■クリスマスの話

 現代より二千年も昔のこと。
 エルサレムのヘロデ王のもとに、東方から三人の博士がやってきました。
「私達は星を見てやってきました。ユダヤ人の王となる者が生まれたのです。その子はどこにいますか?」
 ヘロデ王の配下の祭司長や民間の律法学者たちは答えました。
「その誕生は預言にうたわれています。救世主キリストはユダヤのベツレヘムに生まれると」
 ヘロデ王は自らの地位を脅かすものとしてキリストを恐れました。それで、旅立っていく三人の博士に
「キリストを見つけたらここに戻って私に教えて欲しい、私も会いにいってみたいから」と頼みました。
 三人の博士は星の導きで、ベツレヘムのある家に辿り着きました。そしてそこにいた母マリアと幼子のキリストの前にひれ伏し、拝むと、宝の箱からそれぞれ黄金・乳香・没薬を取り出して贈りました。

 さて、ヘロデ王は三人の博士が戻るのを待ちかねていましたが、博士達はついに戻ってきませんでした。夢で「ヘロデ王の元には戻るな」と警告を受けていたからです。博士達は別の道を通って自分の国へ帰っていきました。
 ヘロデ王は三人の博士を待ち続けました。ついに騙されたことに気付くと、王は怒り狂って、キリストと同じ頃に生まれた二歳以下の男子をすべて殺させたのでした。

 けれど、キリストは殺されませんでした。何故なら、三人の博士が帰ったすぐ後、神の御使いが父ヨセフの夢に現れ、こう告げたからです。
「さあ、立って、幼子とその母を連れて、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまでそこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています」
 そこで、ヨセフはその夜のうちに幼子と妻を連れてエジプトに逃れていたのでした。
 やがてヘロデ王が死ぬと、御使いが再びヨセフの夢に現れて言いました。
「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子の命をつけねらっていた人たちは死にました」
 こうして、ヨセフとは幼子と妻を連れてイスラエルの地に戻ったのです。

 

 新約聖書に書かれている、キリスト誕生の伝説です。

 クリスマス Christmas はキリスト Christ のミサ mass と呼ばれている通り、キリスト教の開祖にして救世主、イエス・キリストの誕生日を祝う祭です。なお、ドイツでは Weihnacht …聖夜であり、「キリストの生まれた夜」を意味します。フランス語ではNoel、イタリア語ではNataleで、これは共に「誕生日」を意味するラテン語からきています。

 ちなみに、日本ではよく省略表記として X'mas と書きますが、Xとはギリシア語で”キリスト”を表すΧΡΙΣΤΟΣ … Xristos の頭文字で、十字架の意味でもあり、キリストそのものを表す記号です。よって単語の省略を表す「'」が入るのは本当は間違い。つまり Xmas と表記するのが正解なのだそうです。

 

クリスマスの日時と由来 

 ところで、聖書の中にはキリストの産まれた日を特定する記述は、実はありません。では何故12/25がキリストの誕生日とされたのでしょうか?

 現代の通説では、紀元325年、小アジアのニケアで開かれた公会議で、この日を救世主キリストの誕生日と「定めた」と言われています。それまでは12/25(冬至)、1/6(冬至)、3/21(春分)のいずれかだったとか。また、三世紀頃は五月だったそうです。

 しかし、354年からはローマ教会がニケア公会議の決定に従い、379年にはギリシア教会が従いました。そして現代に至ります。

 つまり、三百年以上経ってから勝手に決められた誕生日なんですね。そう考えると多少ありがたみが薄れるでしょうか?

 実際、キリストの誕生日は4/14や夏だったとする説があります。聖書の記述に「羊飼いが寝ずの番をしていた」とあり、この地方の冬の寒さや雨の多さでは12月は不可能ではないか、というわけです。

 では、何故キリストの誕生日を12/25に定めたのでしょう。

 実は、12〜1月のこの時期は元々、中東や西欧において様々な祭りが行なわれている時期でもありました。何故なら、12/21〜25頃は冬至であって、天の神……太陽の力が最大に衰える時であり、かつ、これから復活する時でもあったからです。人々は衰える太陽を元気付けようとし、また、甦る太陽を喜び、祝い、新しく訪れる年の更なる豊穣を願いました。

 ローマ帝国では、サトゥルナリア(農耕神サトゥルヌス(クロノス)の祭)が12/21〜31、もしくは12/17から一週間、行われていました。この祭では、豊穣を求めるべく性的な解放も行なわれましたが、ご馳走を食べ、”幸運の贈り物”と称したプレゼントの交換も行われていました。無礼講の”あべこべの祭”でもあって、この期間中は主従関係すら逆転したといいます。そして、祭の期間中でも特に、冬至の直後もしくは当日である12/25は「太陽が甦る日」として記念され、重視されていました。

 また、ローマ帝国にはもう一つ、冬至を祝う祭がありました。ズバリ「不滅の太陽の誕生日」といい、元はミトラ教の祭です。ミトラ(ミスラ、ミトラス)は古代ペルシアの神で、ギリシア神話のアポロンのように光と真理を司っています。牡牛を殺して世界を作った創造の神ともされます。契約の神でもあり、弓、銀の矛、金棒を持って颯爽と甲冑をまとい、秩序に反する全ての悪を圧倒的な武力で排除します。兵士の間で信仰されて西欧中に伝播しました。いささか誇大ですが、キリスト教がなかったら西欧を支配したのはミトラ教だったろうとさえいわれます。ローマでは三百年もの間信仰され、12/25に祝われる「不滅の太陽の誕生日」は、237年には皇帝アウレリアヌスがローマの正式な祭として認めていました。

