

「うるっせー! ほっとけよ! 俺のことなんて!」

「ルーク……」

「お前だって、ホントは俺のことなんてどーでもいいんだろ! 馬鹿な奴だって、内心で見下して笑ってるんだ。そうだよな。俺は馬鹿だよ。父上にも、伯父上にも、師匠せんせいにも、ガイにも。みんなに騙されて! 死ねばいい、って思われてたのに何にも気付いてなくて!」

 ティアは、何か苦いものを飲んだような顔をした。しばらくの間押し黙り、やがて目を上げると口を開く。

「……そうね。あなたは馬鹿だわ」

「なんだと!?」

「自分でそう言ったんでしょう? 何も見ていない、考えようともしない。ガイが何度もあなたと話をしようとしたのに跳ね除けて、そうしてうずくまって。甘えて拗ねるばかりの子供だわ!」

「な……なんだよ。俺が悪いって言うのか?」

 瞳を揺らして、「アクゼリュスを落としたのが俺だからって……」とルークは呻いた。

「だけど。俺を騙したのは、師匠だろ。俺を裏切ったのは、ガイだろ。悪いのは師匠だ。ガイだ。父上や伯父上だ。俺のせいじゃねぇ。俺は悪くない。俺は何も知らなかった!」

「……分かったわ。だったら、あなたはそこでずっと膝を抱えていればいい」

 ティアの声音がスッと低くなる。背を向けて自室に続くスロープへ歩いて行った。なす術もなくそれを見送って、ルークは「くそっ……!」と、ただ悪態を吐く。

「ご主人様……」

 小さな声が聞こえた。

「っ……。まだいたのかよ、ブタザル。お前も、さっさとあの冷血女の所に行けばいいだろ」

「みゅう……。ティアさんは冷血じゃないですの。優しい人ですの」

「あの冷血女のどこが優しいんだよ」

 ぶすりとルークは表情を腐らせたが、ミュウは笑う。

「ボクのご飯もご主人様のご飯も作ってくれたですの」

「メシ作ってりゃ優しいのかよ。いっつも無愛想な顔して、ご立派な理屈ばっかり並べやがって。優しいとか、あいつがそんな殊勝な訳ねぇだろ。心臓まで石か何かで出来てんじゃねーのか」

「でも、ご主人様……」

「え……?」

 ミュウの言葉を聞いて、ルークは碧い目を緩く見開いた。



 キッチンの狭いテーブルに着いて、ティアは組んだ両手を額に当てている。

「どうして……」

 呟きが唇から落ち、手の下で眉根を寄せてきゅっと目を閉じた。

「兄さん……」

 ガタリ、と靴の踵で硬い床を踏む音が聞こえて、ティアはハッと目を上げた。戸口に現われていた赤毛の少年を認めて目を瞠り、慌てて立ち上がって取り繕った笑みを浮かべる。

「ルーク。食べる気になったのね。待って、すぐに暖め直すから」

「あ、いや……」

 曖昧な表情でルークは何かを言いかけたが、ティアに不思議そうな顔を向けられると、観念したように頷いて椅子に座った。やがて出されたスープ皿の中を見て目を瞬かせる。

「……随分と豪快な料理だな」

「そ、そう?」

 恥ずかしそうな顔になったティアの前で、やたらと大きな具を掬うと口に運んだ。

「ん……。まぁ、味はウマイ」

「よかったわ」

 ホッとしたように微笑んだ様を見て、ルークは何故か慌てたような顔をする。「ガ、ガイには負けるけどな!」と言って、ハッとしたように口を押さえた。

「ガイも料理をするの?」

…………家出した時。何度か作ってくれた……

 返ったルークの声はくぐもって小さい。ティアは少し話題をそらすようにした。

「そう。……私の料理はね、兄さん直伝なの」

師匠せんせいの?」

 ポカンとして見返したルークに「ええ」と頷く。

「料理だけじゃない。裁縫も、掃除も、洗濯の仕方も兄さんに教わったわ。私たちには両親がいない。二人きりの兄妹だったから……」

「え? だけど、お前……」

「そうね。私たちにはちゃんと、養って下さったテオドーロお祖父様がいる。でも血は繋がっていないの。私と兄さんは……元々、ホドの民だから。

 十六年前にホドが崩落した時、兄さんと私を身ごもっていた母さんは魔界クリフォトに落ちた。母さんは私を産んでから亡くなって、私たちはお祖父様に養われたの」

 カチン、と高い音がした。ルークの持つスプーンがスープ皿に当たった音だ。

「師匠と……お前も? ホドの……」

 ルークの顔は青ざめている。

「じゃあ師匠が俺を騙したのはガイと同じ……。だったらお前も、俺のこと恨んで………。――あ、だからいつも」

「そんなことはないわ。それは、全く何も感じないって言ったら嘘になるけれど……。私はこの街で産まれて育った。だからホドの記憶のある兄さんや……ガイとは、思いが違うのかもしれないと思う。私はあなたも、あなたのお父様も恨んではいないわ」

 驚いたように、ルークは沈みかけていた目線を上げた。

「……お前は、俺のこと嫌ってるんだと思ってた」

「ばかね」

 ティアは微かな苦笑を浮かべてみせる。その表情が不意に歪んだ。

「私は、兄さんがあなたに剣術を教えているのを知っていた。復讐でもするつもりなのって問い詰めたこともあるわ。でも兄さんはそんなつもりはないって笑って……。外殻大地の住人を消す計画があるって兄さんとリグレット教官が話していたのも、私は聞いていたのよ。だからそれを止めるために外殻へ向かったのに……。そんなことはしないと言われて、私はそれを信じてしまった。まさか、兄さんがあなたをあんなことに利用するつもりだったなんて。本当に、兄さんがあんな恐ろしいことを実行するだなんて。信じたく、なかった……!」

「ティア……!」

 少女の肩が震えるのを見て、ルークはうろたえて立ち上がる。しかし伸ばした手が触れる前に、強い理性で抑えられた青い瞳がこちらを向いた。

「ごめんなさいルーク。今回のことは……私の責任でもあるわ」

「な、何でお前が謝るんだよ。お前は悪くねぇだろ」

「いいえ。疑っていたのに何も出来なかった。軍属として、これは失態だわ。それに……兄の犯した罪の責任は、妹の私が負うべきだもの」

 何かをルークは言い掛ける。しかし口をつぐみ、もう一度口を開こうとして顔を顰め、「う〜」と唸ると片手でぐしゃりと己の髪を掻き混ぜて小さく息を吐いた。

「ミュウの奴がさ。言うんだ。お前が悲しそうにしてるって。……泣いてるって」

「え?」

「泣いてるけど泣いてないって。ワケ分かんねぇって思ってたけど、なんか分かった」

 目を瞬かせるティアをルークは見つめる。

「ティア。お前、もっと自分の気持ちを素直に出した方がいいよ。悲しいとか、辛いとかさ」

「ルーク……」

「……ガイもそうだったのかな」

 ぽつりとルークは言った。

「あいつ、俺の前ではいつも笑ってた。……家族を殺されて、その仇の家で使用人なんかやって、辛くない訳ないよな。だけど、俺はそんなこと全然気付けなかった。それが当たり前だと思ってて、いつもワガママ言って振り回して……」

「……彼が本当にあなたを憎んで、殺そうとしていたのなら、あなたを連れてファブレ家から逃げ出そうなんてしないと思うわ。今思えば、彼は兄があなたを利用しようとしていたことを知っていて、あなたを護ろうとしていたんじゃないかしら」

「…………俺は」

 ルークは目を上げる。



 その声を聞いてガイは振り返った。自分の名を呼んだ、赤い髪の少年を視界に収める。

「ルーク……」

「……ガイ。俺……」

 言いかけて、逡巡したようにルークは目線を落とす。その向こうにミュウを抱いたティアの姿が見えた。ここまで彼を案内してきたのだろう。

「ルーク、あのな」「ガイ、ごめん!」

 勢いよく頭を下げられて、ガイは言葉を呑んで目を瞬かせた。「うわ。ルークが謝ってる!」と言うアニスの心底驚いたような声が聞こえる。

「ごめん、ガイ。俺、お前にずっと嫌な思いさせてきたんだろ。だから……」

「待て待て待て。どうしてお前が謝るんだ、ルーク。お前のせいじゃないだろう」

「だけど。お前は復讐するためにウチにいたんだろ。俺の父上に、……家族を殺された、から」

「……」

「……俺、ずっと自分のことしか考えてなかった。お前や周りのみんなが、辛いとか悲しいとか、そんな風に感じてるってこと……殆ど考えたりしないで。だから。――だけど!」

