歩き始めると、足音が辺りに響いた。

 実際には彼奴はかなり気配を潜めて進んでいるのだが、他に音がなく、かつ閉鎖空間であるために小さな音が殊の外目立って聞こえるようだ。

 一口に地下迷宮と言ってもその様相は様々であるが、ここもそれなりの特徴を備えていた。壁や床はありがちな石造りのものなのだが、そこには一面、何かの植物が繁茂している。ここが殆ど光のない地下であることを考えれば実に奇妙かつ奇特なことだ。ただし、葉や花の類は一切なかった。ろくに光源のない今の状態では、一見して地下に広がった植物の根が現われているようにも見えがちだが、それは瑞々しい緑を保っている。

 迷宮自体の構造はさほど複雑ではなく、しかし小房が多かった。扉が左右にずらりと並んだ通路もある。

 その扉には必ず窓があり、鉄格子がはまっていた。

 どうやら、ここは地下牢であるらしい。

 ホムンクルス・マスターとやらが捕らえてきた素材を貯えておくために作ったものなのか。あるいは、かつてこの遺跡が遺跡ではなかった頃からこうだったのか。もし後者だとすれば、出入りに制限の多い石円陣を用いているのにも納得がいくというものだが。

「――……」

 彼奴が足を止めた。

 何かがいる。

 昏い廻廊の隅からそれは現われた。眼が赤く光っている。

 ネズミだ。体長三十センチほどもあったが、それ自体はさして珍しいことでもない。特筆するべきなのはその体色が漆黒であるということと、体毛が長く、しかもぴんぴんと突っ張った感じだという辺りだろうか。

「チチチチチ!」

 それは一声長く鳴くと、一気に毛を逆立たせた。

「なっ!?」

 反射的に身を躱した彼奴は、しかし咄嗟にマントを見る。マントに何かが光っている。毛だ。細い針のような毛が幾本もマントに突き刺さっている。

 それを確認するなり、彼奴は左手を構え、呪文を放った。

「フレイム!」

「ギィッ」

 黒ネズミ(正式名称が分からないのでこう呼ぶしかない)は炎に巻かれて悲鳴を上げたが――なんということだろう。小さなものにもかかわらず、それは燃え尽きなかった。歯を鳴らして飛び掛かってくる。

 小さく舌打ちし、彼奴は我を――闇の力を喚んだ。

「闇の剣よっ!」

 刀身が閃く。喚起された暗黒の波動が、黒ネズミを一撃で分断した。

 べちゃり、と二つになったモノが床に潰れる音を最後に、辺りは再び静寂を取り戻す。

 こういった迷宮に潜む魔物には、迷宮のガードシステムとして仕掛けられたもの――いわゆるイリュージョンモンスターも珍しくはない。魔力によって生み出されたそれは、滅ぼせば煙となって跡形もなく消えてしまう。が、これは本物だったようだ。辺りに生ぬるい血の匂いが漂った。

 剣を一振りして血を払い(我は決して血脂で曇るようなことはない)、彼奴はその場に背を向けた。血の匂いに惹かれて集まる魔物もいる。この場に留まるのは得策ではない……が。

 今回はいささか遅かったようだ。

 チチチチチチチチ・・・・・・

「げ」

 通路は一面、黒い毛塊に覆われていた。赤い目玉が何対も光っている。

 これを今のように一匹ずつ倒していくのは不可能に近いだろう。

「……アレイアードでぶっ飛ばすっ」

『――主よ、場を考えて行動しろ。こんな天井の低い地下通路などでそんな大きな呪文が使えるのか?』

 運が悪ければ魔物どももろとも生き埋めだ。

「…………」

 思い止まったようだ。

 が、次に彼奴がとった行動はといえば。

「だぁあああああぁあああ――――っ!!」

 どわぁっ。突如大声で叫ぶと、(我を含め)その場に居た者が呆気にとられたその隙に、あろうことか、彼奴は黒ネズミどもの真っ只中を駆け抜けた!