 ちなみに、ミトラ Mithra はマイトレーヤ、慈悲の神でもあり、私達の日本では世界の終末に民衆を救う救世主・弥勒ミロク菩薩として信仰されているのはご存知かと思います。

 こうして、これら二つの冬至にまつわる祭と、時に「太陽」になぞらえられることのあるイエス・救世主キリストの誕生日を習合し、ローマ教会が先にニケアの公会議で定められていた12/25をキリストの誕生日として扱い始めたのが、クリスマスの第一歩のようなのです。(381年、コンスタンティノーブルの第二会議室で決められてから、という説も。)

 そしてもう一つ。忘れてはならないのが、北欧の冬至祭・ユール Yule,Jul です。なにしろ、現代でも北欧ではクリスマスのことをユールと呼ぶのです。

 北欧のユールについて考える時には、この地方の自然をも念頭に置かねばならないでしょう。ずっと北に位置するこの地域では、夏の間は「白夜」という言葉があるように夜の九時十時になっても白々とした明るさがあります。けれど、冬の間は、昼頃にほんの僅か明るくなるだけ。後は殆ど暗澹とした闇に閉ざされているのです。私達にはなかなか想像のつかない自然環境ですが、だからこそ、人々にとって冬至――太陽が完全に死に絶え、かつ新たに生まれる日――はこの上なく重要な日なのです。

(そして、”だからこそ”この時期に「新年」が設定されていることも忘れてはなりません。教会暦では12/25から新年が始まります。太陽が死に、そして新たに甦るからこそ、新しい一年が始まるのでした。)

 ユールはキリスト教伝播よりずっと昔から祝われてきましたが、しかし正確な起源や元々の日付を知ることは、現代の私達にはもはやできません。ただ、冬至に最も近い満月の晩に関わる祭だったようです。その名の由来も不明であり、北欧神話の主神オーディン(冬の雪嵐)に由来、ジュリアス・シーザーに由来、「輪」を意味する古代ノルディック語に由来、と説は様々です。

 語源はともかく、現代「ユール」は「祭」を意味します。冬至だけでなく、三月の雷神トールの祭もユールです。

 ケルトのドルイド達の信仰の名残とされるワッセルも、アメリカやイギリスの学生達がクリスマス前になると酒場から酒場へと練り歩き酒盛りする”ワッセリング”に僅かに片鱗が残っています。

 ワッセルとは古い言葉で「健やか、元気に」という意味で、相手の所有する林檎の木の成長を祈る言葉だったそうです。人々は新しい年の豊穣を祈るために、クリスマスの12日の期間中のある日に徒党を組んで果樹園から果樹園を回り、特別なアルコール飲料を撒いて木に与え、笛や鐘を鳴らして悪霊を追い払ったのでした。

 

 ところで、先の記述に「12/25(冬至)、1/6(冬至)」と書いておいたのを奇異に思った人もいるのではないでしょうか。

 実は、東西に分裂したローマ帝国のうち、東方では1/6が冬至と考えられていたのだそうです。もっとも、別の説では最初は新年の1/1をキリストの誕生日にしようと考えたのですが、聖書に従えば人間の創造日が六日目に当たるため、1/6をキリストの誕生日としたのだとか。

 よってこの日がキリストの誕生日と考えられ、ギリシア語で「顕現」を意味する”エピファニー”と呼ばれました。現代ではクリスマスとエピファニーは別の祭として発展し、12/25のクリスマス(生誕祭)と1/6のエピファニー(キリストの洗礼の日、三王礼拝の日…公現祭)は世界的に認知され、双方ともに祝われます。教会によってはエピファニーの方をより盛大に祝うそうです。

 私達にとってクリスマス(キリストの誕生日)は12/25だけであって、その日が過ぎると飾り付けもツリーも片づけてしまいますが、キリスト教圏ではクリスマス期間は12/24 日没〜1/5 日没。イギリスでは、エピファニーの始まる1/5夜になると、ようやくツリーを捨てるそうで、しかし宗派によっては二月の聖燭祭までそのままだそうです。ただ、近頃はキリスト教圏でも1/4頃には捨ててしまうことが多いそう。私達が、お正月の期間は本当は1/15まであるのに、1/3には終わったようにふるまうのと同じですね。

 クリスマスからエピファニーまでの期間は12日間ですので、俗に「クリスマスの12日」「12夜」と呼びます。北欧では、この期間中に鉢の中やシャベルの上にくすぶる薪を乗せて、その上に夏の間に取っておいた香草や薬草、杜松の枝を置き、出る煙で家中を燻して、魔除けにするそうです。また、この期間中はユール・ログという特別の薪を燃やし続けました。これは夏至祭で大きなかがり火をするのと同じように、弱った太陽を炎で元気付けるためです。(キリスト教的には幼子キリストが凍えないように、です。)

