「く、くそ………」
暫く後。シェゾは一人で地面に這いつくばっていた。
歌に陶酔したハーピーが、そのままふわふわとどこかへ漂っていってしまったのは幸いだった。破壊音波で、つきまとっていた連中はみんな逃げるかばたんきゅ〜するかしたし。
とはいえ、破壊音波がシェゾに与えたダメージも甚大だった……。というわけで這いつくばっているのである。
――もういい……。暫くここで寝かせてくれ……。寝たら、もしかしたら病状が回復するかもしれんし……。
などと朦朧と思っていたが、そうは問屋が卸さないのが世の中って奴である。
「あれ、シェゾ? どうしたの、そんなところに寝っ転がって」
一気に意識が引き戻された。
栗色の髪に、快活な金無垢の瞳。肩に黄色い生き物を乗せた、いつものいでたちの”アイツ”。――アルル・ナジャだ。
今日、最も会いたくなかった女。
「なんでもない……寝てただけだ」
「ふぅん? キミって、こんなところで寝るのがシュミなの?」
流石ヘンタイだねぇ、と言うのにムッとするのをこらえて、顔を背けたまま手をシッシッと振った。
「いいから、俺に構うな。もうあっちへ行け!」
「むっ。なに、犬でも追っ払うみたいに。何かボクを追い払いたい理由でもあるの?」
この女は、時たま妙に鋭い。鈍い時はとてつもなく鈍いが。
「シェゾ?」
顔を覗き込んでくる。シェゾは口元を押さえて、サッと顔を背けた。
「……なにやってんの?」
ナニもカニも。
――考えてみれば、今までおかしくなった連中は、あるきっかけで突然おかしくなっていたのだ。……そう、こっちが咳き込んだ後に。
厳密にどういう道理なのかは不明だが。
とにかく、コイツの前でだけは、絶対に咳き込むわけにはいかない。
「シェゾ、キミ思いっきりヘンだよ。どうしてボクの目を見ないのさ。まさか、また何か悪いことでも企んでるの? だったら、ボク黙っていないからね!」
「………」
「ちょっと、無視する気?」
「………」
「あくまで返事しない気だね。よぉーし分かった。じゃあ、こうだっ!」
「!」
アルル(とカーバンクル)はシェゾに飛び掛かった。まさか、こいつまで脱がす気か、と思ったが、そうではない。アルルはシェゾをくすぐり始めたのだ。
「……!! ……っ、やめっ、……ひゃひゃひゃひゃ! っごほっごほっ」
くすぐりは痛みより強い最高の拷問であるという。シェゾはついに笑いに屈し、ついでに派手に咳き込んだ。
――しまったぁーっ!
と思っても、後の祭り。
「ゴホゲフッ………」
咳の発作を宥めながら、恐る恐るアルルの様子をうかがう。
「……すごい咳だね。シェゾ、風邪なの?」
アルルは言った。そして手を伸ばして頬に触れて。
「熱もかなりあるね。もしかして動けないの?」
「……悪いか」
「いいとか悪いとかじゃないでしょ。こんな吹きっさらしのところにいないで、あったかくして寝ていなくちゃ。ボクの家に来る? ベッドくらい貸すよ」
「なっ。お前な、ガキが簡単になんつーことを言」
「キミの家まで送ってくのが一番いいんだけど、ボク一人で運ぶのは大変そうだし。第一、キミ、ボクに自分の家の場所教える気ないでしょ?」
「……」
「ボクの家が嫌ならルルーの家でもいいんだケド……」
「あの女の家だけはゴメンだ!」
シェゾは即答した。あの傲慢女に借りでも作ろうものなら、一生頭を下げ続けることを強要されるに違いない。ましてや、今のあの女に近付くのは危険すぎる。自殺行為だ。
「んー……。じゃあ、魔導学校の医務室は? 事情を話せば一日二日は休ませてくれると思うよ」
てきぱきとアルルは提案を続ける。いつもの調子とまるで変わっていないようだ。薬の効果が切れたか体質か……。どうやらアルルには何も起こらないらしい。
――ホッとしたような、少しだけ拍子抜けなような……。
「ぼんやりしてる……。重症だね。さ、行くよ!」
アルルはシェゾを急き立てると、彼の脇の下に肩を滑り込ませて支え、歩き始めた。
「それにしても、熱があるのに動けなくなるまでフラフラしてるなんて。もっと体を大事にしなくちゃ駄目だよ。一人暮らしなんだから尚更でしょ」
「ああ……そうだな」
「………驚いた。シェゾが素直に返事をするなんて」
「俺はな……今日一日で健康の大切さを嫌と言うほど思い知ったのだ」
「ふぅん?」
「……アルル。今回はひとまず借りを作っておくがな。だからといって、俺はお前を諦めたりなどしない。いずれは、またお前を奪いに来る。忘れるなよ!」
「はいはい。でも、それにはまず風邪を治さなくっちゃね」
などと会話しながら二人は歩いていく。
穏やかな時間は、しかし突然に打ち破られた。
