>>参考 [薪と命]

 

死神/命のロウソク

 ここには、《死を支配しようとした男》の話を並べてみる。

  1. (他人の寿命/死神)を視る力を授かった男が、知略を持って死の運命を退ける。
  2. 豪胆な男が、(入ると出られない袋に入れて、殴るまたは木に吊るして/登ると降りられない木に登らせて/座ると立てない椅子に座らせて)(悪魔/死神)をぶちのめす。(おかげで、誰も死ななくなる。)

 その報いとして、

  1. 代償として自分の命を取られる。
  2. あらゆる冥界の神々に嫌われ、死んだ後で成仏できずに彷徨う。

という結末を迎える。まれに、bの後で《天国の門番を騙して天国に入る》《悪魔をやっつけて家来にし、神を脅して天国に入る》というハッピーエンドになることもあるが、殆どは不幸な結末に終わることになる。

 この他、《絶対賭けに負けないカード》を手に入れて悪魔と博打をし、彼らの呪宝などを奪う、という《怖がることを習いに出た若者》の話型にもあるようなモチーフもよく入る。死を支配しようとする者は、何者をも恐れないのである。

 

 この話の主人公たちは、死を恐れずに支配してしまう恐るべき英雄なのだが、何故か異端者・ならず者的に描かれている。 ギリシア神話の英雄ヘラクレスも、死神を殴って退散させたことがあるが、彼は死後にはちゃんと天界に招かれ、神の一員になる。なのに、民話の中で(悪魔/死神)をぶちのめした男たちは、地獄のみならず天国にも入れてもらえず、儚い亡霊になったと語られる。何故だろうか。死の駆逐は渇望されるものではあるが、自然(神の意思)に反する不遜な行為だ、という二律相反な思いがそう語らせるのかもしれない。

 彼らは、《博打・イタズラ好きの道楽者》以外では、医者か鍛冶屋として語られることが多い。医者は死に関わる職業であり、鍛治屋は地獄の炎を御す冥王のイメージが持たれているものと思われる。だから彼らは死を支配して退ける異能の力を持つが、同時に、死に属する存在として忌み嫌われるものらしい。

 

死神の名付け親  ドイツ 『グリム童話』

 昔、貧乏な男に子供が十二人もいて、パンだけ食べさせるにも朝から晩まで働かなければいけなかった。しかも十三人目の子が生まれたので、途方にくれた。

 男は街道へ飛び出し、一番はじめに行き会った人を名付け親に頼もうと思った。初めて出会ったのは神様だった。

「これこれ、お気の毒なお人。わしがお前さんの子供に洗礼してあげよう。その子の面倒をみて、この世で幸せにしてあげよう」

「お前さんはどなたです?」

「わしは神様だよ」

「それじゃあ名付け親に頼むのはごめんだ」と男は言った。

「お前さんは、金持には物をやって、貧乏人は腹ぺこにしておくんだからね」

 男は神様がよく考えた上で金持、貧乏をわりあてなさることを知らなかったものだから、こんなことを言ってしまった。そんなわけで男は神様に背を向けて、どんどん行ってしまった。

 すると、悪魔がやって来て言った。

「お前、何を探しているんだい。俺を子供の名付け親に頼みゃあ、その子に金をたくさんやるぜ。この世の楽しみも残らずおまけしてやらあ」

 男が訊いた。

「お前さんは誰だね」

「俺は悪魔よ」

「それじゃあ名付け親には頼めないね」と、男が言った。

「お前さんは人をだましたり、よくないことをそそのかしたりするからね」

 またどんどん行くと、向うからやせ細った足をした死神がやって来た。

「わたしを名付け親におし」

「お前さんは誰だね」

「わたしは、みんなを平等に扱う、死神だよ」

「お前さんなら結構だ。お前さんは金持だろうが貧乏人だろうが、区別なしにつれて行くからね。お前さんこそ名付け親になってやっておくんなさい」

 死神は頷いて応えた。

「わたしはお前さんの子供を金持にして、名をあげさせてやるよ。わたしの眷属になる者には、誰にだってそうしてやるんだからね」

 男は言った。

「こんどの日曜日が洗礼だから、遅れないように来て下さいよ」

 死神は約束通り来て、ちゃんと型通りに名付け親になった。

 この子が年頃になった頃、名付け親がやって来て、一緒においでと言った。その子を森の中へ連れ出して、そこに生えている薬草を見せて言った。

「さあ、お前の名付け親のお祝いを受け取りなさい。わたしはお前を名高い医者にしてあげる。

 お前が病人のところへ呼ばれるたびごとに、わたしも行ってやる。わたしが頭の方に立ったら、その病人はきっと治してみせると言いきって大丈夫だ。そうしてこの薬草を飲ませれば病気はよくなる。だが、わたしが病人の足の方に立ったら、病人はわたしのものだよ。お前は、どうにも手のつくしようがありません、この病人を治す医者は世界中さがしたっておりますまいって言わなきゃならない。