 下がっていたルークの目がガイに向かった。

「聞かせて欲しい、ガイ。お前は……」

 ルークがそう言い掛けた時。ざわめきを感じたアニスは、ふとそちらに視線を向けた。通路の奥、外殻大地へと繋がる唯一の道――ユリアロードがあるという部屋の方から数人が連れ立って歩いてきている。似たような型と色調の服しか着ていない市民たちとは違い、まるで外殻の住人のように思い思いの姿をした……。

「え。えぇえええええっ!?」

 アニスは声をあげた。彼らはまさに外殻の住人だ。それどころか見知っている。一週間前まで行動を共にしていた、マルクト軍大佐ジェイド・カーティス。キムラスカ王国ナタリア王女。そして、彼らの先頭に立っている、神託の盾オラクル騎士団の黒衣に赤い長い髪をなびかせた――この男の顔は。

「ルーク!?」「ご主人様が二人いるですの!」

 戸惑うティアとミュウの声を聞きながら、当然のこと、最も驚愕に固まったのはルーク本人だった。

「俺と……同じ、顔……?」

 今のルークは髪が短い。一方、前髪を上げてはいるが、この男は髪を切る前のルークそのもののようで。――いや。髪色が、向こうの方が少し濃いだろうか?

「な……なんだよお前……なんなんだ一体……」

 強張った顔のまま、じり、と下がったルークを、男は冷たい目で見つめている。その後ろから一歩前に出て、口を開いたのはナタリアだった。

「落ち着いて、冷静に聞いて下さいルーク。彼は、あなたのオリジナルです」

「オリジ……ナル?」

 ますます困惑を深めたルークの表情を見て、「ハッ」と男が嗤った。

「頭の回りの遅い奴だ。劣化レプリカじゃ無理もねぇか」

「黙れ。それ以上言うな!」

 険しい顔で怒鳴ったのはガイだ。彼に顔を向けると、鼻を鳴らして男は続ける。

「ヴァンは教えていないと言っていたが、お前は知っていたというわけだ。あの時、俺を『アッシュ』と呼んだんだからな」

「よりにもよって。タイミングが最悪なんだよ、お前は」

 顔を歪めてガイは吐き捨てる。いつも温和な彼の不快を隠さぬ様子に周囲が驚く中で、ルークは記憶を探る顔をしていた。

「アッシュ……? ――あ! その声。お前、もしかして船で俺を操った……!」

「ふ。そうだよ、『お坊っちゃん』。製造時のデータを見る限り、俺とお前は完全同位体だ。音素フォニム振動数が全く同じ個体の間には、フォンスロットを通じて特別な繋がりが出来る。――理論上そのはずだとディストが言うんでな。だが、お前の同調フォンスロットが不安定で、アクゼリュスの時はうまく繋げられなかった」

「……さっきからワケ分かんねぇことばっか言いやがって。音素フォニム振動数とか完全同位体だとか、何のことだよ。何で俺がお前なんかに操られなきゃならないんだ!」

「さっき聞いただろうが。お前が、俺のレプリカだからだよ!」

「アッシュ!」

 ガイが再び怒鳴る。

「レプリカ? そういえば、師匠せんせいもそんなことを言って……」

 理解できずに困惑するルークに向かい、ジェイドが声を掛けた。

「ルーク。あなたはフォミクリーという技術を知っていますか」

「え?」

 キョトンとしたルークの向こうから、「模造品を作る技術ですよね」とアニスが答える。

「そうです。一般に知られているのは無機物の複製技術としてですが、生物も複製することが出来る。ただし、そうして作られたレプリカには、オリジナルの記憶は継承されません。姿形はそっくりに作れても、中身は赤ん坊に等しい」

「俺はバチカル生まれの貴族なんだよ。七年前、ヴァンて悪党に誘拐されて、フォミクリーでレプリカを作られた」

「……まさか」

 呟いてティアが息を飲んだ。ルークはゆっくりと目を見開き、青ざめていく。

「ヴァンは俺を監禁し、レプリカを屋敷に戻した。フォミクリーで作られたレプリカは、殆どの場合オリジナルから品質の劣化が起こる。だが、キムラスカと教団の目を誤魔化し、預言スコア通りに運んでいると思わせるだけの駒なら、劣化レプリカでも充分だからな」

「アッシュ! それ以上言うな!」

 怒鳴りつけたガイは、小さく名を呼ばれたのに気付いて目を向けた。血の気の失せた顔が縋るように見上げている。

「……ガイ。俺は、レプリカなのか……?」

「ルーク……」

 言葉に詰まる。今ここで事実を隠すことは無意味だった。希望を砕かれた顔をしたルークの視線が、もう一人の幼なじみに向かう。受けたナタリアはビクリと震え、しかし気まずげに顔を背けた。強張った少年の様子には最早構わずに、アッシュとジェイドの話は先へ進んでいる。

「ヴァンはそいつを使ってアクゼリュスを落とした。元は住民ごと崩落させるつもりだったらしいがな。だが、これで終わりじゃない。ヴァンはアクゼリュスを落とすのを皮切りに、次はセントビナーの辺りを崩落させると言っていた」

「私たちはイオン様を捜しに来たんです。人的被害は出ませんでしたが、アクゼリュス崩落が世界にもたらした打撃は大きい。マルクトとキムラスカの間の緊張も強まってきています。ヴァンの目的は分かりませんが、これ以上崩落を進めさせるわけにはいきません。ここは、抑止力を持つイオン様に前に立っていただくのが相応しい。

 アクゼリュスにいた筈のあなた方の無事は確認できていませんでしたが、アッシュが、ヴァンなら妹やガイが死ぬような状況を作らないはずだ、パダミヤ大陸のアラミス湧水洞に魔界クリフォトにある唯一の都市に繋がる譜陣があると聞いている、と言ったのでね」

「大佐。あの、イオン様は総長が……」

 アニスが答えている一方で、「……そだ……」と、掠れた声がルークの唇から落ちていた。気付いたティアが「ルーク?」と気遣わしげに名を呼ぶ。

「嘘だ………嘘だ嘘だ嘘だっ! 俺は……レプリカなんかじゃないっ!」

 会話を中断して目を向け、アッシュが侮蔑と怒りの色を見せた。

「ハッ。事実を認めることすら出来ないのか。――この出来損ないが!!」

「……!」

 唇を噛むと、ルークは腰の後ろに渡した剣の柄を握る。血脂の曇り一つない刀身を見て、アッシュが碧い目を細めた。

「……やる気か? レプリカ」

「ルーク! いけません!」「やめて、二人とも!」

 ナタリアとティアが叫んだが、ルークは剣を掲げると喚きながらアッシュに斬りかかる。

「嘘を、つくなぁーーーっ!!」

 大振りのそれを、アッシュは楽々と避けた。

「ハッ。なんだそのへっぴり腰は。仮にもヴァンの弟子なんだろう。それじゃオタオタ一匹斬れねぇな」

「ぐうっ……。うわぁあああっ!」

「遅ぇんだよ!」

 身をかわし、アッシュはルークの腹部に蹴りを入れる。転がされてえづくルークにゆっくりと近寄ったが、そこで突き出された剣が首筋を掠めた。血が一筋流れ、断たれた髪がひとつまみ宙に散らばる。つまらない油断をした、と舌打ちしたところで、剣を突き出したルークが固まっていることに気付いた。まるで、流れた血に竦んだように。

「この……!」

 苛立ちが煮え立ち、アッシュは剣を振り下ろす。容易く斬り裂けるかと思えたが、ルークはそれを剣で受け止めた。剣術の基本が出来てはいるらしい。だが、まだ甘い。何度も斬り込む。その度にルークは受け止めたが、完全ではなく、致命傷にならない程度に傷が付いていった。その表情にははっきりと恐怖が浮かび、次第に濃くなっていく。――自分と同じ顔が、みっともなく怯えている。

