山梨県大殿市・岩殿山

 昔、百蔵山ももくらさんから大きな桃が一つ葛野川に転がり落ちて、川下へ流れていった。桃は上野原の鶴島で洗濯していた老婆に拾われた。老婆が持って帰って夫と共に食べようと割ると、中から男児が誕生したので桃太郎と名付けた。

 桃太郎が生まれる以前から、百蔵山の西方にある岩殿山に赤鬼が棲みつき、里に出ては女子供をさらったり牛馬を奪って食ったりしていたので、人々は難儀していた。この赤鬼は、九鬼山で起こった鬼の内乱で追われてきたのだという。

 成長した桃太郎はその話を聞いて、老婆に黍団子をこしらえてもらい、鬼退治に出発した。途中、犬目宿を歩いていると犬が来た。

「桃太郎さん、どこへ行く」「岩殿山の鬼退治に」「腰のものは何ですか」「これは日本一の黍団子」「一つ下さい。お供しましょう」

 次に鳥沢宿で雉が、猿橋宿で猿が、同じように家来になった。

 一行は岩殿山のふもとに着き、大声で名乗りを上げた。

「やあやあ、我こそは桃太郎だ。赤鬼よ、覚悟せよ!」

 鬼は怒って、持っていた石の杖を二つに折って、一つを左手で投げた。それは途中の畑に物凄い勢いで突き刺さって、轟音と共に辺り一帯を揺らした。そのために、ここを石動いしどうと呼び、今も畑の中に突き立っている岩を鬼の杖と呼ぶ。

 桃太郎は西の方へ回った。その桃太郎めがけて、鬼は残った杖を投げた。それは笹子の白野という集落の境に突き刺さり、鬼の立石と呼ばれるようになった。

 桃太郎は怯まずに岩殿山の頂へ攻め上がった。雉が鬼の目をつつき、猿が鬼の頬に噛み付いた。黒い血がほとばしり、このために岩殿山一帯の土は赤土になり、鬼の血と呼ばれた。また、このとき鬼の流した涙が浅利川になった。更に犬に噛み付かれ、鬼は悶絶して岩殿山の山頂に跡を付けた。逃げようと東の山へ足をかけたが、そこで桃太郎に腹を切られ、桂川に転落して死んでしまった。鬼の内臓が固まったと言われるところを鬼の腸と呼ぶ。

 ここでは桃太郎はまだ神格化も史実化もされていない。あくまで「おとぎ話桃太郎」と地元の各史跡や地名を絡ませてあるのだが、なかなか上手に仕上がっていると感じたので、まず挙げてみた。

>>大月市公式サイト



宮城県桃生郡河南町・桃太郎神社

 この地方の物語自体は一般的なものらしい。桃太郎が攻め入った鬼ヶ島は、牡鹿半島沖の金華山という島だとされている。

 鬼退治から凱旋した桃太郎は村の英雄として崇められ、毎日村人達と祝宴をして呑んだくれていた。それを聞いた鬼は「こんな奴に負けたのか」と悔しく思って復讐の機会をうかがい、ある日の宴の最中に襲い掛かってきた。桃太郎は何とか鬼を撃退し、それからは改心して真面目に働き、親孝行に務めたという。

 県立の自然公園である旭山の中腹に桃太郎神社があるが、今はすっかり草むし、寂れているという。町の公式サイトを見ても、(この文章を書いている時点で、)桃太郎神社のことは全く触れられておらず、無視されている。(ただ、桃太郎トマトが特産品の中に入っている程度である。)

 この地方を桃生ものうと呼ぶが、これから桃太郎を連想し、桃太郎誕生の地として岡山県から勧請して神社を建てたものらしいが、はっきりしない。ちなみに、「ものう」とはアイヌ語で「流域の丘」を意味する「モムヌプカ」がモムノフ→モノウと訛ったもので、漢字は当て字であり、桃太郎とは無関係だというのが定説である。

