己の周囲に広がるのは闇。けれど、それは真の闇ではない。まぶた一枚閉じた下の仮初めの闇だ。

 彼は目を閉じ、己の気を研ぎ澄ましていた。静かに息を吐く。そして――剣撃を放った。

 空を斬っただけの手ごたえは軽かった。当然ではある。これはただ、筋肉の動き、剣の流れを確認するためだけの動作なのだから。

 ふう、と息を吐いて、青年は目を開いた。人気の無い板張りの床と壁が目に入る。このミヤギ道場はバチカルの第一層に開かれており、道場主のミヤギの腕と人柄のおかげで高い人気を誇っていたが、全てを惜しみなく伝授し、しかし流派で縛りはしない、自由にやればいいというやり方のせいか、こうして道場に誰もいない時間が生じることが多いのだった。

 しかし、それが彼には都合がいい。ルーク・フォン・ファブレ――通称アッシュと呼ばれるこの若者は、ここキムラスカ・ランバルディア王国の貴族、それも王室と姻戚関係にあるファブレ公爵家の一人息子にして、王女ナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディアの婚約者でもあったが、自宅の広い中庭で剣を振るうよりも、こうして一人で街の道場に篭もることを好んだ。人払いをしようとも避けきれない使用人たちの視線を感じるのが、どことなく落ち着かないのだ。

 それは、彼が長く屋敷を離れて、孤独に慣れた生活をしていたためかもしれない。とはいえ、道場で他の修行者と一緒になるのは一向に気にならないのだが……。

 理由は分かっていた。比べられているような気がするからだ。

 もう一人の『ルーク・フォン・ファブレ』と。

 フォミクリーという、複製体を作る技術がある。この技術を用い、十歳の時、アッシュにはもう一人の自分――レプリカが作られた。十七歳で一つの街と共に消えると預言されていた彼の運命を回避するため、ただ死ぬために生み出された身代わりの人形だったのだ。彼の剣の師であったヴァンの目論見により、レプリカとオリジナルは人知れず摩り替えられ、家族も周囲の人々も、愚かなことにレプリカ自身ですら、自分が贋物であるということを知らないまま七年を過ごした。

 七年目にアッシュとレプリカは出会い、……さまざまな事件を経て、最後にアッシュだけが残った。大爆発ビッグ・バンという現象が起こったのだと、フォミクリー発案者でもあるジェイドは言った。アッシュとレプリカはただのオリジナルと複製体ではない。音素フォニム振動数まで同じ、完全同位体という特異な存在だった。完全同位体である物質が並ぶと、自然と互いに混ざり合おうとする力が働き、長い時間を掛けて少しずつ音素乖離・融合再構築コンタミネーションしてしまうのだという。

 同一化コンタミネーションが完了する前に、アッシュは死んだ。その死後、残されていた様々な厄介事を片付けたのはレプリカである。だが――全てが終わった後、帰って来たのは自分だった。レプリカは消滅していた。ただ、アッシュの中に彼の記憶だけを残して。

 

『それが大爆発ビッグ・バンという現象です。自然に起こる、止めようのないものだったんですよ。それにしてもあなたが甦ったのは間違いなく奇跡です。あなただけでも戻ってくることが出来たことを素直に喜ぶべきでしょう』

 

 ジェイドはそう言ったが、ガイやティア、アニス――ルーク・レプリカの仲間たちが、ただ手放しで喜んでいるわけではないことは、アッシュにも分かっていた。戻った時、涙を流して抱きしめてくれたナタリアでさえ、時折、辛そうな表情をふと浮かべる時がある。

 レプリカはアッシュの名前を、家族を、居場所を奪った。そのことを憎んでいた時期もある。だがレプリカは己が贋物だと知った後、それでも歩んで、確かに彼自身の居場所を勝ち取っていたのだった。そして気付けば、今は自分の方がレプリカの居場所を奪ったような按配になっている。レプリカとアッシュの居場所は微妙に重なり合い、違うようでいて同じものであることをも期待されていたから。

 これは気にするだけ愚かなことだし、気にしたところで意味がないのだろう。そもそも――彼はもういない。

 それでも、もう一人の自分を知る使用人たちの目の中、態度の端々に、「ああ、ここは似ている」「ここは違う」といちいち確認しているような色が仄見えて、それが気塞ぎになる。罪などであるはずがない。互いに懸命に生きただけで、結果がこうなっただけだ。――それでも、例えば、戻って以来一度も顔を見せない かつての使用人兼幼なじみの態度に、確かに己が「奪った」のだ、という罪を意識させられる。

 ふう、と何度目かの息を吐いた。それに気付いて自分で自分に憮然とする。母やナタリアにこんな様子を見られたら、また一悶着あるだろう。彼女たちを心配させたくはなかった。レプリカは消え、自分は生きている。彼の記憶を持ってはいても、自分は彼になることは出来ない。ならば、自分は自分として生きていくしかないのだから。