「糞がっ!」

 どうしようもなく苛立って怒号を落とすと、音素フォニムを込めた拳を叩き付けた。

「戦うことが怖いなら、剣なんて棄てちまいな! この……欠陥品のレプリカが!」

「俺は、お前のレプリカなんかじゃない! 俺は、俺は……」

「黙れ!」

 一喝すると、振り上げた剣をアッシュは床に突き立てる。

「絞牙っ鳴衝斬!」

 超振動の光が発して床を抉り、震えた空気が衝撃となってルークを打った。悲鳴を上げて弾き飛ばされ、ルークは動かなくなる。肩で荒く息をついて歩み寄って、アッシュは意識を手放した自分と同じ顔を睨み付けた。

「俺だって認めたくねぇよ。こんな屑に……俺の名前も、家族も、居場所も。何もかも奪われちまっただなんてな」

 吐き捨てて無造作に剣を振り上げる。だが、振り下ろされたそれは横合いから走った細身の剣――鞘に納まったままだ――によって、ルークの心臓の上で阻まれていた。

「ガイ……邪魔をするな!」

「勝負はついた。もうそれで充分だろう」

「うるせぇ! こいつは俺のレプリカだ。どうしようが俺の勝手だろうが!」

 ガイの目元に険が浮かぶ。

「これ以上ルークに手を出すと言うのなら――」

 シュッ、と音を立ててガイの剣が鞘から抜かれた。片手で鞘を支えたまま、淀みない動作で、もうその切っ先がアッシュの首筋を狙っている。

「俺がお前を斬る」

「……っ」

 冷たい。突きつけられた刀身の温度と同じように、殺気は真に迫ったものだ。

「二人とも、おやめなさい!」

 ナタリアが叫ぶ。それを合図にしたようにガイは剣を下ろし、鞘に収めると気を失ったルークを抱き上げた。「ったく。ウチのお坊っちゃんを遠慮なく傷だらけにしてくれたもんだ」と呟き、傍らにのティアに呼びかける。

「ティア。悪いが、ルークの手当てを頼めるかい」

「え、ええ。分かったわ。それじゃ、私の家に……」

「ガイ! お待ちなさい!」

 どこか必死な様子でナタリアが呼び止めた。

「あなた、ちゃんと分かっていますの? 本物のルークはこちらなんですのよ。あなたはルークとあんなに仲が良かったではありませんか」

「よせ、ナタリア」

 アッシュが声を落とす。

「こいつが俺の友人だったことはない。……昔から、一度もな」

「ルーク……」

 悲しげに眉を曇らせるナタリアを見ながら、「……まあ、『前』の『この時点』ではそうだったけどな」と、ガイは小さく苦笑を落とした。ルークを抱いたまま向き直り、アッシュに口を開く。

「アッシュ。俺はもう、ファブレの息子だからって理由でお前をどうこう思う事はないよ。だが、お前がルークを――俺の親友を殺そうとするなら、黙ってはいないというだけのことだ。

 こいつはお前のレプリカだが、お前に生殺与奪の権利はない。こいつはお前の分身でも付属品でも何でもない。ルークはルークで、お前とは違う人間だ。――ナタリア。キミも、その事はちゃんと知っているはずだと思うけれどね」

「え……」

 ルークを抱いてガイは立ち去っていく。その場に佇んで、ナタリアは不安な顔で何かをじっと考え込んでいた。








「……で、結局姿勢制御の問題だと思うんだよ。だからここを……こう増強して、まぁ、後はここの設備じゃ無理だからプログラムでカバーすればどうにか……」

「なるほど! それでいいと思います。いやぁ、すごいなぁ……。ガイさん、本当に譜業は趣味でやってるだけなんですか? 操縦士としておいらもアルビオールの整備を一通り学んでますけど、もっと詳しいんじゃないかな」

「いや……。好きだから、仕事の合間にちょこちょこ譜業の勉強はしてたしね」

 銀色の髪の青年に笑って答えながら、(実際は、十年分の経験ってやつなんだけどな)とガイは内心で独りごちる。

 飛晃艇アルビオール。数年前に宗教都市ダアトで発掘された創世暦時代の浮遊機関を元に、新暦としては初めて開発された航空機だ。譜業技術で名高いキムラスカ領シェリダンでダアトとの共同開発が進められ、今年に入ってようやく飛行実験が開始されたばかりである。――『今』の、この時代では。

「それにしても、セントビナーが崩落するかもしれないって時に申し訳ないです。折角、ナタリア殿下や皆さんがシェリダンの技術力を頼りにして下さったのに、おいらの腕が未熟なばかりに、こんなところで足止めをさせることになってしまって」

「そんなことはないだろう。ギンジの操縦の腕のおかげで海の藻屑になることもなく、無事にここに辿り着けたんじゃないか」

 ユリアロードを通って魔界クリフォトから外殻のパダミヤ大陸に戻った一行は、ここまで来るのにナタリアたちが使ったキムラスカの軍船でシェリダンに渡った。そこで飛行実験中だったアルビオール初号機とその専属操縦士ギンジをナタリアの名で借り受けたが、空路でルグニカ大陸へ向かう途中アルビオールの動作に異常が起こり、海に軟着陸。海上走行モードに切り替えて、そこから一番近かったマルクト領ケテルブルクの港に入ったのだった。

 実際、海でバラバラにならずに済んだのは僥倖だったと言えるだろう。

(考えてみれば、『前』の時も初号機は墜落してたんだしな……)

 そんなことを今更思う。いくらメジオラ突風が吹いたとは言え、操縦士は卓抜した技術を持つギンジだったのだ。元々、初号機自体に欠陥があったというわけだ。

 広げた図面から目を上げて、ギンジは部品の入った箱を抱え上げる。

「そういえば、ケテルブルク知事のオズボーン子爵がジェイド大佐の妹さんだっただなんて驚きました」

「だな。ま、そのおかげで話が早くて、こうしてマルクト軍の整備用船渠ドックと人手も借りられたんだが」

「ええ。部品も提供してもらえて、ご厚意が身に染みますね」

「……あの、ガイ」

 小さな声が聞こえて、ガイはそちらに顔を向けた。いつの間に入ってきたのか、青いチーグルを連れた赤毛の少年が立っている。

「ルーク。どうしたんだ、こんな所に」

 目を丸くして近付くと、ガイは少年の体から雪を払い落としてやった。この船渠は港にある。修理の間、他の者は街のホテルで休養することになっていたはずだ。

「あ、いや……。なんか俺にも手伝えることないかなって思ってさ」

「お前が? ……んー。気持ちはありがたいが、マルクト軍の技術者たちも手伝ってくれているからな。大丈夫だよ」

「そっか。そうだよな」

 僅かに目を伏せた少年の前で、ガイは笑って自身を親指で指してみせる。

「餅は餅屋って言うだろ。音機関の事は専門家に任せてろって」

「専門家って……お前は偏執狂なだけだろ」

「ははっ。違いない。とにかく、ギンジもマルクトの技術者たちもいる。朝までには修理を終わらせるから、それからは強行軍だ。お前はゆっくり休んで明日に備えておけよ」

 ポンとルークの肩に手を置いて、あ、そうだと気付いた顔で付け足した。

「風邪ひかないように暖かくして寝ろよ? お前、ただでさえそんな薄着なんだから。ちゃんと腹には布団掛けて……」

「こ、子供扱いすんなっつーの!」

 ガイの手を跳ね除けると、ルークは一声喚いてバタバタと船渠を出て行く。やや呆気にとられて見送っていた後ろから、ギンジの笑みを含んだ声が掛けられた。

「ホントに大事にしてるんですね、ルークさんのこと。おいらにも妹がいるから少し分かります。もっとも、妹はしっかりしてるんで、おいらが世話を焼く余地なんて殆どないんですけどね」