>>河南町公式サイト



愛知県犬山市・桃太郎神社

 飛騨木曽川国定公園内に桃太郎公園があり、桃太郎神社が存在する。恐らくはもっともアミューズメントパーク化された「桃太郎の故郷」だ。

 桃太郎神社は、昭和五年までは近くの桃山の麓にあったのだそうで、大神実命オオカムづミのミコトを祭神とする。この神は子供の守り神として信仰される桃の実の精霊で、イザナギのミコトが黄泉の国から逃げ帰るとき、桃の実を投げて黄泉の軍勢を退けたという、『記紀』にある神話に由来するのだという。

 神社にはカラフルなキャラクター像が並び、鳥居は桃の形をしていて可愛い。この桃鳥居をくぐれば、悪は去る(猿)、病いは去ぬ(犬)、災いは来じ(雉)……というご利益があるのだそうだ。

 なお、鬼ヶ島は海の島ではなく川の中州島で、可児かに川にある。

 この世が始まったとき、イザナギ・イザナミという夫婦の神が日本の国土を作り、神々を産んだ。けれども妻のイザナミは死んで黄泉に去ってしまい、夫のイザナギは彼女を訪ねて黄泉の国へ下っていった。ところが、イザナミは腐れて醜い姿に変わっていたので、イザナギは驚いて逃げ出した。イザナミは怒って鬼女の一団や黄泉の軍勢を送り出したが、イザナギは大剣を振り回し、地上へ繋がる坂に生えていた桃の木から実を取って投げつけた。すると黄泉軍は逃げ散ったので、喜んで桃の実に大神実命オオカムづミのミコトという名を与え、今後も私と同じように苦しむ者があれば助けてやってくれと頼んだ。

 後に、この桃の実が桃太郎に生まれ変わり、人々を苦しめる鬼どもを退治したという。その物語は以下のとおりである。

 昔、木曽川のほとりの栗栖村に子供の無い善良な老夫婦がおり、常日頃から子供を授けて欲しいと神に祈っていた。ある日、婆が川で洗濯していると、川上から大きな桃が流れて来た。このとき婆が座っていた岩を洗濯岩と言い、婆の足跡が残っているとする。また、木曽川の上流には大桃だいとうという土地があり、桃はここから流れてきたとも言われる。

 婆は桃を持ち帰り、爺が山から帰ると、桃を出して切ろうとした。ところが中から声がして、桃はひとりでに割れ、男の子が生まれた。二人は驚きながらも喜び、桃太郎と名付けて可愛がった。

 桃太郎が大きくなったある日、爺の柴刈りの手伝いをして山奥へ行くと、子供を懐に抱いた女達が肩を寄せ合ってシクシクと泣いている。訳を聞くと、

「私達は山向うの土田どた村の百姓です。可児かに川の鬼ヶ島に棲む鬼どもが、近郷近在を荒し廻って女子供をさらって行きますので、こうして隠れているのです」

と言った。この地を乳母の懐と言う。桃太郎は鬼征伐の決心をし、両親に話した。両親は賛成して、土地の名物のきびだんごを沢山作ってくれた。それを網袋に入れて腰に下げ、日本一の小旗を立てて、勇んで家を出発した。両親は桃太郎の無事を祈願して洞窟にこもった。そこを断食の洞窟と言う。

 話を聞いて、犬山という地に住んでいた犬が駆けつけてきた。次に、近くの崖から大猿が来た。この辺りには猿洞さるほらや猿渡と言う場所がある。最後に、船に乗って川を渡り始めたとき、雉ヶ棚きじがたなという山から雉が舞い下りてきた。桃太郎は彼らにきびだんごを与えて仲間にした。彼らを乗せた船が無事着いた場所を古渡しと呼ぶ。

 川辺の道を進むと犬が けたたましく吠え立て、岩陰から大きな鬼が四、五匹飛び出した。この地を敵がくれと呼ぶ。傍らの山から沢山の大猿が、付近の村々から村人達が加勢して鬼を遁走させた。桃太郎たちは勝鬨かちどきを上げた。それで鬼と取っ組み合いをしたところを取組村、勝ったところを勝山村と言う。

