冥界の花嫁

 伝承には「異類婚姻譚」と呼ばれるモチーフがある。要は人間が獣と結婚する話だが、その獣が人間に劣った存在とされることはまずない。人語を喋るのは当たり前、魔法のような力を持っていたり、素晴らしい宝を沢山持っていたり。非常に賢く、人間が知らないような神秘的な知識や工芸技術を備えている。たとえ見下すべき「魔物」として描かれたとしても、少なくとも人間をバリバリと食ってしまえる「強さ」を持つことになっている。

 異類たちに人間よりも劣った点があるとすれば、それは容姿だ。ところが人間と結婚した異類が最後までその姿のままだと語られることは殆どない。多くの場合、異類たちは皮をするりと脱いで、誰よりも美しい人間の姿に変身するのであった。

 

 人間を凌駕する魔法と財産と知識技術を持つ異類たちの正体は、神である。近世の宗教における神よりももっと原始的で感覚的な「偉大な霊」。世界そのものとも、祖先の霊とも言い換えることが出来る、恐ろしくもあり慈悲深くもある「何か」だ。それは人間の手の届かない存在であるが、同時に身近なものでもある。死んだ家族たちの霊は冥界へ行き、偉大な霊と混じり合うものだから。

 神でもあり死んだ家族でもある霊は、さかを越えて冥界から現界へやって来るとき、獣の皮を被っている。霊は自在に姿を変えるものだという信仰が、ここには現れている。伝承の世界では構図が逆転して、人間が生きたまま冥界へ行くとき、獣に乗ったり、獣の皮を被ったり、獣の皮で作った紐や服や靴を使うと語られることも数多い。生きた人間も、冥界へ向かうときには、自在に姿を変えるモノ…即ち魂にならなければいけないのだろう。

 私たち日本人にとっても、死者が獣に転生するという観念はお馴染みのものだ。未練や恨みを残して非業の死を遂げた者は死後 畜生道に堕ち、獣に生まれ変わる。インドネシアのスマトラ島では、地獄に堕ちた霊は虎、猪、蛇、トカゲなどに転生する。よって親類縁者は、死者が出てから向こう一年間はそれらの獣を殺すことを禁じられる。西欧にも似た伝承はあって、オーストリアでは「死者の霊は醜いヒキガエルに転生し、贖罪する」とされているそうだ。

 もっとも、死後に獣の姿になることを「悪いこと、苦しいこと、贖罪」だとは考えない地域も多いようである。アフリカのヨルバ族やポポ族では、「善人は」死後に様々な動物に変身して時を過ごすと信じられている。インドネシアのニアス島では、死者は様々な獣や虫、特に蛇やワニに転生するとされ、どんな獣に生まれ変わるかは死に方や年齢に左右されると言う。パプアニューギニアのタミ族は、冥界へ行った死者はたまに蛇の姿になって帰ってくると伝えている。シューシューとしか言えないが、霊媒は何を言っているのかを聞き取れる。エジプトには、死者は青鷺、燕、蛇、ワニなど、自由に姿を変えられるという観念がある。

 民話の[三つの愛のオレンジ]等では、殺された娘は鳥、魚、植物などに次々転生して最後に元の娘の姿で甦るが、ここにも「死者の霊は様々なものに自在に姿を変える」という観念が現れていると言えるだろう。

 シベリアのブリヤート族のシャーマンは、こんな幻視をしたという。病人が出たとき、シャーマンは幽体離脱して森や草原、水の中に病人の魂を探す。魂が抜け出したために病気になっているのだ。場合によっては、病人の霊は既に冥界の王に囚われている。返してもらうためには身代わりの魂を差し出さねばならない。シャーマンの魂は大鷹に変身し、小鳥になって必死に逃げる身代わりの魂に追いすがって、その鉤爪で鷲掴むと冥界の王に引き渡す…。

 世界各地の伝承には、主人公と敵が互いに変身を繰り返して追走または戦いを繰り広げるモチーフが数多ある。この根底にあるのは、実は「逃げる魂を捕まえる」というイメージなのではないかという説がある。死者の霊を現界に引き出す際にもこの追走は行われる。ギリシア神話によれば、人間の若者ペーレウスが海の女神テティスを妻にしようとしたとき、彼女はペーレウスの腕の中で獅子、大蛇、火、水などに姿を変えて逃れようとした。しかしペーレウスが腕を放さなかったので、ついに彼の妻になったという。

 似たようなシーンはドイツの民話「天まで届いた木」にもある。蛙に一度キスをすると毒蛇に変わり、それに二度目のキスをすると巨大な竜に変わり、それでも離さずに三度目のキスをすると美しい女に変わって主人公の妻になった。「二文のヤニック」ではヒキガエルにキスするたびに大きく醜くなっていく。

天まで届いた木」や「二文のヤニック」では蛙姫は自らキスを望んだのだが、女神テティスはどうしてそんなにもペーレウスから逃れようとしたのか。それは彼が人間…「死すべき者」だったからであった。

 現界に生きる私たちの側から見れば、冥界から現界へ魂を連れ出すことこそが正しいように思える。しかし既に冥界に存在して死を超越した存在になっていた魂にとっては、現界へ引き出されることこそ「殺される」ことなのである。それを思えば、例えば中国の七夕伝説で、天に去った妻を夫が追っていくと妻が物を投げつけてまで追い返そうとする展開にも納得がいくかもしれない。オセアニアの神話には、夫が冥界に妻を取りもどしに行くと、妻の魂は様々な鳥に変身して逃げる、というものがあるそうだ。遊離した魂を取りもどす際には追走は付き物なのである。

 

 醜い獣の姿で現れた花嫁は、冥界から現れた霊、即ち女神である。王子と蛙姫の結びつきが「神婚」であることは、それが「矢を放つ」「羽根を飛ばす」「木を倒す」等の偶然を利用した選婚の儀式……神意によって選ばれた花嫁である点に如実に現れている。そもそも、王子が異形の花嫁と出会う場所自体が、あからさまに「冥界」の表象なのだ。森、不思議な城、沼地、川のほとり、山の上、鍋の中、そして地下。