 ガッカリした風を装って、ギンジは肩をすくめて笑ってみせる。『今』はまだ会ったことがない涼やかな旧知の顔を思い出して、ガイも笑った。



 一面を埋めてなお降り続ける白い雪は、こうして暖かな窓の中から見ていればおとぎ話の景色のように幻想的に見える。

 ホテルの客室の窓辺に立って、ナタリアは淡い光を弾く異国の夜景を眺めていた。キムラスカにすらその名が轟く観光都市は噂に違わず美しく、街は明るく賑わっていて、近付きつつある戦争の暗雲など、夢まぼろしのようだ。

「本当にこれでよかったのでしょうか……」

 思わず声がこぼれた。部屋に置かれた椅子に座っていたティアが顔を上げ、「ナタリア……」と名を呼ぶ。

 アクゼリュス崩落は王位継承者のナタリアとルークを狙ったマルクトの陰謀だ――キムラスカ王国がそう主張してマルクトに抗議の文書を送ったということを、ナタリアたちはシェリダンの技師たちから聞いて知った。アクゼリュスの住民の避難は完了しており、ナタリアとルークの無事もカイツールから本国へ知らされている。(実際には、カイツールにいたのは本物のルークであり、アクゼリュスに行ったレプリカのルークはその時点で行方不明だったのではあるが。)そもそもアクゼリュスを落としたのはレプリカのルークで、彼にそうさせたのはヴァン謡将だという。だからキムラスカがマルクトに抗議をする理由など何もない筈だ。しかし現実にキムラスカはそれを行い、二国間の開戦は間近だとされ、シェリダンは武器兵器の製造で湧き立っていた。

「後手に回っては意味がない、今は迅速に動くための足を手に入れ、崩落を食い止めるべきだ。ガイのこの言葉に従ってここまで参りましたが……駄目ですわね。迷ってしまいます。やはり、一度バチカルへ戻ってお父様を諌めるべきだったのではないかと……」

「戦争は秘預言クローズドスコアに詠まれていたのよ。教団の指示があり、それに従ってキムラスカが動いているのなら、多分、今は何を言っても無駄だわ」

 ティアが言う。教団の詠師であり、ユリアシティの市長を務める養祖父テオドーロもそうだったのだ。『ホドとアクゼリュスの崩落は預言スコアに詠まれていた。最初から定められていたことなのだよ。ルグニカで起こる戦争もそうだ。預言でその発生が定められている以上、覆す事は出来ない。逆に、セントビナーの崩落を心配する必要は全くない。そんな事は起こるはずがないのだ。預言に詠まれていないのだからね』と。

 ヴァンは更なる外殻の崩落を目論んでいるという。アッシュにそれを聞いたティアは祖父に相談を持ち掛けたが、返ったのはそんな答えだった。アクゼリュスを落としたヴァンの行動は監視者としての仕事なのだから、何も心配する事はないのだと。『話にならん』とアッシュは席を蹴り、『俺はヴァンの動向を探る』と一人で外殻に出て行こうとした。それをガイが止めたのだ。

『意地を張って何でも一人で始末をつけようとする。それがお前の性格だが、そうして勝手に行動されて色々後手に回ることになるんじゃ、こっちが迷惑するんでね』

 火のように怒ったアッシュをジェイドがあしらい、『あなたはヴァンの真意について何か知っているんですか』と訊ねた。『彼が何を思い、何の為に行動しているのか。話を聞く限り、あなたはヴァンの仲間だったのでしょう』と。

 ガイは、少しだけ考え込んだように見えた。

『ヴァンは俺に殆ど何も教えてはいないよ。ティアが何も聞かされていなかったのと同じようにね。……そういう意味では、あいつにとって俺はあくまで庇護の対象で……「同志」ではなかったんだろう』

 やがてそう言い、けれど彼はこう続けたのだ。

『ヴァンは、預言スコアを憎んでいる。いや……預言そのものであるローレライと、それに唯々諾々と従う人間を、かな。だからあいつは……今のこの世界を、消すつもりでいる』

 

「世界を消すなんて。途方なさすぎーってカンジだよね」

 ホテルの丸いテーブルに顎を乗せてアニスが言う。

「話が大きすぎてなんか嘘臭いし。っていうか、ガイってホントに信用できるの? 大佐も言ってたけど、あいつの言うことが正しいっていう証拠もないじゃん」

「それは……正直、わたくしも戸惑っているのですが。ガイがマルクトのガルディオス伯爵家の人間だというだけでも驚きましたのに、ヴァンの陰謀や、預言や、ルークのことも……」

「でも、兄さんが外殻の住民を消そうとしていたのは確かだわ。私は、ガイの言うことは信用できると思う」

 ナタリアに続いてティアが言い、「教団上層部が、ホドやアクゼリュス崩落の預言を知りながらそれを見過ごしてきたことはショックだったけれど……。モース様……。あの方の語った預言の遵守が、まさかこんなことだったなんて……」と目を伏せた。

「大詠師モース……」

「あら、アニス。どうしましたの。そんなに暗い顔をして……」

「え? ああ、イオン様大丈夫かなーって。アクゼリュスに行く時もいい顔してなかったから、今頃モース様は怒ってるだろうし」

「ガイは、セフィロトの入口を閉ざしたダアト式封咒を解かせるために、ヴァンはイオンを連れ去ったのだと言っていましたわね」

「そんなことさせたらイオン様が倒れちゃうよ。ダアト式譜術は身体に悪いんだから」

「そうね。イオン様のことも心配だわ。無事でおられるといいのだけれど……。でも今は、次に起きる可能性のあるセントビナーの崩落を食い止めるしかない」

「……『未来を掴むために』?」

 確かめるようにアニスが呟く。ユリアシティで、ジェイドに問い詰められたガイが答えて言った言葉だ。

 

『何も知らされていないと言いながら、あなたは知りすぎている。ヴァンがホド出身なら、ホドの領主の息子であるあなたは彼の主君とも言えます。あなたとヴァンには深い繋がりがあったのではないですか。あなたが彼から離れる理由は何です』

『アッシュと同じさ。あいつの考えに付いていけなくなったんだ』

『それで我々が信用するとでも?』

『強制はしない。そんなこと出来ないってことも分かっている。……だけど』

 ガイの視線が片隅のルークに向かい、そこを始点に、ジェイドや他の面々の上を通った。

『俺を信じて欲しい。みんなの力が必要なんだ』

『何の為に?』

 眼鏡の下から赤い目で見据えてジェイドは更に問う。口元を笑いに歪めると、ガイは言った。

『未来を掴むために……だよ』

 ほんの一瞬、呆気にとられた顔をして。ジェイドの顔には失笑が浮かぶ。そして言ったのだ。

『いいでしょう。当面、私はあなたに協力しますよ』

 

「……バッカみたい。結局、ガイって裏切り者じゃん。仲間のフリして騙してるかもしれないのに。――……みたいに

 テーブルに顔を伏せたアニスの口の中の呟きは、殆ど他に聞こえる事はなかった。

「そうですわね。まだ答えの出せないことをあれこれ考えていても仕方ありませんわ。未来のために……今は、自分に出来ることに全力で取り組まなくては」

「ええ。頑張りましょう」

 ナタリアの声にティアが頷いている。



「……お前は、何の意味があってここにいるのか、か……」

 街灯に照らされた雪道をルークは歩いていた。

「ご主人様、ホテルに帰らないですの?」

 懸命に追って歩きながら、足元からミュウが言う。

「うるせぇ……」

「でも、くちびる真っ青ですの。寒そうですの。ガイさんが、暖かくしなさいって言ってましたの」

「うるせぇっつってるだろ! 大体お前、何で俺のこと勝手に『主人』って呼んでんだよ。いちいち付いてきやがって。俺は魔物の使用人なんて持った覚えねーからな」

 立ち止まって睨むと、小さなチーグルは丸い目で見上げて静かに言った。

「ミュウは、罪人ですの」

「は?」

「ボク、火事を起こしちゃったですの。それで仲間たくさん死んでしまったから……だから、一族から追放されたんですの。死んでも仕方なかったですの。でも……ご主人様はボクのこと助けてくれたですの。チーグルは恩を忘れないですの。ボクは、ご主人様にお仕えするですの」