 そろそろ戻ろう。そう思い、剣を片手に立ち上がろうとした時だった。

「――っ!?」

 頭を押さえ、アッシュはしゃがみこんだ。頭痛だ。キーーンと共鳴音のようなものが聞こえ、意識がかき乱されて頭の芯がガンガンと痛む。

 だが、アッシュが苦鳴を漏らすより前に、痛みはすうと引いた。起こったのと同様に唐突に、呆気なく。

「……今のは?」

 この痛みには覚えがあった。レプリカと出会った後、度々体験したことがある。ローレライが意識を繋いで来た時に感じたものに似ていた。

 ローレライとは、この惑星とその物質を構成する音素フォニムの一つ、第七音素セブンスフォニムの意識集合体である。星の記憶を司り、それを詠む力を、第七音素を操る力を持つ人間――第七音譜術士セブンスフォニマーに与えるという。アッシュ自身に自覚はないが、なんでも、アッシュはこのローレライとも完全同位体なのだという。そのためなのか、アッシュは本来なら第七音譜術士セブンスフォニマーが二人いなければ発動しない超振動という力を、生まれつき一人で使えた。複製体であるゆえに制御能力が劣化してはいたが、ルーク・レプリカも同じ力を使え、彼とアッシュが同一化した今は、その力は更に安定した第二超振動というものに進化している。――とはいえ、世界から音素力フォンパワー第七音素セブンスフォニムが欠乏しつつある今、その力は振るうに振るえない、絵に描いた餅のようなものなのだが。

 そう。今、世界からは第七音素が欠乏しつつある。元々第七音素は自然に存在したものではなく、人工的に作られた半永久エネルギー機関、プラネットストームの余剰として生まれたものだった。だがプラネットストームの生み出す膨大な音素力フォンパワーが、世界を滅ぼそうとするヴァンの空中要塞エルドラントの防御壁として働いたため、ルーク・レプリカたちはストームの門であるセフィロトを閉じて、これを停止させたのだ。よって、今は譜術や譜業のエネルギー源たる音素力も低下しつつあり、第七音素が新たに作られることもない。第七音素の意識集合体であるローレライはといえば、かつては星の地核に留まっていたが、ルーク・レプリカの手によって解放され、今は望みどおり、惑星の周囲を巡る音譜帯の一部になっている。

(そうだ……。ローレライは今は音譜帯にいる。プラネットストームが生きていた時ならともかく、今はこの星から切り離されているはずだ。なのに、今更俺に意識を繋げて来たりするか……?)

 そう思うと、気のせいだという気がした。今のは、ただの頭痛なのだろう。実際、声は何も聞こえなかった。

 ――と。

「――また頭痛なのかい? あんたのその姿を見るのも久しぶりだねぇ」

 不意に声を掛けられて、アッシュは仰天した。いつの間にか間近に女がいる。

「貴様……!? いつの間に」

 不覚を取った。そんな思いで睨みつけたが、女はケロリとした風で肩をすくめた。その動きで豊満な胸がたわみ、誇張される。盗賊団「漆黒の翼」の首領、ノワール。かつて配下として雇い、行動を共にしていたことがある。

「あんたが頭痛に気を取られて気付かなかったんだよ。そんなに睨むのはおよし。久しぶりに会いに来てやったんじゃないか」

「……何の用だ。もうお前たちとの縁は切れているはずだぞ」

「相変わらず愛想がないねぇ……おっかさんの胎の中にでも置き忘れてきたのかい。ああ、でもあのレプリカの坊やはもっと可愛げがあったか」

 アッシュは更に憮然とする。

「まあ、そんなことはどうでもいいさね。ここに来たのは他の用事のついでってヤツで、特別な理由があるって訳じゃない。だからそんなに警戒しないでお聞き。ただ、あんたの耳に入れておいた方がいいと思うことがあったんでね」

「何だ」

「あたしたちの仲間が世界中を渡り歩いているのは知っているだろう。それで、レムの村にも足を伸ばしたやつがいるんだけどね」

「レプリカ自治区か。――まさか、レプリカたちから盗みを働いたんじゃないだろうな」

「そんなことは許さない。ま、あそこへ送られる援助物資を横流しする奴なんかもいるからね。そういう奴らを懲らしめがてら、多少のおこぼれに預かるわけさ。……で、最近あそこに新入りのレプリカが来たって話でね。そいつがどうもレプリカらしからない」

「……? オリジナルがレプリカのふりをしているということか?」

「さあね、それは分からない。だが、あの村に入る際には簡単な検査を受けるだろう。レプリカってのは、体が第七音素だけで出来てるって話だからね。髪の毛一本でも検査できる。それは通ってるわけだからレプリカなんだろうよ。……まあ、誤魔化す方法なんていくらでもあるだろうが。

 とにかく、妙にしっかりした奴で、ぼんやりしていたレプリカ連中をたちまち まとめ上げちまったって言うんだよ」

「確かに……少し奇妙な話だな。だが、もうあれから五年だ。そろそろ強い自我を持つレプリカが現われてもおかしくはあるまい。……何か問題が起きているというのか?」

「今のところ目立ったことはないが。レプリカたちが多少反抗的にはなったらしいね。今まではキムラスカやマルクトから派遣された役人連中の言う事になら何にでも従っていたんじゃないのかい? それが、文句をつけるようになった。彼らだけで集会をしたりね。……それを不穏に感じるオリジナルの連中がいて、むしろそっちがヤバいかもしれない」