 ユール・ログに使う木は自分で伐ってきたものでなければならず(古くは大木まるまる一本を使ったそうです)、よい木を慎重に選び、切り倒したそれを家に運び込んで、木の根本をそのまま暖炉に入れ、清潔な手で火を点けます。木の他の部分は暖炉の外に突き出したままなわけで、かなり危険だと思うのですが…。それに生木なんでしょうか? とにかく、12夜の間ゆっくり燃やし続けるのだそうです。燃え残れば翌年まで保存されます。燃え残りがあればその年その家は火事にならないといわれ、灰には病気を治したり雷を避ける力があるといわれました。また、ユール・ログを燃やす炎で出来た影にもしも頭がなかったら、その人は一年以内に死んでしまうといわれていたそうです。

 当然ながら現代ではこの慣習を守っている家はなく、大きな丸太を燃やす家がある程度だとか。

 クリスマスの有名なゲーキにブッシュ・ド・ノエルという丸太を象ったケーキがありますが、じつはこのケーキはユール・ログを模しているのですね。ユール・ログ・ケーキともいいます。

 

 「クリスマス期間は12/24日没〜1/5日没」と書いたように、古い考えに従って、ここでは一日の始まりは日没と共に始まり日没に終わります。何故、クリスマスの前日(クリスマス・イブ)をあんなに重視するのか、お分かりになったでしょうか。つまり、キリスト教の行事的には、「キリストの生まれた12/25」は現代一般に言う24日の日没に始まり、25日の日没に終わっていたのです。私達には二日間祝うように見えていましたが、本当は一日しか祝ってなかったのですね。つまり、25日の夜にイベントをするのは誕生日そのものとしては一日遅れということになります。クリスマス期間中ですから問題ないでしょうが。

 

クリスマスツリーの由来

 クリスマスにつきものといえばクリスマスツリーですが、この由来には実に様々な説があります。あまりに様々すぎて紹介するのも馬鹿馬鹿しくなるほどです。

 木に食べ物を飾るのは、16世紀のドイツの「エデンの園」を舞台にした劇からだとか(モミの木に林檎をぶら下げた)、ツリーを飾る習慣そのものは17世紀初頭にフランスで始まったとか……。

 「誰が、いつ最初に”現代の形式のクリスマスツリー”を飾ったか、誰によってこの慣習がより広まり定着したか、どんなルートで伝播したか」は考えないことにして、もっと広く、根源的なものを考えれば、クリスマスツリーは”生命の木”に由来します。聖書に書かれた生命の木というより、もっと広義な、世界的に信仰されている世界樹です。

 生命の木の生命力にあやかろう、祝おうという習俗は、実に無数にあります。古代ローマの時代から、ローマ人達は季節ごとに月桂樹の枝を戸口に飾っていました。また、クリスマスが近付くと、西欧ではモミの枝で軽く人を叩く習俗があるそうです。これにより厄を払います。

 何故モミの木なのか。それは、冬至の頃に生命樹として相応しいのは、やはり冬でも枯れず生き生きとした緑の常緑樹だからでしょう。モミに限らず、松、ヒイラギ、ヤドリギ、月桂樹…そしてツゲ。

 時代が経つにつれ、クリスマスの間にモミの若枝を天井からぶら下げて飾るようになっていきました。これが今からおよそ300年ほど前頃には、現代のような、木の枝に林檎やお菓子を下げ、蝋燭を点けたものになっていたようです。

 木に吊るされる玉は本来はリンゴでした。つまり生命の果実です。吊るされる人形は、古い異教の信仰の「木に吊るされた生け贄」の代用からはじまったという説もあります。

 8世紀の記録によれば、聖ボフェニウスという高名な宣教師が、北欧の雷神トールへの生け贄として一人の少年が殺されて木に吊るされようとしているのを見て、自ら斧を取ってその神木――樫の木オークを切り倒したそうです。しかし彼にトールの神罰は下りませんでした。これにより彼は、人々に愚かしくも残虐な古い信仰を捨て、キリスト教に改宗することを勧めたといいます。そして、樫の木が倒れた後にはモミの若木が生え出ていたのでした。

 世界的に見れば、木を運び込んで飾り付け、祀るのはしばしば見られます。西欧の「五月柱メイ・ポール」だってそうでしょう。日本にも同様のものはあるのです。例えば七夕の笹。地方によっては、小正月(旧暦の正月)には木の枝に紅白の小餅を花のようにくっつけて飾り付けます。これなどは、飾る時期といい、とてもクリスマス・ツリーに似ていると思います。

 最後に、これは殆どの人がご存知だと思いますが、ツリーのてっぺんに飾られる星は、三人の博士を幼子キリストの元へ導いた”ベツレヘムの星”を表しています。

 

サンタクロースの由来

 クリスマスに欠かせないといえば、なんといっても、沢山のプレゼントを携えてやってくるサンタクロースでしょうね。

 サンタクロースのモデルは、4世紀の小アジアのミラの司教、セントニコラスだと言われています。

 古代リキュアの港町パタラに生まれた彼は、若い頃はパレスチナやエジプトを旅し、リキュアに戻ってまもなく、ミラの司教に選ばれました。キリスト教への風当たりから一度は投獄までされましたが、10年後にキリスト教が公認されると司教職に戻り、なんと325年のニケアの公会議にも出席したのだそうです。そう、あのキリストの誕生日を12/25に定めた会議です。

 以上。彼に関する史実はこれだけです。しかし優しく慈悲心に富んだ人物として様々な伝説が作り続けられ、女子供、船乗り、学生、パン職人、肉屋、質屋の守護聖人とされており、ヨーロッパ各地で12/6を聖ニコラスの日として祭が行なわれてきました。俗説で、この日が彼の命日とされていたからです。これが正式な日付なのかは分かりませんが、彼の遺骸は今でもイタリアのバリに安置されています。