 ルークは黙っている。しばらくそうしていて、「ふーん……」と呟くと目線を落とした。

「そうか。……えも、……が無いんだな」

「みゅ?」

「なんでもねぇ。……お前、他に行く場所ないんならせめて黙ってろ。みゅーみゅーウゼェんだからよ」

「ボク、一緒にいていいですの? ありがとうございますですの」

 ミュウは丸い顔を輝かせた。ぴょんぴょん周囲を跳ね回り始めたのを見て、「ウゼェ!」とルークは顔を顰める。

「みゅうぅ……」

 しおしおとミュウは耳を垂れた。よく見れば、小さな身体で雪道を歩いていたので雪だらけだ。抱え上げて雪を払ってやっていると、腕の中で「あ、ジェイドさんですの」と声をあげた。見やれば、少し離れた高台の公園――表示には『ケテルブルク広場』と書いてある――の銅像の前に、濃紺の軍服を着た長身の影が見える。

「何やってんだ? あいつ……」

 誰かと待ち合わせでもしているのだろうか。それにしてはもう夜も遅い。

(そういえば、ジェイドってこの街の出身なんだよな)

 ケテルブルク知事のネフリー・オズボーンに挨拶に行った時の驚きをルークは思い出した。彼女は、ジェイドを見るなり『お兄さん』と声をあげたのだ。兄の帰省はかなり久しぶりだとかで、彼女の方も少なからず驚いている様子だったが。

 ネフリーはジェイドと同じように眼鏡をかけた理知的な雰囲気の女性で、挨拶が終わって立ち去ろうとした時、後ろから小さく何かを話しかけてきた。ぼんやりしていたために聞き取れず、振り向いて問い返したが、立ち止まったジェイドが「行きますよ、ルーク」と声をかけてくると、口をつぐんで何も言わなかった。

(ネフリーさん、何を言おうとしていたんだろう……)

「……いつまでボーッとしているんです。雪だるまにでもなるつもりですか」

 声が聞こえた。見れば、こちらに気付いていたらしく、ジェイドが顔を向けている。遮るものが殆ど無い場所なのだから当然と言えばそうなのだが。観念して、歩み寄りながらルークは訊ねた。

「あんたこそ、そんなところで何してるんだよ」

「少し考え事をしていただけですよ。……ここは約束の場所ですから」

「約束?」

「愚かな子供が二人で交わした、身の程を知らない馬鹿な誓いです。久しぶりにこの街に戻って、少し思い出しました」

「……」

 ルークは黙ってジェイドを見上げる。僅かに眉を曇らせて、しどろもどろに訊ねた。

「その……。ジェイドも何か辛いことがあるのか?」

「どうしたんですか、突然。あなたがそんなことを気にするなんて、明日は大雪……いえ、真夏日でしょうか」

 失笑してジェイドは肩をすくめてみせ、ルークを憮然とさせる。

「お、俺はただ……。今までは周りのこと、なんにも見てなかったんだなって気付いたから……」

「それで周囲に気を配ってみようと思い立ったというわけですか。いやあ立派です。あなたの成長を見て、ガイは涙を流して喜ぶことでしょうね」

「そんなの。俺は、こんなんじゃ……!」

 顔を赤くして何かを言いかけ、しかしルークは声を呑んで顔を伏せた。その様子を眺めて軽く息をつくと、ジェイドは眼鏡のブリッジを指で押し上げる。

「辛いことがあるのは、あなたの方なのではありませんか?」

「……」

「話せと言っているわけではありませんよ。あなたの悩みをどうにかできるのはあなた自身だけです。……助けが必要なら、呼べばいいと思いますがね」

「俺にそんな資格なんてない、だろ……?」

「それを決めるのは私ではない、あなたです」

 にべなくジェイドは言い、黙り込んだルークを見て再び失笑を浮かべた。

「人は『思う』ことで存在する。下手の考え休むに似たりということわざもありますが、考える事は悪いことではありませんよ」

 そう言って、雪の降り続ける空を彼は見上げる。



 雪の反射でぼんやりと明るく見える夜空から、アッシュは視線をベランダに落とした。吐き出した息が白く流れていく。

「チッ……」

 舌打ちは苛立ちを霧散させず、むしろ倍化させていく気がした。

 レプリカが戻ってくる姿は見えなかった。ガイのところにいるのか。あるいは、もう戻っているのを見落としているだけかもしれないが。客室は個別に与えられていたので、そうだとしても分からない。といって、わざわざ確かめに行く気も毛頭なかったが。

『お前は、何の意味があってここにいるんだ。何も言わねぇ、何の役にも立ちやしねぇ。……苛々する!』

 すれ違った廊下で、感情のままに言葉を叩きつけた。怯んだ顔をして、それでもやはり何も言い返さず、レプリカは背を向けて廊下を走り、ホテルを出て行ったのだ。

 ユリアシティで初めて顔を合わせた時は、まだこちらに剣を向ける程度の覇気があった。それが、今はどうだ。

 脳裏にその光景を思い浮かべ、アッシュは顔を苦く顰める。

 あれは、確かユリアシティからアラミス湧水洞を通り、ダアト港近くへ出た時のことだった。何かの理由でナタリアが呼んだ。「ルーク」と。『今の俺はルークじゃない。アッシュだ』。何度かそう言ってはいたが、ナタリアは頑なに昔のままの名でこちらを呼び続けていた。――が。ユリアシティへ向かうまでの間とは違い、その時はレプリカがいたのだ。

 二人のルークは同時に振り返り、ナタリアはハッとした顔をした。それを見てレプリカはうっすらと赤くなり、「……ごめん」と呟いて俯いたのだった。

 それ以降、ナタリアはオリジナルルークをアッシュと呼び、レプリカルークをルークと呼ぶようになった。それはいい。名前はとっくにレプリカにくれてやっていたのだから。だが……。

(苛つくんだよ……。『ルーク・フォン・ファブレ』が……俺から何もかもを奪った奴が、あんな、ウジウジと!)

 オールドラントを旅するなら、命を奪われる危険は常に横にある。戦う機会が何度かあったが、相変わらずレプリカの腰は引けていて、特に、人間を相手にする時はまるで駄目だった。腹が立つのは、それをガイが分かっていて、戦わずに済むようにカバーしているということだ。おまけに、極度の世間知らずで買い物も交渉事も満足に出来ない。料理も食材を無駄にするばかりときた。全てにおいて役立たずだが、王族として庇護されて育ってきた以上ある程度は仕方がない。そう諦めるにしても、どうにも我慢ならないのは『前に立たない』ということだった。

 王女であるナタリアも、戦闘では未だ役に立つとは言えず、買い物も料理もろくにこなせない。それでも彼女は常に前に立っている。王族としての責任を背負い、自分の意志を示し、行動を自分で決めているのだ。だが、レプリカは前に立たない。尻込みし、意見を言わず、ただ流されているように見える。目的を持ってこの旅に同行しているようには見えなかった。

「くそっ……!」

 苛立ちを吐き捨てて、アッシュはベランダから部屋に戻ろうとする。そこで、不思議な音色を聞いた気がして足を止めた。微かな痛みを感じて片手で頭を押さえる。――が、はっきりとしたものになる前に、音も痛みも霧散して消えた。

「……?」

 どうやら、これ以上のものはないらしい。今度こそ部屋に戻り、アッシュはガラス張りの扉を乱暴に閉ざした。








「ですから父上。皇帝陛下のご命令がない限り、我々セントビナー駐留軍がこの街を離れる訳にはいかんのです」

「しかし民間人だけでも逃がさんと、アクゼリュスの二の舞じゃ!」

 マルクト領の都市セントビナー。薬用植物の栽培とそれから製造する薬品で知られていたこの都市が堅牢な塀と砲台に護られた城砦都市になってから一時代が過ぎている。花咲き乱れる庭園を持つマルクト軍基地ベースにジェイドの名を使って入ると、今しも、将校の軍服を着込んだ男と恐ろしく長い白髭を垂らした老人が噛みつき合っている最中だった。

「お取り込み中、失礼します」

 ジェイドが声をかけると、父子はハッとして会話を切る。「おお! ジェイド坊やか」と、老人が相好を崩した。

「ご無沙汰しています、マクガヴァン元帥」

「わしはもう退役したんじゃ。そんな風に呼んでくれるな」

 にこにこと笑う父とは対照的に、若い将校は「死霊使いネクロマンサージェイド……」と憮然と呟く。

「グレン将軍。あなたともお久しぶりですね」

「……何の御用向きですかな。確か貴公は和平の使者としてキムラスカの使節団を伴ってアクゼリュスへ入り、むざむざキムラスカ共に崩落の陰謀を許して、そのまま拘束されたと聞いておりましたが」