「……いずれは起きる問題だっただろうがな。だが、予想より早いか。その、新入りのレプリカって奴と一度話してみる必要があるだろう」

 そう言って考え込むと、ノワールが「またナタリアのことでも考えているのかい」と言ったので、アッシュはぐっと息を詰まらせた。図星ではある。キムラスカにおいて、レプリカ自治区に関する問題に最も積極的に取り組んでいるのは彼女だ。今回の件でも彼女が中心になって動くだろう。

「分かりやすいねぇ。ま、婚礼を控えてるんだし、今は九割ナタリア、一割その他ってところかねぇ」

「くっ……。だ、黙れ! 話はそれだけか? だったらもう帰れ!」

「はいはい。全く、そんなに邪険にするんじゃないよ。盗賊はさっさと退散するさ」

 ノワールはヒラヒラと片手を振って、腰を振りながら出口へ歩いていった。戸口で立ち止まり、チラリと振り返る。

「この話をあんたにしておくべきだと思ったのには、理由があるんだよ。……そのレプリカ、あんたに関わりのある奴かもしれない」

「……なに?」

「もっとも、まだあたしたちにもハッキリしないのさ。そいつ、顔を隠しているからね。だが、もしもあんたの知ってる奴ならば、いずれ必ずぶつかり合うことになるだろう。……それを教えておきたかったのさ」

 それだけ言うと、ノワールは猫のようにするりと戸口から消えた。






 キムラスカ・ランバルディア王国の首都であるバチカルは、光の王都と呼ばれる。巨大な譜石の落下した跡に作られた縦長の都市で、層状になった街は天空客車や昇降機で縦横に結ばれている。各所に石や金属の精緻な細工が見られ、全体に重厚味が感じられた。マルクト帝国の首都が自然の美しさを基調としたものならば、バチカルは人造の美、人の手による芸術を体現していると言えるだろう。

 王城は街の最上階にある。その城門で、今、ちょっとした騒ぎが起こっていた。

「姫様、お待ち下さい姫様ぁ!」

「もう、なんですの、レミ。そんなに騒がなくとも聞こえています」

 城の前の階段を下りていこうとしている緑の瞳の女――ナタリア王女の後ろから、バタバタと足音を立てながら一人のメイドが追いすがってきていた。

「婚礼の衣装合わせはもう終わりましたわ。今は火急の用事はないはずですわよ」

「だって、姫様。お一人で出かけられるのは危のうございますぅ」

 見た目の年齢はナタリアとそう変わりない、だが妙に子供っぽい仕草で眉を八の字にするこのメイドに、ナタリアは軽く肩をすくめ、覗き込んで「大丈夫ですわよ」と笑ってみせた。

「少し街を歩くだけですわ。この時間なら、アッシュもミヤギ道場にいるでしょうし。一人でも心配は要りません」

 弓矢だって持っておりますのよ、と背の矢筒を示した。

「でもぅ……」

「しかし殿下、恐れながら、確かに供もつれずにお一人で外出なさるのは感心できませんよ」

 見かねたのか、城門を守っていた兵士の一人が口を挟んできた。

「街中とはいえ、どんな危険があるかも分かりません」

「あら、バチカルはあなた方キムラスカ軍のバチカル守備隊によって厳重に守られているのでしょう。何の危険があるというのです」

「そ、それはそうですが……」

「ほら、街の方から歌声も聞こえてきますわ。平和なものですわよ」

 耳を澄ませるように少しの間まぶたを閉じてから、ナタリアは再び大きな目を開いた。

「姫様! それでは、あたしも一緒にお連れ下さい。あたしが姫様をお守りしますぅ」

「まあ、レミったら。まさか外出したかっただけなのではありませんわよね。仕方のない子ですわ」

 少したしなめる口調で言って、それでも、苦笑してナタリアが根負けしようとした、その時である。誰かが駆け寄ってくる固い靴音が聞こえた。

「なっ……何事だ!」

 気付いたキムラスカ兵が、振り向き様に槍を構えようとする。だが一瞬早く、駆け寄った者の振るった剣が、甲冑の隙間から柔らかな肉を切り裂いていた。苦鳴と血飛沫を上げ、兵士は地に倒れた。足元に飛び散った血から飛びのき、レミが悲鳴をあげる。

「なんですの!?」

 その殺害者にナタリアが視線を向ける。「姫様!」「殿下をお守りしろっ」と、キムラスカ兵たちのものらしき声がパラパラと聞こえたが、同時に剣戟の音や悲鳴も入り混じった。

 ナタリアの周囲を不穏な様子の男たちが取り囲んでいた。――男だろう、多分。全身を甲冑で覆っているため、顔も体つきも分からない。だが、その甲冑には見覚えがあった。

神託の盾オラクル騎士団……!? 何故、神託の盾がこんなことを)

