5
彼は、心地よいまどろみの中にいた。
夢として浮かび上がってくる記憶の泡は、心地よいといえるものばかりではなかったけれど。
それでも、幾つかの快い思い出、感情を動かされたこと、また、それらの記憶の断片からなる、不条理な、しかしいかにも夢らしい夢の間を渡り歩く。
子供の頃、雪の日、学校生活、クラスメート、試験、修学旅行。かつて何の翳りもなかった日々、べったりとついた染みが決して取れることのなくなったあの日……。剣と魔導、人の思惑、保身、忌避、利用。まっすぐに続いていたはずの道は曲がりくねって深い森の奥に消え、標すらない闇の中では、力づくであろうとも己の道は自身で切り開くしかない。力なくば闇の中でただ惑い流され、力あれば理非を知らずとも先へは進める。最初は、跳ね返った小枝に頬を切られたことにさえおののいていたものが、いつしか、傷つくことも傷つけることにも頓着しなくなり、足元の花を見もせずに踏みしだくように、情感は冷えていく。
それは、是非を問われるようなことではないだろう。最良であろうがそうでなかろうが、自分の掴んだ生き方だからだ。
それでも。
不本意とはいえ、行く手を阻まれ立ち止まれば、足元に何があったのか今一度気づかされることになった。
久しく見えなかったもの、見ていなかったもの。そうだった。自分はそれを知っていた、持っていたことさえあったのだと。そんなくだらないことに驚かされ、今更かき乱される。
ひどく苛立たしい。なのに、何故か突き抜けることがかなわない。通れないのなら避けるのも一つの手段だろうが、それはこの上ない屈辱だった。無視は出来ない。だからこだわるしかない。この忌々しい障害を下すために、何が足りないのだろう。力か? いや、それとも……。それにまた波立たされて。
そうだ、道を塞いだのは―――。
「――のよ!」「――で、――わよ」
幾つかの声が入り乱れて聞こえている気がした。急激に意識が浮上を始めて、周囲が随分と騒がしいことに気づく。
――なんだ? 一体……。
ぼんやりとそんな思考を紡いだところで、ドタドタと乱暴な気配が間近に迫ってきたのを感じた。
「えぇ〜いっ」「ぐぇっ!!」
みぞおちに、衝撃。吐き気とない交ぜになった痛みで一気に意識が目覚める。
「あ……アルル・ナジャ……」
「へっ……シェゾぉ?」
何故か片手に捕虫網を持ち、目の前で馬鹿みたいに口をぽかんと開けている、この女――アルル・ナジャが、自分の腹を、それも勢いよく踏んだのだ。それは、すぐに分かった。自分の白銀の服の腹部にくっきりと足型が付いていたし。それは理解できたのだが。
「何でお前がここにいるんだ……?」「きみ、こんなところで何してるのさ」
こちらの質問とほぼ同時に、同じ疑問をぶつけられて、シェゾ・ウィグィィは憮然となった。
「それが寝てる他人の腹を踏んずけたヤツの言う台詞か……?」
「そうだよ。どうしてこんなところに寝っ転がっているわけ?」
「天気がいいから昼……って、そんなことはどうでもいいだろう!」
陽気に誘われて草の布団の上で昼寝、などという、闇の魔導師に相応しからぬ(と、彼は考える)行動の暴露を、危ういところでシェゾは誤魔化した。
「どうしてお前がここにいるんだ? ……いや、どうやってここに来た?」
彼にしては珍しく、即座に疑問の核心を口に出来た。
そう。ここは、街からはかなり離れた辺境。高地にあって道らしい道はなく、しかも一方は高い崖になっている。要は、勾配の激しい奥山に奇跡のように開けたさほど広くない平地であって、存在を知る者自体殆どいないだろうし、知っていても来るのには相当手間がかかるだろう場所なのだ。シェゾのように転移魔法を使えるか、あるいは空を飛ぶ翼でも持っているのであれば話は別だが。
「フッ……。勿論、この私が飛んで運んできてやったのだ」
「ゲッ、サタン……」