 さぁ、くれぐれも言っておくが、この薬草をわたしの心にそむいて使うんじゃあないよ。そんなことしようものなら、お前の身にどんな災いが振りかかってくるか知れないのだから」

 やがて、若者は世界で一番名高い医者になった。「あの医者は、病人を見ただけで「よくなるか、どうしても助からぬか」あんばいがわかる」という評判で、至るところから人が集って来たり、病人のところへ連れて行ったりして、沢山のお金をくれたので、たちまちのうちに金持になってしまった。

 ところがある時、王さまが病気にかかった。この医者がよばれて、治る見込みがあるかどうか申上げることになった。寝床のそばへ行ってみると、死神が病人の足もとに立っていたので、もはや諦めるより無いとわかったが、なにしろ患者は王さまだ。「なんとかして死神をだませないものかな」と医者は考えた。

「きっと怒るだろうけど、俺はあの死神の名付け子なんだから、目をつぶっていてくれるだろう。思いきってやってやれ」

 そこで、病人を抱えあげてくるりと回させて、死神が病人の枕の方に立つようにした。そうしてから、いつもの薬草をのませると、王さまは治って、もとの通り丈夫になった。

 死神は医者のところへやって来て、怖い顔をして、手をふりあげて言った。

「わたしを騙したな。わたしの名付け子だから今度だけは勘弁してやるが、二度とこんなことをしたら、それこそお前の命にかかわる。代わりに、お前を連れて行ってしまうからな」

 

 それからしばらく経って、王さまの一人娘が重い病気にかかった。昼も夜も泣きくらしたものだから、王さまは目が見えなくなってしまった。『娘を助けた者は、娘の婿にして王さまの世継にする』と、おふれが出た。

 医者は病人の寝床へ行ってみた。すると、死神が足もとに立っていた。

 名付け親のいましめを思い出さなければならなかったのに、王さまの娘がすばらしく器量がいい上に、お婿さんになるという幸せを思って、何もかも忘れてしまった。死神が怒ってにらみつけ、手を握り上げてやせこけた握りこぶしでおどしているのも目に入らず、病人を抱き起こして、足のあった方へ頭を置きかえた。そうしておいてから薬草をのませると、たちまち頬がさっと紅くなって、もと通り元気をとりもどした。

 死神は、二度までも自分の持ちものをごまかされたものだから、大股で医者の方に向って来て、

「もう駄目だ、さあこんどはお前の番だ」と氷のように冷たい手で無理矢理に医者をつかまえて、地獄の洞穴へ連れて行ってしまった。そこには、何千という灯火が幾列にも並んで燃えていて、大きいのや中くらいのや小さいのなど色々だった。見ている間に幾つかの灯りが消えていくかと思うと、またすぐ他のが燃えあがるので、小さな炎が入れかわり立ちかわり、あっちこっちに跳び廻っているみたいだった。

「ごらん」と死神が言った。「これが人の命の灯し火だ。大きいのは子供たちので、中くらいのは働き盛りの夫婦者、小さいのが年寄りのだ。たが、たまには子供や若い者でも小さな灯りしか持っていない者もいる」

「私の生命の灯火を見せて下さい」と医者は言った。自分の灯火はまだまだ大きいだろうと考えていた。けれども、死神は今にも消えそうな危っかしい小さな燃えさしを指さした。

「ごらん、これだよ」

「あっ、名付け親さん」と、ぎょっとした医者が言った。

「新しいのを点けて下さい。お願いですから生きていけるようにして下さいよ。これから私は綺麗なお姫さまの婿になって、王さまになるんですから」

「わたしには出来ないね」と、死神が答えた。

「新しいのを点けるためには、一つ消さなくてはならないからな」

「それじゃあ、古いのを新しいのに接いで下さい。古いのが消えたら、すぐに新しいのが燃え出すでしょう」

と医者が頼んだ。死神は医者の頼みをきいてやるようなふりをして、手をのばして勢いのいい灯火をとったけれど、仕返しをしてやろうと わざとやりそこなったので、小さいのが引っくりかえって、消えてしまった。途端に医者は地面に倒れて、今度は自分が死神の手に落ちてしまった。



参考文献
『完訳グリム童話集(全五巻)』 J.グリム+W.グリム著、金田鬼一 訳 岩波文庫 1979.