 聖ニコラスの伝説

 ニコラスがニケアの公会議に出席するために道を急いでいると、宿屋の主人と行き会いました。彼は一人の少年を殺したと言います。ニコラスが訳を尋ねると、体が貧弱で仕事をしないから、と言います。更に、主人はその子供の体を塩漬けにしていて、これを売りに出すつもりだと言うのです。

 ニコラスは黙って桶に手を翳しました。すると塩漬けの子供がすぐさま甦り、にこにこと笑いました。

 これを見た宿の主人は畏れ後悔し、以降はキリスト教を深く信仰するようになったそうです。

 しかし最も有名なニコラスの伝説は、やはり靴下に金貨を投げ込む話でしょう。

 貧しい父親がいました。三人の適齢期の娘がいましたが、父親には三人分の持参金を用意する余裕などなく、次第に娘達を疎んじ、追い出そうとさえしていました。
 それを知った聖ニコラスは、この家に金貨の入った袋を投げ込みました。まもなく一番上の娘が立派な仕度をして持参金を持って嫁入りしていきました。
 二番目の娘にも同じようにニコラスは金貨を投げ込み、娘は嫁入りしました。
 三番目の娘の時、ニコラスが金貨を投げ込むと、家の中から誰かが飛び出してきました。それは三人の娘の父親でした。
 彼は金貨を投げ入れていたのが司教だと知ると、足元にひれ伏して涙を流しました。
 ニコラスの投げ込んだ金貨の袋は、窓の下に干してあった娘達の靴下の中に入っていました。ここから、クリスマスの夜に靴下を吊るし、中にプレゼントを入れるようになったといわれています。


 13世紀にフランスの尼僧が貧しい人に贈り物をする習慣を始め、これが聖ニコラスの日(12/6)のイブだったことから、彼は次第に”プレゼントの習慣”と結び付けられていったと言われます。それでこんな伝説ができたのか、それとも以前からあったんでしょうか? いずれにしても、12/6(例によって現代の暦的には12/5の夜)にはオーストリア、オランダ、スイス、ベルギー、ドイツ等で、司教ニコラスと下僕ルプレヒトに扮した者が、仮面や毛皮で異形のものに扮装した人々を従えて練り歩き、子供達に説教をしてお菓子やオレンジを配るのだそうです。

 しかし、これではまだ、何故彼がクリスマスと結び付けられるのかが分かりません。はっきりしませんが、ニコラスがクリスマスと関連付けられたのは中世〜19世紀初め頃だったようです。

 さて、こうして聖ニコラスはクリスマスに贈り物を携えてやってくる聖霊になり、それぞれの地方の土着の信仰と交じり合って、様々な変化を起こしていきました。(この詳細については後で説明します。)

 そして、日本の私達がイメージするサンタクロース、サンタさんの登場は、舞台をアメリカに移し、今しばらくの時を必要としなければなりません。

 セント・ニコラスの名はスイスでシンタ・クラースあるいはジンタ・クロースと転化し、それがオランダに入り、17世紀にオランダ系の移民がアメリカに渡った時 その発音で伝えられて、更に訛って「サンタ・クロース」となりました。(ただし、英語のSanta Clausは正確にはサンタ・クローズが正しい発音です。)「サンタ」は「聖女」を意味する言葉なので、結構おかしな感じですね。

 アメリカに伝わったといっても、すぐさまアメリカ中にサンタクロースの伝承が広がったわけではありませんでした。それどころか、ごく最近の19世紀末になるまで、アメリカではクリスマス・ツリーもプレゼントも広まっていなかったのです。それはアメリカ移民の多くがイギリスからの清教徒ピューリタンだったからで、神聖なキリストの生誕祭に異教の匂いのするそれらの”どんちゃん騒ぎ”を付加するのを拒んでいたのでした。このように、徹頭徹尾すべてのキリスト教徒達が現在の形のクリスマスを受け入れていたわけではなく、イギリスでもかつて禁止令が出されかけていましたし、産業革命頃には貧富の差の激化によって一般家庭では消滅しかかっていたのだそうです。

 19世紀、作家のアービングが「ニューヨーク史」の中で馬に乗ってやってくるドイツ風のサンタクロースを紹介しました。続いて神学者のクレメント・ムーアが自分の子供の為に「聖ニコラスの訪問」という詩を書き、サンタとその周囲の設定を創作して生き生きとしたキャラクターに仕立て上げました。この詩の中でサンタは九頭のトナカイにひかせたそりに乗り、煙突を登って家に入ってくるのでした。彼はお爺さんの姿をした妖精であって、小人です。トナカイの名はダッシャー、ダンサー、プランサー、ビクスン、コメット、キューピッド、ダンダー、ブリッツェン。そして赤鼻のトナカイとして有名なルドルフです。

 西欧の民間伝承の中の聖ニコラス、またはそれに類するクリスマスの妖精たちは、時に馬や鹿、ヤギのそりに乗って現れることがありますが、トナカイのそりに乗ることはありません。このイメージはトナカイを牧して暮らすラップランドのサミー人のイメージからきたのだろうとか、北欧神話で主神オーディンがトナカイのそりで現れるからだとかいいます。実際、ドイツにはサンタが二頭のヤギにひかれたそりに乗って現れるとしている地方があるそうです。トール神が二頭のヤギのひくそりに乗って天空を駆け回ったように。

