見たところ、アルルは全く何も損なわれていないように見えた。怪我もしていないし衣服も乱れていない。疲労している風でもなかった。シェゾは安堵している自分を感じたが、そこから折り曲げたように急激に腹が立ってもきた。
「どうしてシェゾがここにいるの?」
アルルは大きな瞳を更に大きくして、不思議そうに問い掛けてくる。
何を呑気な。
――お前を捜しに来てやったに決まってるだろうが!
そう怒鳴ろうとして、シェゾはすんででその言葉を飲み込んだ。違った。俺はこいつを捜しに来たわけじゃない。
「お前には関係ないっ」
「……ふーん?」
不機嫌さも露わにそう言ったが、意外にもアルルはそれ以上詮索する気はないようだった。少し拍子抜けする。
「そう言うお前はどうしてここにいるんだ? ちょっと散歩という場所じゃないぞ」
「うん。……それが、ボク、グロストさんの依頼を受けたんだ。キミに断られてすごく困ってたし、ボクでも出来る事があるかなって思って」
「やっぱりな……」
呆れ半分、納得半分で息をつく。
「え?」
「何でもない。それで、それに手間取って十日も足止めくってるというわけか?」
「え? もうそんなに経っちゃったかな」
「何をとぼけたこと言ってるんだ。お前が連絡もしないで消えたおかげで、俺があのゴリラ女にあらぬ疑いをかけられたんだぞ」
「そっか。学校に届を出した期日が過ぎちゃったんだ……」
アルルはどこかぼんやりとした口調で言う。
「アルル……?」
快活な少女に似つかわしくないような気がしたが、だからと言って何かおかしなわけでもない。「大丈夫か」という言葉をシェゾは飲み込んだ。
「ここずっと暗いし、よく分かんなかったよ。ルルーに心配かけちゃったかな」
「人にいきなり掴みかかって、ワケの分からん事をまくし立てるくらいにはな」
「そっか……謝っとかなくちゃ」
そしてシェゾに顔を向ける。
「シェゾもごめんね」
「は?」
「それで心配して、来てくれたんでしょ」
「なっ……、違うぞ!」
反射的にシェゾは叫ぶ。
「俺はただ、イクスグレイズとかいう奴がどんな奴か見に来ただけだっ。断じてそうだ! お前なんぞの心配などしとらんっ」
「わ、分かったよ。そんなに力説しなくても……」
シェゾの勢いに顔をしかめ、アルルは小さく息をついた。それから気を取り直したのか、笑顔を浮かべる。
「ねえシェゾ、イクスグレイズを見に来たんなら、ボクに協力してくれないかなぁ」
「なんだと?」
「ボク、こいつに結構苦戦してて、なかなか勝てないんだよね。他に魔獣っていうのと戦ったことないからよく分かんないんだけど、すごく強い気がするし」
「……魔獣? 魔導師じゃないのか?」
「えー? 違うよ、魔獣だよ。何言ってるのシェゾ。ちゃんとグロストさんから聞いてたじゃない」
「……ああ」
「しっかりしてよ。とにかく、キミの力を貸してほしいんだ。二人で力を合わせれば、きっと勝てると思うから」
シェゾはしばし考え込むそぶりをする。そして顔を上げて言った。
「……分かった。いいだろう、協力してやる」
「えー!?」
「なんだよ」
「だって、シェゾがこんなに素直に受けるとは思わなかったから……」
「あのな……嫌ならいいんだぞ」
「あっあっ、そんなコトないよっ。助かる、すごくっ」
アルルは慌てて取りすがる。
「フン……別にお前のためじゃない。少し気になることがあるんでな」
「うん。ありがと、シェゾ」
そう言って「こっちだよ」と先に立って歩き出したアルルの背中を見て、シェゾはしばし呆気に取られた。なんだってこいつはこうも簡単に礼を言うんだろうか。俺には出来ない……いや、人に礼を言いまくる闇の魔導師なんぞ不気味なだけだからそれはいいんだが……そもそもこいつ、忘れてないか? 俺は闇の魔導師で、こいつの魔力を狙っていて……俺たちは敵同士なのだ。そう、いずれ俺がこいつの魔力を奪ってしまえば、そこで終わる関係だ。なのに……。
「……ぐー……」
数瞬、考えに沈んだシェゾは、足元から上がる声で我に返った。忘れていた。床に道具袋を広げたままで、カーバンクルが見上げている。
「おい、アルル! こいつを忘れてるぞ!」
「あっ、カーくん!」
片手にそれを摘み上げて呼び止めると、アルルは目を丸くした。
「あれ? いつの間にそこにいたの?」
……って、今までいないのに気づいてなかったのか?
こいつそんなに鈍かったのか……シェゾの思いをよそに、アルルはにこやかに手を伸ばす。
「おいで、カーくん」
「ぐ……」
奇妙なことに、カーバンクルは何か迷っているように見えた。いつもなら何も考えず、喜び勇んでアルルの肩に飛び乗るところであるのに。
「カーくん……? どうしたの?」
「ぐー!」
カーバンクルは不思議そうなアルルの手から逃れると、再びシェゾの肩に駆け戻った。
「な……どうしたんだ?」
「カーくんてば……よっぽどシェゾが気に入ったんだねぇ」
「はぁ?」
シェゾはぽかんと口を開けてしまった。こいつが俺を気に入ってる? 何の冗談だ。そりゃ、実のところ動物は嫌いじゃないが、何でこいつになつかれなきゃならないんだ。さっきらっきょを食べたせいか? ……だがあれはやったんじゃなく、勝手に食べられたんだぞっ。
「しょうがないな。シェゾ、しばらくカーくんをよろしくね」
何度か試してみて、やはりカーバンクルがシェゾの肩から離れないので、諦めたのかアルルが言った。
「マジかよ……」
うんざりした顔をすると、反対にアルルはなんとなく楽しそうに笑った。
「でも、こんなところをサタンにでも見られたら、大変なことになりそうだね」
「……確かに」
肩にカーバンクル、という状況でもそう思ったが、今は更に隣にアルルがいる。実際にはどんな事情なのかという理屈はあれ、見た目のインパクトというものはあるだろう。
「……ところでアルル、イクスグレイズ……その魔獣は、一体どんな奴なんだ?」
「うん……強いよ。でも、姿はどんななのかよく分かんないんだ。いつも暗いところにいるから……何だか真っ黒い塊みたい」
そういえば、こいつライトの魔法も唱えてないな……、とシェゾは気付いた。夜目のきく自分は用心のためもあってあえて唱えずにいたが。だが、それでもあやまたずアルルは進んでいた。ずっとここにいたらしいから、目が慣れてしまったのだろうか。
「ここだよ」
やがて、アルルはある部屋の前で足を止めた。そこには元々大きな扉がはまっていたのだろうが、今は外れてぽかりと四角く口を開いている。覗き込むと、奥にわずかに高くなっている場所があり、椅子のような残骸が黒々とわだかまって見えた。元は謁見室だったのだろう。
「確かに……何かはあるな」
シェゾは呟いた。闇の気配がひときわ濃い。
「……シェゾ!」
唐突に、鋭くアルルが叫んだ。わだかまっていた椅子の影から、何かが起き上がったのだ。