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閉ざされていた通路は暗く、ライトの効果でさえ飲み込んでしまうように思える。とりあえず、何者かが潜んでいて待ち受けているというようなことはなかった。
距離は存外に短く、突き当りに明かりが見える。……自然光ではない。
これまで通って来た場所には――少女が捕らえられていた牢獄にさえ――灯りというものはなかったのだから、明らかな変化である。
思わず足早になり、そこに歩み寄ろうとした彼奴の前に、何者かが素早く躍り出した。
ギャァオオォゥ
唸りを上げたそれは、赤い毛並みの猫だった。勿論、ただの猫ではない。通常のそれより耳が尖った、いわゆるリュンクス(大山猫)と呼ばれる獣のようだ。だが異様なことに、その体躯は仔牛ほども大きく、爪と牙も奇妙に伸びて尖っていた。
最初に威嚇の唸りを上げると、リュンクスは次にはもう飛びかかっていた。恐るべき跳躍力だ。その力強い前足の一振りを、彼奴は咄嗟に剣で受けた。下手に生身の腕ででも受けていれば、その肉はた易く切り裂かれていただろう。それほどまでに研ぎ澄まされた刃のような鋭さをその爪は持っていたが、勿論、我がその程度のものに負けようはずもない。軽い金属音と共に爪と刃は打ち合い、獣と剣士は再び互いの間合いをとった。
リュンクスの金の双眸の中にはギラギラとした光が宿っている。
「ブリザード!」
彼奴が魔法を放った。
だが冷気と氷塊がぶつかる前にリュンクスは跳躍した。硬い石の床に氷塊がぶつかる音をバックに、再び襲い掛かる。今度は全身でぶつかってくると牙を剥いた。生暖かい吐気が彼奴の首筋にかかる。剣を下から跳ね上げ、悲鳴と共にリュンクスが体勢を崩したところで腹を蹴り飛ばした。たまらず、リュンクスは再び飛びのいた……かに見えたが。
「う!?」
思わず、彼奴はくぐもった声を上げた。なんということだろう。リュンクスのその長い尾が素早く動き、彼奴の首に巻きついたのだ。どうやら自在に動かせるらしい。そのままするすると動いて締め上げ始める。かなり力があるようで、振りほどけない。
「――こ……のヤロっ!」
剣が一閃!
ギャオォウ!
尾を切断され、リュンクスが悲鳴を上げて転がった。その機を逃さず、彼奴は構えをとる。既に、口の中では呪文の詠唱が始まっている。
だが、それを解放するより早く。リュンクスは尾を丸めて(この場合、尾は半ばから無くなっているのだが)逃げ出した。
例の、明るい方へと。
本来、深追いはするべきではないのだが……この場合、行こうと思っていた方に行かれたのだから仕方がない。尤も、一本道のここでは来た方に戻るか進むしかないのだが。
明るいそこは部屋だった。壁の燭台に灯が燃えており、それが光源になっている。その光の中に先程のリュンクス(尾が短いから間違いない)がいて、困憊した様子でこちらを見上げている。そして、その足元にはあの少女がいた。……動かない。
「……!」
彼奴は左手を構えてリュンクスに呪文を放とうとした。
「ま、待つにゃー!」
突然、その声は響いた。場にそぐわない間の抜けた言葉づかいだ。
「――は?」
「赦してください〜、もう攻撃しませんにゃっ」
……いくら辺りを見回しても、他に誰かいる様子はない。勿論、動かない少女が口を動かしているわけではない。
「……お前が喋っているのか?」
なんともおかしな質問だが……。彼奴はリュンクスに問うた。
「にゃー、そうです」
恐ろしげな猫型の魔物の口から、この声は発されているのだった。
「お前、人語を解するのか……」
魔物としてはそう珍しくはないが、この地下迷宮で出会った魔物たちはどれもそうではなかった(少なくとも戦いの際にこちらと会話はしなかった)ので、意外な感じだ。
「それはそうとして……貴様か、その子供をここに引っ張り込んだのは」