 ところで、実際の話トナカイは統率が難しく、九頭ものトナカイを操ってそりを走らせるのはほぼ神業だそうで、流石はサンタクロースと言うか、やはりただ者ではないのですね。

 「絵」としてのサンタのイメージは、現代ではすっかり統一されています。つまり赤くて縁が白いボアになった毛皮の服、ボンボン付きのおそろいの帽子、黒いベルトにブーツ。でっぷりとした体型で白い長いあごひげの好々爺……。このイメージはやはりアメリカで作られたもの。それ以前は画家によってまちまちの姿だったそうですが、アメリカの風刺漫画家トマス・ナストが「ハーパース・マガジン」クリスマス号に描いたイラストが原形だそうです。ナストはサンタが北極に住んでいるとか、良い子と悪い子のリストを持っているとかの設定も描き出しました。(ドイツの画家モーリッツ・フォン・シュバイトンの描いた絵が原形とする説もあります。)

 いずれにしても、その後このスタイルのサンタが広まり定着したのは、アメリカのコカ・コーラ社がこのデザインのサンタを宣伝に起用したからでした。この絵はスウェーデン人イラストレイターのハドン・サンドブロムの手によるものでした。

 こうして、赤い服を着た割腹のいい白いひげのお爺さん、普段は北極に住んでいて、クリスマス・イブにトナカイのそりに乗って空を飛んで現れ、煙突から入ってくる……というイメージが出来上がったわけですが、子供達の中にこんな疑問の声があがりました。

「北極に住んでるなら、トナカイのえさはどうしているの?」

 さて、大人達は大弱り。すると、ある新聞にこんな記事が載りました。

「サンタクロースは、本当はフィンランドに住んでいるんだ!」

 2年後、フィンランドの子供向け人気ラジオ番組で、「サンタクロースは耳山に住んでいて、子供達の声を聞いているんだ」というDJの発言が大きな反響を呼びました。(正確には「サンタクロース」ではなく「ユールプッキ」だったようですが……ユールプッキについては後述します。)

 耳山は実在の山ですが、面白い名前でもあるし、子供達には本当らしく思えました。そしてこの山の周辺にはトナカイが沢山住んでいます。第二次大戦後、ロシアが耳山をロシア領にすると要求した時、フィンランド政府は断固として拒みました。子供たちの夢を奪えないというのです。するとロシアの態度は軟化し、しまいには耳山から手を引いたのでした!

 現在、フィンランドは誇りを持って「サンタクロースの国」を名乗っています。

 

クリスマスと死者の祭

 古く、ゲルマンにおいて冬至の頃に行なわれる祭は死者の祭でもありました。夏の間は地面の下に横たわっている死者達は、冬になり夜が長くなると起きあがり、雪風や狼、狼人間となって唸りをあげ、死者は群れを成して天空を飛びまわりました。いわゆる”夜の狩人”と呼ばれるもので、日本で正月の子の刻や節分、大晦日に現れると言われる百鬼夜行と類似のものです。これらの霊を宥め、かつ家庭を守護する祖霊への感謝として、クリスマスの12夜の頃、死者を祀る習俗がありました。後にキリスト教会はこれを11/2の万霊節に移しましたが、今でも、12/25のクリスマス、ミサが終わってから、墓地に小さなクリスマス・ツリーを立てて蝋燭を灯し、パンやワインを供えて先祖を祭る地方があるそうです。

 古いゲルマンの信仰では、祖霊が故郷を訪ねてくるのは年に二回、冬至の頃と夏至でした。日本でも、祖霊が帰ってくるのはお盆やお彼岸の頃――夏と、正月の頃です。正月にやってくる祖霊とはつまり歳神なのですが、これについては次で語ります。

 西欧の民間信仰を見ていくと、クリスマスの頃にやってくるモノは必ずしもプレゼントをくれるだけの陽気で素敵なキャラクターとは限らず、一方で”悪い子”には罰を与える、おぞましくも禍々しいものであるのですが、つまり尋ねて来る者は祖霊であり、悪霊だからなのです。同じように、12夜の頃、もし夜道で死者達に遭えば殺されてしまうと言われていましたが、しかし風(死者)が激しく吹き荒れれば荒れるほど、翌年の実りは豊かになるとも考えられていたのでした。よって、例えばドイツでは、わざわざペルヒタやホレといった魔女(女神)の扮装をした者達が暴れまわり、それを饗応するという祭が行なわれていたくらいなのです。彼らが暴れまわるほど、翌年の豊穣は約束されるのでした。(ホレについては 民話想「ホレおばさん」も参照してみると楽しいかも?)

