「おい、何をしている」
やわらかな草に覆われた原。白い そこにいた”彼女”に、シェゾは声をかけた。 「散歩だよ。もう気分の悪いのも治ったし、じっとしてるのも退屈だったから」 闇の魔導師の無愛想な声にも大して動じた様子はない。ケロリとして振り返った彼女には、あの時の驚愕に満ちた表情は微塵もうかがえなかった。 「悪いが、散歩はダメだ。戻れ」 「いいじゃない、少しぐらい」 「却下」 「もーっ。折角過去に来たんだから、あちこち見て回りたかったのになぁ。やっぱダメかぁ」 彼女は息をついた。 「当たり前だ。どんな影響があるか分からん。誰かに会わないうちに部屋に戻るんだな」 「サタンもそう言ってた?」 チラリと横目で見上げながらの唐突な質問に、目を瞬きつつシェゾは頷く。 「――あ、ああ」 「そっかぁ。じゃ、仕方ないね」 諦めたように息をついて、素直に従った。”アルル”らしくない様子にシェゾは眉をひそめたが、すぐに思いなおした。 ここにいる女は、彼の知る”アルル・ナジャ”とは異なる人間だ。その生きてきた時間も、経験も。恐らくはそこから来る精神性でさえ。 「……ところで、部屋には鍵がかかっていたはずだが」 違和感を振り払って思考を切り替え、シェゾは気になっていたことを問うた。 「ああ。あんなの、五分もあれば全部外せちゃうよ」 さらりとした返答に、少なからず衝撃を受ける。 軟禁しようと考えたわけではない。 ただ、未来から訪れた彼女を、そう簡単にこの時代のものに触れさせるわけにはいかない。そう判断したサタンにより、彼女の寝かされた部屋には幾重もの鍵――封印がなされていた。彼女が外にさ迷い出ないようには勿論、入り込む者がいないように。シェゾにしてみれば、いささか大仰ではないのかと思えたものだが。 ――”未来の”とはいえ、アルルごときに……。 しかし、現実に、彼女はいとも簡単にそこから抜け出てしまっている。 あの重合封印は、たとえシェゾでも全て解いてしまうのは難しいだろう。悔しいが、少なくとも五分で解けるものではない。闇の剣を用いれば空間ごと裂くのも難しくはないだろうが、彼女が封印を破壊した様子はなかった。きちんと封印を解いて、まっとうに扉から出ていったのだ。 「………」 シェゾは彼女の”力”を視た。 ――なるほど。 シェゾの知るアルル・ナジャも、人並み外れた”力”を備えた少女だ。まだまだ不安定で荒削りな部分は多いが、湧きいずる泉のような――天に向けてまっすぐに枝を伸ばす若木のような、底知れなさと伸展性を感じさせる。 だが、”彼女”は違っていた。 これは、既に完成された力だ。 静かに水を湛えた湖のような、深く根を張った巨木のような。そんな重厚味と安定感があった。なにより、力そのものが桁違いに大きい。既にして抜きん出ている”今”を、更に凌駕して。 『世界一の魔導師になる』が”今の”アルルの口癖だが、”彼女”はそれに相応しい。 これならサタンの封印を破るのも容易だろう。――それを見極めて、驚嘆する。 「――懐かしいな、その目」 立ち止まり、彼女が言った。 「キミが、相手の力を推し量っている時の目だ。……もっとも、あの頃のボクにはそれが解らなくて、ヘンタイの目だと思ってたんだけどね」 愉快そうにそう言われて、シェゾは憮然となった。 「チッ……。お前のおかげでえらい迷惑だぜ。人の風評を地に落としやがって」 「だって、キミってば『お前がほしい、ほしい』としか言わなかったじゃない。どっから見ても立派なヘンタイだったでしょ」 「あのなぁ。俺は……」 「解ってるよ」 彼女はシェゾの言葉を封じた。緩やかな風が吹き抜け、彼らの髪や衣服を揺らす。 「キミが欲しかったのは、ボクの魔力。――魔力だけだったんだもんね」 言って、顔にかかった髪をかきあげた。 その指先にキラリと光を反射するものが見えて、シェゾは僅かに瞠目した。”それ”から発される気配をも感じ取って、二度驚く。 「それは……」 彼が何か言うより早く。 「アルルっ!!」 割り込んで、とてつもなく大きな声が響いた。ぎょっとして見遣ると、青い髪をなびかせ、ついでに肩を怒らせてルルーが駆け込んでくるところだった。何かを言いかけて、一度そこで息を呑み込み。 「あんた………。あんた、結婚してたのねっ!?」 叫ぶなり、”彼女”の左手を掴みあげて顔を寄せた。”彼女”の左薬指に光る、金のリングに。 ――時を経て変わらぬ、婚姻の印。 そう。なにもおかしなことではないのだ。未来のアルルが生涯の伴侶を得ていたとしても。むしろ、年齢的にも当然だと言える。予想すべきことで、問題はないはずだ。
ただ一点。その伴侶が”誰なのか”という疑問を除けば。
舐めるように金のリングを睨みつつ、ルルーは震える声を出した。 「誰よ! 誰と……。まさか――まさか、サタン様じゃないでしょうねっ……?」 シェゾは小さく舌打ちした。サタンに釘を刺されていただろうが、やはり抑えきれなかったのだろう。漠として身の内を噛むもの。――未来への”不安”を。 「おい、ルルー!」 「うるさいわよ! あたくしは訊いてるんだから……。答えなさいよ、アルルっ!」 噛みつかんばかりの勢いで詰め寄る。 そして。 ”彼女”は微笑った。 「……な!?」 「ゴメン、ルルーは変わらないなぁって思って」 あ、でもここにいるルルーじゃなくて、未来のルルーが変わってないってコトだよね。などと一人ごちつつ。 「大丈夫だよ。 心配しなくても、キミはちゃんとキミの一番好きな人と結ばれているから」 「……え?」 一瞬、言葉が理解できなかったかのように、ルルーは声をもらした。ほうけたままの彼女に、”彼女”はにこやかに頷いた。今も昔も変わらぬ、金無垢の瞳で。 ルルーの頬がばら色に染まった。目が潤み、両手を頬に添えてうっとりとした笑みを浮かべた。妄想モードに入ったらしい。 「サタン様……っ」 こうなってしまうと、ちょっと近づけない。”彼女”と一緒になんとなく離れつつ、シェゾは渋い表情になった。 ルルーには判らなかったのだろうが、魔力を持つ者になら判る。”彼女”のリングから放たれている気配。――それが何者により創られ、恐らくは贈られたものなのかを。 「嘘じゃないよ」 見透かしたように、”彼女”が言った。 「”二番手”っていうのは今のルルーだと不満かもしれないけど……ボクらは上手くやってる」 その言葉を聞いて、シェゾの表情はますます渋くなった。 「流石は魔王と言うべきか……。何考えてやがるんだ? あいつ」 くつくつと彼女は笑っている。『今のルルーには』と彼女は言ったが、”今の”アルルでも受け入れられるものではないだろう。どんな事態と経験がそれを可能にしたものか? ――時の流れ……か。 当たり前だ。無垢な少女もやがては成熟した女性に変貌する。それが自然なのだから。 「キミは、訊かないんだね」 不意に言われて、シェゾは我に返った。 「――なんだって?」 「自分の未来の事。気にならない?」 どこか挑発するように、彼女がシェゾを見あげている。 「ならん」 「あれ、即答したね」 「闇に生きる者に、知るべき未来などないからな」 シェゾは言った。断ち切るように。 「ふうん……」 探るような目をしたものの、彼女はそれ以上話を続けはしなかった。 |