歩み寄ってきた炎の瞳の魔王を見て、シェゾはげんなりとした表情を見せた。その実力には一目置き、存在を容認している相手ではあるが、それにしても、陰鬱なダンジョンの最深部などで対峙すべき相手であって、こんな風に陽光降り注ぐ日常の情景の中で遭うのは相応しくない。魔王っていうのは、そういうものだろう……と、自分のことは棚に上げて彼は思う。
「腹の足型がよく似合っているな、シェゾよ。身の程知らずに我が妃にちょっかいを出している報いだ」
不敵に笑うと、サタンは傍らのアルルをぎゅっと片腕で抱き寄せた。
「だったら、きみにも足型をつけてあげるよっ」
すかさず、仏頂面になったアルルが横からサタンを蹴り飛ばす。芝居がかった様子でよろめくと、サタンは「つれないな、アルルよ」と泣くまねをしてみせた。
「……わざわざ、くだらぬ漫才をするためにこんなところまでやって来たのか?」
「ふっふっふ。ラブラブな我々の様子を妬んでいるのだな。勿論、アルルとデェ〜〜トするためにやって来たに決まっているだろう」
と、サタンが言っているそばから、
「ちょっと、そこどいてっ」「今度こそ逃がしませんわ!」
などと叫びながら、ルルーとウィッチが捕虫網を振り回しながら駆け抜けていった。
「ほぅ……。通常、デートというと一対一で行うものだと思っていたが。グループ交際か?」
「だから、デートなんかじゃないってば。きみも、いつまでもサタンの冗談に付き合っていないでよ。ぼくたちは……」
「いや、私は冗談のつもりはないぞ。アルルよ、今日は互いの愛情を存分に高め合おうではないか!」
説明しかけたアルルの肩をつかんで、サタンが陶酔気味に言う。
「あ゛〜〜もう! カーくん!」「ぐぅ!」
アルルが呼ぶと、彼女の肩にかかった髪の向こうから黄色い小動物がぴょこっと地面に飛び降りて、短い手足を振りながら踊り始めた。
「おおぅ! 舞い踊るその姿……なんとぷりてぃ〜なのだ、カーバンクルちゃぁ〜〜んっvV」
「……で、ぼくたちは春一番の風の精霊を追ってここまで来たんだよ」
サタンをカーバンクルに任せて、アルルはシェゾに簡潔に説明した。
「風の精霊を追う? ……また、無意味なことを……」
風の精霊は、字義どおり”風”だ。空を自在に渡って行くそれを捕らえようとするのは労力の浪費と言わざるを得ない。
――しかし、確かにここは、風を捕まえるには向いた場所なのかもしれんな。
言いながら、ふとシェゾは思った。一方が奈落の崖、一方がそびえる絶壁になった、ポケットのような地形なので、風もなかなか逃げられず、辺りを回るばかりになりがちだろう。……だが。
「あら、無意味などではありませんわ。わたくしのプライドがかかっておりますのよ」
宙で箒を急停止させて、ウィッチがふわっと舞い降りてくる。
「お前のプライドのことなど知るか」
「んまぁ、なんですのその言い方。わたくしにとっては重大なことですわ。わたくしのプライドがそれほどに軽いものだと、あなたがおっしゃいますのっ?」
「あのなぁ。んなことはどーでもいいと言ってるんだ。いいから、騒ぐな! さっさと出て行け!」
だからといって、折角の”隠れ家”に踏み込まれ、こんな風に騒がれて、気分がいいはずもないのである。寝入っていたのを叩き……いや、踏み起こされたのであれば尚更だ。
……などと言ってるそばから、破壊音が響いてきた。
「ちょろちょろと逃げるんじゃないわよっ。破岩掌、――鉄拳連撃!」
いい加減しびれをきらしたルルーが網を捨て、必殺の技を放ちはじめたのだ。巻き添えを食った周囲の岩や木が轟音を立てて粉々に砕け散り、真っ二つに折れて倒れていく。
「だぁあああっ、やめんかっ、この暴力女!」
「……なんですって?」
細かなことは聞き流しがちな彼女の耳は、己への攻撃には敏感である。ぴたりと手を止めると、ルルーは口撃をはじめた。
