バリーは広場の片隅に座っていた。
 遺跡に入り、夜半の鐘が鳴ってすぐに、シェゾがただならない様子で広場を出て行き、魔女も間をおかずにその後を追っていった。自分も追うべきだったのかもしれないが、正直、体力がたないと感じたのだ。
――情けないねぇ。
 以前は、無茶はかなりきく方だと自負していた。魔導師に付いて遺跡の探索をこなしもしたし、何日徹夜をしたところで、どうということもなかった。なのに、今はこのザマだ。
――マジメに節制するか。
 肩を怒らせて真剣に説教している少年の顔と声を思い浮かべて、バリーは僅かに口元を緩めた。
 それから、彼の存在にはまるで構わず、定められたように動き回っているゴーストたちの様子を見るともなく見やる。
 衣服や道具の意匠こそ、やや古風で風変わりではあるが、現代の生活風景と特別変わったようではない。とはいえ、この風俗を記録し、ゴーストを再生する仕組みを調べて報告出来たならば、学会に一大センセーションを起こすことは可能だろう。
 今まで、それを一度も夢想しなかったとは言えない。地位も名声も失い、たださまよい続けた日々。知られざる遺跡を発見し、新たな資料を提示して、あっけなく手のひらを返した人々に笑ってやりたい。そんな気持ちは確かにあった。
 だが、今の心は静かだ。
 人々を見返し、あっと言わせるための根拠を探す。不思議と、そんな気は起こらない。
 目の前では、出会うことを熱望していたはずの、奇跡のような情景が動き回っているというのに……。
――なぁ。
 ここは、本当に……俺の探し続けていた”グリーン”なのか……?
 まぶたを閉じて、心の中に宿る影にバリーは問いかけた。

 そうして、暫しの時が過ぎた後だった。だしぬけに、ドン、と遺跡が揺れた。そのまま収まらず、グラグラと震え始める。
「あいつらの方で何かあったのか?」
 すぐにそう思った。だが、それでどうするべきか。自分が彼らの方へ走ったところで、何の役に立つこともないのは分かっている。むしろ足手まといになるのは明白だろう。
 ギュワァア、と耳障りな音がした。揺れを我関せずに周囲を歩き回っていたゴーストたちが、一斉に間延びして、次いで色とりどりの影に崩れた。声はもはや言葉を成さず、それが耳障りなノイズとなって響いている。
――暴走、か……?
 どういうことなのか、詳細は分からない。だが、遺跡が崩壊しようとしている。
 経験として、それを察知した。
――逃げるべきか? しかし、あいつらは……。
 ここまで戻って来やしないか。そう思ってさまよわせた視線が、一点で縛り付けられた。崩れた色影が、崩壊する遺跡が、ごちゃごちゃに揺れ動く景色。その中にあって、微動することなくクリアに浮かび上がっている人影がある。
「…………!!」
 喉の奥が引きつったように震えた。
 彼女は長い髪を垂らし、懐かしい瞳で微笑んでいた。その傍らには、彼女の腰にも満たないほどの背丈の少女がいて、母親の体に顔を埋めるようにして抱きつき、こちらを気にしている。羽で覆うように、彼女の手が娘の肩を抱いていた。
 知らず、一歩足を踏み出している。
「リュシナ。………メルテム」
 名を呼ぶと、彼女たちの表情は更に柔和になったように思えた。
「お前たち……ここにいたのか? ここで……俺を待っていたのか」
 彼女たちは答えない。だが、微笑っている。
「俺を赦してくれるのか。身勝手で、家族すら顧みなかったこの俺を」
 また踏み出す。彼女たちに近づく。
 逃げることも拒絶することも、罵ることもなく。彼女たちはそこに留まっていた。
――リュシナ、メルテム。
 そうなんだな。お前たちのいる、ここが。ここが俺の”グリーン”なんだな……。
 ゆらりと、バリーは歩を踏み出した。