 鬼ヶ島に着くと、まずは雉が偵察した。鬼どもは桃太郎を発見して「桃太郎軍が川を今渡って攻め込んだぞ」と騒いだ。そこを今渡りと呼ぶ。戦いが始まると、犬は投げつけるための石を集め、猿は噛み付き、雉は飛び回って襲った。この辺りには犬石、雉ヶ峰、猿噛城址さるはみじょうしという場所がある。鬼どもは降参し、改心の印に宝物を全て差し出した。桃太郎一行は宝物を車に積んで凱旋し、道中の村々では倉から酒を出してそれを祝った。酒倉のあったところを酒倉村、祝ったところを坂祝さかほぎ村、宝物を一時積んだところを宝積地ほうしゃくじ村と言う。

 こうして無事に我が家に帰った桃太郎は、三匹のお供にもそれぞれ宝物を分け与え、感謝して暇をやった。犬は犬帰りの岩門をくぐって犬木へ帰り、猿は猿洞に、雉は雉ヶ棚へと帰った。

 その後は平和な日々が続いた。鬼ヶ島の近くの村では春のように平和になったからと村の名を春里村にした。また、鬼ヶ島近くの前波村では桃太郎の生まれた桃を貰い受けて桃塚を作った。

 やがて老夫婦が天寿を全うすると、桃太郎は役目は終わったとばかりに近くの山へ隠れ去った。不思議なことに、それ以来、その山の形が桃に見えるというので桃山と呼び、山の麓に社を建てて桃太郎を祀ったという。子供の守り神として崇められ、子供の背丈の御幣を供えるとその子は桃太郎のように丈夫になると伝えられた。

 昭和になってもっと便利な地へ社を移したいと人々が相談していたとき、桃山から一羽の雉が飛び立って一キロほど南の山へ降りた。そこは桃太郎一家の住んでいたとされる古屋敷という場所で、これを神意と見てそこに新たな社を作って移転した。それが現在の桃太郎神社である。

 物語も民話から違和感がないし、特に、最後に桃太郎が桃山に隠れさって神として祀られる辺りは、新たな神話としてよく出来ていると思う。

>>桃太郎公園サイト



岡山県岡山市・吉備津神社

 桃太郎生誕の地を名乗る土地は日本各地にあるが、最も有名なのが岡山県である。県をあげて桃太郎の故郷を演出し、観光資源とすることに大成功している。駅前には桃太郎像が建てられ、世界各地の姉妹都市にそのレプリカを贈っているくらいだ。

 どうして岡山県が桃太郎の故郷とされたのだろうか。それは、この地に関わる吉備津彦という英雄の物語こそが「桃太郎」の原話だ、としたからだ。これは昭和になってから唱えられた説なのだが、宣伝がよかったのか、全国的に定着してしまった。

 また、桃太郎の持つ「きびだんご」は「吉備団子」で吉備国(岡山県)のものだし、岡山の名産は桃だから、桃太郎と関係がある、と説明する人も多いようだ。もっとも、「きびだんご」が「黍団子」なら岡山限定のものではないし、桃が岡山県に導入されて名産になったのは明治時代以降である。

『古事記』に言う。第七代孝霊天皇の御子、比古伊佐勢理[田比]古ヒコイサセリビコは、またの名を大吉備津日子命オオキビツヒコのミコトといい、異母弟の若日子建吉備津日子命ワカヒコタケ キビツヒコのミコトと共に、播磨の国から陸路を西進して吉備の国を平定した。大吉備津日子は吉備の上の道の臣の祖となり、若日子建吉備津日子は吉備の下の道の臣、笠の臣の祖になったという。

 また、『日本書紀』に言う。吉備津彦は第十代崇神天皇十年の秋、四道将軍の一人として西道に遣わされ、この地方の鎮定にあたったという。

 他方、吉備津彦が鬼を退治した物語は、十五世紀の謡曲『吉備津宮』、金山寺から発見された『備中国吉備津宮勧進帳』一巻、円海の著作とされる『じょう縁起』などに書かれている。

