一方、我ら――リュンクスとリシェン、そして我は相変らず青い光で満たされた階層を彷徨っていた。

 こうし始めてからかなりになる。……だが変化は訪れない。上層への移動手段が見つからないのもそうだが、これまでは頻繁に現われていた魔物も、どういうことか一切現われなかった。

 静かだ。

 しかし、変化は訪れないものではない。

「……あっ」

 通路の奥。右の壁に開いた入り口から、光が漏れていた。

「明るいにゃ」

 勿論、この階層全体が青い光に照らされているのだ。だがそれとは異なる光。……淡い光の中に強く差し込んでいる。

「だ、誰かいるの?」

「……なーんか、イヤな匂いがするにゃ。あそこへは近付かない方がいいと、ミャーの直感が言ってるにゃー」

 鼻に皺を寄せ、リュンクスはそう呟いたが。

 信頼できる姉妹や、さしあたっての守護者である彼奴と離れ、リシェンがかなり心細い思いを抱いていたであろう事は間違いなかった。だから、それを見たとき心のたがが外れたのかもしれない。

 リシェンは走り出していた。それまで寄り添っていたリュンクスから離れ、光へと。

「ま、待つにゃ!」

 確かに、そこに誰かはいるのかもしれない。だがそれが必ずしも自分にとって良いものであるとは限らない。しかしそう考えない程度には、彼女は幸せに育った少女なのだろう。

「お前、むやみに動き回っちゃアブナイにゃっ」

 リュンクスはすぐに少女に追いついたが、既に光の漏れている戸口に至っていた。……部屋の中が見える。

 …………なんだ、これは。

 我は唖然とした。

 なんと言ったらいいのだろう。

 とりあえず、漏れ出ている光はその部屋からのものではなかった。入って左にもう一つ続き部屋があり、そこから射す光が見えていたらしい。

 その白い光とこの層全体を満たす青い光が混淆とした中に、それはあった。

 壁一面に並んでいる。それは透明なガラスのビンだ。

 一口にビンと言っても、その大きさは様々である。本当にビン程度のものと、遥かに巨大なもの。ただ共通していたのは、そのどれもに中身が満ちていたという点だ。……空きビンではない。

 恐らく、その味は海のそれととても良く似ているのだろう。……ビンの中にはなみなみと液体が満たされている。そしてその液体の中には、ある者は体を丸め、ある者はだらりと四肢を伸ばした……様々な生き物が入っていた。――眠っているのだろうか? それとも、……標本なのか。判然とはしない。

 その、どれもが異形だった。だからこれらは魔物である。……人間以外のモノを「そう」とする考えからすれば。だが……。

 不意に振動が伝わってきて、我の思考を中断させた。

 リュンクスだ。奴が小刻みに震えている。……何か、奴の心理に働き掛けるものがあったのだろう。だが、これで逆に、我は周囲を見る余裕を取り戻せた。リシェンは……と見ると、ガラスビンを凝視している。彼女とリンクしているわけではないのでその心理は窺い知れないが、ひどくショックを受けたのは間違いないだろう。そう推測する。

 ……うぉ!?

 その時、唐突に我は下に転げ落ちた。リュンクスの奴めが取り落としたのだ。

 その音がリシェンを動かした。

 ビンから顔を背けると、彼女は明るい方……続き部屋の方へと駆け込んでいく。おいおい……じっとしていられないのか?

『猫よ、呆けている場合ではないぞ!』

 我は叱り付けたが、それがリュンクスに聞こえようはずもない。だが、何がしかの波動が伝わったのだろうか。あるいは、リュンクスも我が落ちた音で己に返っていたのかもしれない。はっとして、リュンクスはリシェンに追いすがった。

「にゃっ、ま、待て!」

 だが、結局は遅かったのだ。

 腹立たしいことに、リュンクスは我を拾うのを忘れていった。故に、我はその全てを良い位置から見ることが出来たわけではない。だが、落ちた場所が戸口を見通せる位置だったので、光の射す部屋に人影があるのをうかがうことは出来た。……女だ。金色で長い髪をしている。

 我はその姿を見たことがあったわけではない。だが、知っていたと言っていいのだろう。

 部屋はライトの魔法によってか、白い光で煌煌と照らされていた。女の後ろには机があり、何かの器材や資料が山と置かれている。突き当たりには書棚、機具の置かれた台。辺りを這うコードは片隅の長い箱の中に消えている。