 冥界は死者が行く世界だが、同時に命の生まれる場所でもある。よって伝承の中の冥界は、時には「花が咲き、ご馳走が溢れて、美女がいる」光り輝く清浄な世界とされるが、時には「骨が転がり、血で満ちた釜がグラグラと煮立ち、竜や山姥がいる」真っ暗な穢れた世界とされる。一見して両極端に思えるこれらのイメージは、実は同じものについて語っている。それは、例えば「森の中の蛙」と「三枚の鳥の羽根」を並べて読めばイメージし易いかもしれない。蛙姫は一方では森の中の美しい城に住んでいるが、一方では暗い地下室でべちゃべちゃとわだかまっている。また、「森の花嫁」と次に紹介する類話を比べてみても分かり易いだろう。

 隅の母さんの娘に結婚を申し込みたかった若者 ノルウェー

 昔々、あるお母さんが一人の息子を持っていました。ところがこの息子ときたら本当に怠け者の面倒臭がり屋で、役に立つことはまるでやりたがりませんでした。けれども歌や踊りにはとてもやる気を見せて、昼も夜もそういうことばかりやっていましたから、家の暮らしはどんどん貧しくなっていきました。この息子は育つにつれてよく食べましたし、着る物も次々欲しがりました。というのも、毎日ところかまわず踊り回っていましたから、すぐに駄目にしてしまうのです。

 しまいに、お母さんも「これはひど過ぎる」と思いました。そこで、ある日息子に言いました。

「お前ももう働きに行って、何かお金になる仕事をしなくちゃ。さもなきゃ、私たち二人とも飢え死にすることになるよ」

「僕は、それよりも噂に聞く《隅の母さん》の娘に結婚を申し込みに行きたいな。だって、もしその娘をもらえたら、僕は一生のあいだ楽に暮らして、歌って踊って、仕事なんて気にしないで済むんだからさ」

 お母さんはそれを聞くと、それもそんなに悪くないかもしれない、息子にそれをやらせてみてもいいかもしれないという気がしました。そこで出来るだけ立派に息子を着せ付け、こしらえをしてやりました。

 息子は歩き出しました。太陽は暖かく美しく照らしていましたが、前の晩に雨が降ったので辺りは湿り、低い沼地はどこも水でいっぱいでした。若者は隅の母さんのところへ行く一番の近道をとり、いつもどおり歌ったり飛び跳ねたりして行きました。

 やがてさしかかった沼地には、丸太の一本橋が架かっていました。その橋から沼地の水溜りを跳び越して、とある草むらまで跳び渡らねばなりません。靴を汚さないためにそうするしかなかったのです。

 バシャッ!

 若者がその草むらに跳び下りた途端、そんな音がしました。そうして、どんどんどんどん下に降りて行って、やっと止まった所は酷くて気味が悪い暗い穴の中でした。始めのうち、若者にはなんにも見えませんでした。けれど、しばらくすると一匹のネズミが見えました。そのネズミはしっぽに鍵束をくっつけて、あちこち動き回っているのでした。

「まあ、いらっしゃったのね。私の若様?」と、そのネズミが言いました。

「逢いに来てくださって嬉しいわ。私、長いことあなたを待っていましたの。きっと、あなたは私に結婚を申し込みに来たのでしょうし、だから気が急いているでしょうことは分かります。けれど、あなたにはもう少し我慢してもらわないといけませんわ。私はちゃんと嫁入り支度をしなければなりませんし、結婚式の準備も出来ていませんもの。でもね、私、出来るだけ急ぎますから。間もなく式が挙げられますわ」

 そう話してしまうと、ネズミは卵の殻を差し出しました。その殻には、普通ネズミが食べるようなちっちゃな食べ物が、あれもこれもと盛り込んでありました。

「まあ、しばらく座って、ちょっと食べ物をつまんでいてくださいな。あなたは疲れているでしょうし、お腹もすいているでしょうから」

 けれど若者の方は、こういう食べ物を欲しくはありませんでした。(ここから出て、また上に行けさえすりゃいいんだがな)と考えていたのです。口には出しませんでしたけれども。

「さて、そろそろ、あなたはお家に帰りたいのだろうと思いますわ」と、ネズミが言いました。

「あなたは結婚式が待ち遠しくてたまらないだろうって、私には分かっています。ですから、出来るだけ急ぐことにしますわ。それからね、是非、このリンネルの糸を持っていってくださいな。そして、上にあがったら後ろを振り向かないで、まっすぐお家の方へ行ってください。その間はこんな言葉だけを言うのです。『前は短く、後ろは長く』ってね」

 そう言ってネズミは若者の手に一本のリンネルの糸を渡し、上にあげてくれました。

 上にあがると、若者は「いや、ありがたい!」と言いました。「もうもう、二度とあそこには行かないぞ!」

 若者はいつものように跳ねたり歌ったりして行きました。もう、あのネズミ穴のことは考えないでいたのに、あの糸はまだ手に持っていて、いつしか歌のメロディに合わせてこう唱え続けていました。

  前は短く、後ろは長く!
  前は短く、後ろは長く!

 いつの間にか自分の家の玄関まで戻ってきたとき、若者は初めて後ろを振り向いてみました。すると、何百メートルもの長さがある、真っ白いリンネルの布が続いていました。その綺麗なことと言ったら、どんなに手先が器用な織子でもこれより見事には織れないというくらいでした。

「母さん、母さん、来てみて、来てみてよ!」と、若者は声を張り上げました。

 飛び出してきたお母さんは、ずっと遠く遠くの目に見えない彼方まで続いているその布を見ても、とても現実だと思えませんでした。けれど息子からどうしてこうなったかを聞いて、その布に触って調べているうちに、すっかり嬉しくなって自分までも歌いだし踊りだしてしまいました。

 それからお母さんはその布を取って、切って、息子と自分のためにシャツやブラウスを縫い上げました。残りは町に持っていって売って、代わりにお金をもらいました。そんな風にして、二人はしばらくは楽しく心地よく暮らしましたが、布がお終いになってしまうと、家には食べ物もなくなってしまいました。お母さんは息子に言いました。

「さあ、ホントにもう、お前も働きに行って、何かお金になる仕事をしなくちゃ。さもなきゃ、私たち二人とも飢え死にするしかなくなるよ」

「僕は、それよりも《隅の母さん》の娘に結婚を申し込みに行きたいな」

 お母さんも、それもなかなかいいかもしれないと思いました。というのも、息子は今では立派な服を着ているし、見掛けもそう悪くなかったからです。そこで出来るだけ立派に息子を着せ付け、こしらえをしてやりました。若者も自分の新しい靴を取り出すと、顔が映るくらいピカピカに磨き上げ、それを履いて出かけて行きました。

 この前とまるで同じようでした。太陽は暖かく美しく照らしていましたが、前の晩に雨が降ったので辺りは湿り、低い沼地はどこも水でいっぱいでした。若者は隅の母さんのところへ行く一番の近道をとり、いつもどおり歌ったり飛び跳ねたりして行きました。

 前とは違う道を辿ったのですが、またあの沼地の一本橋にさしかかりました。その橋から沼地の水溜りを跳び越して、とある草むらまで跳び渡らねばなりません。靴を汚さないためにそうするしかなかったのです。

 バシャッ!