 十一代垂仁天皇の頃、温羅うらという鬼神が吉備国に飛来した。その両眼は虎狼のごとく光り、身の丈は一丈四尺にも及び、膂力は絶倫、性は剽悍で凶悪であった。一説には、彼は新羅の王子だったとか、地元の豪族だったなどといい、吉備冠者かじゃとも呼ばれた。

 備中の新山にいやまに城を築き、その傍らの岩屋山に楯を構えた。しばしば都へ向かう貢船や婦女子を掠奪したので、人々は彼を恐れて、彼の居城をじょうと呼び、その暴状を朝廷に訴えた。今も、鬼の城と呼ばれる朝鮮式の石積みが残っている。(今は陸上にあるが、昔は海の島状だったとも言う。)

 朝廷は大いに憂い、これを討たしめんと名のある武将を遣わしたが、温羅は兵を用いること すこぶる巧みで、出没は変幻自在、討つことができずに都に戻るしかなかった。そこで、武勇の聞こえ高い皇子の五十狭芹彦命イサセリヒコのミコトが派遣されることとなった。命は大軍を率いて吉備国に下り、吉備の中山に陣を布き、片岡山に石楯を築いて防備を固めた。

 戦いが始まったが、温羅の戦いぶりは雷霆のように凄まじく、流石の命も攻めあぐねた。しかも、命が矢を放てば常に温羅の矢がそれにぶつかり、海に打ち落とすのだった。その矢を祀ったのが矢喰宮である。このままでは埒が明かぬと見て、命は神力を発揮して一度に二矢を射た。これが均衡を崩した。温羅の矢は命の一矢を落としたが、もう一矢が温羅の左目を射抜いたのだ。血が流水のごとくほとばしり、これが血吸川となった。

 温羅は雉と化して山中に逃れた。しかし命が鷹となってそれを追ったので、温羅は鯉と化して血吸川に潜った。命は鵜になってそれをくわえた。その場所が鯉喰宮である。温羅はついに降伏し、吉備冠者の名を命に奉ったので、これ以降、命は大吉備津彦と名乗るようになった。

 命は温羅の首を刎ねて串に刺して曝した。そこを首村と言う。ところが、この首が何年もの間 大声を出して止まらなかった。命は部下の犬飼武イヌカイ タケルに命じて犬に食べさせたが、肉がなくなって髑髏になっても吠えやまなかった。そこで釜殿のかまどの下に八尺の穴を掘って埋めたが、なお十三年の間 唸りやまずに、その声は近隣に鳴り響いた。

 そんなある夜のこと、命の夢に温羅の霊が現れて、

「我が妻、阿曾郷の祝の娘 阿曾媛をして命の釜殿の神饌を炊かしめよ。もし世の中に事あれば、竈の前に参りたまわば、幸あれば静かに鳴り、災いあらば荒々しく鳴ろう。命は世を捨てて後は霊神と現れたまえ。我は一の使者となって四民に賞罰を与えん」と告げた。

 そんなわけで、吉備津の御釜殿は温羅の怨霊を祀ったものであり、その精霊を「丑寅うしとらみさき」という。これが神秘なる釜鳴神事の起こりである。

 この物語を読んで、なるほど桃太郎の原話だね、と思った方はどのくらいいるのだろうか。英雄が鬼を退治する話、桃太郎に似たモチーフや構造を持つ話は世界中に溢れていて、それらの中でこの話が特に「桃太郎」に近いという印象は、私は受けない。

 この話を桃太郎のルーツだと主張する人々の説によれば、「大和の英雄が天皇の名代として西方の鬼国を討つ」という基本筋と「家来に飼武がいる」という点が、その証拠だという。

 桃太郎はこの伝承を元に、秀吉の朝鮮出兵などの海外侵攻の気運の中で創作された物語で、犬、猿、雉の家来は、吉備津彦配下の豪族の犬飼武が「犬飼部」、中山彦ナカヤマヒコが「猿飼部」、楽々森彦ササモリヒコが「鳥飼部」という役目であったことから創作された、などという。