「アクゼリュスの崩落はキムラスカの陰謀などではありませんわ!」

 不意にナタリアが叫んだので、グレンは驚いた顔をした。

「ジェイド坊やの連れにしては変わった顔ぶれじゃの。こちらのお嬢さん方は?」

「こちらは、キムラスカのナタリア王女です」

 虚を突かれた様子の父子に、ナタリアは優雅に礼をしてみせる。

「これは驚いたのぅ……。キムラスカの王女殿下が何故こんな所に?」

「国にこだわっている場合ではないからですわ。オールドラント全体に危機が迫っています。このままでは、このセントビナーも崩落してしまうのですわ」

「なんだと!? しかし……キムラスカの仕業ではないと言うのなら、一体何故そんなことが……」

 怪しむ様子のグレンを見て、ジェイドが「ガイ。説明をお願いします」と言った。「ああ」と頷いて、ガイはすぐに説明を始める。

「むぅ……。秘預言クローズドスコアに外殻大地にセフィロトツリー……。俄かには信じがたい話だ」

 やがて説明を聞き終えて唸ったグレンの隣で、老マクガヴァンは「そうか……これはホドの復讐なんじゃな」と呟いた。

「あの時、わしらはホドを放棄した。擬似超振動でフォミクリー研究施設を破壊し、崩落を呼んだんじゃ。自分たちの繁栄のためにホドを見捨てた、その報いがやってきたというわけか」

「父上。この話を信じるのですか」

「信じるも信じないも、現に地盤の沈下は始まっとるじゃろうが」

 老マクガヴァンの声を聞いて、「ということは、既にシュレーの丘のパッセージリングは操作されているということか……」とガイが呟く。苦しげにティアが目を伏せた。

「兄さん……。本当にそんな恐ろしいことを……」

「……セフィロトは三つの封咒で護られていると聞いていたが」

 アッシュが問いかける。

「ええ。ダアト式封咒、アルバート式封咒、ユリア式封咒の三つで封印されているはずだわ」

「ダアト式封咒は、イオン様が解くことが出来るんだよね」

「そうね。そしてアルバート式封咒は、要のセフィロトだったホドとアクゼリュスが崩落したことで自動的に解除されてしまったはずだから……」

 口を挟んだアニスにティアが頷くと、ナタリアが言った。

「ですが、その話だとまだ一つ、ユリア式封咒が残っているはずですわ」

「ユリア式封咒は『約束の時』が来た時に自動的に解けると言われているの。それまでは、誰にもパッセージリングの操作は出来ないとされていたのだけれど……」

「どうやったのかは分かりませんが、ヴァンはそれを動かしたということですね」

 ジェイドが結論付ける。それを聞きながら、ガイは苦い思いを噛み締めていた。パッセージリングを護る最後の封印は、結局のところ、ユリアの血そのものだ。ユリア・ジュエの遺伝子を受け継ぐ者だけがそれを起動させることが出来るのだから。つまりヴァンとティアの兄妹だけがそれを可能にするのだが、その行為は彼らの肉体に大量の第七音素セブンスフォニムと、それが含んだ障気を蓄積させることになる。『前』はそれでティアを病ませた。死の寸前まで追い詰めたのだ。

(むざむざ同じことをさせる訳にはいかない。『前』と同じように助かる保証もないんだ。下手をすればイオンかティアか、どちらかの死を選ばなければならなくなる……)

 考え込むガイを見ていたジェイドは、おずおずと上がったルークの声に意識を向けた。

「な、なあ……。セントビナーの崩落は始まってるんだろ。だったら、早く避難を始めた方がいいんじゃないのか?」

「そうですね。その通りですが……」

 ジェイドは視線をグレンに巡らせる。彼はムッと唇を引き結んだ。

「キムラスカがカイツールからパダン平原に臨もうとしている今、皇帝の許可なく我らがここを動くわけにはいきませんな。たとえ皇帝のお気に入りの死霊使いネクロマンサー殿の提案であろうとも」

「おい、グレン!」

「父上。地盤沈下について首都へ報告の鳩は既に飛ばしてあります。しかし避難の命令は未だないのです。なんと言われようとも、駄目なものは駄目です」

 むっつりと言い切った息子を前に肩をすくめて、老マクガヴァンが眉を下げる。

「すまんのぅ、ジェイド。グレンの奴め、若いくせに妙に石頭でいかん」

「いえ……。元帥がお気になさることではありません」

「……それで、どうする。皇帝に避難許可を出させるためにグランコクマまで行くのか」

「シュレーの丘のパッセージリングのせいで崩落が始まってるんなら、そっちに行った方がいいんじゃない? まだ崩落を止められるかもしれないし。それに、そこにイオン様もいるかもしれないんでしょ」

 腕を組んでアッシュが言い、アニスも自らの意見を述べた。

「ヴァンが全ての外殻の崩落を目論んでいるのなら、逃げていても先はなくなる。私は、可能ならば今のうちにパッセージリングを押さえておくべきだと思いますが」

「そうだな……。しかし」

 ジェイドに頷きながら、ガイはティアを見た。パッセージリングを操作するには彼女の存在が不可欠だ。だが、それは彼女を病ませることになるだろう。

「……ガイ?」

 不思議そうにティアが首をかしげている。

「……言うべきことがあるのなら言ってはどうですか、ガイ」

 ジェイドが言って眼鏡を指で押し上げた。

「無理にとは言いませんが。信用して協力して欲しいと言ったのはあなたです」

「……そうだな。黙っているのはフェアじゃない、か。――ティア」

「何かしら」

「パッセージリングはユリアの遺伝子に反応する。つまり、キミかヴァンにしか起動させることは出来ない。だが、そうすることで、キミは恐らく障気に侵される事になる」

「え……?」

「パッセージリングは操作に大量の第七音素セブンスフォニムを使うが、それが障気に汚染されているんだ。一度体内に蓄積されたそれを取り除く方法は…………俺には分からない」

「待って。じゃあ、ヴァンデスデルカ兄さんは……」

「多分あいつもそれを知っている。そして、それを受け入れているんだ」

「な……なんだよそれっ!」

 叫んだのはルークだった。

「障気を取り除く方法はないって。障気に汚染されたら障気蝕害インテルナルオーガンってやつになって、そのうち死んじまうんだろ。それじゃ師匠せんせいは。それに、パッセージリングを起動させたら、ティアも……」

「………分かったわ。私が、パッセージリングを起動させます」

「ティア!? お前、何言ってんだよ。死ぬかもしれないんだぞ!」

「でも、世界が滅べば結局みんな死ぬのよ。そんなこと……絶対にさせるわけにはいかないもの」

「ティア……」

 ひどくショックを受けた顔をルークはする。それ以上何も言えず、結局は黙り込んだ。








 七百年前、戦争によって生じたあまりに多くの死者を見て、譜術士シュレーが死体の音素フォニムを組み替えて丘を作った――そんな伝説のある地の地下へと続く入口の前で、二つの勢力が対峙しあっていた。一方は、ガイ、ジェイド、アッシュ、ティア、アニス、ナタリア、ルーク(とミュウ)が集った三勢力混合の一隊。もう一方は、神託の盾オラクル騎士団の一隊を引き連れた黒衣の少年と大男――ヴァン直属の部下である六神将に属する二人だった。

「やあ、アッシュ。この間はどうも」

「シンクとラルゴか。――ヴァンはどうした」

 皮肉な声を無視したアッシュの問いかけに対して、少年が金の仮面の下から嗤いを返してくる。

「ヴァンとイオンはこにはいないよ。もうとっくに次のセフィロトへ向かっている。それでも、アンタたちの動きが予想以上に早かったんでね。こうしてボクたちで遊んでやるように命じられたって訳」