 驚愕しながらも、彼女の体は馴染んだ戦闘の動作に入っている。背から弓矢を取り、殆ど一動作でつがって放った。矢は、彼女の眼前に迫っていた神託の盾兵、それも複数の手甲や肩を貫通する。「ぐぁあ!」と兵たちが悲鳴をあげた。

わたくしを舐めないことですわね。――次は、心臓を狙いますわよ」

 つがえた矢の狙いをぴたりと定めながら、ナタリアが凛とした声で言った。

「お前たちは何者です! 神託の盾の身なりをしていますが……。ここはバチカルの城門ですよ。場をわきまえぬ蛮行はおやめなさい!」

 彼女の決して大柄とはいえない体から放たれる強い気――まさに王者の光輝とも言うべきものに、無頼の闖入者たちは気圧されている。じりじりとその包囲が下がった。――が。

「きゃあ!?」

 神託の盾兵たちの包囲の向こうから、唐突に地を走ってきた衝撃が、ナタリアの細い体を打ち倒した。

(い、今のは……!?)

 この技には見覚えがある。かつて、何度も見ていた。婚約者であるアッシュが、そしてそのレプリカであったルークが放つのを。己の拳に気を込めて撃ち放ち、地を走らせて敵をなぎ倒す。アルバート流奥義、魔神拳。

 倒れたまま、ナタリアはそれを放った男を目に捉えた。奇妙な男だ。フードを目深に被り、覆面までしている。左手に大振りの剣を持ち、離れた位置に立ったまま彼女を見下ろしていた。

「きゃあああ! いやぁ!」

 その男に奪われていた意識は、背後から聞こえた悲鳴に引き戻された。レミが、周囲に迫っていた神託の盾兵に捕らわれている。

「レミ! おやめなさい、お前たち!」

 ナタリアの制止など意にも介さず、兵たちは捕らえたメイドの白い首を短剣で掻き切ろうとした。が。

「やめろ。そいつはレプリカだ」

 何かレンズ状の譜石をはめ込んだ小さな音機関をかざしていた別の神託の盾オラクル兵が、そう言って止めた。短剣が離されるのを見て、ナタリアがホッと息をつく暇もなく。

「――うっ!?」

 強引に引き起こされ、腹部に強い衝撃を感じた。急激に意識が遠のいていく。

「不覚……」

 己のふがいなさを呪うが、全身の力が抜けている。閉ざされていく意識の中で、ナタリアは最後に、己が最も想う者の名を呟いていた。

(アッシュ……)






 その地に足を踏み入れると、懐かしさを感じた。それはそうだ。この地で俺は七年を過ごした。奥に見えるローレライ教会の尖塔を見上げながら、アッシュはそう思う。

 宗教自治区ダアト。三年前にこの大地へ戻って以来、アッシュがこの都市を訪れたことはなかった。その必要がなかったし、強いて行く気もしなかった。正直、ここに戻るのが複雑だったということもある。この地で過ごした七年、彼は『存在しない者』だった。名を失い、過去を奪われた、踏みしめるべき大地がないような宙ぶらりんの生活。

(それでも……、ここで過ごした七年が、今の俺の多くを形作っているのは確かだ)

 長く訪れる気のなかったこの地をアッシュが再び踏んだのには、勿論意味がある。数日前、ノワールから奇妙な情報を受け取った後、バチカルの上層へ戻ったアッシュを待ち受けていたのは、あちこちに兵士たちが倒れ伏している光景と、ナタリアが連れ去られたという報せだった。

 キムラスカ軍施設から上層の兵は、ことごとく譜術で眠らされていた。最上層の警備兵たちの多くも眠っていただけだったが、最奥の城門附近の兵たちは殺されていた。中にまだ息のある者がおり、十数名ほどの襲撃者に襲われ、彼らはナタリアとメイドを一人連れ去ったと告げたのだ。

 これを聞いてアッシュは歯噛みし、己を呪った。

(俺は……命かけてあいつを守ると誓ったのに!)

 まさか、バチカルで彼女に危害を加える者はいまいと油断していた。

 キムラスカ王国の首都、それも城門で王女をさらうとは、とんでもなく大胆で不敵な行動だ。ただちに街の門や港は封鎖されたが、既に逃げ延びたのか、不審者もナタリアも見つからなかった。そして、何の声明文も要求も聞こえて来ない。

 一体何の目的でナタリアを連れ去ったのか?