彼奴は再び剣を構えた。尤も、今度のこれは多分に脅しを含んでいる。
「にゃにゃにゃっ。スミマセンっ。でも、でも仕方なかったんにゃー。連れ戻さないと、ミャーたちは見張りをサボったことがバレてマスターに叱られるんにゃあぁ」
「では、諦めて叱られろ。……そいつは無事なんだろうな」
「気絶してるんにゃ」
「ふん……」
彼奴はゆっくりとリュンクスと少女に近付いた。少女の息を確認する。……リュンクスの言う通りのようだ。
「おい……しっかりしろ」
念のために軽くヒーリングをかけて呼びかけると、少女はゆるゆると目を開けた。
「あ……」
彼奴の顔を見てホッとした表情を見せたが、それがすぐに凍り付く。すぐ側にリュンクスがいるのに気付いたからだ。短く悲鳴を上げて、彼奴のマントにしがみついた。
「大丈夫だ。コイツはもう何もせん。……そうだな?」
「はっ、ハイ!」
しゃちほこばってリュンクスが返事をすると、少女はおかしなものを見たように目を丸くした。
「さて……」
彼奴は立ち上がった。
「おい。お前」
「にゃ、にゃんですか!?」
「お前はこいつの見張り役だったんだな。では、もう一人の子供の居場所も知っているか?」
「そりゃー知ってますにゃ」
「では、案内してもらおう」
「にゃっ!?」
「ほう、従わない気か?」
彼奴は剣を突き付ける。フギャア……とリュンクスが情けない声を漏らした。
「もう、どっちにしても叱られるんだ。諦めるんだな」
そう言うと彼奴は不敵に笑った。
この地下迷宮を根城とするリュンクスの案内はなるほどしっかりしたもので、我らの足は格段に速くなった。幾度かは魔物に遭遇したが、さして問題ではない。時にはリュンクス自らが魔物を「説得」することもあった。
「このお方は、見掛けによらずとっても強いお方なんにゃ。逆らうと命はにゃいぞ。でも、大人しく通すのなら赦してくれるにゃ。こう見えて意外に寛大なお方なんだにゃあ」
「おい……」
彼奴にはどこか引っかかる物言いだったようだが、この猫に言葉に含みを持たせるような機知があるとは思えない。本心からの説得なのだろう。まぁ、この説得のお陰でかなり楽になった部分も多いのだから、ここは素直によしとしておこうではないか。
「着きました。ここですにゃー」
やがて、我らは一つの扉の前に案内された。
最初の階からは一層下に降りたことになる。
「丁度よかったにゃ。今、見張りは留守にしてるにゃあ」
「帰ってこないうちに早く開けるにゃー」
俄かに騒々しく声が上がった。いつのまにか、周囲にはリュンクスが何頭も集まっている。説得に応じたリュンクス達がそのまま付いてきてしまったためだが、にゃーにゃーとなんともうるさい。この状況がそのまま敵除けになっているので悪いことではないが……。
(しかし、ここの警備体制は一体どうなってるんだ? ま、好都合だがな)
「じゃ、開けるぞ。……下がれ」
裡で疑問を呟きつつ、彼奴は前回と同じように鍵を破壊した。
きしんだ音を立てて扉が開く。我に宿されたライトの光が灯りのない牢内に差し込んで、彼奴の影を長く落とした。その先、突き当たりの壁際に少女がうずくまっている。
「おい……」
声を掛けると、少女はぎくりと体を強張らせて顔を上げた。しかし、壁に張りついたまま動かない。
「な……何よ。あたしになんかする気?」
彼奴を見据えたままそう言う。幾分声は震えているが、大した根性だ。
「別に、お前に危害を加えようと思っているわけじゃない。俺は……」
「セラっ!」
彼奴の言葉を遮り、少女が飛び出た。
「リシェン!」
姉妹の登場に我を忘れたか。石のように固まっていた体を動かして、少女――セラは立ち上がり、駆け寄った。二人の少女は抱き合って再会を喜んだ。
「どうしたの、あんた。無事だったの」
「セラ、セラっ。恐かったよぉー!」
その間、彼奴はセラの張り付いていた壁に目を移していた。