 来訪者を迎え、彼女はその椅子から立ちあがったところのようだった。

「あら……イケナイ子ね。こんなところまで来るなんて」

 ねっとりとしたものを含む声。それは、リシェンに向けられたものか、あるいはリュンクスに対するものなのか。

「マ……ママママスター」

 震えすぎて、リュンクスの言葉はひどい吃音になっている。

「でも、丁度いいわ。そろそろ実験を始めたいと思っていたところだったから。……こちらへいらっしゃい」

 言いながら、一歩踏み出す。少女に向かって手を伸ばした。

「…………っ」

 その部屋に入ってから、初めてリシェンが動いた。後ずさる。だが、逃げ出すところまでには至らない。

「聞き分けの悪い子はキライよ。……大丈夫、ぐっすりと眠らせてあげる。何も感じやしないわ」

 固まったままの少女に代わるように、リュンクスが動いた。

 といっても、ただ前に回り込んだだけである。少女と女の間に立ったが、途方にくれたように己がマスターを見上げた。

「どきなさい」

 フギュゥ……。

 リュンクスは逡巡している。

 伸べていた手を、女はリュンクスにかざした。

「フギャンッ!」

 悲鳴を上げ、リュンクスは床に転げた。さほどのダメージではないようだが……あれは、炎の魔法か。

「役立たずめ! 大人しくしていろ。お前の処理は後で考えてやる」

 まなじりを吊り上げて女は言うと、再び元の口調を取り戻してリシェンの手首を掴んだ。

「さあ、おいで」

 半泣きのまま、リシェンはもう声も上げられない。そのまま、女は少女の手首を掴み上げて引きずろうとした。

 我は叫んだ。

 ――急げ!!

「!?」

 突然、女がその手を離す。反動でリシェンは転んだが、それをとやかく言う気はあるまい。リシェンの手首を掴んでいた女の手の甲には、赤い筋のような傷が付いていた。いつの間に? ――勿論、今のこの一瞬。我の刃によってだ。

 我は今や、惨めに床にうち捨てられているのではない。宙をくるくると舞うと、あるべき場所へと収まった。――召喚に応え、我が主の手の中へと。

「リシェン!」

 叫んだのはセラだ。そして、その前に立つ白銀の影。

「悪いが、こいつらをお前に渡すわけにはいかないぜ」

 我を片手に女と対峙する。

 我が主、シェゾ・ウィグィィ。

 とうとう、彼奴は追いついたのだった。

「……あなたね、上で散々イタズラをしていたのは」

 傷を検分していた顔を上げ、女は彼奴を見つめた。

「貴様がホムンクルス・マスターか」

「そう――呆れたヤツね。こんな騒々しい侵入者は初めてだったわよ」

「それは邪魔したな。だが、もう帰るから構わないでくれ」

「……私を倒さないの?」

「俺は、別にお前を倒しに来たわけじゃない。そんなことに興味もねェ。……ただ、こいつらを連れ戻すのが今回の仕事だからな」

「はっきりしてるのね」

 女は微かに笑った。苦笑していたのかもしれない。

「でも……つまり、あなたと私には仕事上の利害の対立しかないということね」

「…………?」

 女はゆっくり近付いてくる。その動作は自然で、何かを仕掛けようとしている様子は見えない。同じように、魔力の集中もない。

 彼奴の首に腕を絡み付かせると、女は、赤いその唇を彼奴のそれに重ねた。

 ……重ねたときと同じように、ゆっくりと離れる。腕は絡めたまま。

「私と組まない?」

 女は言った。彼奴の視線を受けながら。

「あなたがその子達を連れ戻すことでどれほどの報酬を得るのかは知らないけど……間違いなく、私はそれを遥かに上回る利益を与えてあげられるわ」

 そして淫靡な笑みを浮かべる。

「勿論、私も……ね」

「………」

 女は咲き誇る大輪の花だ。そこには圧倒的な自信、そして魅了の力が溢れている。

 だが。彼奴の返答はその意には反していた。

「お断りだな」

「……な!? どうして!」

 彼奴は驚愕する女の手を無造作に振りほどいた。

「俺は臭い女はゴメンだ」

「く、臭い? 私が?」

「ああ。いくら香水をつけて誤魔化しても、ぷんぷんしてやがるぜ。……染み付いた死臭がな」

「――!」

 更に、彼奴は言い放った。

「それに、勘違いするなよ。俺はお前を倒すことには興味がないが、やってることには虫酸が走る。お前がどんな変態趣味を持っていようと俺の知ったことではないが、どこか俺の目の届かないところでやるんだな!」

