日月の仲違い〜太陽と月が仲違いをし、それぞれ別の空に出るようになったという話
「
月夜見尊はその命を受けて地上に降り、保食神に会いました。すると、保食神は首を巡らして、国に向かって口からご飯を吐き出し、海に向かうと大小の魚を吐き出しました。また山に向かうと、大小の動物を口から吐き出しました。そして、それらの食べ物を全て台に並べて、月夜見尊にご馳走しようと差し出しました。
月夜見尊はあまりの怒りに顔を赤くして、
「汚らわしいかな、卑しいかな、何故口から吐いた物を私に与えようとするのだ」と言って、剣を抜いて、保食神を切り殺してしまいました。
月夜見尊は高天原に帰ると、姉の天照大神に詳しくこの事を報告しました。すると天照大神は大いに怒り、
「お前はなんという悪い神だ。お前の顔なんてもう見たくない」と言って、月夜見尊と一日と一夜、離れて住むこととにしました。これ以来、太陽と月は別々の空に出て、互いに会わなくなったのです。
後に、天照大神は
天熊人はそれを全て持ち帰り、天照大神に奉りました。天照大神は喜んで、
「これらの物は、この世にある全ての生き物が食べて生きていくためのものだ」
と言って、粟・稗・麦・豆は畑のものとし、稲は水田のものとしました。また、農民のリーダーを定め、稲を
月と太陽は姉妹だったが、互いに悪巧みを持っていた。
ある日、月は太陽に「私達の子供をみんな川に流してしまいましょうよ」と言った。
決めておいた時間に、月は白い石を詰めた袋を川に投げ込んだが、太陽は本当に自分の子供を袋に詰めて川に投げ込んでしまった。その日の終わりには太陽はたった一人で沈んで人間を喜ばせたが、月は相変わらずぞろぞろと子供を連れて登った。
これを見て太陽は怒ったが、月はあなたは力が強すぎるから、あなたの子供達は水の中にいた方がいいのだ、人間たちはそれを捕まえて煮て食べて、満腹して村や町に住めるのだから、と言った。
それで今でも太陽と月は仲が悪いのである。
参考文献
『世界むかし話集〈上、下〉』 山室静編著 社会思想社 1977.
※川に投げ込まれた太陽の子は魚になった。今でも月と共に天に昇る月の子供たちは、星である。
昔、太陽は父親で月は母親であり、星々は二人の間の子供だった。
優しい月は、毎朝、心を込めて子供たちの髪をとかし、服を整えてやるのに忙しかった。けれども太陽は残忍で、毎日外をフラフラと遊び回っており、先に家を出た子供を捕まえてはこっそり食べてしまう。夕方に子供たちが家に帰ってくると、月は風呂に入れてやるのに忙しかったが、太陽は外で待ち構えていて、遅れて帰って来た子を捕まえて食べるのだった。夕焼けは子供の体から流れ出した血である。
後に、月は夫が子供を食べていたことに気づいて、悲しんで泣いた。その涙が朝露や夜露となった。月は太陽を恨んだがどうする術も持たず、歯ぎしりしながら子供たちを連れて太陽と別れた。月の歯ぎしりが雷鳴であり、抜け落ちた歯が雹である。
それ以来、月はいつも星と一緒にいるが、太陽は一人ぼっちで寂しく暮らしている。
参考文献
『世界の太陽と月と星の民話』 日本民話の会/外国民話研究会編訳 三弥井書房 1997.
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太古の昔、男と女の二人の子を持つ母親がいた。兄妹は大変に仲が悪く、いつも喧嘩していた。そしてとうとう兄は妹の目に針を刺して殺してしまった。それ故に母は息子を監禁し、餓え死にさせた。
その後、妹は太陽に、兄は月になった。太陽を見ると目が痛くなるのは、妹が針で目を刺されたためである。
参考文献
『朝鮮の民話』 孫晋泰著 岩崎美術社 1966.
※朝鮮地域には太陽が妹で月が兄、そして太陽は盲目だという観念があるようだ。「太陽と月になった兄妹」も参照。
語り伝えるところによれば、盤古が大斧で天地を切り開き、混濁した気の塊を分けると、軽い気は上昇して天となり、重い気は沈んで地となった。
盤古は一万八千年余り生きて死に、伏羲が後を継いだ。その頃すでに天は高く地は厚く、太陽と月も現れた。太陽は小姑で、月はその兄嫁。月姉さん、太陽妹と呼び合って一緒に天を動き、仲が良かった。
ある時、月姉さんが言った。
「今、地上には沢山の人間や動物が栄えて私たちの光を必要としているのに、私たちが一緒に出て一緒に帰るものだから、夜は真っ暗闇だわ。私たち、別々に出かけることにしましょう」
「分かったわ。じゃあ私が昼に出るから、姉さんは夜に出てね」
「あら、私は構わないけれど、あなたは嫁入り前の娘なんだから、一日中大勢にじろじろ見られるのは良くないわ」
「平気よ。私を見ようとする人がいたら、刺繍針で目を突いてやるから」
こうして太陽と月は別々に出るようになり、太陽を見ると目を傷める。
月は太陽妹の賢さを懐かしんで後を追うので、二十九日には追い付いて再会を楽しみ、別れている間のことを語り合うが、あくる日にはまた別れて、それぞれ照らしに出かけるのだ。
参考文献
「月の兄嫁と太陽妹」/『世界の太陽と月と星の民話』 日本民話の会/外国民話研究会編訳 三弥井書房 1997.
※月と太陽が仲違いしていないパターンだが、やはり太陽は針で見る者の目を突くとされている。
殺された子供の魂が小鳥となって現れる民話「アルスマン」に、彼を殺した両親がその鳥を見上げると針が落とされて目に刺さり、盲目になるエピソードがある。その話では《盲目》が《死》の暗示であるという意味の方が大きいが、子供の魂の変じた鳥には《太陽》のイメージが潜んでいるのかもしれない。
※これは『日本書紀』に見える話で、『古事記』にある類話では、高天原から追放されたスサノオがオオゲツヒメ(大宜都比売/大気都比売神/大宜津比売神)の家に立ち寄って饗応され、しかし彼女が口や鼻や尻から食物を排出しているのを覗き見して激怒し、斬り殺したことになっている。
オオゲツヒメの頭からは蚕が、目から稲、耳から粟、鼻から小豆、陰部から麦、尻から大豆が生じた。