 それは全く分からない。ただ、事切れる寸前、兵士は「奴らは、神託の盾オラクルの装備を……」と言い残していた。ローレライ教団教兵団神託の盾オラクル騎士団。兵の言い残したことが本当であるならば、襲撃を行ったのはローレライ教団だということになる。

 だが、大臣や将軍たちがいきりたって抗議の声明を送ろうとする前に、アッシュはまずは自分をダアトに行かせてほしいと願い出た。確かに、五年前に神託の盾騎士団が各国に進入し、暗躍や殺戮を行ったことがある。だが、その時の指揮者は既に亡い。ローレライ教団は新たな体制に生まれ変わっているはずだ。かつて神託の盾騎士団に所属していた身としても、まずは自分の目で真偽を確かめたい、と。

 バチカルをすぐに発ったが、船を乗り継いでここに来るまでに数日掛かっていた。ナタリアは無事でいるのか? そう焦る気持ちと、こんな時こそ冷静になれと叱咤する内心の声が拮抗している。とにかく教団本部へ行こうと、アッシュが歩を早めたときだった。

「ふざけるんじゃねぇっ!」

 罵声が聞こえた。次いで、ガシャーンと何かが砕ける音。女の悲鳴。

 見れば、道沿いの家の扉が開き、若い女が倒れ伏している。扉にはまっているガラスが割れていた。戸口には男がいて、仁王立ちのまま女を睨みつけている。

「よくも、俺を騙しやがって……」

 怒りに声を震わせる男の前で、女は腫れ上がった頬を押さえて「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣いている。おい、なんだ、夫婦喧嘩か。止めなくていいのかね。そんな声が周囲の通行人たちの間で囁かれるのが聞こえた。フン、くだらん。そう思って踵を返そうとしたアッシュの耳に、男の次なる罵声が飛び込んだ。

「レプリカのくせに! 畜生! そ、そうだと知ってたら、お前なんかと結婚しなかった!」

「ごめんなさい。ゆるして。あ、あたしは……」

「黙れ。いいから出て行け! この半分レプリカの化け物も……いらねぇよっ!」

 男は家の奥から赤ん坊を引き出した。片手で掴み、女に投げつける。女が悲鳴をあげ、赤ん坊は火がついたように泣き喚いた。ちょっと、ひどいじゃないか赤ん坊を。でもなぁ、レプリカなんだろう? そんなざわめきがアッシュの肩を怒らせる。思わず手が左腰の剣に伸びた――が。

「ちょーーっと待ったぁ!」

 それより先に、高い声が辺りに響いていた。アッシュの後ろから小走りに駆けてくる、神託の盾騎士団の軍服を着込んだ小柄な女。腰ベルトの後ろには不気味可愛いヌイグルミが一つ揺れている。

「レプリカだからって何だっていうの? あんたの奥さんと子供なんでしょーがっ。これ以上のローゼキを働いたら、この神託の盾騎士団特務師団長アニス・タトリンが黙っていないからね!」

 両腰に手を当てて一喝すると、集まっていた野次馬たちがおののいた。

「アニス!」「神託の盾騎士団の四天王、暴風アニスだ!」

「ちょっ……。その二つ名は却下ぁ! 却下だからね! 私は、人形遣い。プリティーでキュートな人形遣いのアニスちゃんなんだから!」

 口を尖らせ、アニスはなにやら懸命に主張を始めた。

「いやぁー。なんだか懐かしいノリですねぇ」

「ディストか。そういえばあいつ、まだ監獄に入ってるんだっけ?」

 そんなことを言いながら後ろから歩いてくる一団がある。

「ジェイド、ガイ。……それに、ティアもか」

「久しぶりですね、アッシュ」

「アッシュ、本当に久しぶりね。変わりなさそうでよかったわ」

 アッシュの視線を受け、ジェイドとティアが笑った。その隣で、「……よう。久しぶり」とガイが幾分固い表情を見せる。釣られたように、アッシュの顔もぎこちなく歪んだ。

「……ああ。お前らも元気そうだな。それにしても、なんだってまたつるんでやがる?」

「そういうあなたこそ、こんな所にいるのは珍しいですが。……あなたは無駄な行動はしない。ましてや、今はナタリアとの婚礼を控えた大事な時期だ。よろしければ、理由を聞かせてもらえますか?」

「それなら、本部へ行こうよ」

 振り返ってアニスが言った。その手は、赤ん坊を抱いて泣き崩れている女の肩を宥めるように抱いている。

「この人のコトも保護しなくちゃいけないし。……私たちの方にも、色々と話したいことがあるからね」






 神託の盾本部のティアに割り当てられた個室に、一堂は集まっていた。保護した女は、その前に別室へ連れて行っている。

「最近は、ああいうことが多くなってるんだよ」

 椅子に腰掛けてアニスが言った。

「パッと見じゃオリジナルと見分けのつかないレプリカも増えてきてるんだけど、逆に、差別は大きくなってる感じ」

 あちこちでレプリカが弾き出されてて、保護するのも大変だよー、と言うアニスの声を、ティアが受け継ぐ。

「……レプリカを異質なものだと見る風潮が、消えていないのね。以前は、表情や目つきですぐに見分けがついたけど……オリジナルと区別のつかないレプリカは、より不気味なものだと思われているみたい」