 かなり勝手な言い草だが、正直である。

 女はしばし気を呑まれたように黙っていたが、不意に笑い出した。

「……何がおかしい」

「だって滑稽だもの。……よりによって、あなたがそんな事を言うなんてね」

「なに?」

「私だって、あなたのことを知っているのよ。銀色の髪に蒼い瞳。暗黒の力を操る魔導師――シェゾ・ウィグィィ?」

 片眉を上げた彼奴を、女は見据えた。赤い唇に昏い笑みを浮かべて。

「……闇の魔導師ルーン・ロードの後継者」

 少女達が息を呑む気配が伝わってきた。かつて世界を震撼させた邪悪な魔導師の名は、歴史に刻まれ、また勧善懲悪の物語の悪役として誰もが知っている。それこそ、ほんの子供でさえも。

「世界を災厄に陥れる闇の申し子が、一体どういう風の吹き回しで人助けなんてしているのかしらね。お金のため? あなたに受け継がれた力は、そんなことのために使うものなのかしら。違うわよね。………自分の役割もわきまえぬ、愚か者が!」

「……なんだと!?」

「怒ったの? 人は図星をさされると怒るものね。………勿体無いと思わない? その力を無駄にしておくなんて……」

 再びゆっくりと近付いてくる女に対し、身構えようとして――唐突に、彼奴は体の自由を失っていることに気付いた。いつの間にか、両足に何かが絡み付いている。

「な!?」

 植物の蔓のようなそれは、葉も花も一切持たず、だが鮮やかな緑色をしていた。……問題はそういう事ではない。それは動物の触手のように蠢いていた。彼奴が動けないほどの力で締め付けつつ、ずるずると這い登って両腕に絡み付く。……辛うじて我を取り落とすことはなかったが、これでは振るうことは出来まい。大きな魔法を使うために印を組むことも出来ないだろう。

「くっ」

「油断したわね。ここは私の研究所。私のお城よ」

 動けない彼奴の前まで来ると、女は彼奴の頬に手を寄せた。そのまま、首筋から胸元までつっと指を這わせる。

「奇麗な形……。それに、これだけの魔力を収めておけるだけの強度のある器。………素晴らしいわ。思いがけず、いい素材が手に入ったわね」

 ぞっとするような台詞を吐いて、女は笑った。

 と。唐突に。

 ガラスが砕けた。――その音がした。立て続けに。

 ギャアァ!

 次いで恐ろしい叫びが響いたが、それは女の発したものだったのだろうか。

「なんてこと!」

 隣室から液体が流れ出てくる。と同時に、彼奴を締め付けていた蔓の力が緩んだ。そう、その蔓もまた、隣室から伸びてきていたのだ。

「なんてひどい子供なの!」

 隣室にいたのはセラだった。彼女は、女が彼奴に気を取られた隙に隣室に走ると、ビンを片端から割ったのだ。

「こ……のォ!」

 棒状のものをガラスに叩きつける。蜘蛛の巣のように走った亀裂から中に満ちていた液体が迸り出、すぐにガラスも剥がれて床に飛び散った。

 蔓は割れたガラスビンのひとつから伸びていたが、今はガラスの破片にまみれ、ぴくりともせずに床にわだかまっている。同じように床にこぼれ出たガラスビンの中のモノたちは、ある者はだらりと床に延び、ある者は水揚げされた魚のようにびくびくとうごめいていた。

 すごい臭気だ――彼奴を通してそれが感じられる。

「よくも!」

「きゃ……!」

 まなじりを吊り上げ、女がセラに掴み掛かる。その背後から、彼奴が闇の波動を鞘走らせた。

「闇の剣よ、切り裂けっ!」

 今しもセラを掴もうとしていた女の右手の先が――飛んだ。

「…………キャ――ッ!」

 叫んだのはリシェンだった。

「キャーッ、キャーッ!」

「リ、リシェン!」

 狂乱している。幼い少女には凄惨過ぎたのか。女の手から逃れ得たセラが駆け寄り、震え続ける姉妹の体を抱きしめた。必死に。それでも止まらない。

 血と液で汚れた床にうずくまった女に、彼奴はぴたりと剣先を突きつけた。

「大逆転だな」

 女は動かなかった。痛みとショックで朦朧としているのだろうか。

「これに懲りたら、二度と俺の前に姿を現すな!」

 彼奴は、そう言い放ったのだが……。

「……くも…………の傑作を」

「!?」

 次の女の行動に対し、彼奴は一瞬反応が遅れた。

 目の前に剣を突き付けられているにもかかわらず、女はそのまま、彼奴に掴み掛かったのだ。

 無事な左手で彼奴の顔面をわしづかみにする。間髪入れず唱えた。

「スクリーム」

 それは、精神に直接打撃を与える呪文だったらしい。

「――うっ……あああっ!」

 その衝撃は我にも強烈に響いた。女の腕を振り払ったものの、よろめき、後ずさって、そこにあった机に背をぶつけてもたれる。机の上にあったものがガシャガシャと床にこぼれて散らばった。