「サタンブレード!」
「くぅっ!」
「きゃあっ!」
出し抜けの攻撃はシェゾを直撃し、アルルは弾みで地面に転んだ。
「つっ……」
「この程度の攻撃もかわせんとは……なまったな、シェゾよ」
「サタン!」
漆黒の翼を広げ、天空から血の瞳を持つ魔王が舞い下りてきた。
「真っ昼間っから我が妃と肩など抱き合っていちゃいちゃするとは。うらやま……じゃない、許せん! この私が成敗してくれる!」
「真っ昼間って……。じゃあ、夜ならいいのか?」
「うむ、夜ならいいとも! って……。違うっ、夜ではますますマズいではないかっ! ええい、とにかく勝負だっ」
「サタン、やめてよっ」
アルルが前に飛び出た。
「アルル? 何故ヤツを庇うのだ。心配せずに見ているがいい。このヘンタイの甘言に騙されたお前の目を、この私が今すぐ覚ましてやろう!」
「そうじゃなくて! シェゾは病人なんだよ。病人と戦ってもしょうがないでしょ?」
「どけ、アルル!」
シェゾはアルルを押しのけた。実際、戦える状況では全くないが、女に庇われるのは彼の矜持が許さない。が、そこで咳き込み、目眩を起こして思わず片膝をついてしまった。
「ん? シェゾ、風邪ひきか? 闇の魔導師といえども、所詮は人の子だな。………」
「くっ……」
なんとか発作を収め、シェゾは悔しげにサタンを見上げて睨み付けた。暫し睨み合いが続いたが……。
サタンがついと腕を伸ばし、シェゾの顎に手をかけた。そして、一言。
「……美しい」
「――は?」
「うむ、美しい。お前がこんなに美しかったとは今まで気付かなかったぞ、シェゾ。体は頑健、魔力は高く、知識も深い。お前こそ我が妃に相応しいっ」
「はぁああ!?」
あまりのことに、ただ口を大きく開けるしかないシェゾである。
――なんだ? これはヤツ一流の悪質な冗談か? ……いや……まさかは思うが……あの薬の効果は、まだ切れていなかった、とか……。
こいつ、本気……?
そう悟ると、一気にフリーズが解けて鳥肌が立った。
「だだだ誰が妃だっ! 俺は男だぞ!」
「気にするな。愛の前には年の差も性別も無意味だ」
「って……!
お、女でなければ子供はできんぞ!」
「はっはっは、もう子供の心配か? 可愛い奴め。
心配するな。我が魔力を持ってすれば、子供の一人や二人や十人や二十人、男同士でも問題なく作れるっ。そうだな、お前がしばらく女になるか?」
「なな……なんじゃそりゃああ! 嫌だ! 絶対嫌だっ!」
「嫌か。では、私が女になろうっ。まぁ、どうしても女が嫌だというのなら、男同士のままで何とか工夫してみるのも悪くはないがな」
朗らかにサタンは言い、シェゾは頭を抱えてうめいた。
「アブノーマル過ぎるぅうっ!」
ナメクジかカタツムリの生殖みたいだ。
――こんなヘンな奴に、何故普段俺はヘンタイ呼ばわりされていたのだろうか。
熱のせいだけではなく頭痛と眩暈がする。
「闇の魔導師なんてものをやっているくせに、案外人の世の常識に囚われた奴だな。――まぁ、そこが可愛いが。安心しろ、すぐに慣れる。筋はよさそうだしな。お前もいずれ私を深く愛し、離れられなくなるのだ!」
言うなり、サタンはシェゾを抱き寄せた。そして。
ぶちゅうぅううう。
この瞬間、シェゾ的には世界の終末が来ていたが、それが過ぎてもやっぱり日は照っているし風は吹いて鳥は鳴いているし、背後でアルルが固唾を飲んでいる気配も伝わってくるのであった。
――終わった……。なんだか、何もかもが終わった……。
さようならかつての僕の輝かしい分身。”青春”よ。――と、どこかの誰かがぬかしてやがった台詞が、何故だか脳内をぐるぐる回っている。
「そ……そうだったんだ。シェゾ、サタン……。キミたち、そんな関係だったんだ」
震える声でアルルが言うのが聞こえた。
「シェゾ……。ヘンタイだとは思っていたけど、キミが、男が好きだったなんて……!」
「……」
まだショックから脱しきれていないシェゾは、ぼんやりとそれを聞いている。
「じゃあ……あれは何だったの?」
アルルの声がだんだん高くなってきた。
「キミはいつも……散々、ボクが欲しい、欲しいって。奪いに来るって……。あれは、嘘だったってこと?」
――何かがおかしい。
「答えられないんだ。やっぱり、嘘だったんだ。遊びだったんだね? キミは、ボクを
「なっ……、何を人聞きの悪い」
ようやく我に返ってシェゾは言ったが、彼女の耳に入っている様子がない。
「まぁ、落ち着けアルル。シェゾには負けたが、お前にはちゃんと第二夫人の席を用意してあるっ。安心するがいい」
「いらないよ、そんなの!
