>>参考 「太陽と月になった兄妹」「パタパタちゃん、カタカタちゃん、ゴシゴシちゃん」「九つの頭の龍と九人の兄弟」 娘と狼のバラード
昔々、あるところに一人の正直な
ハァ、年も近付いて(年末も近くなって)、雪もチラチラ降るようになったげな。ある日、馬方は馬を連れて年取り(年越し)の買い物に行って、塩や数の子を買うて馬に負わして、大きな峠をこっとりこっとり戻りよったげな。そしたら日が暮れだしたげな。馬子は寂しいのをこらえて一生懸命戻りよったら、後の方から「おーい、おーい」と呼ぶ者があったげな。馬子はいびしょうていびしょうて(気味悪くて気味悪くて)なはんものだけし(ならんものだから)、馬引っ張ってドンドン逃げたげな。それでも、「おーい、おーい」言う声やァ近うなって、だんだん大声でようべ呼んで、ハァ、もう、すぐ後に何やら来たげな。それんで馬子はいびせぇ(気味悪い)のをこらえて後を見たら何と、いびせぇともいびせぇ(恐いのも恐い)、頭の髪の毛ちゃー(髪の毛と言えば)真白い銀の針金を見たやうんで(見たようで)、大きな目の玉クルクルと剥いで口が耳まで裂けて赤い舌出した鬼婆が、ハァ、馬子を捕まえそうだったげな。
馬子はあんまり いびせぇのでたまげかやーて(恐ろしいので たまげ返って)、「助けてくれー、助けてくれー」ちゅ触れて(と叫んで)、馬をそのまんま置いて、ドンドン逃げたげな。そいたら向こうの
そいたら、やんがて家の外で「やれ腹太(満腹)や腹太や。馬一頭喰うーて塩三俵
そいたら
馬子は鬼婆が寝たんで
「ゴロゴロ鳥が鳴くそうな。ゴロゴロ鳥は鳴くな。まだ夜は明けんぞ」言うて、またぐうぐう寝たげな。
今度は馬子は釜の下に火を焚こうと思うて、カッチカッチと火打ち石を擦ったら、釜の中から婆が
「カチカチ鳥が鳴くそうな。カチカチ鳥は鳴くな。まだ夜は明けんぞ」と言うたげな。
そいて ちーとしたら(少し経ったら)、ボロボロと火が燃え始めたげな。婆はまた、
「ボロボロ鳥が鳴くそうな。ボロボロ鳥は鳴くな。まだ夜は明けんぞ」言うておるうちに、だんだん熱うなりだしたんで出よう思うて蓋を取ろうとしたが、重石があって出られやーせず、熱うはなるし、「こらえてくれー(許してくれー)馬子さん、こらえてくれー」言うて大きな声で呼んだが、馬子は「こらえちゃーやらん、馬を喰うた仇ンだ、ええ罰ンだ」言うと、火をドンドン
裏の方へ行ってみたら、人の骨やら馬の骨が えっとえっと(うんとうんと)あったげな。馬子はいびしょうていびしょうてやれんので(気味悪くて気味悪くてたまらないので)、駆けって自分の家へ
とーもとし昔けっちりこ。
参考文献
『日本昔話集成(全六巻)』 関敬吾著 角川書店
二人の少年が祖父と三人で仲良く暮らしていた。ある日のこと、祖父は言った。
「明日は出かけて、わしのマル(蔓植物の根で、麻酔薬として用いる)を掘っておいで。間違って
次の朝、兄弟は出かけた。ところが祖父の話をルマカカが盗み聞きしており、畦道は蜘蛛の巣だらけだった。少年たちはその辺りのマルを自分の家のだと思い、みな掘りあげてしまった。
それから少年たちは海へ行ってカヌーを漕ぎ出し、掘ってきたマルを銛に塗って、海に潜っては魚を捕った。カヌーが沈みそうになるくらいの大漁で、「もうよかろう、舟がいっぱいじゃ」と兄が言って、二人はカヌーに乗って岸へ戻り始めた。
ところが、岸までまだずっと遠い時、海の中からルマカカがぽかっと顔を出して言った。
「おい、そこの小僧たち。俺のマルを盗ったな? その分の賠償はどうしてくれる」
二人は魚を一匹つかんでルマカカに投げた。そして漕ぎに漕いだが、またルマカカが浮かび上がった。