「――おっさん!」
 直後、シェゾの叫びが耳朶を打った。がしりと両肩をつかまれ、強引に引き戻される。彼女たちの方へ行きたくて、バリーは無我夢中で暴れた。
「離せ! 邪魔をするなっ!」
「しっかりしろ、おっさん。死ぬ気かよっ!」
――死。
 そう言われて我に返ると、目の前の石畳は崩れてぽっかりと奈落の穴が開き、何もなかった。彼女たちは宙に浮いているのだ。
 幻? それとも、本物の幽霊ゴーストか。
「それでも構わない。離してくれ! 俺はあそこへ行くんだ。彼女たちのいる、俺の”グリーン”へ!」
「くっ……」
 バリーは拘束から逃れようと力の限り暴れ、身をよじった。シェゾは頑としてそれを止め、しかし一向に諦めようとしないバリーを一瞬手放すと、その頬を拳で殴りつけた。
「うっ!」
 衝撃で、バリーは床に倒れ付す。その襟をつかみ、シェゾはバリーの顔を引き寄せて怒鳴りつけた。
「死んじまうのは簡単だ、だけど目的があれば生きていける。馬鹿にされても、くだらなくても、生きていればいつか行きたい所へ辿り着ける。そう言ったのは、あんただろ!
 こんな狂った幻の中で、自分から命を捨てて、……これがあんたがずっと探していた”理想郷グリーン”なのかよっ!」
 愕然として、バリーはシェゾを見た。責めるように、――あるいはすがるように、その青い双眸はバリーを真っ直ぐに射抜いている。
「……そうだったな」
 一瞬前まで全身を満たしていた衝動。その代わりに、別のものが満ちてくる。
 バリーは、体から力を抜いた。
「俺は死なない。……まだ死ねない」
 シェゾの肩にすがって、彼は立ち上がる。ニヤリと口元を歪め、
「さあ、こんなヤバいところからはさっさとトンズラだ」
と、片目をつぶってみせた。
「――ああ。早く行こう」
 ホッとした表情を見せ、シェゾは先に立って進みだした。それを追いながら、一瞬だけ、バリーは背後に視線をやった。
 彼女たちの幻は、未だにそこで微笑んでいる。
「すまねぇな。俺の”グリーン”は、まだ見つかっちゃあいないようだ」
――当分は、お前たちのところへ還れそうもない。
 微かに苦笑する。
 そして背を向け、シェゾを追って走って行った。





 遺跡の崩壊は続いている。
 幾つかの階段を下り、時には飛び降りもして、彼らは確実に地上へ近づいていた。
 この分なら、何とかなるかもしれない。
 自分たちの悪運に、半ば呆れ、半ば感謝しながら、バリーは滅多にやらない祈りを心で女神に捧げていた。
 ――と。不意に、前を行く少年の背に激突した。
「ちちち……。おい?」
 シェゾが立ち止まっている。崩壊が進んで進めないのかと思って見やれば、通路は塞がっているわけではない。だが、シェゾは棒のように固まって、その場から一歩も動かないでいる。
「シェゾ」
 肩をつかんでみて、バリーはシェゾの体がひどく強張っていることに気が付いた。
「おい、どうした!」
 肩をつかむ手に力を入れて揺さぶったが、反応はない。微かに体を震わせて青ざめ、その目は見開かれて一点を凝視している。……怯えている。
 その視線を追い、通路の先にクリアな人影が浮かんでいることに、バリーは気付いた。
 彼女たちではない。バリーには見覚えのない少女。亜麻色の髪を垂らし、銀の地に金の象嵌ぞうがんを入れた頭環サークレットを身に着けている。
 少女は無表情だった。ただ静かにこちらを――シェゾを、その鳶色の瞳で見詰めている。着ている衣服には、鮮やかな赤い花の模様が咲いていた。……いや、違う。あれは、鮮血ではないのか?
「うっ……」
 それを確認する間もなく、シェゾが引きつった呻きを喉の奥から漏らした。それは切れず、ズルズルと繋がり溢れ出して、悲鳴になる。
「うわぁああああぁあああぁああっ!!」
 ――絶えることのない恐怖。その色を隠さずに、シェゾは絶叫した。