 ドイツの同じような祭に、11/11の中部フランケン地方のマルチンスベルタ――木靴を履いた白い衣服の醜い老婆の扮装(ペルヒタです)で、農家のあちこちを徘徊するものや、同日、ヴュルツブルグ近郊でも白いマントに奇妙な冠のフーラ夫人(ホレです)が鞭を持って現れます。フーラ婦人は良い子には袋に入れた林檎や胡桃菓子(生命の果実だ…)を与えますが、悪い子は鞭で叩いたり脅したりします。この日はキリスト教では聖マルチンの祭日なのですが、彼女達が聖マルチンはおろかキリスト教ともなんら関係ない土着の古い女神であるのはお分かりでしょう。

 また、聖マルチンとは無関係に、ペルツメルテル(毛むくじゃらのマルチン)という怪物が現れたりもします。これは牝牛の皮を被り仮面を着け、腰に牛の鈴を付けた扮装の者で、手に鎖と鞭を持って家々の子供を尋ねます。そして勿論、良い子にはプレゼントを、悪い子には鞭を与えるのです。

 昔はこの日、かぶ、瓜、ひょうたん等をくりぬいて目鼻を作り、中に蝋燭を灯して飾ったといいます。後には紙製の太陽や月や星に変わったといいますが。

 言うまでもなく、これはイギリスやアメリカの万聖節に似ています。万聖節でも元はこのようなかぶの灯篭を作りました……現代ではカボチャで作るジャック・オ・ランタンが一般的ですが。現代、日本では万聖節は10/31で認知されていますが、正確には10/31の日没から11/1の日没まで。つまり10/31は万聖節イブ――ハロウィンとなります。これはやはりキリスト教会によって作られた祭日で、11/2の万霊節が全ての死者を祭る祭日なのに対し、万聖節は、個別の祭日を持たない全ての殉教聖者の為の祭日でした。この日に設定されたのは、10/30〜11/2がケルトの先住民族にとっては一年の終わりだったからであり、農民にとって「収穫を終えた」という意味での一年の終わりだからです。これ以降は種を蒔くことも鹿を狩ることも禁じられます。

 12/4はキリスト教的には聖バルバラの祭日です。この日の夜、オーストリアでは「クラウゼ・ベルベル」とか「ニッコロフラウ」と呼ばれる精霊達――醜い老人や獣などの面、白布の覆面の者が頭巾を被り、黒い歯をつけ、上衣は華やかだが下半身には藁を付け、手に手に箒、鞭、棍棒を持つ――が、牛の鈴をカラカラいわせながら洗礼を受けた子供と代父(名付け親)を探し、プレゼントをやったり鞭で脅したりします。やがて若者達がこれらを追い散らします。

 ドイツの白い衣のペルヒタやホレは、死霊の表象であると同時に冬の寒さや雪を司る女神でもあります。地方によっては、悪いペルヒタ達(冬の厳しさ、冬の精霊)を、白い覆面をしたり白い馬に乗った若者達――良いペルヒタ(家を守る祖霊)が追い払います。雪が降り始めると、馬に乗った若者(祖霊に扮した者)が果樹園を駆け回ったりします。そうすることによって冬の精霊を追い払い、翌年の豊穣を得ようとするのです。

 ホレは出っ歯の異様な顔をした老婆だといわれますが、ペルヒタは同じような醜い老婆と言われる事もあれば、輝くような美しい女性と言われる事もあります。年の終わり、死に行く年としてのペルヒタは醜い老婆であり、新年、新たに生まれた年としてのペルヒタは美しい女性です。ドイツでは1/5、6のエピファニーの頃、若い女の仮面や造花、ヴェールを着けた棒を掲げて練り歩く「美しいペルヒタ」の行事が行なわれます。

 他に、ホレやペルヒタに似た存在として、ルツィアという女神がいます。ルツィアは「光」を意味する名で、殉教した聖女という触れ込みです。キリスト教会がペルヒタに対抗するものとして導入したようですが、民間に入るとほぼペルヒタと類似の存在になりました。12/13が彼女の祭日です。かつてユリウス暦が使われていた頃は、閏年の冬至はこの日とされていました。つまり彼女も衰えた太陽を甦らせ新たな年を呼ぶ女神です。

 

クリスマスの妖精たちと贈り物の習慣

 クリスマス前後に尋ねてくる祖霊、女神やプレゼントに関する習慣は実に雑多です。最近はすっかりアメリカナイズされ、例の赤い服のサンタクロースのイメージに侵食されてしまっているようですが……。最後に、箇条書きでそれらを紹介して終わりにしたいと思います。

 

聖ニコラス(欧州)

 12/6のイブまたはクリスマス・イブに出現します。

 良い子にはプレゼントを渡しますが、悪い子には鞭を置いていきます。

 時代が下がると、彼の「罰するもの」としての側面は分離して、彼に従う毛むくじゃらで醜い子取り鬼――ネッチ・ラプラッチあるいはシュワーズ・ペーターあるいはズワルテ・ピートあるいはブラック・ピーターあるいはクランプス、ベルズニコールとなり、悪い子は彼らが鞭で打ったり連れ去ったりするようになりました。

  

ニッコロ行列(ドイツ)

 これも聖ニコラスですが、より行事的なのを紹介。

 12/6聖ニコラスの日、行列が練り歩きます。まず、七、八人のブットマンドル(穀霊神)。彼らは全身を麦わらで覆い、頭に一メートルもの触角をはやし、長い棒の先に鞭を付けて打ち鳴らします。眠っている地霊を起こすためです。次にニッコロヴァイプル(ニコラスの妻)が籠を手にして夫を先導してきます。この役には12、3歳の少女があてられます。次に白い髭に司教帽、長い杖を持った聖ニコラス。その後から夜警の人、監督牧師、籠を背負った「髭もじゃ」、翼を付けた天使、白いヤギの面に白布を纏った「ハーベルガイス」、大鎌を持った死神が続きます。