「おい、小僧たち。俺のマルの賠償はどうしてくれる」
二人はまた魚を一匹投げた。そして漕ぎに漕いだが、ルマカカは何度も浮かび上がってきて、とうとう魚はなくなってしまった。村はまだ遠い。ついに、兄弟は自分たちのどちらかを犠牲にして逃げるしかないと覚悟を決めた。最初に兄が自分の肉を切れと命じたが、弟は承知しなかった。そして自分を切れと言い張るので、兄は仕方なく弟の腕を一本切ってルマカカに投げ、その間に漕いで逃げた。けれどもルマカカは浮かび上がる。次に弟の胴の一部を切って投げて逃げた。また追って来る。次に胸の辺りを切って投げたが、その頃にはもう、弟の体は殆ど残っていなかった。やっと岸に着いてカヌーを引き上げた兄は、弟の頭を手に提げて陸に駆け上ると、泣きながら家の裏に穴を掘って埋めた。
それからというもの、兄は毎日弟の墓の番をしていた。ある朝、目を覚まして一番に墓に行ってみると、一匹の小犬がそこに座っていた。捕まえて祖父に見せると、祖父は「この犬に呪法をかけて、強くしてやろう」と言った。
その翌朝、兄が再び墓に行くと、今度は赤い木が一本生えていた。それはココ椰子の木で、弟の頭から生え出たものらしかった。帰って祖父にそのことを話すと「そのままにしておきなさい」と言った。二人は毎日、その木の様子を見守った。
祖父は犬を生姜湯に浸からせていたが、それを見た少年が自分も強くなりたいと言ったので、祖父は毎朝、孫と犬を生姜湯に入れてやるようになった。こうして日々は過ぎ、ココ椰子の木は高くなり、犬と少年は勇敢になっていった。
ある日、ついに少年は祖父に言った。明日犬を連れて出発しようと思うので、食べ物を用意してほしいと。翌朝、二人は食べ物を煮てココ椰子の木の上に積んだ。少年は犬を抱き上げて木の上に乗せ、自分もよじ登った。そして「天まで伸びよ」と木に命じると、ココ椰子はグングンと伸びた。少年は着いた場所で槍などの様々な武器を揃え、更に木に命じた。
「高くなれ、高くなれ、ルマカカのところで垂れ下がれ」
木は言われた通りに伸びて垂れ下がり、少年と犬を草むらに下ろした。
ルマカカには大勢の妻があった。ルマカカの家に着いて、その妻の一人に「お爺さんは?」と尋ねると、今寝ていると言う。起こして連れて来い、と言いつけた。女は夫のところに行ってこう言った。
「お前さん、お前さん。孫っ子が来たよ」
ルマカカは目を覚まして起き上がり、土かまどを開けておくように妻に命じた。それから、自分が殺した人間の肉を一包み持ってこさせて、食べるように少年に勧めたが、少年は嘲って言った。
「俺はそんなものは食べないよ」
そこで女が豚肉を持ってきて交換してくれたが、少年はこれも食べなかった。その態度があまりに不遜で挑発的だったので、しまいにルマカカも怒り出した。
「やい、俺を誰だと思うとる? 大体、ここへ何しに来た? 俺は男でも女でもいくらでも殺すんだぞ」
「そうか。じゃあやってみろ」
ルマカカは自分の槍を出してきたが、投げつけるとそれはボロボロに砕けた。実は、少年は予めルマカカの槍を火に差して脆くしてから、そっと元の場所に戻しておいたのだ。今度は少年が槍を投げた。ルマカカが再び槍を投げようとすると犬が吠え掛かった。ルマカカが犬を刺そうとした時、少年の槍がルマカカを貫いた。戦いは続き、ついにルマカカは倒れた。
人々はルマカカの死骸を焼き、肝臓を海に流した。岸に流れ着いた肝臓を見た人々は誰があの強大で恐ろしいルマカカを倒したのかと驚き騒ぎ、喜んだ。
参考文献
『世界の民話 パプア・ニューギニア』 小沢俊夫/小川超編訳 株式会社ぎょうせい 1978.