 な、ななな…………。

 とはいえ、黒ネズミどもとて気を抜かれていたのはほんの刹那。

「チチチッ」

「ギギッ」

「チチチチチ」

 黒い塊はそれぞれに行動し、大半は追いすがってくる。

「……ってぇ、だだだっ」

 走る彼奴は黒ネズミの針や歯で多少のダメージを受けたようだ。実際の痛みは伝わらないが、リンクした我にはそれなりの感触としてそれが分かる。

 が、彼奴も結構足が速い。(それとも、必死だったからか?)黒ネズミどもを多少は引き離した。ほぼ直線の通路を走り抜け、その先は右に直角に折れ曲がっている。

 当然、その角を曲がって逃げ切るつもりかと思いきや、彼奴は石畳を滑って踏みとどまった。淀みのない動作で我を構え、唱えていたらしい呪文を解き放つ。

「ダイヤモンドダストっ!」

「ギギィッ」

 放たれた魔力が、そのぶつかったモノから急激に「熱」を奪い去る。冷気系の呪文に対して特に魔防御の術を持たなかったらしい黒ネズミどもは一瞬で熱を奪われ、ひとかたまりとなって凍り付いた。

 そこに出来上がったのは奇妙な黒いオブジェだ。

 実際に滅んだのかどうかはともかく、これで当分襲ってはこれまい。

 白く吐気を落とすと、彼奴は構えを解いた。空気中の水分が凍り付いて、きらきらと瞬きながら宙を流れている。

『やれやれ、どうにかなったな』

「なにかもっと、労いの言葉はないのかよ?」

『何を言っている! ヘタをすればネズミどもに取り巻かれてお陀仏だったのだぞ!』

「ヘイへイ」

 ズボンの裾をめくってネズミに受けた傷をチェックしていた彼奴は、道具袋から毒消し草を出して口に入れた。この世界には受けただけで即死するような猛毒を持つ魔物はまずいない。だが、放っておけばじわじわと体力や魔力を奪い去られてしまう。

『第一、これでは後戻りは出来ないぞ』

 やや渋い思いで我は言った。

 通路は凍り付いた黒ネズミで一杯になっている。かといって、溶かせば元の木阿弥になるやもしれない。魔物はまま、人と比較すれば信じられない生命力を持っているものだ。

「ああ、スタート地点の石円陣はこの向こうか……」

 改めて気付いたように彼奴は言った。少し考え込むようなそぶりを見せたが。

「まぁ、なんとかなるだろ」

『いい加減な……』

「出口は一つとは限らん」

 希望的観測なのか、何か確信があるのか。

 まぁ、いい。

 我は魔導具。主の意向には従うまでだからな。



 

 黒ネズミはその後も何回か現われたが、冷気系に弱いことが分かったのでさして苦労することもなく。

「ここだ」

 我らは一つの扉の前に辿り着いた。

 最も近かった「人間」の気配のあるところ。

 その扉にも鉄格子があり、牢獄であることは一目瞭然だった。しかし、見張りの姿はない。

 果たして、ここに目的の娘がいるのか?……実を言えば、我らは既に確信を抱いている。何故なら、この扉に到達する少し前から、彼奴の鋭い耳――そしてそれに繋がる我の意識は、中から漏れ出てくる少女の泣き声を捉えていたからだ。

 その声は既に涙を流し尽くし、泣き疲れたのか……今は小さくしゃくりあげている。

 彼奴は扉の陰に立ち、鉄格子から房の中を盗み見た。娘が一人で居るとは限らないし、その可能性は低いが、罠ということもある。

 房はさほど広くはない。その奥――扉からは正面になる壁際に、少女らしき影がうずくまっていた。房内……たとえば扉の陰の死角などに、他に気配が隠れていたりはしないようだ。

「おい」

 彼奴は声を掛けた。びくりと少女が震えた。絶望的な様子で、わなわなと震えだす。

「脅えなくてもいい。俺はお前の敵ではない」

 彼奴は言ったが、少女には上手く伝わらなかったようだ。彼奴は言い直した。

「俺はお前を助けに来たんだ。お前の親父に雇われてな」

「…………おとう……さん?」

「ああ、そうだ」

 少しよろめきながら立ち上がり、少女が戸口に飛びついてきた。

「おとうさんは? どこにいるの?」

「街でお前を待っている。……少し離れろ。扉を開ける」

 少女が数歩後ずさったのを確認すると、彼奴は我を扉の隙間にあてがった。その、わずかな隙間を刀身が一閃する。キン、というかすかな金属音の後に、扉は何の抵抗もなくゆるりと開いた。鍵を破壊したのだ。