 彼女の体は血にまみれている。
 いや……違う。あれは彼女の血ではない。
 彼女が俺を傷つけた。――その、返り血。


 祠は森の奥、重なり合った木陰で薄暗い中に存在していた。白い石を組み上げた、一見して塚のようにさえ見える、素朴なもの。周囲には石敷きと柱の跡があり、かつては屋根も備えた、そこそこの規模の礼拝所だったのかもしれないとは思わせた。
 案内も何もない。「ここなのか?」と訊ねると、彼女は「そう、ここよ」と頷く。まるで、何度も訪れたことがあるみたいな訳知り顔で。
「それにしても、とてつもなく古そうな祠だな……。あまり人も来てないみたいだし、一体何が祀ってあるんだ?」
「魔導師よ。昔のね」
 言いながら、彼女は祠を器用に開けて、中から何かを取り出そうとしていた。
「来れてよかった。……どうしても、キミをここに連れてきたかったの」
「俺を?」
 ここに来たがっていたのは彼女で、俺はただそれに付き添ってきたのだと、そう思っていた。
「なんで、俺を」
「それは」
 答えながら、彼女は取り出したものを俺に示してみせる。
「キミが、……彼が”呼んだ”者だからよ」
 それはサークレットだった。……見覚えのある。
 そうだ。確か銀色の髪の亡霊が身につけて、いた。
 そう思い至った瞬間、ドクン、と自分の鼓動が大きく響いた。
「この祠はね、私が作ったの」
 サークレットを両手で持ったまま、彼女はおかしな話を続けている。
「な……何言ってるんだよ。こんな古い祠……。十年やそこら昔に出来たものじゃないだろ」
「うん。だから、作ったのは二百年くらい前。……あの人が勇者の手でラーナの地下に封じられた、その後。
 勇者の封印は強力で、何人なんびともそこから出ることは出来ないし、入ることも出来なかった。ただ、彼の遺したこのサークレットを通してなら、微かにだけど、意思を感じ取ることが出来たの。
 それで、私たちは意識を通わせながら待った。……彼をあの牢獄から救い出せる、器となるべき人間が生まれるのを。
 あの牢獄には、誰も入れない。けれど、”神を汚す華やかなる者”ならば、別。番人であろうと手出しは出来ない。そうしてこころを招き入れてその辿った道を伝えば、からだを手に入れることが出来る。そうすれば、彼はこの世に闇の魔導師ダーク・ロードとして復活する。……そのはず、だったのよ」
 ――悪夢。
 あれはもう、消えてしまった悪夢のはずなのに。
 なんでだ。まだ続いているのか?
 鼓動が、ガンガンと耳の奥に響いている。

――『んふふふふ……。ようやくやって来たか』

 不意に、忘れていた亡霊の声が脳裏に蘇った。

――『わたしの力をうけつぎ……、闇の魔導師として生きていくのですよ、あなたは!』

 そうだ。あの日、一年ほど前の、修学旅行の最中。
 俺は”呼び声”に引かれて、あの扉を開けた。
 そして――今、彼女からも、それと同質の呼び声コールを聞いていたのだと……その声に惹かれていたのだと、初めて自覚する。
 だが……だけど!
「嘘だ、そんなはずないっ。だって、あんたはカーフの領主の娘で」
「二百年は、待つのには長かった。だから私は、他者から命と若さを奪ったの。いくつもの肉体を取り替えて生きながらえてきた……。今は、このファトマリム・カーフが私のからだ
 まさか。
 青白い顔で横たわる彼女の傍に、じっと控えていた黒衣の老婆の姿が浮かんだ。
「そう……あれが、二ヶ月前までの私。あの体も、誰かから奪ったものだけれど」
 信じたくない、聞きたくもないことを彼女は淀みなく話し続けている。
「ずっと………二百年もの間、待っていたのよ。あなたが、彼の魂を運ぶ器となって、地下迷宮の外に現れるのを」
 手に持っていたサークレットをいとおしむように一瞬抱いて、彼女はそれを自分の頭にはめた。その鳶色の双眸が、憎悪に燃えて俺を射抜く。
「でも………あなたは、彼を殺した!」
 彼女が手を差し伸ばした。そこから氷の刃が生え、凄まじい勢いで枝のように伸びて迫る。咄嗟に身をかわした。
「氷の魔法……!? 魔法は使えなかったんじゃ」
 彼女と同道を始めて以降、不思議にも魔物や盗賊に出会う率は激減した――正確には通常に戻った――ので、さほど戦う機会があったわけではない。だが、たまにそれが起こると、彼女はいつも戦わず、後方で身をすくませて怯えていた。それは普通の”女の子”であれば当然のことで、何ら疑問を抱くことでもなかったが。
 なのに何故。そう思い、すぐに「違う」と思い当たる。
 ファトマリム・カーフは確かに魔法が使えなかったのかもしれない。だが、”彼女”はそうじゃなかった。魔力は主に魂に由来するものだという。ただ、その力を俺には見せていなかっただけのことだったのだ。
「くっ」
 杖を構え、俺はフレイムの呪文を唱えかけた。だが、放とうとした刹那、無防備に近づいてきた彼女を前に躊躇する。
「シェゾ君は、本当に優しいね……」
 間近で彼女がそう言った。俺が見知っていた、いつもの彼女そのままの声音で。
「……でも、それは弱さなんだよ」
 杖を構えていた右の手首をぐっとつかまれる。
「フリーズ!」
 ビキビキビキ……と、握られた箇所から氷と霜の刃が走った。
「ぐぁああっ!」
 肉が裂けて血がほとばしり、それが彼女を赤く染め上げていく。
「……血が、いっぱい出ちゃったね……」
 手を放し、彼女は言った。
「う、く……」
 だが、俺は苦鳴を飲み込むのに必死だった。刃で裂かれただけではなく、凍傷で右腕全体が爛れて、麻痺している。取り落とした杖は氷に覆われ、地に強く縫い付けられていた。
「痛い? ……でも、あの人はきっと、もっと苦しかった。その苦しみを思い知らせるために、私の憎しみを晴らすために、あなたをどうしてもここへ連れて来たかった。――ずっと、ここであなたを殺したかったのよっ!」
 彼女の叫び。――俺の知らなかった、見ようとしていなかった、彼女の素の心なのだろう。俺を憎んで、呪って。復讐をする――ただそれだけのために。最初から、ただ俺を殺すためだけに領主館へ呼び、依頼を与え、同道して。
 ……最初から。それだけでしかなかったというのなら。
「だったら……何で、あんなことをしたんだよ……」
 地にうずくまり、苦痛に喘ぎながら俺は言葉を吐き出した。
「何でっ。殺したいほど憎いなら、何で俺を抱きしめたりなんかしたんだ!」
 その刹那。
 彼女は俺を見詰めた。険のない、無と言ってもいいような静かな表情。淡く――けれど確かに、影を刷いた微笑みが浮かび上がる。悲しそうな、あるいは困ったような。
 だが、それは一瞬のことだ。その唇が開き、最後の言葉を紡ぎだす。
「さよなら……」
 掲げた手には、強い魔力の光がわだかまっていた。
 あれが解放されれば、俺は死ぬだろう。
 ――死ぬ。
 心の表面は、それに無反応だった。――もうどうでもいい。ここまで人に憎まれて、それでも生きる意味があるのか? これが俺の”運命”ってヤツだったのさ。
 ……だが。
 目の前で、彼女の唇が最後の呪文を紡ぎ、術式が完成される。
――いやだ。
 心の奥底から、不意に、その感情が沸き上がった。
――厭だ。厭だ。厭だ!
 それは爆発的な奔流となって俺を支配する。