※畦道が蜘蛛の巣だらけになっていたためにルマカカのマルを掘ってしまうという意味がよく分からないのだが、「蜘蛛の巣→視界が遮られてぼんやりする→判断力が鈍る、化かされる」という意味なのだろうか。
人食い(神)の作物を盗んだために、人食いに食われそうになるという導入は、西欧の[ラプンツェル]や「人食い女」と同じである。
死んだ身内の墓から植物が生えて助けてくれたり、生まれ変わった動物が助けてくれるモチーフは【シンデレラ】【花咲か爺】【狗耕田】【金の生る木】等でもお馴染みだ。犬を連れて天梯樹から天に渡る点は、七夕の伝承を想起させる。また、犬と少年を強くした生姜湯は、日本の菖蒲湯のようなハーブの魔除けの意味もあるのだろうが、地獄の釜でぐつぐつ煮られて強く美々しく生まれ変わるという、冥界潜りの信仰に基づいた、これもお馴染みのモチーフであるようにも思う。ルマカカの家に着くと、ルマカカは土かまどを空けておくように妻に命じるが、ここで少年かルマカカが かまどで焼かれる、焼かれそうになる展開が、本来はあったように思われる。
ルマカカの家に行くと、少年は孫として歓待される。これはルマカカが本来 祖霊(神)であって、全ての人間の父祖であるからなのだろう。だが、ここで少年がルマカカから与えられる肉を全て拒む点、そしてそのために正面からの戦いが起こっている点は興味深い。少年はルマカカを宥め(供養し)ようとはしないし、その呪力も受け継ごうとしない。少年はルマカカの宝さえ奪わない。
ところで、この話を読んで私は「ジャックと豆の木」や「牛方山姥」を思い出したが、もう一つ、以下の日本民話が思い出されて仕方がなかった。
昔々、ある浜辺の村に、サザエ取りのうまい漁師がおったんと。いつサザエ取りに行っても、他ン漁師より余計取っておったんと。それで、村ン
「あげえ取ったら、サザエは、こん海から
ある日ンことじゃ。どねぇしたことか、その日は、今までになかったくらいサザエがよう取れた。日が暮れかかっとるのも気がつかんで、潜っては取り、上がっては船に揚げ、潜っては取り、上がっては船に揚げしているうちに、とうとう夜になってしもうたんじゃ。なんと そん時にゃ、小山ンじこ程のサザエでいっぱいの船は、重さで沈みそうになっておったんと。
漁師は、腹は減っとる。船は重い。はよ帰りとうはあるけんど、櫓を漕ぐんは よだきい(しんどい)。ここはいっちょ、なんぼでもあるサザエを、ちっと食うて、腹ごしらえをしてから帰ろうと、すぐ
「こりゃ一体どうしたことじゃろう、おかしなこともあるもんじゃ」と、焚き火を透かしてみたり、あっちこっち見たけんど、
そん時漁師は――海で目に見えん変なもんに
漁師は、へっぴり腰で船に帰ると、島に繋いどった
ほいたらどうじゃろう。真っ白い髭を生やした、痩せこけた裸のおじいが、美味そうに口をもぐもぐさせとるんが、よう見えたんと。
海じじいじゃ。こいつに
漁師は慌てて、船に積んどるサザエを海に捨てて、船を軽うすると、船に飛び乗って、櫓をギッコ、ギッコさせて、おじいのところから逃げ出したんとや。
ほいたらすぐに、後ろからおじいの声が、
「もうちっと、サザエを食わせぇ」ちゅうたそうじゃ。
海に行って、大きなこと漁をした時にゃ、気をつけぇよ。
参考文献
『大分のむかし話』 大分県小学校教育研究会国語部会編 株式会社日本標準 1975.