 一行は日本で言うところの公民館に行き、集まった子供たちに説教をしてから、とりどりのプレゼントを渡します。

 その後、彼らに追い払われた悪霊たち――古い年の精霊達が現れ、夜警の人が角笛を吹き鳴らすと、彼らは逃げ去ります。

 このように、12月の一連の聖者の祭は、クリスマスに向けて古い年の精霊達を追い払うという役をになっています。

 

戸叩き(ドイツ)

 12月中の木曜日ごとなどに、覆面をした若者達が家々を回って戸を叩き、クリスマスの近いことを報せる行事です。木曜日はゲルマンの雷神ドナールの日で、雷鳴によって天の意志を報せるという古い信仰にちなむそうです。また、雷鳴は春の訪れを意味します。

 戸叩きの時、「戸叩きの薪」と称して、薪にモミの若枝を添えてリボンを結び、こっそり好きな娘の家の玄関や窓に置いていったそうです。この薪をクリスマスの夜に燃やし、キリストの誕生を祝います。

 この行事は、しかし若者達が激しく戸を叩いたりご馳走を強要したりしてトラブルになったため、一時禁止されたそうです。現代は子供たちの行事になっています。子供たちが木槌や干し草掻きで家々の戸を叩き、祝いの歌を唄うと、人々は彼らに果物やパンを与えます。

 ハロウィンにしても、こうして物を貰って歩く行事が子供のものになったのは、きっと大人がやるとトラブルになるからだったんですね……。

 

ベファナ(イタリア)

 黒装束の魔女で、エピファニーの夜…1/5日没後にほうきに乗って現れ、良い子にはプレゼント、悪い子には炭などを置いていきます。

 

クリストキントル(ドイツ〜欧州、アメリカ)

 16世紀初頭の宗教改革によって聖人の意義も問い直され、プレゼントを配る聖ニコラスの伝統も廃止されました。代わりに子供たちにプレゼントを配る者として考え出されたのがクリスト・キントル……幼子キリストです。別名はクリストキント、クリストキンデ、クリスマス・チャイルド、クリスマス・エンジェル。

 天使の羽をはやした奇麗な少年の姿をしています。時に少女の姿だったり普通の天使だったり、ケルビムの姿で描かれることもあるそうです。

 後には、次に紹介するヴァイナハツマンとコンビとして考えられることが多くなりました。光と闇、善と悪のコンビという感じですね。

 アメリカではクリス・クリングルという名になり、サンタクロースの別名になっています。

 

ヴァイナハツマン(ドイツ〜欧州、アメリカ)

 ドイツに古来より伝わる妖精の老人です。

 鞭や杖、束ねた枝(クリスマス・ロッド)を持っていて、良い子には贈り物をしますが、悪い子には鞭を置いていきます。

(ところで、これは悪い子への罰のように見えますが、元々は、束ねた枝――生命の木で叩くことにより、厄を払い、その生命力を分けてもらうという意味があったようです。獅子舞の獅子に噛まれると頭が良くなるというようなものでしょうか?)

 なお、特に悪い子は腰に提げた袋や籠に入れて連れ去ってしまうそうです。

 後には、ヴァイナハツマンはクリスキンデルとコンビとされるようになりました。美しく優しいクリストキンデルが子供たちにプレゼントを配る背後に控えていて、悪い子を脅す係です。また、クリストキンデルがロバに乗ってやってくる時、プレゼントを袋に入れて担いで運ぶのがヴァイナハツマンとも言われました。いつのまにか従者に成り下がっています。

 現代ではヴァイナハツマンはサンタクロースとほぼ同じ姿で描かれています。  

 

ハンス・トラップ(フランス)

 ヴァイナハツマンの別名といっていい感じです。クリスキンデとコンビで現れ、彼の伴をしてプレゼントを運んで来て、悪い子を袋に入れて連れ去ります。

 

マダム・ノエル(フランス)

 プレゼントをくれる女性のようです。

 

ペール・ノエル(フランス、アメリカ)

 太ったお腹の陽気な老人で、ウィットに富み、女に関して目が高いそうです。祝いの席に座ると、楽しいジョークを交えながら一人一人にささやかなプレゼントを手渡します。フランスの彼は、新年に立派な贈り物をするそうです。

 

バーブシュカ(ロシア)

 プレゼントをくれる老婆のようです。

 

ユール・プッキ(フィンランド)

 古い言葉で「冬至祭のヤギ」を意味します。北欧の異教の存在でした。

 フィンランドでは悪霊は禍々しいヤギの皮と角を持ったモノで、贈り物をしてくれるどころか、こちらが貢ぐ代わりに災害を起こさないように願う、恐ろしい魔神でした。妖精のプッカとかヤギの悪魔とか、その系統ですね。

 ところが、これが何故か180度転換し、アメリカのサンタクロースと殆ど変わらないキャラクターに変化しています。

 ユール・プッキは子供たちの前に実際に現れます。雇われた専門の役者か、子供の実のお爺さんの変装です。ユール・プッキは子供に面と向かって尋ねます。

「あなたは今年一年、良い子でしたか?」

 ちゃんと「はい」と答えられなければ、プレゼントは貰えません。これは子供にとってとても勇気の要ることですが、はにかみ屋の子にはちゃんとお母さんが代返してくれるので、大丈夫です。

 

ユール・バック(北欧)

 ユール・プッキと同じものですが、こちらは今でもヤギです。

 ヤギの頭を付けた棒を持ち、毛皮やわらを纏った若者が、”ユール・バック”として家から家を巡りました。大抵の村では歌や踊りで歓迎しましたが、この冬至祭のヤギの来訪は、吉祥であると同時に凶兆でした。