※日本にもこれとほぼ同じ「死神」という落語(イタリアの歌劇を翻案したものだという)と、それを基にしたのだろう民話がある。ただし、病人を癒すのに使うのは薬草ではなく、「アジャラカモクレン キューライソ テケレッツノパ」という呪文。結末部の表現も少し異なっていて、どうにか寿命を延ばそうと、医者は震える手でロウソクを接ぎ足そうとするが、その時一陣の風が吹いて(またはロウソクを接ぎ足し終えて安堵のため息をついて)、フッ、と全てが消えてしまう。この日本版の結末の方が、個人的に好きだ。

 寿命のロウソクの観念は、世界中に広まっている。誕生日のケーキにロウソクを立てるのはこれに由来すると言うし、日本の私たちが仏壇やお墓に供える線香やロウソクの火を息で吹き消してはいけない、手で扇いで消せと言われているのも、きっとここに由来するのだろう。息とは息吹、生命を現すものだから。息でロウソクを消すのは生命を消すことにつながり、凶兆と取られているに違いない。……もっとも、誕生日のロウソクは息で吹き消さなければならないことになっていて、理由がなんだかよく分からないが。

 グリム兄弟が採取した別の類話(ただし結末が欠落している)では、死神は女性らしい。日本の落語「死神」の元になったといわれているイタリアの歌劇に出てくる死神も女性だし、チェコスロバキアにも「死の女神」という、よく似た民話がある。死神=運命の女神と考えれば、この方が腑に落ちるかもしれない。



兵士と死神  ロシア

 二十五年も勤め上げた挙句、除隊になった兵士が、故郷を目指してぶらぶらと歩いていた。彼の持ち物といったら、ビスケット三枚きりしかなかった。

 やがて物乞いの老人と行き会った兵士は、ビスケットを一枚、老人に与えた。しばらく行くと、また別の物乞いの老人に出会った。二枚目のビスケットをやった。三番目に出会った物乞いの老人に最後のビスケットを与えると、老人は「必ず勝つカード」「何でも飛び込む袋」「いつでも吸える煙管キセル」をくれた。(実は、この物乞いはキリストだったのである。)

 三つの品のおかげで気楽な旅を続けていくと、大きな廃屋を見つけた。ここには恐ろしい悪魔たちが巣食って、人々を追い出してしまうというのだ。その廃屋に泊まって無事帰ってきた者はいないというのだが、兵士はそこに泊まることにした。

 真夜中になると悪魔たちが現れたが、兵士は恐れずに悪魔たちをカード遊びに誘って大儲けした。悪魔たちは怒って襲ってきたが、「何でも飛び込む袋」に吸い込んで、鍛冶屋にさんざんに叩かせた。悪魔たちは「二度とここには近づかない、何でも言うとおりにする」という誓約書を書いて、ほうほうの態で退散した。

 この時、兵士は悪魔たちの持っていた「死神の見えるグラス」を手に入れた。このグラスに水を溜めて透かし見ると、死神の姿が見えるのだった。死神が病人の頭の方にいるか足元にいるかを見極めると生死を言い当てることが出来たので、兵士は俄か医者となり、儲けることができた。

 しかしある時、王の病気を治すように命じられ、兵士は進退窮まった。王は死ぬ定めだったのだ……。兵士は、死神を出し抜くことに決めた。例の何でも吸い込む袋の口を開け、死神を吸い込んだのだ。

 こうして王は死なずに治り、兵士は貴族の位をもらって幸せに暮らした。けれどもある日、世界から死が消えたために死ぬに死ねずに苦しむ老人が増えていることに気付いた。死は、この世に必要なものだったのだ。兵士は高い木の上にぶら下げておいた袋を下ろし、その口を開けた。死神はたちまち逃げ去り、この世に再び死が舞い戻った。

 だが、それ以来 死神は兵士を恐れ、決して近づかなくなった。長く長く生きて、けれども死ねない兵士は、自ら天国に赴いたが、入れてもらえない。そこで地獄に行ったが、そこには例の廃屋の悪魔たちがいて、恐れられて入れてもらえない……。

 それで、彼は今でも死ねずにさまよっている。死を捕らえたために、永遠の苦しみを受けねばならなくなったのだ。



参考文献
『決定版 世界の民話事典』 日本民話の会編 講談社+α文庫 2002.

※「死神の名付け親」とは逆に、死神に勝ってしまった為に死ねなくなり、苦しむことになった話。

 

 類話では、死神を出し抜くモチーフが抜け落ちていることもある。

 兵士自身が老いて死を迎えたとき、袋の中に死神を吸い込む。そうして二百年程が過ぎたが、どんなに老いても死ねないため人々から恨まれ、兵士自身もようやくその苦しみを悟り、袋から死神を解放する。この世に死が戻ったが、死神は兵士を恐れて彼を迎えに来ない。老いて寝たきりになった兵士は、ついに自ら二階から転がり落ちて首の骨を折る。仕方なく死神が迎えに来て、彼は死ぬことが出来た。