「同等の存在だと認めるのが恐ろしいのでしょう。……居場所を奪われると思っているのかもしれません。愚かな思い込みですけれどね」

 ジェイドが言った。

「……そうか」

 己に向けられたガイの視線を感じながら、アッシュは呟く。

「レプリカたちも自我を持ち始めているんだな。レムの村でもレプリカたちがまとまる動きを見せていると聞いたが」

 微かに、アニスたちが息を呑む気配を感じた。

「アッシュ! もしかしてアッシュもレムの村のことでここに来たの?」

「? いや。俺は……ナタリアを探しているんだが」

「ナタリアがどうかしたのか?」

 ガイが、寄りかかっていた壁から身を起こした。

「四日前、ナタリアがバチカル城から連れさらわれた」

「なんだって?」「ええっ」「マジ!?」

「それはまた……大胆不敵ですね。ご自慢のバチカル警備隊はどうしていたんです」

 マルクト軍人の揶揄ともいえる疑問に、アッシュはむっつりとした顔で答える。

「譜術で眠らされた。一部は殺されたが。……その襲撃者どもは、神託の盾オラクル騎士団の装備を身につけていたそうだ」

「そんな!」

 アニスが叫んだ。ティアが言う。

「この一週間、どの部隊も動いていないはずよ」

「そうだよぅ。それに、神託の盾オラクルがナタリアをさらったって、何の意味もないもの。五年前に兵の大半が総長に付いてっちゃって、その後の改革やら何やらで入隊希望者も減ったから、ぶっちゃけ今は規模もガタ落ち。そんな余裕ないよ」

「……分かっている。俺も本当に神託の盾の仕業だと思っていたわけではない。今は五年前とは状況が違う。神託の盾騎士団の活動の制限は増えた。あの姿での行動はかえって不利だからな。だが、確認はしなければならん」

「それでここに来た、というわけですか」

「ああ」

「それにしても……その、神託の盾の格好をしてたって奴らは何者なんだろうな」

 ガイが呟いた。アニスが言う。

「……なんか、厭なこと思い出しちゃった。総長やモースがレプリカを大量に生み出したとき、キムラスカ軍の格好をさせてマルクト軍を襲わせたことがあったよね」

「そんなこともあったわね……」

「ナタリアの件にもレプリカが絡んでいるかもしれない……そういうことですか?」

「え? そ、そういうわけじゃ……」

 自分で言い出したことなのに、確認されるとアニスは目に見えてうろたえた。

「ううん、違う。そんなことないですよぅ! レプリカの仕業じゃありません。だって、今はフローリアンだっているんだし。彼らはそんなひどいことなんてしないです!」

「フローリアン? あいつがどうかしたのか?」

 アッシュはアニスに訊ねる。「そ、それは……」と口ごもったアニスに代わり、ジェイドが口を開いた。

「フローリアンは今、レムの村にいるんです」

 そして、彼は説明した。十日ほど前に教団本部からフローリアンが姿を消したこと。アニスとティアがピオニーに泣きつき、アルビオールでレムの村へ向かったことを……。




 レプリカ自治区、通称レムの村。カイツール軍港の南に位置するキュビ半島にある集落である。キムラスカ・マルクト両国の領事館が置かれ、ローレライ教団の修道院も置かれている。この三者から選出された代表による委員会を実質の管理者として、現在四千人ほどのレプリカたちが暮らし、農業や加工業などを行っている。

 村に入れば、呆気ないほど簡単に彼は見つかった。村にあるローレライ教の修道院にいたのだ。扉を開けてすぐのホールに多くのレプリカたちが集い、彼はその中心にいた。詠うような彼の声がホールの中に響いている。

「……『ND2023。失われた光が輝き、沈んだ大地を甦らせるだろう。……人々は歓呼し、それに従う』」

「フローリアン!」

 アニスが彼の名を叫んだ。ハッとして、フローリアンは口を閉ざし視線を向ける。その顔がパッと輝いた。

「アニス!」

 ざわめく人々の間を縫って、こちらに出て来る。アニスは、ふと瞳に疑問を浮かべた。彼の身に着けている衣服――以前と同じような白い法衣だが、一般の教団員用のものではない。