 若者がその草むらに跳び下りた途端、そんな音がしました。そうして、どんどんどんどん下に降りて行って、やっと止まった所は酷くて気味が悪い暗い穴の中でした。始めのうち、若者にはなんにも見えませんでした。けれど、しばらくすると一匹のネズミが見えました。そのネズミはしっぽに鍵束をくっつけて、あちこち動き回っているのでした。

「まあ、いらっしゃったのね。私の若いお方?」と、そのネズミが言いました。

「よく、またおいでになったこと! こんなにすぐ私に逢いに来てくださるなんて、優しいのね。あなたが待っていられない気持ちなのは分かりますわ。でも、あなたには本当に、あと少しだけ我慢していただかなければなりませんの。というのも、私の嫁入り支度が、あとほんの少しだけ足りないんです。でもね、次にあなたがおいでになるときには、何もかも用意できていますわ」

 そう話してしまうと、ネズミは、沢山の種類のちっちゃな食べ物が入っている卵の殻を差し出しました。中にあるのは、ネズミたちがいつも食べて、嬉しがるような食べ物でした。けれど若者は、それが残飯のような気がしたので「どうも、お腹がすいていないので」と断りました。そして(ここから出て、また上に行けさえすりゃいいんだけど)と思っていました。口には出しませんでしたけれども。

 暫くすると、ネズミが言いました。

「さて、きっと、あなたはまたお家に帰りたくなったのだろうと思いますわ。結婚式の方は、私、出来るだけ早く挙げられるようにします。でもね、今は、あなたはこの毛糸を一緒に持っていってくださいな。そして、上にあがったら後ろを振り向かないで、まっすぐお家の方へ行ってください。その間はこんな言葉だけを言うのです。『前は短く、後ろは長く』ってね」

 そう言ってネズミは若者の手に一本の毛糸を乗せ、上にあげてくれました。

 上にあがると、若者は「ああ、逃げ出せたとはありがたい」と言いました。「もう二度と、あそこには行かないぞ!」

 若者はいつものように跳ねたり歌ったりして行きました。もう、ネズミ穴のことなんか考えませんでした。けれども毛糸は握ったままで、いつしか歌のメロディに合わせてこう唱え続けていました。

  前は短く、後ろは長く!
  前は短く、後ろは長く!

 やがて自分の家の前庭の入口に止まったとき、若者は初めて後ろを振り向いてみました。すると、何キロメートルも長く、きれいな服用の布が続いていました。それは本当に綺麗で、町のお金持ちだって、これより綺麗な布の服は持っていないくらいでした。

「母さん、母さん、来てみて、来てみてよ!」と、若者は叫び立てました。

 お母さんはこの布をすっかり見渡すと、両手をポンと合わせて、嬉しさのあまりに気が遠くなりそうになりました。そうして、若者はお母さんに、どうしてこの布を手に入れることになったのか、大体どんな訳でこんな風になったのかを、始めから終わりまで話さなければなりませんでした。

 ええ、お分かりでしょうけど、これでいい暮らしが出来るようになりました。若者の方は、新しくて綺麗な服を手に入れました。お母さんの方は町に出かけて布を少しずつ売って、大層なお金を手に入れました。そうして部屋を飾り立て、お母さん自身も、昔風に実に立派に着飾って、まるで貴婦人みたいにしていました。こうして二人は楽しく心地よく暮らしていましたが、そのうちそのお金もすっかりなくなってしまい、食べるものもなくなってしまいました。そこでお母さんは息子に言いました。

「さあ、ホントにもう、お前も働きに行って、何かちゃんとしたことをしなけりゃならない。さもなきゃ、私たち二人とも飢え死にすることになるよ」

「それより、《隅の母さん》の娘に結婚を申し込みに行った方がいいよ」

 今度はお母さんも同じように思いましたので、息子の言うことに反対しませんでした。というのも、今ではこの息子は新しくて素敵な服を着ているし、とても格好よく見えるので、こんな素敵な若者に「いやです」なんて言えるはずがないと思ったのです。そこで出来るだけ素敵に息子を飾り立て、着せ付けました。そして若者は自分の新しい靴を取り出すと、顔が映るくらいピカピカに磨き上げました。それからそれを履いて出かけて行きました。

 天気と道の様子は前とそっくり同じようでした。太陽は輝き、それで辺りの泥も沼地の水溜りもキラキラ光り、若者はいつもどおりに歌ったり跳ねたりして行きました。けれど、今度は若者は一番近い道を行きませんでした。大きく大きく回り道をして行きました。というのも、あのネズミのところには、もう降りて行きたくなかったのです。あの、尻尾をぴょこぴょこ振りたてる仕草や、結婚式の話を延々と続けるのには、本当にうんざりしていたものですから。なのに、ポーンと飛び跳ねた途端、なんだか分からないうちに、若者はまた、沼地に架かったあの橋の上に乗っていたのです。そこで、その橋から沼地の水溜りを跳び越して、向こうの草むらまで跳び渡らねばなりませんでした。ピカピカの靴を汚さないためにそうするしかなかったのです。

 バシャッ!