 いまやなんの隔てもなく、少女と彼奴は相対した。

「あ……あの……」

 ほんのわずか、少女は困惑しているように見える。

「じゃ、出るぞ」

 構わずにそう言って歩き出した彼奴の背に、はっとしたように少女が縋り付いた。

「セラ!」

「あ?」

「セラを捜さなくちゃ」

「なんだそりゃ……おい、放せよ」

「だって……セラも一緒じゃないと……」

 少女はまたも泣き始めてしまう。涙というものは枯れ果てないものらしい。

「ああ……そういえば、あのおっさんは娘「たち」と言ってたんだったな」

 今更のように気付いて、彼奴は息をついた。

 つまり、残りの「人間」の気配三つのうち、どれかが「セラ」ということか。

 その気配はここよりも下層にあった。どうにかして下へ行く道を見付けるしかない。(これまでに回ってきた限りでは下に限らず上へ行く階段や通路は発見できなかった。)

(一緒に居てくれれば面倒がなかったんだが……)

「分かった。それで、その「セラ」はどこにいるのか分かるのか?」

「…………」

 しゃくりあげるまま、少女はただ首を横に振って答えた。

『地道に一つずつ確認していくほかないようだな』

「仕方ねぇ。……じゃ、行くか」

「……あ!」

 彼奴は先に立ってさっさと歩き始めたのだが、少女はそれに慌てたらしい。

「きゃっ」

 悲鳴に振り向くと、少女が床に這いつくばっていた。

「……何をやってる」

「…………」

 勿論、転んだのだろうに決まっているが。

 しゃがんで問い掛けると、少女は再びしくしくと泣き始めた。

「おい……いい加減泣きやめよ」

 流石に彼奴も困惑顔になった。泣いている女と子供は扱いづらい。ましてや、その両方である。我の見立てた彼奴のレベル(何のレベルだ?)ではまず制御は不可能だろう。だが、今の状況でこのままずっと泣いていられては、様々な不利を引き起こすことは想像に難くない。

『暗いから、転ぶのだろう。暗闇は人間の心理に圧迫感を与えるようだからな』

 とりあえず、我はそう言ってやった。

 比較的夜目のきく彼奴とは違い、少女にとって辺りは真の闇に包まれているに違いない。

「そうか……ここはお前には暗すぎるんだな。悪かった」

 そう言い、彼奴は泣いている少女の頭を少しだけ撫でた。宥めるように。そして唱える。

「ライト!」

 宙空に生まれた光が、まばゆく辺りを照らした。彼奴はそれを我の束頭に宿す。移動時にライトを唱える時は、こうしてどれか持ち物に光を宿すのが常套である。

「これで歩けるだろう」

 彼奴は少女に手を貸し、立たせてやった。

 実際には、ライトを使えば魔物の標的にもなりやすい。だが、連れが行動不能になるのならこの方がマシというものだ。

 光に照らされて、初めて少女の容貌がありありと見えた。涙を溜めた大きな目にはまつげがけぶり、薄い色の髪はゆるゆるとした巻き毛になっている。年齢的にはまだ十年も生きていない程度で、女としての魅力には程遠いが、愛らしいことは間違いなく、年頃になれば近隣の男達の噂を賑わせるだろう。素材として狙われるというのも当然のような気がした。……あの男には少しも似ていないようだが……運のいい母親似というやつか。……まぁ、どことなくおどおどした、気の弱そうな辺りは確かに父親譲りかもしれないがな。

 そして、光によってようやく相手の容姿を確認できたのは、少女の方とて同じだった。

「……王子様」

 ぽかんとして見上げていた眼差しが俄かに熱を帯び、そう呟いたのは――まぁ、無理もないことかもしれない。銀色の髪、白銀のローブ。中身はともかくとして、確かに彼奴は申し分のない容姿を持っているのだ。……外見だけは。

 夢見がちな年頃の少女が何らかの幻想を抱いても致し方あるまい。

「……聞こえてるぞ」

「えっ、あの」

 むっとして彼奴は我に言ったのだが、例によって少女は自分が言われたものと思ったらしい。赤面して慌てる様は可愛らしい。……一般的な基準ではそう思えるものと感じる。が、彼奴は特に感銘を受けなかったか、単に表に出さないのか。