「シンクっ、ラルゴ! イオン様をどこに連れてったの」

「答える義理はねぇな」

 アニスに応えて、大男が漆黒の大鎌を肩から下ろした。アッシュたちがそれぞれ身構えたのを見て、シンクが「おっと。その前に総長から伝言だよ」と告げる。

「まずはアッシュ。『世界を変えるにはお前が必要だ。戻るのを待っている』って」

「……俺は戻る気はない! 外殻を落として全ての人間を消すなどという、馬鹿な計画をヴァンがやめない限りはな」

「やれやれ。それから、総長の妹と、そっちのガイってホドの生き残りに。『思い直したならこちらに来なさい。いつでも迎える準備はある』だってさ」

「思い直すのは兄さんの方だわ!」

 杖を握り締めたティアの拒絶はまるで気にせずに、シンクは視線を彼女たちの後ろにいるルークに向けた。

「……さっきから何をそんなに傷ついた顔してるのさ。まさか、ヴァンに何か声をかけてもらえることでも期待していたのかい。出来損ないのレプリカのくせに」

 ルークは怯んだように表情を強張らせる。庇うようにガイが前に立ったのを見て、アッシュが不快げに鼻を鳴らした。「まあ、どうでもいいけどね」とシンクは肩をすくめ、「そうそう。アニスにもアリエッタから伝言があるよ」と巨大化したヌイグルミの背に顔を向ける。

「『イオン様は私が護ってる。イオン様を護れなかったアニスは導師守護役フォンマスターガーディアン失格だモン。アニスなんていらないから』……だってさ。アハハハ! どうする、アニス。このままじゃホントに導師守護役をクビになっちゃうかもね」

「あンの根暗女ぁ……。次に会ったら、潰す!」

「おー怖い怖い。もっとも、次があるかは分からないけどね。殺せとは言われてないけど、殺すなとも言われていない」

「今の俺たちの目的はあくまで足止めだが……手加減をする気もない。怪我をしたくなければ退けぃ!」

「うるせぇ! ジジイこそ引っ込んでやがれ!」

 剣を抜いたアッシュの叫びを合図にしたように、シンクとラルゴはそれぞれに身構える。

「六神将烈風のシンク。……本気で行くよ」

「同じく黒獅子ラルゴ。いざ、尋常に勝負!」

 ラルゴが気合いと共に鎌を振るって衝撃を飛ばし、シンクが身軽に跳躍してきた。周囲の神託の盾兵たちも一斉に飛び出してくる。

「ルーク、お前は下がれ!」

 応戦しながらガイが指示した。

「で、でも……」

「弓を使うナタリアは後衛だ。混戦には向かない。彼女を護ってやれ」

 逡巡するルークに笑いかけると、ガイは前に飛び出していく。一方で、アッシュもナタリアに「お前は後ろにいろ!」と叫んでいた。

「荒れ狂う流れよ。――スプラッシュ!」

 神託の盾兵たちに向かい、ジェイドが譜術を放っている。左腕に右手をかざして手品のように槍を取り出すと、戦いから取り残されたようになっているナタリアとルークに指示を飛ばした。

「もっと後ろへ。敵の譜術の効果範囲外に移動していなさい」

 槍を構えて前に駆け出していく。

「ナタリア!?」

 追うように彼女が走り出したのを見て、ルークは慌ててその腕を捕らえた。

「待てよ。下がれって言われただろ」

「そんな訳には参りませんわ。敵の譜術の効果範囲外ということは、こちらの譜術も、弓も、向こうに届かない距離ということ。それでは……」

 その時、仲間たちの攻撃をすり抜けた神託の盾兵が一人、雄叫びをあげながら斬り込んできた。剣で受け止めて弾くと、ルークは身を捻って強く蹴飛ばす。その兵は再び混戦の中に飲み込まれた。

「ナタリア。とにかく、もう少し下がれって……」

「嫌です!」

「ナタリア……」

 伸ばした腕を振り払われて、ルークは目を見開いた。そんな彼を真っ直ぐな視線で射抜いて、ナタリアが言葉を紡ぐ。

わたくしは、隠れていたくはありません。こうして何もせずに護られているだけなら、一体何の為に弓や譜術を学んだというのですか!」

「何の、為に……」

 ルークは呟く。一方、混乱を極めた戦いの中では。

「気高き紅蓮の炎よ。燃え尽くせ! ――鳳凰天翔駆!」

 集った第五音素フィフスフォニムから生じた業火が渦を巻く。高い跳躍から飛び込むと、斬り裂く剣に伴う熱気が周囲の悉くを打ち伏せた。

「リグレットから聞いていた通り、かなりの使い手だな。――面白い」

 立ち上がったガイに笑い掛けたのは、見上げる体躯のラルゴだ。灰色の髪と髭はまさに獅子のたてがみのように見える。

「面白がってもらってるところ申し訳ないが、俺はあまり遊びたい気分じゃないんだよ。そちらさんの数もだいぶ減ったことだし、そろそろ退いてもらえないか?」

「そういう訳には……いかないねっ!」

 向こうから叫びが聞こえ、全身で渦を巻いてシンクが飛び込んできた。そのまま間髪いれず、身をかわしたガイに拳と足刀で躍りかかる。矢継ぎ早の攻撃をしのいでいた向こうから、ラルゴが炎気をまとった突きを繰り出してきた。

「六神将が二人同時に……か。流石にこいつは……」

「吹き飛ぶがいい! 獅子戦吼!」

 ラルゴが放った衝撃波が足を浮かせ、「こいつを喰らいな!」と叫んで、シンクが右手を振り上げてくる。

 その刹那。駆け込んで来た白い影がガイを肩で押しやった。シンクの掌底は、赤い髪が切り揃えられた首筋をかする。一方、反射的に繰り出されていたガイの剣の切っ先は、シンクの金色の仮面をかすめて弾き飛ばしていた。

「つっ……!」

 弾みでガイの胸に倒れこみ、短い苦鳴を上げた少年を、ガイは呆然として見下ろす。

「ルーク!? お前、何で! 後ろにいろって言っただろう」

「ガイ……」

 うなじの辺りを押さえて、ルークはみどりの目でガイを見上げた。

「後ろにいたら戦えない。それじゃずっと隠れているままだ。俺は……」

 ルークは訴える。その握り締めている剣が、赤黒く汚れていることにガイは気が付いた。

「ルーク。お前……」

「おいおい、俺を忘れるなよ」

 ラルゴの声が聞こえてハッとする。が、鎌を構えて踏み込もうとしていたラルゴは足を止め、僅かに身をずらして飛んできた矢をかわした。続けて飛んできたもう一矢を掴み取る。

「ナタリア王女か。フッ。お姫様は城で大人しくしていた方がいいんじゃないのか」

 片手で矢をへし折り、弓を構えたナタリアに目を向けてニッと笑った。

 他方。アニスは、仮面を落としたシンクの顔を呆然と見つめている。

「嘘。イオン様と……同じ顔……?」

「どういうことなの。まさか、彼はイオン様の……」

「……いえ。そうではないでしょう。恐らく、彼とイオン様が、導師イオンの……」

 同じように呆然としているティアの前で、静かにジェイドが言う。「え?」と首を傾げるアニスの前で、拾った仮面を着け直してシンクが嗤った。

「流石だね、ジェイド・バルフォア博士。フォミクリー原理を発案し、戦場の死体から何十体もの生物レプリカを作って死霊使いネクロマンサーと恐れられただけのことはあるよ」

 アニスとティアが息を飲んでジェイドを見つめる。表情を揺るがすことなく、ジェイドはシンクに問うた。

「ヴァンはこの世界を消した後、全てをレプリカと入れ替えるつもりなのだとガイは言っていました。それは、本当のことなのですか?」

「さぁね。でも、そんなことはお前たちには関係ないだろう。どっちにしてもお前たちは――この世界は、全て消えて無くなるんだからさあ!」

 シンクは譜術の光で全身を輝かせ、足元から巨大な譜陣が広がる。「いけない!」と、ティアが杖を構えた。

 そしてナタリアは、ラルゴに向けて矢を構えたまま言葉を放ち続けている。

わたくしは城でじっとしていることなど出来ません。王女として、世界を破滅へ導こうとするお前たちの目論見を許す訳には参りませんわ!」

「王女として、ねぇ……」

 ラルゴは再び笑う。それはひどく皮肉を帯びていた。

「そうだな。確かに俺達の計画はネジが飛んでいる。だがな、お姫様。世の中にはそうでもしなければ変わらない……変えられないって事もあるんだよ!」

 ラルゴが振るった鎌から飛んだ衝撃が弓の弦を断ち切り、ナタリアは悲鳴を上げて体勢を崩す。続いてラルゴが動きかけた時、「ナタリア!」と叫んで駆け込んでくるアッシュの姿が見えた。