これは獲物を取り過ぎることを戒めた話なのだが、取り過ぎた獲物を食らい尽くして無に帰してしまう存在として「人食い鬼」が現れている。
[ラプンツェル]や「人食い女」、そしてこの「ルマカカとココ椰子」では、神(人食い)の畑から作物を盗んだことで、主人公は人食いから食われそうになる。もしかするとこれらは、「神の取り分を奪ったため罰される」話なのではないだろうか。
大量の食料を持った主人公が家に帰ろうとしていると、人食いが追ってくる。「牛方山姥」では山姥は意味なく現れるように見えるが、本来は人間が沢山取り過ぎた獲物を、神が取り戻しに現れたのではないか。(神への供犠を怠ったためかもしれない。)
イタリアやクロアチアに、『オデュッセイア』のキュクロプスのエピソードとよく似た、一つ目の人食い巨人の岩屋から主人公が逃げ出す民話がある。その岩屋には食料が豊富にあり、主人公はそれを盗み食いする。そして逃げ出すが、逃げ延びる直前に人食いが投げ与えた黄金を思わず手に取ると、そこにくっついてしまう。逃げるには自分の指を切り落とすしかなかった。人食いは残された指を食べる。
(余談だが、[牛方山姥]の高知県の類話では、人食いは「といとい鳥」、熊本県の類話では「いっちょ目」なる、一つ目の化け物である。)
自然(神)は豊富な幸を持っていて人間に惜しみなく与えてくれるが、欲張って取り過ぎると、自分の身の一部さえ食い取られるような、恐ろしいしっぺ返しが来る。そんな信仰がこれらの話の根底にはあるかもしれない。
※主人公が馬子なのか牛方なのかは一定しない。牛も馬も連れておらず、自分で鯖などを担いでいたと語られることもある。そちらの方が古い形だろう。
この話を語り聞かせてもらう時一番楽しい、「ゴロゴロ鳥が鳴くそうな、カチカチ鳥が鳴くそうな」のシーン。日本人なら勿論【カチカチ山】を想起するだろうが、ロシアの「処女王」にある、冥界の女王の眠っている間に宝を盗む場面の「草が匂うぅ、草が匂うぅ」「草の他に何が匂うというの? ざわめくでない、私を静に眠らせておくれ」のシーンにも共通したものを感じる。夢うつつの女王は主人公に騙されていて、危機に陥っていることに気付いていないのである。であれば、これは本来、冥界下りもののモチーフであるのだろう。「処女王」では主人公は追ってきた冥界の女王と結婚するが、この[牛方山姥]の話群にも、主人公が山姥の娘と結婚する形になっているものがある。(下で紹介)
主人公(童子)が高い場所に隠れて人食いをからかうという、【童子と人食い鬼】話群におなじみのモチーフが現れている。高い場所(木の上)にいる童子はご馳走を食べて満たされるが、下に居る人食いは飢えて口を開けて見上げているばかりである。また、山姥が騙されて箱や釜の中に閉じ込められ、挙句に焼かれたり煮え湯を注がれたりして殺されるのも、この話群ではおなじみのモチーフだ。「ヘンゼルとグレーテル」でグレーテルが魔女をかまどに突き入れて焼き殺すのも、恐らく根は同じである。
なお、上に挙げた例話では、この話群の特徴である呪的逃走の条が欠けている。それは下に並べる類話で見てほしい。
牛方山姥 青森県八戸地方