シェゾ、ボクはキミを信じて待ってたのに……、よりによって、サタンと結婚するだなんて!」
「待て、誰がサタンと結婚するんだ!? っていうかアルル、お前ヘンだぞ」
「ヘン? ヘンなのはキミでしょ! 散々付きまとって弄んでおいて、あっさりボクを捨てる気のくせにっ。この裏切り者、浮気者、変態! ボクは絶対別れないからねっ」
「別れるも何も、そもそも付き合ってもいないだろーが……」
思わずシェゾは言ったが、これは入れなくてもいいツッコミだった。
俯いてぶるぶると震えていたアルルが、キッと視線を上げた。睨み付けてくる目には涙がにじんでおり、シェゾがぎくりと身をすくめたのも一瞬。
「……キミを殺して、ボクも死ぬーーーーーっ!!!!」
ジュジュジュジュジュジュジュジュ ジュゲムッッッ!!
「だぁあああーーーっ!?」
ダイアキュートも唱えずにいきなり最大増幅状態。怒りのあまり、秘められた彼女の力(笑)が目覚めたものらしい。
「待て、アルル! 我が妃を殺すとは穏やかではないな。それ以上やるなら私が相手になるぞ」
「望むところだよ。もしボクが勝ったら、シェゾは返してもらうからね!」
「ふん、よかろう。万が一のことだがな!」
「ぐぐーっ!」
何故だかカーバンクルまで加わってぐーぐー息巻いている。もーメチャクチャだ。
かくして、史上最大(?)の愛の争奪戦が始まったのであった。
今更だが、アルルにも(そしてカーバンクルにも)、バレンタインフラワーは効いていたらしい。しっかりと。
「うぅう……」
遠くに戦いの音を聞きながら、吹っ飛ばされたシェゾは再び地面でうめいていた。体中痛い。だるい。つらい。鼻が詰まって息しにくい。散々である。なんだかもう、
――生きていくってのは、辛いことだよな……。
なんて、えせ人生哲学みたいな言葉を脳裏に呟いてしまうくらい。今にも気が遠くなりそうだ。
そんなシェゾの前に、スッと影が立った。人影――にしては、やけに丸い。
「もももー。お客さん、よく効く風邪薬なのー」
もももだった。その手には液体の入った薬ビンが握られている。
「おおおっ……!」
もももの丸い姿が、この時のシェゾには後光が差して見えた。そう思えば、あの何を考えているのか分からない糸目のアルカイックスマイルも、神か仏の慈悲溢れた物のように思えてくる。
「すまん……。っと、幾らだ? 今、持ち合わせがないんだが……」
「お金は要らないのー」
「タダ?」
驚いてシェゾはもももを見た。風邪薬は大して値の張る品ではない。だが、根っからの商人であるもももが、何の意味もなくタダで品物を渡すはずがない。
――一体、何の意図が……?
シェゾが訝しんでいる間にも、もももはじっと彼を見つめていた。――怖いくらいに。よくよく見れば、その糸目の奥の瞳(?)はこれまでにない怪しい輝きを放ち、ねっとりとした熱を帯びてシェゾに絡み付いてくるようである。
「………」
「…………」
――ま・さ・か……。
そして、もももはその短い両腕でそっとシェゾの手を包み込み、強く握り締めた。
ブラック・アウト……。