「フッ。甘いな」

 ラルゴは軽くその剣をかわそうとしたが、真逆から全く同じ動きで刃が迫っていることに気付いて動きを止めた。黒衣に赤い長髪をなびかせたアッシュと、白衣に赤い短髪のルーク。二人が鏡像のような動作で前後から同時に斬りかかって来る。

「くっ……!」

 鎌で前を受け止めながら背後の刃から身をかわす。しかし、その切っ先が首筋から背を斬り裂いた。

「ぐうっ……!」

 苦鳴を上げてラルゴは片膝をつく。そして、やや離れた場所でシンクも地に両膝をついていた。輝く譜陣の中央で術を発動させようとした瞬間、ジェイドの槍が、地に叩き込まれようとしたシンクの手のひらを貫いたのだ。今は槍は消失していたが、シンクは血の流れる右手を押さえて激痛の震えを堪えている。

「ここまでか……」

 シンクは呟いた。既に、立っている神託の盾オラクル兵は一人もいない。

「仕方がない。ラルゴ、退くよ!」

「ぬぅっ……。やむを得んな」

 シンクが口笛を吹いた。途端に二羽の飛行魔物グリフィンが現われ、シンクとラルゴを宙にさらう。「あっ……待って! イオン様は今、どこにいるのっ!?」とアニスが叫んだが、答えが返ることはなかった。



 丘は静寂を取り戻したが、目に映る情景は惨憺たる有様だった。神託の盾オラクル兵たちの死体が無数に散らばり、甲冑の間から流れ出した血があちこちに赤いぬかるみを作っている。

 片隅に投げ出されていた道具袋がモゾモゾと動いて、小さな青いチーグルが飛び出した。

「ご主人様ー! 大丈夫ですのっ?」

 跳ねるようにしてルークに駆け寄ってくる。足元に転がる死体を顔を歪めて眺めていたルークは、ハッとして口元を押さえていた手を下ろした。

「ああ。俺はなんともな……つっ」

 顔を歪めて首の後ろに手をやる。傍にいたティアが気付いて近付いてきた。

「ルーク、怪我をしたの? 待って、今治癒術をかけるわ」

「そうですの! 大変ですの!」

「い、いいよ、こんなもん。ちょっとかすっただけで血も出てないし」

「そう……? でも、どこか悪かったらすぐに言ってね。無理は禁物よ」

「いいってば。……って。俺のことなんかより、お前こそ怪我してるんじゃねぇか。血が出てるぞ」

「ああ……これは返り血よ。ありがとう。私は平気よ」

「……そっか」

 ルークは黙り込む。その顔色がひどく青いことに気付いて、ティアは気遣わしげに眉を下げた。

「ルーク……」

「ルーク。無理して戦う必要はないんだぞ」

 ガイが近付いてくる。前に立って見下ろしてきた青い目から顔を背けて、ルークは握り締めていたままだった血まみれの剣を払い、鞘に収める。

「ティアやアニスや……ナタリアだって戦ってるのに、俺がへたれる訳にはいかねーだろ」

「私は軍人だもの。でも……」

「いいんだ。……決めたんだ。俺も戦う」

「ルーク……」

 どこか悲しげなティアの呟きを聞きながら、ガイはルークの血に汚れた左手を取って見つめた。

「汚れちまったな……」

『今度』は汚させずにいたかったのに。そんな心の声が聞こえたはずはなかったが、「いいんだ」とルークは苦く微笑った。

「なんにもしないで……ずっと何も知らないまんまでなんかいられないだろ」

 そして目を伏せる。

「俺、ずっと逃げてた。目を塞いで見なかったふりして……。馬鹿みたいにびびってたんだ。師匠せんせいがあいつを……ジョンを斬った時みたいに、何も出来ないで……出来なかった自分を認めたくなくて。

 ただ、血を見るのが……誰かが死ぬのを見るのが怖かった。ジョンのことも、アクゼリュスのことも、俺のせいじゃない、俺が悪かったんじゃないって。俺はレプリカで、利用されるために作られて、だから責任なんか負わなくてもいい、どこにも居場所は無いけど、だからみんなに付いて行ってるだけだけど、それで仕方ないんだって自分を納得させてた。

 ……だけど、このままじゃ、本当にどこにも行けない気がする」

「ルーク……」

 見つめるガイをルークは見上げた。

「俺は、変わらなくちゃいけない。――変わりたいんだ」

 ガイは息を飲む。見上げてくる碧緑の瞳の強さに見覚えがあった。強い、どうしようもなく強い既視感と、それに伴う胸焦がすような感情。ふ、と口元に苦笑が浮かぶ。

「……そうだな。お前は、そういう奴だったよな」

「俺、ガキだから、まだ色んなことが分かっちゃいないんだと思う。間違えるかもしれない。上手くいかないかもしれない。でも俺……変わるから! だからそれを見ていて欲しい。ガイ。それにティア。出来ればみんなにも」

「ボクも見てるですの!」

「ええ。見ているわ、あなたのこと」

 ミュウとティアが笑んで声を返す。ガイも笑った。

「俺はお前に剣を捧げたって言っただろ。お前がいたから俺は復讐をやめた。たとえお前が嫌だって言ったって、俺はお前から離れない。ずっとお前を見ているからな。覚悟しておけよ」

「なんだよ、それ」

 ルークは苦笑する。「遠慮深いのはやめたんだ」と澄ましてみせた親友を見て、更に笑った。

『今』のルークは知らないだろう。『前』は、ガイはルークや仲間たちに無理に信頼を求めなかった。そちらがそれを望むなら、信用出来ないと言うのなら、すっぱりと離れると。そううそぶいていたのだ。

(俺はもう手を離さない。ルーク。今度こそ、生きるための『未来』を掴むために……)



「なにあれ。あつくるしぃー」

 笑い合っている三人と一匹の様子を見ながら、アニスが顔を顰めている。

「いいじゃないですか。変わると決意してもらえたのは結構なことです。どこまで使えるようになるか当てにはなりませんが、足手まといのままよりは余程マシですからね」

 傍らから笑って言ったジェイドの後ろで、ナタリアはじっとルークたちの様子を眺めていた。

「ねえ、アッシュ……」

 近くにいる若者に呼びかけると、彼はハッとして顔を上げ、見つめていた銀色のものを握り込んでポケットに突っ込む。

「な、なんだ? ナタリア」

わたくしはずっと、過去に囚われていたのかもしれません」

 ナタリアは一度静かに目を伏せる。

わたくしも……きっと、変わります。アッシュ。あなたと、そしてルークの二人に、笑って正面から向き合えるように……」



「……落としたか」

 切れた鎖の先を襟元から引き出して眺めながら、ラルゴは呟いた。その傍らで、「何? いつもアンタが提げてたロケットのこと?」とシンクが声をかける。

「『新暦1999年。我が娘メリル誕生の記念に』……。ハッ。因縁だよね、ラルゴ。まさかお姫様が城から出てくるなんてさあ」

「……相手が誰であろうと関係はない。総長の計画を邪魔する者は排除するまでのことだ」

「まあ、ボクにはどうでもいいことだけどね。だけどラルゴ、実の娘が相手だからって手を抜いたりしないでよ。それでとばっちりを受けちゃ、こっちがたまらない」

 言いながら、シンクは死霊使いネクロマンサーの槍に貫かれた右手を何度か握り開きした。既に治療は済まされており、問題はないようだ。

「あのガイって奴、思ってた以上の歯応えだった。おかげで穢しそこねたけど。……まあ、代わりにちょっと面白いことになったかもしれないから、これはこれでいいか……」

 金の仮面の下からシンクは呟く。面白そうに高く笑いを上げた。






07/01/15 すわさき


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