昔、牛方が村の旦那に頼まれて町に行き、塩鮭と鱈を牛に積んで帰って来た。日暮れごろ、村の入口の竹やぶの下に水溜りのある辺りまで来ると、山姥が突然出てきて「牛方、魚を一匹呉 ろ」と要求した。拒んだが「お前を取って喰う」と脅されたので一匹だけ筵 から抜き取って山姥の足元に投げ落とし、さっさと行こうとしたが、山姥はそれを止めると魚を食べ、更に一匹要求した。このようにして全ての魚を食われてしまった。すると山姥は「その牛を呉 ろ」と言う。旦那様の牛だから困ると言ったが聞かない。脅されて仕方なく渡すと、これも頭から食べてしまった。
そのうちに夜も遅くなっていた。山姥は牛の尻の皮だけ噛み切れず、牛方に川で洗ってくるように命じた。山姥は牛方の腰に細い縄を結び付けていたが、牛方はそれを解いて柳の枝に結びつけ、その端に牛の皮を縛って川に流すと逃げた。山姥は牛方が戻るのが遅いので「まだか」と縄を引いたが、牛の皮が「まだも、こぼこぼ」と音を立てて水に浮き沈みした。山姥が怪しんで強く引くと「こぼこぼ、こぼこぼ」と鳴るのだった。たまりかねて山姥が見に行くと、牛方は逃げている。「牛方、どっちゃ行った。どっちゃ行ったって許すもんか。待ぢろ(待ってろ)」と叫んで、その匂いをかいで追い始めた。
その頃はもう夜もかなり更け、二十日下がりの月が高く昇っていた。山姥が呼ぶ声を聞きながら牛方は逃げた。やがて夜が明け、海辺へ行くと舟大工が舟を作っていた。牛方が匿ってほしいと頼むと、舟大工はその辺の舟の下に隠れるよう言った。牛方が壊れた舟の下に隠れていると山姥が来て舟大工に詰問し、一つ一つ舟をひっくり返して捜し始めた。見つかりそうになって牛方は逃げ出した。
牛方は逃げ続け、昼になった。広い野原に着くと、萱刈りが萱を刈っていた。牛方が匿ってほしいと頼むと、萱刈りはその辺の萱の束の下に隠れるよう言った。やがて山姥が来て萱刈りを詰問し、一つ一つ萱の束をひっくり返して捜し始めた。見つかりそうになって牛方は逃げ出した。
もう夕方になった。牛方はやっと川のあたりまで逃げてきて、そこにあった大きな柳の木に登った。山姥が来て「どういう風にして登ったのか」と尋ねた。牛方が「枯れ枝は強く踏んで、枯れない枝は軽く踏んで」と嘘を教えると、山姥はその通りに登って枯れ木を踏み折り、川に落ちた。山姥が溺れている間に牛方は逃げた。
再び夜になった。遠くに見えた明かりを目指すと、その家には娘が一人居て、囲炉裏に火を焚いて当たっていた。山姥に追われていると話すと、「それァきっと、おらどこの悪たれ婆に違いない」と言って中に入れ、今に婆が帰ってくるから、二階に上がってこのトチの実を噛んでいるように、と指示した。婆はネズミをとても怖がるので、恐れて櫃 の中に隠れるだろう。そうしたら蓋をして、隙間から湯を入れて殺してしまえばいいと。
牛方は恐れながらも娘に従った。濡れ鼠になった婆が帰ってきて震えながら火に当たる。牛方が二階でクチャクチャやると山姥は鼠がいると恐れ、娘が煽る。山姥は櫃に入って蓋をしろと娘に命じた。娘は厚い板で蓋をすると、その上に重石を乗せた。そうしてから牛方を呼び、二人で煮立った湯を櫃に注ぎこんで山姥を殺したのである。
それから牛方はその家に住んで、娘と二人で暮らしを立てたと言う。
参考文献
『こぶとり爺さん・かちかち山 -日本の昔ばなし(T)-』 関敬吾編 岩波ほるぷ図書館文庫 1975.