「誰が怪力暴力女よっ。……って、シェゾじゃない。何であんたがこんなところにいるのよ。さては、またアルルを追っかけてきたわけ? あーヤダヤダ、お子ちゃまのお尻を追っかけるしか能のないヘンタイロリコン男は」
「なんだとっ!? それを言うなら、お前こそ破壊しか能のないゴリラ女ではないか!」
「キーーッ、なんですってえぇえ!?」
「ハッ。そうだな、ゴリラ女は間違いだったか。キーキー喚いているサル女だ」
ルルーがさっと技を出す構えをとった。
「くぅう〜っ、言ってくれるわね、ヘンタイのクセにっ。あんた、いい加減にしなさいよ」
シェゾも身構え、手の中に魔剣を呼び出す。
「お前こそいい加減にしろっ。俺は変態ではない!」
「ちょっとちょっと、二人ともケンカしないでよ」
「おやめなさいな、アルルさん。巻き添えを食ってはかないませんもの。気の済むまでやらせればいいんですわ」
どうせ頭に血が上って、誰の言うことも聞きやしませんわよ、としたり顔でウィッチが言う。
「あ〜〜もう、どうしてみんな、誰も彼もこんなに血の気が多いのさ!」
嘆いているアルルを置き去りにして、場はとっとと進行している。
「食らいなさい、天舞脚!」
ルルーが、光魔法に酷似した気を蹴りから放った。遠距離攻撃にこそ実力を発揮する魔導師相手では、逆に接近戦に利のある格闘は不利である。数少ない気を飛ばす遠距離技でかく乱し、隙をついて懐に飛び込み、技のコンビネーションを叩き込むのが狙いだ。
「はぁっ」
シェゾが気迫と共に気を魔剣で切り裂く。その一瞬の隙に、ルルーはシェゾの懐近くに飛び込んでいる。
「炎神拳!」
ルルーの繰り出した炎の気をまとった拳を、シェゾは紙一重で避けた。そのまま、脇に身を乗り出しているルルーに向かい、剣先を走らせる。拳を突き出して身を伸ばしきった姿勢になっていたルルーは、しかし、信じられない動きで引き戻し、体をかわした。それでも、波立つ海のような美しい髪がひと房、切れてひらりと舞い落ちる。
「よくも乙女の命を……やってくれるわね」
「フン。おまえこそな」
ルルーが向き直るまでに、シェゾは既に彼女から距離をとっている。その頬が赤くただれたようになっているのは、炎気をまとったルルーの拳に掠められ、灼かれたせいだ。
「魔導師のクセに、剣なんか使ってるんじゃないわよっ」
「そっちこそ、”気功”だかなんだかしらないが、魔力もないくせに魔導モドキの飛ばし技を使うな!」
「くっ……。”魔力がない”って、人の気にしてることを言ったわね。ちょっと魔力をいっぱい持ってるからって、いい気になってんじゃないわっ」
ルルーが再び仕掛けてくる。シェゾはかわし、受け、攻撃を放つ。巻き添えを食った周囲の自然物が更に広範囲に破壊されているが、今となってはそれは眼中外である。
「連撃雷神拳! たぁっ! 草薙脚! いくわよっ、女帝拳!」
「はぁっ、ライトニング! フレイム! くっ……ダイヤモンドダストっ」
冷気に白い肌を裂かれ、ルルーが小さく悲鳴を上げた。
「やったわねっ。キィイイッ、もう許さなぁあ〜い! ――スピンブレイド!」
「うっおぉおおおおお、闇の剣よ、切り裂けぇ!」
独楽のように高速回転したルルーから放たれた複数の風の刃を、シェゾは魔剣で増幅し放つ闇の気で迎えうった。ぶつかり合ったエネルギーは拮抗し、しかし相殺はされず、渦を巻いて上に打ち上げられる。ぐねぐねと突き進む無軌道な力の渦は、忘れられてその辺りをくるくる回っていた風の精霊に命中した。
「あ……!」
ウィッチの怪しげな魔法で形作られた仮初めの姿とはいえ、精霊の見かけは愛らしくもいたいけな子供の姿である。アルルは思わず声を上げたが、そのまま、口と一緒に大きく目を見開くことになった。
力の渦に打たれ、巻き込まれると、水に浮かんだ泡をかき回したかのようにあっけなく、子供はぐしゃぐしゃに細かくなって、そのまま複数に分裂したのだ。無数の風の精霊たちは、己の身に起こった事態に戸惑うことなく、ケタケタと笑いながら好き勝手に飛び回り始めた。