 デンマークの民話によると、ある娘が無謀にも、深夜の納屋で一人でこのユール・バックの周りで踊りました。踊り終わるとユール・バックに命が宿り、娘の体を掴むと、彼女の息が絶えるまで何度も何度も納屋の梁に打ちつけ、殺してしまったということです。

 ノルウェーやスウェーデンの古い信仰では、ユール・バックは血も骨もなく全身を覆う長い髪を持った存在で、普段は家の台所の床下に潜んでいました。そして家を破壊しない代わりに、ユールの祝い、クッキー、粥などを要求したといいます。

 現代アメリカでも、子供たちはサンタクロースの為にミルクとクッキーを用意しておきますが、つまりサンタクロースもクリスマスに現れる精霊――祖霊の一種であって、それへの供物という意識が僅かながらに残っているのかもしれません。

 ユール・バックは別の地方では古い墓塚に住むといわれました。この点を見ても、ユール・バックが悪霊であることは間違いないようです。

 

ユール・キャット(アイスランド)

 冬至祭の猫。

 グリーラという魔女の一人娘の飼い猫です。グリーラには他に13人の息子がおり、これはクリスマス・エルフ(クリスマスの妖精)で、とても恐ろしい者達だそうです。

 ユール・キャットはとても大きくて醜く、獰猛で、悪い子や、クリスマスに新しい服をプレゼントしてもらえなかった子を食べてしまいます。

 何故服をプレゼントしてもらえなかった子を食べるのかというと、一年間一生懸命働けは羊毛が手に入り服が作れる、つまり服を貰えない子は怠け者である、という意味が込められているそうです。(ほぼ同様のことが「新年のヤギ」でも言われているそうで、新年に新しい服のない子を新年のヤギは連れ去ってしまうとか。)

 しかし、現代のアイスランドにはもうこの猫はいないそうです。何故なら悪い子は皆食べられてしまったので、猫は死ぬか遠くに去ったというのです。

 

 怠け者が罰されるというこの考え方は、日本の秋田のナマハゲにとてもよくにています。本来日本にはこれに類する行事が色々あったようですが、今は殆ど廃れています。

 わら靴、みの、鬼の面、包丁を持ったなまはげは、大晦日の夜に家々を訪れます。かつては旧正月の15日に訪れていました。これは年毎に来訪してその年の富を与える歳神であり、あの世(異界)より訪れる祖霊でした。ナマハゲの衣装から落ちたわら屑には無病息災の霊験があるとされています。

 なまはげは家に入ると、次々にその家に悪い者は、怠け者はいないかと問いただします。家長はナマハゲを丁重にもてなし、問いの一つ一つを否定します。すると、なまはげは「一年中神社の大木のウド(穴)の中にいるから、もしそのような悪い子供や初嫁がいたら手を三回叩いてくれ、そうするとすぐやって来る」と答えます。そして来年もまた来るという言葉を残して去っていきます。異界(冥界)――子宮――木のうろという信仰がここでも見えています。

 なお、″なまはげ″の語源は″ナモミハギ″。ナモミとは、こたつや囲炉裏にあたってばかりいると出来る赤い斑点のことです。ナモミを剥ぐ――なまはげという名称には、怠け者を戒しめる意味が込められているのです。

 このように、ナマハゲと先に挙げてきた欧州の「年の終わりに訪れる者達」はとてもよく似ています。ただ、日本のナマハゲにはプレゼントのくだりがありません。

 しかし、実はもっと一般的に全国的に、私達も祖霊からのプレゼントの習俗を持っています。そう、お正月のお年玉です。

 古来、日本の一年の始まりは正月の満月の夜でした。この夜に歳神がやってきます。歳神は祖霊を神格化したもの。これを迎えてもてなし、新たな年の豊穣と幸福を願い、一年間を生き抜く新たな魂(命)を授かります。昔は全ての人が新年に一緒に一つ年をとる、数え年の制度でした。

 この歳神に授かる魂は小さな丸餅の形で表されました。これを家族の数だけ神棚に供え、後で降ろして食べていました。家長が歳神に家族分の命を授かり、それを家族に分配する、という考え方です。これがお年玉の原形で、後には親から子、主人から使用人と、上から下に授けられる正月の贈答品の全てを「お年玉」と呼ぶようになったのです。

 お年玉の習慣は、実は中国にもあります。起源がどんなものかまでは知りませんが。

 しかし日本のお年玉と決定的に違うことがあって、中国のお年玉には年齢制限がないのだそうです。これは親が子もしくは孫に与えるものであって、80歳の母が50歳の息子にあげても異常なことではないそうです。

 ……ちょっと羨ましい?

 このように、日本には欧州のクリスマスの12夜にとてもよく似た習慣があるのに、わざわざクリスマスを祝いたがるのは何故か。キリスト教徒でもないのに。

 それは、結局のところ、日本のお年玉は大人が子供にあげるもので、大人はちっとも楽しくないということに尽きるのではないでしょうか。大人だってプレゼントを貰って楽しみたいでしょう。クリスマスなら、大人がプレゼント交換したって少しも恥ずかしくありませんものね。



 

01/12/24

参考文献
『ヨーロッパの祭と伝承』 植田重雄著 講談社学術文庫 1999.

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