※自分の身内の山姥を殺すように指示する娘が恐ろしい。その娘に従ったうえ結婚して殺害現場の家に住み着いた牛方も恐ろしい。お前若くて綺麗な娘なら何でもいいんかい。ハンガリーの「予言する牛とその主人」と同種のモヤモヤ感を感じる。
とはいえ、観念的には山姥と娘は同じ存在なのだろう。牛方は冬(死の女神)を倒して春(生命の女神)と結婚した(自然の恵みを得た)に過ぎない。けれど物語として読むと、やはり恐ろしい。理不尽に山姥に追われる点もそうだが、胸にザラザラとしたものが残る話である。
牛方は山姥から丸一日逃げ続ける。山姥と出会う場所が「竹やぶの下の水たまりの辺り」となっているが、竹やぶは日本の民話では冥界を表す。水はこの世とあの世の境界として世界中の伝承にしばしば現れるものである。舟大工も萱刈りも冥界の住人なのだろう。一日逃げ続けて、牛方は「やっと」川の辺りまで逃げたと語られている。この川は三途の川。つまりこの川を越えれば冥界から逃げ出せる。黄泉帰れるのである。
娘がトチの実を噛むように命じるのは、日本神話でスセリ姫がオオクニヌシに椋の実を噛んで父王スサノオを騙すよう助言するシーンと共通のモチーフであろうと思われる。
参考 --> 「山母の話」
鯖売りと山姥 新潟県
鯖売りが、鯖を沢山入れた天秤籠を担いで山道を通っていた。しかし山奥で日が暮れて困っていると、遠くに明かりが見えた。その家に行って一夜の宿を求めると、年老いた婆が火を焚いている。泊めてくれたが、鯖を一匹ずつ要求して、とうとう全部食べてしまった。
代金を要求すると、婆は「今度はお前を食うぞ」と言ったので、鯖売りは籠を投げ出して逃げ出した。池の側の木の上に隠れていると、月の夜で、その姿が池に映っている。山姥は水に映った像を本物だと思って池に飛び込んで探し始めた。その間に鯖売りは山姥の家に戻り、囲炉裏の上の二階に隠れた。濡れ鼠になった山姥が震えながら帰ってきて、火をぼんぼん焚いた。
「はて、餅を焼いて食おう。囲炉裏 の神 さま、いい餅焼こうか、悪い餅焼こうか」
「いい餅、いい餅」
二階から鯖売りが言うと、山姥は神の声だと思って上等の白い餅を出して焼いた。そうしながら山姥がうとうとと眠ると、鯖売りは屋根を葺いてある葦を取って、それを餅に突き刺して引き上げて全て食べてしまった。目を覚ました山姥は、囲炉裏の神が全て食べたと言った。
「今度 、囲炉裏 の神 さま、甘酒沸かそうか、辛酒沸かそうか」
「甘酒、甘酒」
二階から鯖売りが言うと、山姥は今度も神の声だと思って甘酒を温めた。山姥が眠り込むと、鯖売りは葦をストローにして二階から甘酒を吸ってしまった。目を覚ました山姥は、囲炉裏の神がみんな飲んだと言った。
「はて、今夜 はもう寝よう。囲炉裏 の神 さま、木の唐櫃 に寝ようか、石の唐櫃 に寝ようか」唐櫃 、木の唐櫃 」
「木の
山姥は木の箱の中に寝た。鯖売りは下りてきて木の箱に鍵をかけ、大釜に湯を煮え立たすと、木の箱にキリキリと穴を開けた。山姥が目を覚まして言った。
「明日は天気がいいか。キリキリ虫が鳴かや」
次に、穴から大釜の煮え湯を注ぎだすと、
「おう、鼠がしょんべんしたか」
などと言っていたが、そのうちに熱い熱いと騒ぎ出した。
「あちゃちゃ、あちゃちゃ、鯖売りだな、勘弁してくれや。銭やる。筵 の下に、銭がいっぺ(いっぱい)あるすけ、それ、皆 、やる」
と言いながら山姥は死んだ。鯖売りは筵 の下の銭を持って家へ帰ったという。
参考文献
『おばばの夜語り 新潟の昔話』 水沢謙一著 平凡社名作文庫 1978.
※煮立った甘酒をストローで飲んだら火傷すると思います。
ここに挙げた例話三つには現れていないが、山姥(山父)が牛や馬の睾丸、脚一本など、体を少しずつ食べていく場合もある。
参考--> 「太陽と月になった兄妹」「九つの頭の龍と九人の兄の妹」「体のない頭の話」