サクラ


 薄紅色の花群れは、まるでフワフワした綿か泡の塊のようだ。よく目を凝らせば、花の一輪、花びらの一枚すらもがくっきりと、切り紙細工のように綺麗に揃った形を示しているのだけれども。

 ヒラヒラと、時折花びらが舞い落ちてくる。花枝の隙間から見える空は青く晴れ渡り、そよ風が頬や髪を撫でる感触が心地よかった。

「ここにいたのか、ティア」

 不意に声を掛けられて、ぼんやりと花の木を見上げていた少女はハッと顔を向けた。

「――兄さん!」

 硬質な足音を響かせて、少女と同じ色の髪を高く結った男が歩み寄って来るところだった。その動作や表情は悠然として貫禄すら感じられたが、よく見れば顔立ちはまだ若い。

「どうしたの? 兄さんが魔界クリフォトに帰ってくるなんて……。随分久しぶりだわ」

「お前の顔が見たくなってな」

 そう言うと、男は少女に向かって微笑みかける。そして花群れを見上げ、「桜か……。懐かしい映像だな」と呟いた。

「この体感映像は、兄さんが作ったのよね」

「ああ、そうだ。ダアトの士官学校に入ることを許されるまでの数年間、外殻へ出ることは出来なかったからな。その間の手慰みだ」

 魔界クリフォトと呼ばれる閉鎖世界にあるこの都市には、決して日の光が射すことはない。当然ながら植物が自然に育つこともなかったが、人は、それらがなければ肉体的にも精神的にも生きてはいけない生き物だ。よって植物を人工灯で育てたり、あるいは本来の自然の映像を投影し体感させる設備が設けられている。今、少女と男がいるこの場所も、そんな擬似体感室のひとつだった。

「兄さんの作った体感映像はどれも綺麗だけど、私はこの花の映像が一番好き。とても綺麗なんだもの」

「そうか。――流石に、お前もホドの血筋だな」

「え?」

「これは、ホドの春の景色だ」

「……そうなんだ」

 少女は僅かに声を落とす。ホドは、兄妹の失われた故郷だった。――いや、少女にとっては産まれた時には既に失われていた、遠く実感の薄い場所なのだが。兄にとっては恐ろしく重く、深く大きな傷となったものであることは分かっている。……直接そう言われた事はないが、感じ取れた。大好きな優しい兄が、ホドに関わる話題でだけは、真に笑うことがない。

「それより、士官養成の全ての課程を修了したそうだな。おめでとう、ティア」

「え。――うん。ありがとう、兄さん」

 大きな手で頭を優しく撫でられて、少女は僅かに頬を赤らめた。

「配属先の通達も済んだのか?」

「はい。今期よりモース大詠師旗下神託の盾オラクル騎士団情報部第一小隊に配属されました、ティア・グランツ響長であります」

 身をただし、少女がピシリと敬礼をしてみせると、フ、と男は切れ長の目元を笑ませる。

「よし、いい挨拶だ」

 安堵の息を吐いて、少女は笑った。

「でも、出来ることなら、直接兄さんの下で働きたかったな」

「残念だが、肉親同士を近く配属することをとやかく言う者もいるのでな。そう出来ないわけでもなかったが、今はお前のためにはよくないだろう」

「分かってる。私は大丈夫よ、兄さん。先日、告示の時に始めてお会いしたけれど、大詠師モースも立派なお方だわ。誰よりも預言スコアを重んじて、世界の繁栄を望んでおられる」