「行くぞ。……歩けるな?」

「ハ、ハイ!」

 二人は歩き始めた。

 とりあえず、今まで回っていない場所に行くしかない……が。

 彼奴が足を止めた。

 行く手に、ぼうっと光が見えている。

「な……なに?」

 彼奴の背で、少女が脅えた声を上げた。

 光はゆらゆらと揺れながら近付いてくる。……誰か別の人間が光源を持って歩いてくるにしては、やけに揺れが大きく、不安定だ。

「ウィル・オー・ウィスプ……か」

 彼奴が呟いた通り、それは鬼火だった。

 ゆらゆらと燃える三つの青白い炎の中に、それぞれ人の顔が見える。

 報われぬ魂のさまよう姿だ。

 古代の亡霊か、はたまたホムンクルス・マスターの哀れな犠牲者か。

 ウィル・オー・ウィスプは、ゴーストに比べればさほど恐い相手ではない。だが霊的存在であることには違いなく、物理攻撃は殆ど効かないわけで、厄介な相手ではある。

「ぼうっ」

 意味不明の叫びと共に、それはすうっとこちらに飛びかかってきた。

「フレイムっ」

 彼奴は炎の呪文を放った。物理攻撃の効きづらい霊系魔物には魔力による攻撃が相応である。魔力でそれを吹き消してしまえればいいわけだ。とはいえ魔力なら何でもいいわけではない。やはり最も効果を発揮するのは光系の呪文で、逆に殆ど効果を期待できないのが闇系の呪文となる。何故なら、霊というものも闇によって構成されているものだからだ。しかし闇の魔導を司る彼奴は光系の呪文は不得手。よって、近い効果を持つ炎系の呪文が最も妥当になる。炎に炎をぶつけるというのもおかしな話だが。

「ぼぼうっ」

 炎にさらされて、青白い炎が揺らぐ。風に乱れる灯のように。もう一息。

 ――が。

「きゃっ」

 小さな悲鳴が聞こえた。

 少女は彼奴が戦っている間、その背後、つまり壁際にいたのだが。

「何っ?」

 振り向いた彼奴が愕然とした声を上げる。少女がいない。

「ぼうっ」

 その隙に、ウィル・オー・ウィスプが彼奴にダメージを与えた。

「うぉっ!」

「ぼぉうっ」

 中心の大きな鬼火の周りに、小さな鬼火がくるくると回った。勝ち誇っているのかもしれない。が、それは彼奴の怒りを増す効果しか生まなかったようだ。

「おのれっ……アイスストーム!」

 冷気の渦と氷塊が鬼火をぐしゃぐしゃに乱した。周囲に連れがあれば使いにくい呪文だが……幸か不幸か、今は問題ない。「ぷしゅるるるー……」と音を立て、ウィル・オー・ウィスプは燃え残りのような黒い芯を落とすと、それも砕けて消え失せた。

「チッ……、おい、どこだ!?」

 ウィル・オー・ウィスプの消滅の確認ももどかしく、彼奴は振り向くと声を張り上げた。少女の姿はなく、声も返らない。

(どこへ消えた?)

 目を離したのはさほどの時間ではない。加えて言うなら、悲鳴を聞いてから振り向くまではほんの一瞬。とくれば……。

 彼奴は少女の立っていた辺りを見ていたが、ふと屈んで床に手を触れる。ややあって立ち上がると、何を思ったか辺りの壁を軽くノックしはじめた。

『おい?』

「…………」

 黙ってノックし続けていた彼奴が、ふとその手を止める。その壁に手を置くと、力を込めてゆっくりと押した。

 いくらなんでも、それで壁が動くはずはない……のだが。

 なんと壁は動いた。ただし、押しのけられたのではなく、扉状に。

『隠し扉か!』

「ああ。……床に跡が残ってる」

 なるほど。言われてみれば確かに、床には半円状の擦り傷がうかがえる。だがそれは微かで、ごく目立たないものだ。

 相変らず、こういうことには目敏い奴である。……この聡さが他の面にも働けば、もう少しは生きやすいだろうにな。

 扉を開き(念のため、蝶番を壊して閉じないようにしておく)、彼奴はその奥、更なる闇の中へと踏み込んだ。

 


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