 これって……。

「よくここが分かったね。どうやって来たの?」

 思考は、フローリアンの無邪気な問いにかき消される。

「よく分かったね、じゃないわよぅ! 黙って消えちゃって、みんながどんなに心配したって思ってるの!?」

「ご、ごめんなさい……」

「まあまあアニス。少し落ち着けよ。フローリアンが脅えてる」

「そうよ。とにかく、無事だったんだから」

「うー……」

 ガイとティアが言ったが、アニスはまだむくれていた。心配していた分、感情の収まりがつかないのだ。

「ところでフローリアン。あなたはここで何を?」

 ジェイドが問うた。眼鏡の底の目が鋭くなっている。

「あなたのその服……まるで導師のもののようですが。まさか、先程詠っていたのは……」

 フローリアンは口をつぐんだ。いつも素直で屈託のない彼には珍しいことだ。「フローリアン……?」と、アニスが不安げに彼を呼ぶ。

「……ええ。あれは、預言スコアです。でも、ユリアのものではありません。ボクが新たに詠み出した惑星預言プラネットスコアです」

「フローリアン!? 惑星預言プラネットスコアを詠んだの? あれは体によくないんだよ?」

「ボクは、先代のレプリカイオンほど体が弱いわけじゃないよ。その分、譜力が劣化しているけどね」

 だから心配ないよ、と言うフローリアンに、ガイとティアが言葉をぶつける。

「だけど、どうして預言なんか詠むんだ、フローリアン。今の世界に預言は不必要なものだろう」

「そうよ。それに、教団は預言を詠むことを禁じているわ」

「……それは、オリジナルの人たちにとっての話でしょう」

 「え?」と、アニスは目を瞬かせた。長く共にいたはずの若者の、けれど滅多に見たことのなかった固い表情を見つめる。

「オリジナルの世界は預言を捨てた。それはそれで構いません。ですが、ボクたちには……レプリカには、まだ、導きが必要なんです。ボクらにはそもそも詠まれるべき預言がなかった。でもそれは、誰もレプリカのための預言を詠もうとしなかったからだ。ボクらにだって、この星に生まれた存在として、星に刻まれた未来はある。ボクは、預言によってみんなに光を与えたいんです!」

「フローリアン……!」

「今だって、ボクらはマルクトやキムラスカ――オリジナルたちの思惑に流されているだけです。ボクらは、ボクらの足で歩くべきなんだ」

「で、でも……預言は」

「確かに、それは間違ったことではありませんよ。自立しようというのは素晴らしいことです」

 何か言い募ろうとしたアニスの声に、ジェイドのそれが重なった。

「しかし……それはあなた一人で考えたことではないのでしょう。ここに来たのも。……誰なんです? あなたにその理想を説いたのは」

「それは……」

 フローリアンが答えかけた、その時だった。騒ぎが起こったのは。何かが爆発するような音が響き、キャーッと悲鳴が聞こえる。走り回る足音や人声が溢れた。

「何だ? 外が騒がしいぜ」「行ってみましょう!」

 ガイとティアが外に飛び出していく。アニスとジェイドも従った。

 出てみれば、村は戦場と化していた。武装した一団が雪崩れ込み、譜業武器を用いて村や人を焼いていたのだ。駐留している僅かなキムラスカとマルクトの兵が応戦してはいたが、物の役には立っていないようだった。レプリカたちは、ある者は悲鳴をあげて逃げ惑い、ある者は泣き喚き、あるいは不安げな顔でぼんやりと座り込んでいた。

「なっ……。なに、これ!」

 惨状を目に入れるなり、アニスが憤然と叫んだ。ガイが武装集団に叫んでいる。

「やめろ! お前たち、一体何のつもりだ!」

「ん? お前たちは……オリジナルか。ならば、分かるだろう。この薄気味悪いレプリカどもをこの世から抹消するんだよ」

「なんだと!?」

「この自治区はマルクト・キムラスカ両国に保護されています。あなた方が何者であれ、勝手に干渉することは許されないはずですが?」

 眼鏡を軽く押し上げながら、ジェイドがゆっくりと歩み寄ってきた。

「フン、上の連中のやる事は甘っちょろいんだよ。レプリカを保護する必要がどこにある!」

「そうだ! こいつらが作られたせいで死んだ人間も多いんだぞ!」

「仕事を奪われた奴だっている。こいつらに食わせる食いもんや使う金があるなら、こっちによこしやがれ!」

 アニスが叫んだ。

「な、何言ってんのよ。そりゃ確かに、レプリカ情報を抜かれることで亡くなった人もいるかもしれない。でも、そんなの一握りだよ。それに、今、レプリカのみんなは生きてるんだから!」

「それがどうした! レプリカなんざ、所詮、人間モドキの化け物じゃねぇか!」

「……!」

 アニスは絶句してしまう。フラリとよろめいた背を軽く支えて、ジェイドは更に一歩、前へ出た。

「やれやれ……。どうやら話して分かる頭は持っていないようですねぇ」

「レプリカは化け物じゃない。俺たちと変わらない……人間だ。無為な殺戮をするというのなら、容赦はしないぜ」

 ガイがスラリと鞘から剣を抜いた。ティアも杖を構える。それを見て、譜業兵器を持つ男たちが嗤った。

「なんだ? その人数で俺たちと戦おうって言うのか。はっ。レプリカのために命を捨てるとは、お笑いだな。……いいだろう、望みどおりレプリカどもと心中させてやるよ。紅蓮の炎でなぁ!」

 

 男たちの持つ譜業兵器は、空気中から第五音素フィフスフォニムを吸収・圧縮し、構えたラッパ状の音機関から広範囲に、殆ど無尽蔵に炎を放射するというものだった。確かに、並の人間や魔物であれば、何も出来ずに消し炭にされるだけだったかもしれない。だが、彼らが対峙したたった四人の男女は、『並』ではなかったのだ。

 ティアの譜歌による結界が炎を無効化する。ジェイドの放つ譜術が轟音と共に彼らを叩いた。その合間を縫って、ガイの刃が、巨大化したアニスのヌイグルミ――トクナガの腕が振るわれる。二十人以上いた武装集団が沈黙するのに、そう長い時間はかからなかった。