 明治時代、そして第二次世界大戦中は、桃太郎は「皇国の英雄が天皇の名代として西方の鬼国(諸外国)を征討する」話として語られるのが常だった。軍国少年の理想像として利用されていたのだ。その桃太郎のイメージが頭のどこかにある人は、朝廷の遣いとして鬼を討つ英雄、と聞けば、ピピッと桃太郎を連想するのかもしれない。けれども、私は桃太郎にそういうイメージを持ったことがないし、それが桃太郎の本質だとも思えないので、吉備津彦=桃太郎説は、あまり気乗りがしない説である。

 

 温羅伝承は大和朝廷による地方勢力討伐の物語だが、一方で金属産業集団の所持していたであろう信仰をも提示している。温羅が片目になることも、竈の下に埋められることにも意味がある。

 また、予言する首の伝承に関して「魔女の頭を持つ盗賊の話」のコメント部分で解説したので、宜しければどうぞ。

>>吉備津神社公式サイト



香川県高松市鬼無町・桃太郎神社

 岡山県とは瀬戸内海を挟んで向き合うことになるこの地の桃太郎は、岡山桃太郎の弟ということになっている。

『記紀』によれば、吉備国を征討したのはヒコイサセリビコ(大吉備津彦)と、異母弟のワカヒコタケ キビツヒコのミコトの二人である。鬼無町の桃太郎は、この二人のキビツヒコの弟の方、稚武彦命ワカタケヒコのミコトであるという。

 稚武彦命は、兄の吉備津彦命と共に吉備地方征討の命を受けて都から下ってきた。彼の姉である倭迹々日百襲媛命ヤマトトトヒ モモソヒメのミコトが讃岐の国の本津の東方御殿に蟄居だか嫁入りだかをしていたので、彼女を訪ねてよく讃岐の国までやって来ていたのだという。

 そんなある日、命が船に乗って本津ほんづの河口にやってくると、美しい娘が川で洗濯をしていた。一目で彼女に恋した命は、彼女に従って神高かんだかの地に行き、そこに婿養子として落ち着いたという。娘は宇佐津彦の子孫だったそうだ。

 その頃、高松港の沖にある女木めぎ島を根城にした鬼(海賊)どもが暴れていた。それを聞いた命は鬼討伐を行った。仲間になったのは、航海術に優れた犬島の島民、知恵者で変装術も得意な猿王の地の住民、山野を駆け回るのが得意な雉ヶ谷の地の住民の三勢力だったらしい。最後の戦場になった雉ヶ谷こそが今の鬼無町なのだそうだ。

 後日、鬼どもは復讐を試みたが、反対に「せり塚」という所で一人残らず殺された。その屍を埋めたのが今の鬼ヶ塚である。今でも、ここをいじると祟りがあると人々が怖れている。なお、桃太郎と三家来の墓は桃太郎神社の境内にある。鬼が皆殺しになってすっかりいなくなったので、この地を鬼無きなしと呼んだ。

 ……と、四苦八苦して鬼無の稚武彦命(桃太郎?)伝説を書いてみたが、正直、これが正しいのだか分からない。私が調べ得た範囲では、稚武彦命伝説の完全な形も、そもそも何の文献に出ているものなのかも掴めなかった。稚武彦命が姉の倭迹々日百襲媛に会いに讃岐に来て川で会った娘に惚れてこの地に定住し、海賊を殲滅した……という、そのエピソードの根拠・出典はどこにあるものなのだろう。地元には今でも桃太郎(稚武彦命と宇佐津彦家系の娘)の子孫の方が住んでおられるというから、その家の家伝か何かとして伝わっていたのだろうか?

 とりあえず、この地の桃太郎神社は昭和六十三年にこの愛称を付けられるまでは「熊野権現」だったそうで、『香西記・全讃史・讃州府志』に、

「熊野権現が悪行を働く鬼の害を除き、鬼無しにになった。そこで祠(熊野権現)を建て、地名(鬼無)の由来になった」

と書いてあるとのことで、これがこの地の桃太郎伝説の実際の根拠なのではないかと思う。

 なんでも、この「稚武彦命=桃太郎説」が生まれたのは、大正三年に当時の外務大臣 大隈重信がこの地を訪れて珍しい地名に興味を示し、[桃太郎]を喩えに挙げて演説をしたことがキッカケで、それを聞いた地元の小学校教師の橋本氏が鬼無の地名由来について古文書などを調べ、桃太郎は讃岐に実在したという結論に達し、論文を昭和五年に地元新聞に発表したのが始まりだという。翌年に女木島に人工の岩窟(古い石切場。現在は鬼の棲家として観光スポットの一つになっている)が発見されたため、ブームに火がついたとか。