 若者がその草むらに跳び下りた途端、そんな音がしました。そうして、どんどんどんどん下に降りて行って、やっと止まったときには、またまた前とおんなじの、酷くて気味が悪い暗い穴の中でした。始めのうち、若者にはなんにも見えないのを嬉しく思っていました。けれど、しばらくするうちに、うんざりする嫌なネズミが見えてきました。しっぽに鍵束をくっつけている、あのネズミです。

「こんにちは。私の若いお方」と、そのネズミが言いました。

「よくまたいらっしゃったこと。あなたは私がいなくては長くは我慢できないということがよく分かりましたし、それはありがたく思いますわ。でもね、結婚式の支度ももうすっかり出来ましたの。ですから私たち、今すぐに教会に出かけることにしましょう」

(そんなことしても、しょうがないのに)と若者は思いました。口には出しませんでしたけれども。

 ネズミがピーッと音を鳴らしました。するとありとあらゆる隅っこから、シロネズミやハツカネズミたちがゾロゾロ出てきました。また、六匹の大きいネズミが大きなフライパンを馬車代わりに引いてきました。フライパンの後ろには二匹のネズミが召使いとして乗っかり、また二匹のネズミが前に乗って御者を務めていました。更に何匹かが乗り込み、最後に、鍵の束をつけているあのネズミが真ん中に乗りました。

 そうして、そのネズミは若者に言いました。

「ここは道がちょっと狭いのです。どうかあなたは車の脇を進んでくださいな、私の若いお方。そのうち、道がもっと広くなるまではね。道が広くなったら、あなたは車に乗って、私の隣に座っていいですから」

(そいつは素敵なことだろうさ! うまいこと上にあがれさえしたら、僕はさっさと逃げて、こんな馬鹿げたこと全部からおさらばしてやる)と、若者は思っていました。口には出しませんでしたけれども。

 若者は出来るだけ上手く行列に付いて行きました。時には背中を屈めなければなりませんでしたし、這っていかねばなりませんでした。なにしろ、道は時々狭くなったからです。そうしながら、道の様子が少し良くなるたびに若者は前に出て、辺りを見回しました。つまり、どこだったらネズミたちを誤魔化して逃げられるか検討していたのです。

 そうして這っているうち、不意に、透き通った綺麗な声が後ろから聞こえました。

「もう道は良くなりました。こちらに来て、車に乗りなさいな。私の親愛なるお方!」

 若者はぱっと振り向きました。が、びっくりしてぼーっとしてしまいました。そこには誰も見たことがないような、白馬の引く六頭立ての素晴らしい馬車かあって、車の中には太陽のように輝いて美しい乙女が座っているし、その乙女の周りには星のように綺麗で優しげな娘たちが座っているのです。

 この人たちはお姫様とその遊び友達で、みんながみんな、これまで魔法にかけられていたのです。けれども今は魔法から解き放たれ、救われていました。それは、この若者が地面の下までやって来て、彼女たちに逆らったり馬鹿にするようなことを口に出すことをしなかったからでした。

「さあ、いらっしゃいな!」と、お姫様が言いました。そこで若者は車に上がって、お姫様と一緒に馬車を走らせて教会に行きました。

 教会から出ると、お姫様が言いました。

「さて、私たち、まず私の家に行きましょう。それから、あなたのお母様にお報せすることにしましょう」

(それは全く、結構なことだね。あんな地面の下の気味悪いネズミ穴に行くなんて。それより僕の母さんの家に行く方がずっといいのになぁ)と若者は思ったのですが、口には出しませんでした。

 ところが、瞬く間に馬車は素晴らしいお城の前に着いていました。そここそがお姫様の本当の家だったのです。それから六頭立ての馬車がお母さんを迎えに行き、みんなは結婚式を祝いました。

 お祝いは二週間も続きましたが、まだまだ続いているかもしれません。ですから急いで行きましょう。うまいこと間に合えば、私たちも花婿と乾杯し、花嫁とダンスを踊れるかもしれませんから。



参考文献
『ノルウェーの昔話』 アスビョルンセンとモー編 大塚勇三訳 福音館書店 2003.

 若者は当たり前のように「隅の母さんの娘」に結婚を申し込みに行くと言う。そして彼女が住んでいるのは「沼地の一本橋を渡った向こうの、地の底」だ。その沼地には、どんな道を通ったとしても最後には必ず辿り着く。

「隅の母さん」はネズミのことなのだろうが、同時に、くらい世界に潜む存在…死者の神であることを暗示しているように思える。日本にも【鼠の浄土】という話群があり、ネズミと冥界の関係が語られている。「おむすびころりん」と言ったら分かるだろうか。老人が転がり落ちる握り飯か団子(霊への供物)を追って浄土…即ち冥界に行き、宝を得る話だ。この浄土で老人を出迎えるのはネズミたちなのである。ネズミの語源は「盗み」「穴住み」など諸説あるが、「根棲み」とする説があり、日本神話から「根」を「根の国(冥界)」と結びつける説もある。

 また、「隅の母さんの娘」が尾に鍵束をつけているのも注意すべきことだろう。冥界の城には無数の部屋がある。「マリアの子」や【青髭】など幾つかの民話において、冥界を支配する神はそれらの部屋を開けるための鍵束を持っているものだからである。

 

 霊を呼び出す儀式には、歌舞音曲が不可欠だ。シャーマンは口笛や琴や鈴を鳴らし、舞い踊ることで霊を下ろす。ギリシア神話で亡き妻を取り戻しに冥界へ下ったオルペウスは琴の名手であった。その琴の音で、冥界の番犬ケルベロスも冥王もその妻も慰撫して、妻を連れ戻す許可さえ得たのだ。隅の母さんの娘に求婚した若者が歌って踊ってばかりで現実の生活力がまるでなかったと語られているのは、恐らくこれらのことと無関係ではあるまい。彼は隅の母さんのところへ行くときも、帰るときも、常に歌い踊っている。

 

 なお、冥界の花嫁自身が、並外れた素晴らしい歌い手であったと語られることも少なくない。姿は見えないが美しい歌が聞こえる。王子はそれに導かれて冥界へ入り込み、花嫁を得ることで霊力を支配下に置き、王者としての資格を得る。

 姿が見えないのに辺りに響く美しい歌声、または呼びかける声は、霊の声だ。蛙姫のみならず、たにし息子親指小僧もこの特徴を持っているし、姥皮を着た娘ですら、その読経の声の美しさによって王子の関心を引く。ラプンツェルたちも森の奥の閉ざされた塔の中、即ち冥界から歌う。

 

 ところで、「隅の母さんの娘に結婚を申し込みたかった若者」において、地下から現界に帰還する際に

  前は短く、後ろは長く!
  前は短く、後ろは長く!

 という呪文を唱えねばならないことになっている。これは一体何なのだろう。

 この物語だけを見た段階では、単にお土産の布を長く伸ばすための呪文でしかない。しかし、例えば同じノルウェーのシンデレラ譚「木のつづれのカーリ」を読むと、ここで主人公がよく似たフレーズを口にしていることに気付く。

  前は明るく、後ろは暗い。
  だから王子様は、
  今日の私がどんなに笑ったかご存知ないわ!

