さて、また少し時間を戻し、朱蒙の一族に話を戻しましょう。
朱蒙には卒本扶餘で再婚した妃との間に
「いっそ南へ行き、新たに国を建てよう」
と、十名の臣下を引き連れて南へ向かっていきました。大勢の民百姓がそれに付いて行きました。
やがて一行は
「王都を作るには漢江の南の地がいいでしょう。その地の北には川が流れ、東には高く険しい山がそびえ、南には肥沃な沼沢があり、西は大海に阻まれています。このように天然の守りのある土地はなかなかありません」
と勧めましたが、兄の沸流は海の側に住みたいという夢を持っていたので聞き入れず、一部の民衆のみを連れて一人で
さて、我を通して海の側に住んだ沸流でしたが、この土地は湿っぽくて水は塩辛いので暮らしにくく、弟のいる慰礼城に戻ってきてみますと、そこではみんなが楽しそうに暮らしていました。これを見ると沸流は後悔して悔しがり、ついには死んでしまいました。
沸流に従っていた臣民は、みんな十済に帰属することになりました。慰礼城に来るとき民衆が喜んで従ってきたというので、後に国の名前を「
百済の王族は、姓を「
なお、この兄弟の物語には別伝もあります。それによれば、兄弟は朱蒙の実子ではなく、朱蒙が卒本扶餘で再婚した
召西奴は家財を傾けて献身的に朱蒙の国作りに貢献したので朱蒙の寵愛が特に厚く、沸流たちも実の子のように扱われていたのですが、本当の子の琉璃がやってくると居場所を失ってしまいました。そこで従う人々を率いて国を出、二つの河を渡り、兄弟で
なお、兄弟の本当の父親は
BACK | NEXT | TOP |
え!? 今回はこれだけなの? | |
はい。百済の建国に関するエピソードは少なく、神話というよりも伝説に近い形になっています。ですが、物語的には高句麗から繋がっていますので、ここに紹介してみました。 | |
ちょっと寂しい感じかな。 それにしても、最初の北扶餘からずっと、えんえん南に移動しては新しい国を作り続けているんだね。ここからまた南に国作りに出たりするの? |
|
いえ、この流れはここでおしまいですね。これ以上南に行くには海を渡らなければなりませんし。 ところで、『李相国集』『三国遺事』『三国史記』など各種文献の朱蒙の項を見ますと、物語上、朱蒙は東扶餘を脱走して高句麗を建てた……となっていますが、百済の項では北扶餘を脱出して高句麗を建てた、と語られています。広開土王碑文の金文でも、朱蒙(鄒牟)は北扶餘から出たと書かれているようですが。 |
|
へ!? あれ? 東じゃなくて北なの? | |
どうも、「ある国で卵から異能の男児が生まれ王に迫害されるが、成長して扶餘族の王となった」という伝説が古くからあって、それが様々にアレンジされ発展した結果、現在知られる形になったようです。 史実としては、百済は四世紀に馬韓54国の中の扶餘系の首長が中心になって部族を統一し興したとされています。 |
|
神話と史実だと建国の時代が全然違うんだねぇ。 |
BACK | NEXT | TOP |