 しかし、稚武彦命が地元の娘を見初めて養子になった……と語る一方で、お爺さんが柴刈りに行ったのは柴山、桃太郎はお婆さんの作ってくれたきび団子を腰に女木島へ……などと論じているらしく、稚武彦命の神話(史実?)と一般的な桃太郎伝説が曖昧に融合しており、なんだか分からない。そもそも、何の根拠で稚武彦命が桃太郎なのだろう。日本各地の桃太郎伝説地の中でも一、二を争う有名な場所なのに、どうにもモヤモヤしてスッキリしない説である。

 なお、橋本氏の説によれば、讃岐国守として六年間赴任した菅原道真が漁師に稚武彦命の海賊征伐の話を聞き、おとぎ話としてまとめたのが全国に広まった「桃太郎」なのだそうだ。



福井県敦賀市・氣比神宮

 この神宮の本殿の行梁に、かつて桃太郎らしき人物の彫刻が施されていたという。二つの桃の実とその周囲に桃の花、外側の桃は二つに割れて、中に小さな人物が立っている。みずらを結い、胸には中啓(紙扇)を持っていた。この彫刻は西暦1614年頃のものとされ、最古の桃太郎像として研究者の間では注目されている。彫刻は戦災で焼失したが、今でも氣比神宮ではこの彫刻をモデルにした人形を境内で販売している。

 そもそも、この人物が私達が一般に言うところの桃太郎かどうかは分からない。そして、何故この神宮に彫刻されていたのかも分からない。神宮では、戦前は主祭神の伊奢沙別命イザサワケのミコトの大陸遠征の姿だと説明していたそうである。伊奢沙別命は別名を笥飯大神ケヒのオオカミ、または御食津大神ミケツオオカミといい、食物を司る神で、航海と漁業、商業(交易?)の神でもあるそうだ。御伽草子版一寸法師との関わりが指摘される住吉三神を想起させる。恐らくは、水の彼方の異界から流れ来て富をもたらす(水の彼方の異界に行って富を取ってくる)小さな神だと考えられていて、そこから桃太郎が連想され、桃太郎風の彫刻がなされていたのではないだろうか。

>>氣比神宮公式サイト



 余談だが、ネットで桃太郎伝説の地を色々と検索していたとき、青森県の岩木山を桃太郎伝説の地として語るページを複数見かけた。岩木山のあそべの森に犬・猿・雉を連れた桃太郎が鬼退治に行き、鬼は改心の印に角を渡した。角はお婆さんが臼で挽いて万能薬として周囲に配り、角のなくなった鬼は鬼沢というところで人のために働いて神として祀られたという。

 実際に、青森県弘前市鬼沢に神社(正しい字はてっぺんの「ノ」のない鬼らしい)があるが、ここに伝わる伝承は桃太郎とは全く無関係である。

 岩木山の赤倉で弥十郎という農夫が大男(鬼)と出会い、相撲を取っては遊んでいた。鬼は、弥十郎が田の水を枯らして困っているのを知ると、赤倉沢上流に堰を作って水を引いてくれた。ところで、鬼は自分のことを誰にも言うなと弥十郎に戒めていたのだが、好奇心にかられた弥十郎の妻が鬼を見ようとしたため、鬼は堰を作るときに使った鍬と蓑笠を残して立ち去り、二度と姿を見せなくなった。村人は鬼の作った堰を鬼神堰などと呼んで喜んだ。残された道具を弥十郎が祀ったのが、鬼神社の始まりであるという。

 この伝承を「鬼」つながりで桃太郎に取り込み、今まさに桃太郎伝説として語り直そうとしているわけで、興味深く感じた。




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