『我があるじたる資格を持つ者よ』

 やはり奥底から、異質な声が響いた。かつて一度だけ触れたことのある、悪夢と共に消えたと思っていた存在ものの、呼ぶ声。

『――俺を、呼べッ! お前が、生きたいと望むのならば!』

 その時。
 俺がその声に応えたのを、生きる本能だとか、自己を守るためだとか、そんな風に理屈付けることも可能なのだろう。ただ必死だっただけで、何ら害意はなかったのだと。
 だが、違う。そうじゃないんだ。

――イタい。コワい。ナンで。リフジンだ。シぬのはイヤ。ダマされた。ヒドい。ずっとダマしていたのか。ウラギられた。クヤしい。ニクい。ニクい! ニクい!! 殺シテヤル!

 あの時、俺は確かに、――どす黒い憎悪と殺意に駆られていたのだから。



――『既にあなたの魂には闇の種が植えられ芽が顔を出しました……。
 わたしには分かりますよ……いずれ咲く花の色が、美しい闇の黒であるというのが……!』
 闇の奥で、亡霊が嗤っている。





 絶叫を上げ続ける少年を、バリーはもてあました。崩壊は進み、ぐずぐずしている時間はない。だが、通路の先に幻はおり、シェゾは我を失っている。
「おい、シェゾ! しっかりしてくれ!」
 揺さぶり、頬を叩く。
「あ……?」
 少年の目の焦点が戻った。バリーはホッとする。
「正気になったか。いいか、細かい事情は知らないが、もう気にするな。あれは幻だ。何も出来やしない」
「幻……?」
 シェゾは呟く。
「違う。幻じゃない」
「シェゾ?」
「彼女は確かにたんだ。それを……………それを、俺が殺した!」





 かつて、同じ剣でルーン・ロードを斬ったとき。血は流れず、ただ端から塵になって砕けて消えていっただけだった。だが――彼女は違った。当たり前だ。彼女は、少なくともその体は亡霊ではなく、血の通った人間だったのだから。
 噴水のように噴き出した血は、火みたいに熱かった。肉や骨を断ち切る重い感触が剣から直に手に伝わる。ブツリとしたそれはひどくおぞましいもので、怖気おぞけが背筋を這い登り、吐き気になって込み上げた。
 それは、その時”命”を潰したのだと、はっきりと知覚できたからに他ならない。
 気が付くと、俺は血の海の中に這いつくばっていて、もう吐き出すもののない胃の中身をそれでも吐き出そうとえずいているところだった。彼女はとうに死骸になっており、末期の言葉が何だったのかだとか、そういうことは分からない。
 彼女の目は開いたままだった。俺は、その目を閉じてやるなどということさえ思いつかずに、じけて、こけつまろびつし、そのままその場を逃げ出した。……葬ってやることさえしなかった。