 

 一段落はついたが、それにしてもひどい有様だった。建物の幾つかは焼け落ち、薄い煙を上げている。あちこちにキムラスカ・マルクト兵や襲撃者たちの死体が転がっていた。本来なら、死体の数はもっと多いのだろう。だが、命を落とせば音素フォニム乖離を起こして消えてしまうレプリカたちは、その死の跡を残すことが出来ない。

 嗚咽が聞こえた。座り込んでいたレプリカが泣いているのだった。すすり泣きは伝染し、あちこちに広がりだす。

「怖いよ……」「いたい……いたいよぉお……」「どうなったんだ。あいつはどこへ行ったんだ。消えてしまった」「助けて、殺される」「いやだ……死にたくない……」「オリジナルたちは俺たちを殺すつもりなんだ!」

 集団恐慌が起こりつつあった。「殺される!」「死にたくない!」という叫び声があちこちで起こり出す。

「お、おい……こいつはマズいぜ?」

 ガイが呟く。「みなさん、落ち着いてください!」とティアが叫んだが、効果はなかった。

 その時、一歩前へ進み出たのはフローリアンだった。

「大丈夫です、みなさん。脅威は取り払われました。預言スコアを信じ、心静かにしてください」

 その瞬間は実に劇的だったと、ジェイドは語った。レプリカたちは打たれたようにフローリアンを見上げ、一斉にすがるような目を、そして安堵した笑みを浮かべたのだという。

「そうだ、私たちには預言がある」「我々は救われる!」

 そして、口々にフローリアンに呼びかけた。

「ありがとうございます」「どうか私たちをお導きください、導師様」「イオン様!」

「イオン……様?」

 愕然と呟くアニスから僅かに視線を伏せて、フローリアンは言った。

「彼らには、彼らの導師が必要なんです。……レプリカにとってのイオンが。ボクは彼らの期待に応えたい」

「でも! フローリアン……」

 食い下がろうとしたアニスから、フローリアンはついに背を向けた。

「すみません……。今は、帰ってください」

 そして、修道院へ去っていく。伸ばしかけた手を宙で止め、アニスはそこに棒のように立っていた。




「それ以降、彼は私たちを拒絶しましたのでね。後のことは領事館に任せて、とりあえずダアトに戻ってきた……といったところです」

「そうか……」

 話を聞き終えて、アッシュは声を返した。

「結局、その……レプリカたちの背後にいるらしい奴のことは分からなかったのか?」

「フローリアンはそれっきり会ってくれなかったからな」

「私たちが行った時には留守にしていたようだったわね」

 黙り込んだアニスに代わるように、ガイとティアが言う。「ふん……」とアッシュは腕を組んで考え込んだ。

「……何か? アッシュ」

 ジェイドが問う。

「いや……。その、レプリカたちの背後にいるという者。もしかしたら、俺にも関わりがあるのかもしれねぇからな」

「え!? そ、それってどういう……」

 顔を上げ、立ち上がって叫びかけたアニスの声は、途中で悲鳴に変わった。まさにその時、ぐらぐらと大地が揺れたからだ。

「きゃ!」「地震!?」

 はずみで、アニスは再び椅子に座り込んでしまった。

「大丈夫? アニス」

「う、うん。びっくりしたぁー」

「地震が起こるのもなんだか久しぶりだな」

 片手を壁についてガイが言う。

「外殻降下前以来……ですか」

 ジェイドの呟きを気にせず、アニスが再び言った。

「あっ、それよりアッシュ。その、レプリカの背後の……うー、面倒くさいなぁ。『怪しいレプリカ』と関わりがあるかもしれないって、どういうこと?」

 「『怪しいレプリカ』ってな……」と苦笑するガイを他所に、アッシュは淡々と返した。

「俺にも分からん」

「は?」

「だが、ナタリアのこともある。他に手がかりもないし、そいつから当たるのしかないのかもしれん」

 そう言って、アッシュはもう身を翻しそうにする。「まあ、待ちなさい」と言ったのはジェイドだった。

「どこに行くにしても足は必要でしょう。私たちにはアルビオールがある。一緒に行動しませんか?」

 ナタリアのことは他人事ではありませんしね、と言うと、ティアも「そうだわ」と同意した。

「む……」

 アッシュはむっつりと眉間にしわを寄せ、しかし足を止める。確かに、アルビオールの便利さを知ってしまえば、船を乗り継いでの移動はまだるっこしいことこの上なかった。

「ただ……レムの村へ戻る前に、一箇所行きたいところがあります」

「どこだ?」

「あなたのお父上の領地ですよ。……ベルケンドの第一音機関研究所へ」

「ベルケンド……だと?」

「何かあるんですか、大佐。……あ、いえ、中将閣下」

「ジェイドで構いませんよ、ティア。……厭な予感がするんです。ベルケンドなら、今の地震についても恐らくは観測されているはずです。行きましょう」

 眼鏡の奥の譜眼を赤く輝かせ、ジェイドは一同を促した。





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