百済〜兄と弟

 さて、また少し時間を戻し、朱蒙の一族に話を戻しましょう。

 扶餘ブヨォを逃れた朱蒙は高句麗を建て、扶餘から彼を追ってきた長子の琉璃が国を継ぎました。

 朱蒙には卒本扶餘で再婚した妃との間に沸流プル温祚オンジョという息子がいたのですが、彼らは異母兄の琉璃が国を継いだことで居場所を失ったと感じ、

「いっそ南へ行き、新たに国を建てよう」

と、十名の臣下を引き連れて南へ向かっていきました。大勢の民百姓がそれに付いて行きました。

 やがて一行は北漢プカン山に着き、負児嶽から住みよい土地を求めて周辺を見回しました。十人の臣下は、

「王都を作るには漢江の南の地がいいでしょう。その地の北には川が流れ、東には高く険しい山がそびえ、南には肥沃な沼沢があり、西は大海に阻まれています。このように天然の守りのある土地はなかなかありません」

と勧めましたが、兄の沸流は海の側に住みたいという夢を持っていたので聞き入れず、一部の民衆のみを連れて一人で弥鄒忽ミチゥホ(今の仁川)に行って住み着いてしまいました。一方、弟の温祚は十人の臣下と残りの民衆と共に慰礼城ウイレソン(今の広州の南漢山城辺りとされている)に王都を定めて住み着き、十臣を補佐の位につけ、十人の移り住んだ土地として、国の名前を「十済」と定めました。紀元前十八年のことと言われます。

 

 さて、我を通して海の側に住んだ沸流でしたが、この土地は湿っぽくて水は塩辛いので暮らしにくく、弟のいる慰礼城に戻ってきてみますと、そこではみんなが楽しそうに暮らしていました。これを見ると沸流は後悔して悔しがり、ついには死んでしまいました。

 沸流に従っていた臣民は、みんな十済に帰属することになりました。慰礼城に来るとき民衆が喜んで従ってきたというので、後に国の名前を「百済チェ」と改めました。十済の十倍、という意味です。

 百済の王族は、姓を「扶餘ブヨォ」に定めました。というのも、彼らの父の朱蒙は扶餘の出であり、自分たちもまた扶餘族の流れを汲んでいたからです。彼らは父祖に誇りを持っており、温祚王が即位した年には東明王(朱蒙)廟を建ててその霊を祀りました。

 

 なお、この兄弟の物語には別伝もあります。それによれば、兄弟は朱蒙の実子ではなく、朱蒙が卒本扶餘で再婚した召西奴ソソノという未亡人の連れ子だったそうです。

 召西奴は家財を傾けて献身的に朱蒙の国作りに貢献したので朱蒙の寵愛が特に厚く、沸流たちも実の子のように扱われていたのですが、本当の子の琉璃がやってくると居場所を失ってしまいました。そこで従う人々を率いて国を出、二つの河を渡り、兄弟で弥鄒忽ミチゥホに住み着きました。これが百済の始まりで、ですからこの説では百済の始祖は温祚ではなく兄の沸流の方だ、と言います。

 なお、兄弟の本当の父親は優台ウデといい、解夫婁王の庶孫だったそうで、いずれにせよ扶餘族の血を引くという話なのでした。




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 え!? 今回はこれだけなの?
 はい。百済の建国に関するエピソードは少なく、神話というよりも伝説に近い形になっています。ですが、物語的には高句麗から繋がっていますので、ここに紹介してみました。
 ちょっと寂しい感じかな。
 それにしても、最初の北扶餘からずっと、えんえん南に移動しては新しい国を作り続けているんだね。ここからまた南に国作りに出たりするの?
 いえ、この流れはここでおしまいですね。これ以上南に行くには海を渡らなければなりませんし。
 ところで、『李相国集』『三国遺事』『三国史記』など各種文献の朱蒙の項を見ますと、物語上、朱蒙は扶餘を脱走して高句麗を建てた……となっていますが、百済の項では扶餘を脱出して高句麗を建てた、と語られています。広開土王碑文の金文でも、朱蒙(鄒牟)は北扶餘から出たと書かれているようですが。
 へ!? あれ? 東じゃなくて北なの?
 どうも、「ある国で卵から異能の男児が生まれ王に迫害されるが、成長して扶餘族の王となった」という伝説が古くからあって、それが様々にアレンジされ発展した結果、現在知られる形になったようです。
 史実としては、百済は四世紀に馬韓54国の中の扶餘系の首長が中心になって部族を統一し興したとされています。
 神話と史実だと建国の時代が全然違うんだねぇ。


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