 これも、この話だけを読んだ段階では意味不明のフレーズである。

 だが、二つの話を併せて読むと、何か意味が見えてきたような気がしないだろうか。「木のつづれのカーリ」では、このフレーズは、普段醜い姿をしているカーリが美しく変身した時に唱える。シンデレラ系の物語の「変身」が「冥界に下った者の転生」を暗示しており、隅の母さんの娘の住む地下世界が冥界であるならば、このフレーズは「冥界から現界へ出るとき」唱えるものだということになる。

 そう考えれば、恐らく「前は明るく、後ろは暗い」の方が原型で、「前は短く、後ろは長い」のはアレンジなのだろう。暗黒の冥界から明るい現界へ向かうことを意味する、「渡り」の呪文なのではないだろうか。

 

 蛙の王女はパーティーで白鳥の肉や飲み物をドレスの袖やひだの中に入れ、それを生きた白鳥や花や宝石に変えたと語られることがあるが、これも、彼女が冥界を司る神であることを表現していると思われる。生と死、清浄と汚濁の両面を冥界は持つ。自身が醜い蛙から美しい王女に変わったように、彼女は料理を…つまり死体を、より美しく生き返らせてみせたのだ。彼女が料理を入れた袖やひだは、牛馬の耳の穴と同じく、女神の胎…即ち冥界の比喩なのだろう。

 

 獣の姿で現界に現れた霊は、結婚をすることで皮を脱ぎ捨て、人間の姿となる。だが真に人間として転生するためには一度死ななければならない。

「蛙の王女」の類話の中には、死んで冥界へ去った蛙姫を追って王子が冥界へ行くと、妻は紡錘に変身して箱の中に入っていたと語られるものがある。その紡錘を折ると、彼女は本当の人間になって王子と共に現界に帰るのだ。

 紡錘を折ることが「死」を暗示していることは言わずもがなだが、実は「結婚するとき棒を折る」習慣がロシア等で広く行われていたそうなのである。日本では、花嫁が着る白無垢には「婚家の色に染まる」という意味があるとされるが、結婚は人生の節目であり、「それまでの自分が死に、新たに生まれ変わる」という意味が想定されているように思う。だからこそ、獣の姿の霊たちが現界に転生する物語は、彼らの結婚の物語として語られるのではないだろうか。

魔法をかけられた娘

 異形の花嫁の正体はあの世から現れた霊……冥界の女神だった。

 しかし、そう断言してしまうと「ちょっと待った!」と思う人がいるだろう。「だって、物語の中で蛙姫は『魔法で姿を変えられた人間』だって説明されてるじゃないか」と。

 

 人間と婚姻する異類を「魔法で姿を変えられた人間」だとする解釈は、西欧の民話ではポピュラーである。ディズニーでアニメ映画化もされた「美女と野獣」が好例だろうか。

 三人の娘を持った父親が美しい庭園のある不思議な城に迷い込み、末娘のために庭園の花を盗む。そのため、城の主である野獣の姿をした男に末娘を嫁として差し出さねばならなくなる。夫は異形だったが優しく豊かだったので、末娘は幸せな結婚生活を送る。しかし父が病気になって里帰りした時、姉たちの嫉妬により末娘は夫との約束を破ってしまう。この裏切りのために夫は死ぬ。末娘が駆けつけて嘆くと、彼は甦って美しい人間の若者の姿になり、魔法は解かれたと告げ、夫婦は本当に幸せになる。

 この話をディズニーは様々にアレンジしたが、野獣が「魔女の魔法で姿を変えられた人間」であることは特に強調している。わざわざ映画の冒頭でそれを説明し、それは彼が傲慢で、魔女(社会的弱者)に冷たくしたからなのだと、因果応報的な理由も語っているのだ。

 しかし、この話のアジアの類話を見れば、物語の筋は殆ど同じなのに、異形の夫が元々人間であったと語られることは少ない。殆どの場合、夫は元々獣であり、皮を脱いで自在に姿を変える神であったと語られる。

 そもそも、蛙姫や蛇息子などの異類の配偶者が、単に魔法をかけられた人間、つまり被害者に過ぎないのだとしたら、多くの物語で人間には不可能な様々な力を発揮し、知識を持っていることの説明がつかないではないか。これらの物語の主軸になっているのはその「不可解な力」の素晴らしさや恐ろしさ、人間である主人公が婚姻することでその力を支配下に置き、栄えるという部分だ。物語の文脈から見ても、「元々冥界に属する異形の存在だった」と考える方が自然である。

 しかしディズニーの「美女と野獣」にはっきりと現れているように、現代ではこの系統の話は「見た目の美醜に囚われない、真の愛と自己発現の話」だと、人は語りたがっているようである。

 

 異類の配偶者を「魔法をかけられた人間」と説明するようになったのは、「霊が自在に姿を変えてこの世に現れる」という信仰が忘れ去られ、それは馬鹿馬鹿しい法螺話、それこそ「おとぎ話」だと認識されるようになったからなのだろう。霊は転生し続けると考えるよりは、「生きた人間が魔法をかけられた」とするほうがまだ信憑性があると思われたらしい。これはキリスト教の席巻によって異教的な物事は殆ど全て「悪魔や魔女の仕業」として片付けられたこととも無関係ではあるまい。

 

 西欧の伝承にも、異類の配偶者の正体が霊であることを忘れていないものも数々あるが、その場合、異類を「魔物」「悪い存在」として語っていることが少なくない。この傾向はアジアの伝承にも現れていて、求婚してきた「妖怪」を退治する話に変化した話群がある。その時代時代で受け入れしやすい形に変化させていった結果ではあるが、根底には禍福を気まぐれに与える冥界への恐れ…信仰の欠片が残っているのかもしれない。

蛙と姥皮

 以前、私は神の性別や属性にこだわって区別しようとしていたものだった。

 たとえば、川を流れてくる桃や瓜から生まれる小さ子は水と植物に関わって富をもたらすのだから、農耕に関わる水神の化身だ、同じように小さ子で水田に関わる蛙息子やたにし息子もそうなのだと。