 女が歩み寄ってくる。

 掴み掛かったときに、首から胸元にかけて剣で切れてしまっていた。それは女の豊かな双丘を半ば露出させたのみならず、肉が切れて血が流れ出している。だが、それを意に介した様子はない。

 いや、そもそも腕一本を失って、苦痛にもがくことすらなく、このように平然と行動できるものなのだろうか。

(こいつには……、痛覚がないのか?)

 肩で息をつき、それでも彼奴は剣を構える。

「大人しくすることだ」

 言って、女は左手を開いた。そこには解放を待つ魔力が輝いている。

『マズいぞ……避けろ!』

「分かってるっ」

「――ヒュプノス」

 これらの台詞はほぼ同時に放たれた。

 あれは攻撃魔法ではない。だが、精神にダメージを受けた今の状態で、精神支配系の魔法を食らえば、影響は免れない。

 身をかわした彼奴は、こちらも呪文を放った。

「シャドウ・エッジ!」

 魔力によって生み出された闇の結晶は、爆発的に枝を伸ばし飛び散ると、その鋭い切っ先で女を切り刻む。

 だが。やはり女は苦痛の色一つ浮かべることはなかった。肉体はずたずたに切り裂かれているにもかかわらずだ。血にまみれた中で、顔だけが相変らず白く、作り物めいた美しさを保っている。

 陰惨な――怖気をふるう光景ではないか。

「ヒュプノス」

 再び呪文を放ってきた。

「くっ」

 彼奴はこれも避けたが、足元がおぼつかずに書棚にぶつかった。――どん詰まりだ。次の攻撃は避けきれるか?

 傾いた書棚からバラバラと本が落ちてくる。

「――?」

 彼奴が目を瞬かせた。

『どうした?』

「いや……今、一瞬」

 一瞬、女の表情が動いた。初めて。

 こちらからは何もしていない。――なのに。

 彼奴は素早く周囲に視線を走らせた。見えるのは床に散らばった本。その間を蛇のようにうねって通っているのはコードの束だ。それは壁際に置かれた大きな長方形の箱へと収束している。この箱の上にまで本は落ちていた。

「なにをしても無駄だ。大人しくしていろ」

 女の声が聞こえる。今までからすると、どこかに滲み出た感情の色がうかがえる…………。

(――焦っている……?)

「…………そうか!」

 叫ぶと、彼奴は長い箱に駆け寄った。我を振るう。

「何をする!」

 女の声を無視し、蓋を叩き壊した。

『……!?』

 中には人形が入っていた。

 非常に精巧な造りで、しかし見るも哀れに老いさらばえた男の人形だ。……何故こんな物を作ったのだろう? 更に不可解なことに、その体のあちこちからは沢山の管や線が生え出てうねっていた。箱に収束していたコードはこの人形のものだったのだ。

「やめろ、触るな!」

 女の叫びが聞こえた。のみならず、駆け寄ってくる気配がある。だがそれに構うことなく、彼奴は我を人形の胸に突き立てた。

 どぷり、と突き破る感触がした。

 世にも恐ろしい悲鳴が起こった。

 女が胸をかきむしっている。その目は見開かれ、唇はわなないていた。

 そして。

 驚愕すべきことに、剣を突き立てられた人形もまた、同じように目を見開き、断末魔の声を上げているではないか。

 いや。切り裂いたこの感触は人形のものではない。これは肉のそれだ。溢れる感触は血。それは灼けるように熱い。

 人形は生きていた。……違う。この、箱の中にまるで人形のように横たわっていた男は、しかし生きていたのである。

「お、の、れ……」

 しわがれた声で男が喋った。あえぐように。その眼球は黄色く濁っている。

「……よく、も………………」

「お前が本体だったんだな。……死体から新しい体を作っては、それに自分の意識を移して生き永らえていたか」

 彼奴の台詞が聞こえていたのかどうか。

「…………行け。もろともに、うち滅ぼすがいい」

 奇妙な呪詛の言葉を残すと、ホムンクルス・マスターは息絶えた。

 女は、糸の切れた人形のように倒れて動かなかった。




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