「フ……。確かに、あれ以上の『敬虔な信者』はおるまいな」

 明るく言った妹に対し、兄はどこか皮肉に笑っていた。

「これで私を牽制したつもりなのだろうが……」

「……兄さん? どうかしたの?」

 少女が怪訝な顔を向けた。

「いや、なんでもない」

「でも……」

「メシュティアリカ」

 不意に、兄は妹の名を呼んだ。今となっては兄妹の間でだけ使われる真の名を。彼は顔を上げ、薄紅の花群れを見やった。

「この花は、ホドの民に特に愛されていた。……何故だか分かるか?」

「え? ……綺麗、だから?」

 突然の質問に、少女はただ目を瞬かせている。

「無論、それもある。だが、一番の理由は……いさぎよいからだ」

 兄はそう語った。

「この花の咲く期間はごく短い。まして、風や雨があればすぐに散る。……儚く、散り際がいさぎよい」

 そう言って、軽く目を閉じる。

「定められた間のみ咲く花だからこそ、人はその美しさに心を震わせる。散るべき時に散ることのなかった花など……無様なだけだ」

 さらさらと、花びらの映像が舞い散った。まるで本物のように。けれどそれは、そこに立つ兄にも妹にも、決して降り積もることはない。――偽りの花なのだから。

 少女は、何かを言おうとした。だがそれより早く自動扉が開く軽い圧搾音が響いて、一人の女が室内に入ってきた。美しい金髪を結い上げ、白い肌に黒い軍服がよく映えている。

「謡将閣下、ここにおいででしたか」

 男に向かい、サッと敬礼をした。

「教官!」

 思わず声を漏らして、少女は慌てて口を閉ざした。女は任務中の顔をしている。兄もまた軍人の顔になり、幾分硬い声音で返した。

「リグレットか。どうした」

「はっ。……アッシュのことでご報告したいことがありまして」

「アッシュの……? 分かった、場所を移して話を聞こう」

 そう言うと、兄は妹を振り返った。

「ティア。済まないが、少し用が出来た。お前との話はまた後にしよう」

「は、はい」

 頷いた妹に笑ってポンと頭に手を触れると、男は背を向けて部屋を出て行く。残った女は、少女に顔を向けると柔らかく微笑んだ。

「おめでとう、ティア。あなたももう立派な神託の盾オラクルの騎士ね」

「リグレット教官! みんな教官のおかげです。ありがとうございます」

「私は、あなたの学びたいという思いに力を貸しただけ……。これからあなたが真の騎士になれるかどうかは、あなた自身に掛かっているのよ。……しっかりね」

「はい!」

 ハキハキと返す少女を好ましげに見つめてから、女は少し悪戯っぽい表情で覗き込む。

「ところでティア、あなたに渡した贈り物は、ちゃんと持っていてくれているのかしら?」

「は、はい。勿論です」

 言って、少女は己の胸元を抑えた。服の下のその場所には、女を通して兄から渡された、彼女の母の形見でもあるペンダントが提げられている。

「そう。大事にしてね」

 そう言うと、女も出口へ歩き出す。そこで立ち止まり、背を向けたまま言葉を落とした。

「あなたは情報部に配属された。きっとこれから外殻大地の様々な場所を巡ることになるでしょう。自分の目と足で、しっかり世界を見ておきなさい。……全てが変わる、その前に」

「……教官?」

 少女は女の背に呼びかける。だが女は答えず、自動扉を潜って部屋から姿を消した。

「………」

 少女は一人で立っている。相変わらず薄紅の花群れは揺れていたが、その美しさは、今は何故か物狂おしいような不安をもたらした。

 ――何かが、変わろうとしている。

 少女は顔を上げた。

 兄は、この都市をあまり好いてはいない。それはなんとなく分かっていたから、ゆっくり話をするならば、きっと自宅の、それも自室か庭に行くだろうことは察しがついていた。そして、そこになら自分は容易く入り込める。なにしろ、今そこを使っているのは主に自分なのだから。

(……私は、何をしようとしているのかしら)

 兄とリグレットの話は、間違いなく軍務に関わることだろう。所属の異なる自分が、それを気にすることなどあってはならない。

 ならない、のに。

 抑えようのない不安に突き動かされて、少女は足を踏み出していた。

 そこで聞いたものが、彼女と世界の今後を変える。――そんなことを、今は夢にも思わずに。






終わり

06/07/07 すわさき




*06/4/14のレス板から移動。

 この話は原作ゲーム本編に断片的に出ているエピソードを拾いつつ、隙間を妄想で埋めたものです。しかし、アップから一年ほど後に発売された公式ファンディスク『テイルズ オブ ファンダムVol.2』にて、ティアは教団兵になる以前から半ば兄を疑い、自由にユリアシティとダアトを行き来していたヤンデレ気質の少女として描かれ、原作から想像しえていたものとは違ってしまいました。設定や物語の辻褄が乖離し過ぎたと感じ、修正しようにも丸々書き直しになってしまうので、サイトから下げました。

 ところが、更に一年半ほど後に出たアニメ版ドラマCD1が『ファンダムVol.2』設定を取り入れない内容でした。責任ある公式物でも、後出し設定の取捨選択を許されている。増して元から無責任な同人二次創作が、何を遠慮する必要があるだろうか。そう思えるようになったので、'09/10/27に戻しました。

 よって、『ファンダムVol.2』ティア編、それに合わせて書き直した拙作「断罪の声」の内容とは矛盾しています。

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