 それが的外れだったと思わないが、今は、狭い解釈だったと考えている。例えば中国の蛙息子系の話を見ていくと、蛙は雷を轟かす一方で大地を鳴動させるし、空も飛ぶし、最後には天帝の使いであることを明かして昇天する。常に水神としての属性を示すわけではないし、水の中に消えるのでもないのである。

 水の神か、大地の神か、植物の神か、日月の化身か。それはこだわりどころではないと今は思っている。太陽の神は天で輝く豊穣神であり、生命の神だが、多くの伝承で、暗黒の地底に座す恐ろしい冥界神…死の神と同一視されている。同じように、小さ子の蛙は水神であり農耕神でもあるけれど、同時に冥界神であり太陽神でもある。人が「神」を感じるものは世界に無数にあって、それらは人間の心の中でひと連なりに繋がっているからだ。

 それらの「神」がこもるとされる場所、異界を、私は'07年以降の文章では概ね「冥界」として統一している。これは人によっては疑問を感じることだろうけれども、どこにあろうと何の名で呼ばれようと、根源的には同じものだと考えるようになったからだ。民族の特質や文化を考察する際には区別すべきだろうが、私が『民話想』でやりたいと思っていることには不必要で、むしろ単純化した方が伝わりやすいと考えている。

 

 獣の姿をした婚約者は、冥界から現れた神霊だ。それが根源の意味であって、獣の種類は瑣末な問題ではある。しかし、選ばれた意味は何かあるはずだ。

 どうして「蛙」なのだろう?

 アジアの蛙息子では、舞台が農村なので、水田や畑でよく見かけ、雨が降る前には木の上に登って鳴く蛙が神の申し子として登場してくるのは自然に思える。グリムの「蛙の王様」や「蛙の王子」では、蛙は湧き出す水の管理者として現れている。「水の源」はしばしば冥界に付加される特質だ。水場にいるのだから管理者が蛙の姿なのも納得である。いずれにせよ水に関わるので、「蛙は水神の化身だ」と結論付けたくなる。

 ところが【蛙の王女】話群になると、話が異なってくる。蛙は暗い沼地か、森の奥の城の中か、暗い地の底にいるのだ。蛙は冬には地に潜って冬眠するものなので、その習性を考えれば地の底で蛙と出会うのはおかしくはないのだろうが。

 

 蛙は腹を膨らませ、沢山の卵を産む。古く、エジプトでは蛙は誕生の母神ヘケトとして崇められ、古代ギリシアやローマでは性愛の女神アフロディテまたはヴィーナスに捧げられ、幸をもたらす豊穣神とみなされていたという。バビロニアの円柱には九匹の蛙が飾られたものがあったというが、それは女神であり、九匹なのは妊娠期間を示していたとされる。(蛙の女神は妊婦を守護する。)現在のキリスト教文化圏では、蛙は魔女の使い魔もしくは化身とされ忌まれることも多いが、根底にはこうした、キリスト教以前の太母神の記憶があるように感じられる。グリム童話の「いばら姫」で、王妃に妊娠を告げる獣としてグリムが蛙を選んだ(ザリガニと差し替えた)のは、こうした下地があったからかもしれない。

 一方で、先に述べたとおり、「蛙」は死者の霊が姿を変えるものとして、世界各地で蛇と共に多く名を挙げられている。冬は死んだように土中で眠りながら、春には甦って出てくるからかもしれない。

 暗い沼地の底、森の奥、地底。即ち冥界にいる蛙姫は、偉大な女神の化身だ。彼女は誕生と豊穣と、そして死を司っている。また、処女おとめとしての女神の一部は、自分と結婚する若者の来訪を夢見がちな瞳で待っている。彼女は、結婚によって現界に生まれ出ようとしている、小さな霊である。

 


 醜い蛙の姿で中有を彷徨っていた魂は、結婚によって美しい人間の娘に生まれ変わった。

 実は、【蛙の王女】系以外の話群にも、その要素の片鱗を見て取れる民話がある。日本の「姥皮」話群である。これはシンデレラ譚の一種で、家を出ざるを得なくなった娘が『姥皮』なる衣をまとって醜く変身し、辛い下働きの日々を送るが、やがて王子に見出されて結婚し、皮を脱いで元の美しい娘になるというものだ。『姥皮』は着ると老婆の姿に変わる皮なのだが、どういうわけか、この皮をヒキガエルの化身である老婆がくれることになっていることが多いのである。お伽草子版の「姥皮」や「花世の姫」だと姥皮が蛙と関わるという要素はないが、王子と結婚して後に兄王子たちとの嫁比べが行われ、そこに美しく変身した姫が現れることになっていて、「蛙の王女」とよく似た展開になっている。これら二つの話群は、恐らく過去のどこかで交差したことがあるのだろう。

 

 蛙の皮をまとい、後にそれを脱いで素晴らしい結婚をする娘の話には、以下のようなものもある。

日食の伝説  インド アッサム州メガラヤ地方

 ヒマラヤのアッサム地方、カシ連山の辺りに、ウークラという雌の虎がいた。ある日、ウークラは井戸で水汲みしていたカーナムという女の子を連れさらい、森の洞穴で我が子のように育てた。カーナムが美しい娘に成長したころ、ウークラは仲間の虎たちがカーナムを食い殺そうとしていることに気づき、彼女を森から逃がすことにした。けれども仲間たちは追ってきて、ウークラは自ら娘の盾として残り、仲間たちに八つ裂きにされたのだった。

 

 カーナムは養母に言われた通りに、森外れの沼地の洞穴に住む魔法使い、ヒキガエルのウーヒンロのところに行った。とてつもなく大きく醜い彼は、しかし美しい水晶の上に座っていた。

 ウーヒンロはカーナムを引き取ったが、彼女に黒くて汚くて重たいヒキガエルの皮を着せ、下女としてこき使った。

 そんなある日のこと、カーナムが沼に水汲みに行くと、エメラルドのような美しい緑色をした、小さなカエルに出会った。どこにも落ち着ける場所のない身の上を話すと、「それなら、いいところを教えてあげるわ」と言う。

「沼地の外れに高い木があるのを知ってる? 秘密だけれど、それは魔法の木なのよ。その木のてっぺんまで登って呪文を唱えれば、木はどんどん伸びて天界に届くの。そうしたら、あんたは天界に住めばいいんだわ」

 カーナムは小さいカエルに教えてもらったとおりにした。木に登ると言われた通りに唱えた。

  伸びろ 伸びろ 天まで伸びろ
  止まれと言うまで 伸び続けろ!