「俺は……人殺しなんだ。体中血でドロドロに粘ついて、洗っても洗っても、臭いも染みも取れなかった……!」
 慄然として、バリーはシェゾの告白を聞いていた。
――本当のことなのだろうか? 幻を見て、それに混乱しているというわけではなく。
 出会った時から、彼が”逃げている”ことには気付いていた。人と触れ合うことも、若者らしく未来さきを見ることからさえも。自分で自分の”分”を決めてしまい、それにがんじがらめになっている。それをなんとかしてやろうだとか、そんな大層なことを考えたわけではない。ただ……あまりに苦しげで。放っておけない。そんな気がしたのだ。
「俺は……俺はぁっ」
 シェゾはまだ何か叫んでいる。その時、突き上げるように、一際大きく辺りが揺れた。
「なっ……!」
 床が崩壊し、石畳が継ぎ目で別れてごばっと隆起する。合わせるように、天井も崩れて石積みがガラガラと落下した。
「危ねぇ!」
 咄嗟に、バリーはシェゾを抱きかかえて背で庇っていた。





 人を傷つけることでしか確立できない存在。
 他者から何かを奪うことでしか存在できない闇。
 やつらが、俺を呼んでいる。
 何故呼ぶのか。何度も何度も、途切れることなく。
 それは……俺が、やつらと”同類”だからだ。
 赤ん坊のときから、それは魂に刻まれていた。今ではその意味を知る者も少ない、呪わしい名前をその証として。





 雨が降っている。――そう、バリーは感じた。冷たくはない。暖かな雨。ポタポタと、きらめきながら降り注ぐ。
――違う。これは、涙だ……。
 誰かが彼を覗き込んでいた。顔がよく見えない……。だが、その髪の色で誰なのかはすぐに知れた。
――なんだ、シェゾ、お前泣いてるのか……?
 だらしねぇな、男のくせに。そう言ってからかってやろうと思ったが、笑いの代わりに喉の奥からせり上がって来たのは、なにやら生温い液体だった。咳き込んでしまう。呼吸が苦しいが、両腕はピクリとも動こうとせず、溢れ出たそれを自分でぬぐうことも出来ない。
――ああ、そうか。
 バリーはそれを悟った。
――俺は、死ぬのか。
 体の痛みは感じなかった。そういったものを感じる体の機能そのものが壊れてしまっているのだろう。あるいは、最期の時間を安らかに、という女神の計らいなのだろうか。
「死ぬなよ、おっさん。死なないでくれ!」
 泣きながらシェゾが呼びかけている。
「なんで、こんな……。俺は、いつも、何度でも誰かを踏みつけて犠牲にしてっ。何も……誰も護れやしない。
 いつか、自分の行きたい所へなんて……行けるもんか。俺には何も見えない。どこへも行く資格がない。何もない。真っ暗なのに!」
――それは。
 バリーは、シェゾに何かを言おうと思った。だが声にはならず、ただ吐息が唇を震わせただけだった。
 どうやら、もう限界らしい。こいつを力づけてやれるような、そんな言葉を遺す時間は、俺には持たされてはいない。
 だが、それはそれでいいのだろう。
 目の端でバリーは笑った。
 誰かを励ますなんて、俺のガラじゃない。それに、……きっと大丈夫だ。
 どんなに迷っても、足を取られても。いつかは必ず、行くべきところへ。こいつなら、それを見つけることが出来るだろう。――自分にとっての”理想郷グリーン”。そんな場所を。
――……そうか。
 不意に、バリーはそれを知った。
 周囲は砂漠で、崩壊した遺跡のものなのだろう、瓦礫が転がっている。薄暗いのは夜明けなのか。それとも、目が弱っているだけなのか。荒れ果てた、寂しい景色だ。緑なんてまるで見えやしない。
――それでも、ここが俺の”グリーン”なんだ。
 特定の場所ではなく、虹の向こうにあるわけでもない。
――俺は、”グリーン”を見つけたんだ。……やっと。
 シェゾが涙を落としたまま、何かを叫んでいる。だが、もう聞こえない。
 頬に掛かる涙は、とても暖かい。
 バリーは満足して目をつむる。そして、またこことは違う場所へ旅立った。





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