ジャック・オ・ランタン  アイルランド

 昔、飲んだくれでいたずら好きのジャックという男がいた。彼は悪魔を騙して高い木の上に登らせ、更に悪魔が下に降りられないように木の幹に十字架を書いてしまった。困った悪魔は もう二度と彼を誘惑しないのを条件に木から降ろしてもらった。

 時が来てジャックは死んだが、生前悪さばかりしていたために天国に入れてもらえない。それで仕方なく地獄に行ったが、悪魔を騙したために地獄にも入れてもらえなかった。

 それでも、悪魔はたった一つだけ、小さな燠火(薪の燃えさし)をジャックに与えた。ジャックは燠火が消えないように中をくりぬいたカブの中に入れ、それをランタンにして、今でも天国と地獄の境を成仏できずにさまよっている。

※ハロウィンに灯すジャック・オ・ランタン(ジャックのランタン)の由来話。この話で語られているように本来はカブで作るのだが、現在はアメリカ式にかぼちゃで作るのが主流になっている。

 ジャックの灯すランタンは、消すまたは燃え尽きると死ぬ、生命の灯の変形イメージだろう。その炎の消えない限りジャックは死ぬ(成仏する)ことが出来ないのだが、しかし消す勇気もなく、境界をさまよっているのである。

 同じアイルランドのウィル・オー・ウィスプ(鬼火)の話もこれに似ている。(『アイルランドの民話』 ヘンリー・グラッシー編、大澤正佳・大澤薫訳 青土社 1994.)

 大酒飲みで強欲の鍛冶屋・ウィリーが、人に「真夜中にある場所でオールド・ニック(悪魔)の名を三遍唱えると、悪魔が現れて好きなだけ金をくれる」という話を聞いて実行した。すると魔王が現れて七年分の金をくれ、七年後に迎えに来ると言った。

 ウィリーはその金でトリムという町を作り、鍛冶場を持った。そこに現れた聖人を救うと、聖人は三つの願いを叶えてやろうと言った。ウィリーは「誰であろうと、わしの大槌を持ったら最後、わしが取り上げるまでは手から離れないようになる」「誰であろうと、わしの肘掛け椅子に座ったが最後、わしが立たせるまでは動けなくなる」「どんな金であれ、わしの財布に入ったが最後、わしが取り出すまでは出て行けんようになる」と願った。聖人は願いを叶えたが、「おお…天国を望んでさえいたら、お前はそこへ行けたものを」と言った。

 七年後に魔王が迎えに来たが、ウィリーは魔王に「あんたがあの雌馬に蹄鉄を打ったら付いていく」と言った。魔王は手から大槌が離れないまま三日間放置され、放してもらう代わりに更に金を与え、もう七年期限を延ばした。その七年後に魔王が迎えに来たときには、「お茶を一杯飲んだらあんたに付いて行くから、その椅子に座って待っていてくれ」と言った。魔王は椅子から動けなくなり、灼けた鉄の塊でなぶられた。立たせてもらう代わりに更に金を与え、もう七年期限を延ばした。

 更に七年後に魔王が迎えに来ると、ウィリーは大人しく付いていった。しかし、途中で居酒屋に立ち止まって「一杯やりたいが一文なしだ。あんた、半クラウン金貨に化けてわしの財布に入ってくれないか。それでわしが勘定を払ったら、すぐに出てくればいい」と言った。魔王が財布に入るとウィリーは鍛冶場に戻って火の中に財布を入れて灼き、中の金貨ごと金床で叩いた。魔王は大声で助けを求め、「わしを放してくれたら、この前よりももっと金を出そう。それに、もう二度と一緒に来てくれとは言わん」と言って、許されると逃げていった。

 やがてウィリーは死んだが、天国に入ろうとすると「悪魔に魂を売り飛ばしたのだから、ここには入れん。お前は地獄に行くのだ」と言われた。そこで地獄に行ったが、魔王はウィリーを恐れて中に入れなかった。魔王は枯れ草の束に火をつけてウィリーに持たせて送り返した。そんなわけで、今でもウィリーは天国と地獄の間をさまよい続けている。これがウィル・オー・ウィスプ(ウィルの幽かな火)、鬼火なのだ。

 このように、主人公は大抵は天国や地獄の門の中に入れてもらえず、中有をさまようことになるのだが、類話によっては更に上手の主人公もおり、天国の門番を騙したり脅したりして中に入ってしまう。

 なお、座った者が椅子から立ち上がれなくなってしまうモチーフは古いらしく、ギリシア神話でも見る事が出来る。鍛治神ヘパイストスは、自分を捨てた母・ヘラを憎んで、彼女に素晴らしい玉座を贈った。ヘラが喜んで座ると、彼女は椅子に縛り付けられて立てなくなったという。



参考 --> [薪と命]「岩あなの娘と金のすず




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