 瞬く間に木は伸びて天に達した。カーナムは「止まれ!」と唱えて、天界に降り立った。すると木はあっという間に元の大きさに戻ってしまった。

 カーナムは天界に来ることが出来たが、醜いヒキガエルの姿を見ると誰も彼も逃げてしまう。行くあてもなく話し相手もいない。シクシク泣いていると、通りかかった太陽の女神カースンギが優しく声をかけてくれた。カーナムが意地悪な魔法使いウーヒンロから逃げてきたことを話すと、たとえウーヒンロが追って来ても守ってやると約束し、カーナムを太陽宮殿の一隅に住まわせた。

 

 それから数日経ったある日、カーナムは周囲に誰もいないのを確かめると、ヒキガエルの皮を脱いで、美しい姿を鏡に映して眺めていた。すると、偶然にもそれをカースンギの息子である太陽王子が目にした。彼は類まれなるカーナムの美しさに目と心を奪われ、すぐに母親のところへ行くと、このことを話した。しかしカースンギは「あの無様なヒキガエルがそんなに美しいはずはない」と信じない。けれども王子は、自分の目に狂いはない、あのヒキガエルは魔法をかけられてあのような姿になっているのだと強固に主張した。

 そこでカースンギはカーナムを呼び出した。カーナムが美しい姿で現れたのを見て、カースンギはすっかり感服し、王子の妃に迎えてやろうと決意した。

 早速、天界の月や星の神々を招いて盛大な結婚式が行われた。その夜、カースンギは不必要になったヒキガエルの皮を焼き捨てた。

 

 それを知ると、妬み深い魔法使いウーヒンロは怒りに震えた。彼は魔法の木を使って天界に上って来ると、太陽女神もカーナムも王子も全てを丸呑みにしてやろうと襲いかかってきた。カースンギはウーヒンロに食い付かれたが、光の矢を放って戦った。

 その時、地上から異様な音が聞こえてきた。人間たちが太鼓やシンバル、鍋などを力いっぱい叩き、口々に叫んだり怒鳴ったりしているのだ。この物音を聞いてウーヒンロは肝を冷やし、思わず食い付いていた太陽女神を吐き出して、渋々ながら帰って行った。

 

 しかしウーヒンロは執念深い。それからも時々天に上っては太陽女神に食らいつく。日食はこうして起こるのだ。その度に地上の人間たちは、太鼓や鍋や、音の出る物なら何でも持ち出して思い切り叩き、大声で喚き、太陽女神がウーヒンロに食われないように応援するのである。



参考文献
『人になりそこねたロバ インドの民話』 タゴール暎子編訳 筑摩書房 1982.

※蛙が太陽を呑むという伝承は、たとえば中国のトゥチャ族にもある。神人たる張果老と李果老が天地を作ってほどなく七日七夜続く大洪水が起きた。水浸しの大地を乾かすために、張果老は十二の太陽を呼んで照らさせた。しかし大地は乾きすぎて旱魃になった。この様子を見た一匹の蛙が、大きな馬桑樹を伝って天に昇り、太陽を呑み込んだ。十一個まで呑んだところで張果老が棒で馬桑樹を叩いて曲げたので、蛙は残る太陽に届かなくなった。このため、今の世の太陽は一つだけなのである。

 なお、アメリカインディアンの伝承には、多過ぎる太陽をヒキガエルが射落としたというものがあるそうだ。


参考 --> 「月の中の乙女」「姥皮(蛇婿〜退治型)」「ムカデが月を食う

 上記の物語では、蛙は太陽を食らう敵であり、一方で、蛙の皮を被った娘は太陽王子の花嫁である。太陽の妻が蛙である、蛙は月にいるとする伝承は、多くの民族で見られる。

月の嫦娥  中国 『捜神記』

 多過ぎる太陽を射落とした弓の名手・げいが西王母から不死の薬を賜ったが、妻の嫦娥は薬を盗んで月に逃げた。それが月の中に棲むヒキガエルである。

月とその蛙女房  カナダ ミクマック族

 文化英雄神グルースキャップが地上を支配していた頃、太陽は朝寝してなかなか昇らないかと思えば、とんでもなく早起きしていつまでも寝なかったり、とても気まぐれだった。人々はグルースキャップに不満を訴えたが、太陽は根も葉もない中傷だと言い張る。そこで裁判が開かれた。

 太陽には沢山の妻がいたが、蛙は中でも好奇心が強く、太陽に疎ましがられていた。蛙の妻は裁判を傍聴したがり、裁判所に押しかけて来た。仕方なく、太陽は妻をまぶたの上に乗せて傍聴させた。

 弁舌に優れた太陽は裁判に勝ったが、まぶたの上から蛙妻が取れなくなってしまい、醜くなった。グルースキャップは太陽と月の役を交代させた。

 こうして、かつての太陽は月となった。月は仕事に出てくるとき、最初は蛙妻のくっついている方の顔を見せまいとする。そして月の終わりには激しく顔の向きを変える。しかし蛙妻を振り落とすことはできないのである。



参考文献
『世界の太陽と月と星の民話』 日本民話の会/外国民話研究会編訳 三弥井書房 1997.

月の蛙  ロシア ナーナイ族

 二人の息子が年頃になると、父親は「最初に出会った娘を妻にして連れ帰れ」と言って旅立たせた。兄弟は犬ぞりに乗って出発した。

 やがて一軒の家で一人の娘を見つけ、兄が彼女と結婚した。これは蛙の娘で、不器用でがさつで不美人なのだが、本人は自分が美人だと思っているのだ。

 弟は、その家の窓辺に赤い柳の小枝を見つけた。それで彫り細工をしようとすると血が流れたので驚いてやめた。後に実家に帰ることになった時、もう一度この小枝を見たくてたまらなくなって、一人で家に戻った。すると指に包帯を巻いた《美人プジン》がオンドルに座っていた。赤い小枝は彼女が化身したもので、結婚相手を見定めていたのである。弟は彼女と結婚した。プジンは器用で美しく、両親にも気に入られた。

 やがてプジンは娘を産んだが、蛙には子供が出来なかった。蛙は激しく妬み、プジンの子をベリー摘みに誘い出し、森の中の湖に突き落として殺した。

 子供が自分で転んで湖に落ちたと聞かされて、プジンは湖に走り、ほとりに落ちていた二つの白いキノコを形見として持ち帰った。実はそれはプジンの子の靴が変化したもので、それをいつも子供が寝ていた場所に置くと、娘は再生した。

 みんなは蛙に腹を立てて家から追い出した。蛙は天秤棒に桶を下げて川へ行き、月を仰いで訴えた。

「お月さま、どうかここへ降りてきて、私を連れて行ってください。私はみんなの嫌われ者なの」

 月はこの願いを叶えた。それで今でも満月には、天瓶桶を担いだ蛙の影が見える。蛙は昔のことを思い出すと腹を立て、桶の水を地上に撒く。それで雨が降るのである。



参考文献
『世界の太陽と月と星の民話』 日本民話の会/外国民話研究会編訳 三弥井書房 1997.