「……抜け穴か」
そこには僅かながら穴が掘られている。緩い石組みを外して土を小石で掘ったらしい。
(……完全な暗闇の中で一人、これだけの作業をしたか)
最初の少女――リシェンを背にかばい、セラがキッと彼奴を睨んだ。
「なによ!」
決して気後れしていない。たとえ、その気力が無理矢理に奮い立たされたものであっても。
セラは不器量というわけではないが、リシェンに比べると平凡な顔立ちをしている。だが意志の強さが眼と眉に現われ、見る者に鮮烈な印象を与えた。
「大した奴だぜ。……睨むな。感心してるんだ」
「うるさい。あたしとリシェンをどうする気!?」
「セラ、違うの。この人は私たちを助けに来てくれたんだよ」
かばわれていたリシェンが慌てて言った。
「……え?」
「お父さんに頼まれたんだって。最初に私を出してくれて、ここまでセラを捜しに来たの」
「………………」
「……ま、そういうことだ。さっさとここを……」
「…………信じらんない」
「セ、セラ?」
「だってコイツ、なんか胡散臭いわ」
セラは胡乱な目つきで彼奴を見上げた。リシェンが懸命に口を挟む。
「セラ、この人は……」
「リシェン、いつも言ってるでしょ、少しは人を疑うこともしなくちゃ」
それはその通りだが、面と向かって口にするというのもあまり賢いやり方ではなかろう。
「でも、私たちを助けに来てくれたのよ」
そしてリシェンはセラの耳元にささやく。ごく小さく潜められた声だったが。
「…………王子様だもん」
「リシェン……。じゃ、どうしてこいつはこんなに魔物を連れているのよ」
「魔物だけど……、いい子たちだよ」
理屈も何もない姉妹の台詞に、セラは軽く息をついた。そして再び彼奴を見据える。……先程とはまた違った敵意のようなものが見えるようだ。
「あんた、ホントにお父さんに頼まれて来たの? お父さんがあんたみたいなのを雇うとは思えない」
「無礼なガキだな」
流石に、彼奴もムッとした表情を隠せない。とはいえ、ここまではっきり言われてしまうといっそ清々しいものもあるが。
「まぁ、半分は当たりだ。……他に依頼を受ける奴がいなかったんだとさ」
「ふぅん……」
「セラ、この人はいい人だってば」
リシェンの声を聞き流し、セラは言った。
「言っておくけど、あたしはリシェンみたいに簡単には丸め込まれないからね」
「……お前をここに置いていっても、俺は別に困らんぞ」
「あ、あら、あたしを連れて行かなかったら困るでしょ。あんたが本当にお父さんに雇われてるんならね」
実際には先に為替を頂いているので、このまま二人を置いて逃げても本当に困らないのだが。彼奴はギルドには属していないので、違約金を取られるようなこともない。
「……行くぜ」
とりあえず、彼奴はこの懸命な虚勢のようなものを容認することにしたようだ。……あるいは、面倒になって体よく無視するつもりか、な。
フギャアァアア
ミャアァ
だが、我らが牢から出るか出ないかという時。出入り口近辺にたむろしていたリュンクスたちが騒いだ。
「……なんだ?」
と同時に、地下には決して吹くことのないはずの風がゴォーッとうつろな音を立てて流れる。
「見張りが戻ってきたにゃー!」
フギャアァア
たちまち、リュンクスたちはバラバラに逃げていってしまった。
「にゃにゃにゃっ、マズいです〜」
尾の短いリュンクスの狼狽した声が聞こえる。あれだけいたリュンクスのうち、残ったのはこいつだけのようだ。
「そんなにすごいヤツなのか?」
「ミャーたちじゃ叶いませんにゃ」
彼奴は風の吹いた方、廻廊の暗闇の奥に目を凝らした。
ズルズルと何かを引きずるような気配がした。かなり大きなものをそうするような……。
フシュルル…………
そんな息を漏らし、やがてぬっと暗闇の中から現われたもの。
それは、一抱えはあろうかという巨大なドラゴンだった。