「わぁあああっ?」「ちょっと、何よこれーっ。あんたのせいでしょ、なんとかしなさいよっ」「知るか、俺のせいにするなっ」「ダメだこりゃ〜、ですわーっ」「ぐーっ」「はぁあ〜、待っておくれ、カーバンクルちゃあ〜ん」
一部別世界が展開しているが、風がぐちゃぐちゃに吹き荒れて砂埃が舞い飛び、目も開けづらい。
と思うと、子供たちは一束にまとまって高空から一気に下に吹き降ろし、地面を這って再び上へと吹き上がった。
「きゃあああああっ」
少女たちのけたたましい悲鳴が響き渡る。
だが、シェゾはそれどころではなかった。めくれ上がったマントやらなにやら、自分の衣服が頭にかかって、布を被せられたような状態になっていたからだ。しばしもがいて、ようやくそれらをはらい、前髪をかきあげながら「ちっ、なんつー風だ」と悪態をつく。そこで、ふと、いつの間にか視線の先にいたアルルと目が合った。
アルルは何故か両手でスカートの前を押さえるようなポーズで立っていたが、シェゾと目が合うと、その大きな目に一瞬絶望的な色を浮かべ、次いで肩を怒らせてぶるぶると震えはじめた。
「……見た?」
「――はぁ?」
「見たでしょ!」
「だから、何をだ!」
どうやら、この女はひどく怒っているらしい……という見当はついたが、しかし、何故自分が怒られなければならないのかが分からない。
「……見てないの?」
「生憎、さっきまでマントで視界を塞がれていたんでな」
憮然として言うと、「そっか、見てないんだ……」とアルルは目に見えて安堵した表情になる。……何のことやら知らないが、どうも自分はひどく損をしたのではないか……そう思えて、なんだか面白くない気分のまま、シェゾは呟いた。
「俺が見たのは、青の色だけだ」
無論、視界をふさいだ自分のマントの色のことを言ったのである、彼は。
だが、アルルは虚を突かれた顔をして、見事なまでにぱぁ〜っと赤くなった。興奮のあまり、目じりに涙まで浮かんでいる。
「やっぱり、見たんじゃないかぁ〜〜〜っ!!」
「は!? ちょ、ちょっと待て!」
だが、彼女は待たなかった。つい先程、「どうしてみんな、こんなに血の気が多いのさ」と言ったことなど、棚のてっぺんに放り投げて。
差し伸べられた彼女の両手の間に、彼女の紡ぐ増幅の呪文に合わせて、爆発的な魔力が膨れ上がっていく。ルルーの放つ”気”によく似た、属性を持たない白色の力の塊。……次にどんな呪文として放たれるのか、予想はついた。ついたので、素早く対抗できるだけの呪文を紡いだ……つもりだったが。直後に”無駄だ”と悟って、シェゾは絶望的な気分になった。アルルの作り上げていく”爆気”の塊の中に、周囲を好き勝手に飛び回っていた風の子供たちが、次々と吸い込まれていくのだ。その分だけ、塊は膨れ上がっていく。……その大きさはいまだかつてなく、威力は計り知れない。ちらりと、感嘆と羨望、それに伴う所有の欲望がかすめたが。
「ジュジュジュジュ……ジュゲムっ」 「だぁあああああああっ!?」
かすめただけだ。
一気に解放された力に魔障壁ごと跳ね飛ばされ、シェゾは突風にさらわれた木の葉のごとくあっけなく、遥か彼方にすっ飛んでいった。
「なるほど……。急激に大気中の魔力を吸収したために大気に流れが生じて、それに風の精霊が巻き込まれたんですわね。風を捕まえるには風を使うのが一番、ということなのですわ」
はー、はー、と荒い息をつきながら、影も形もないシェゾのすっ飛んで行った方をそれでもにらみ続けているアルルの背を眺めながら、ウィッチが言った。「このことに気づくなんて、流石はわたくしですわね」などと、現象の理屈を見抜いた己自身の慧眼を賞賛しつつ。
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