※一軒の家に二人の乙女が住んで夫の訪れを待っており、一方は木肌の赤い木の化身である…というと、アイヌのアイヌラックル誕生の神話を思い起こさせられる。

 月の蛙が雨を降らせると言われているのは興味深い。


参考 --> 「柘枝伝説

月の満ち欠け  アメリカ カロック族

 月はみんなの嫌われ者で、嫁さんになってくれる者がいるなら誰でもよかったので、ガラガラ蛇と灰色熊と蛙と結婚した。

 大勢の連中が月を亡き者にしようとやって来た。その中のトカゲは、もう少しで月を食べてしまえるところだったが、あと一口というところで妻の一人の蛙がやって来てトカゲを追い払った。

 蛙は月の残った部分から血を取り出して作り直し、月を元通りの大きさにした。

 トカゲはしょっちゅう、月を食べるために戻ってくる。その度に、蛙が来てトカゲを追い払い、月を作り直す。だから月は、完全な形になったり、どんどん小さくなって見えなくなったりを繰り返している。



参考文献
『世界の太陽と月と星の民話』 日本民話の会/外国民話研究会編訳 三弥井書房 1997.

※トカゲに食べられた月を、妻の蛙が残った部分から再生させるというくだりは、「」や 「月と太陽」などの、大蛇の妹に食べられて半分になった若者を、その妻である《太陽の女》が再生させて月にした、という民話を思い出させる。

 土に潜って冬眠する蛙が、生死のサイクルを繰り返す不滅の魂のイメージを持たされているように、満ち欠けを繰り返す月もまた、不死と転生の象徴とされる。だから二者のイメージが重ね合わされるのも自然の成り行きだったのだろう。

 カナダのミクマック族の伝承「小さなやけど娘」は姥皮系のシンデレラ譚だが、どことなく太陽と月の神婚の物語を思わせる。醜い蛙の姿を脱ぎ捨てて美しい花嫁になる娘の物語は生命の流転を示すと思われるが、月女神の結婚のイメージをも重ね合わせることが可能なのかもしれない。

白羽の矢

蛙の王女】話群の特徴的な要素の一つに、「三人兄弟が選婚をする」というものがある。矢を放ったり、羽根を飛ばしたり、木の倒れた方へ向かったり、バリエーションはあるが、要は「『偶然』に神意(必然)を求める」ということである。現代の日常でも、道が分かれているときに棒を倒して行き先を決めたり、テストの解答に詰まったとき鉛筆を転がして答えを決めたりすることがあるが、心情としてはそれと同じことだろう。

 矢を飛ばして神意を問うモチーフは、韓国の済州島の建国神話にも見られる。山の麓の穴から神人の三兄弟が生まれる。ある日、浜辺に箱が流れ着き、中から三人の姫君が出てくる。彼女たちは日本国王から神人兄弟の妻として遣わされた王女たちである。(ここで言う「日本」は、現実の日本ではなく、海の彼方にある夢の国…冥界と見るべきであろう。)三兄弟はそれぞれ結婚した後、一人ずつ矢を放った。そして矢が落ちた場所にそれぞれの住居を構えたという。

 恐らく、類似のモチーフは、調べれば世界各地にあるのだろう。矢ではなく、「牛や馬を自由に歩かせて、その止まったところに求めるものがあるとする」という占い方であれば、【炭焼長者】系の民話や菅原道真の死後に天満宮を作った時の伝説でも見ることが出来る。日本では、子供が生まれたときに産神を迎える儀式としても行われていたようである。

 また、王子や王女の選婚として、集めた群衆の中に金・五色の毬や黄金の林檎、花束、あるいはハンカチを投げて、それを受け取った者と結婚するというモチーフは多くの民話で見られる。チベット族の「奴隷の娘ヨンシー」では王子が娘たちの中に落ちるように矢を放っている。

 

 さて、放たれた矢が結婚相手を示す…それは神意であって、選ばれた娘は神の花嫁である、というモチーフといえば、私たち日本人には[猿神退治]が親しみ深いだろう。(この話における「神の花嫁」は「生贄」と同義である。)

しっぺい太郎  日本 宮城県桃生郡

 昔、廻国かいこくの和尚があった。各地を廻るうちに寂しい山村に至ったが、どういうわけかどの家でも餅を搗いている。祭でもあるのかと思って歩いていると、ただ一軒、餅を搗いていない家がある。たいそう立派な家であったが静まり返っており、不思議に思って和尚が耳を澄ますと、しくしくと人々が泣く声が聞こえるのだった。

 これはおかしい。そう思った和尚が家の中に入ると、家内中が集まって、一人の娘を真ん中にして泣いていた。

「もしもし、何でそんなに泣いているのか」

 和尚が尋ねると、家の主人らしい男が答えた。

「実はこの七日のうちに、人身御供を上げなければなりません。この向こうの山に、どんな神様を祀ったのか分からんが古いやしろがあって、毎年の取り上げどきになると、その神様サ若い娘を一人ずつ供えることになっております。もしお供えしないと大嵐になって、田も畑もすっかり荒らされてしまうので、どんなことをしても上げなければなりません。ちょうど今年は私の家の番で、ここにいる一人娘を人身御供に上げなければならないので泣いております」

 和尚は黙って聞いていたが、「世の中にそんな話があるものか。わしが代わって人身御供になって娘を助けてやる」と言って、その社のある山を登って行った。

 山には壊れたお堂があり、堂の脇の大きな松に洞穴があった。その中に隠れていると、夜中頃にどこかからガヤガヤと、何だか大勢の者がやってくる音がした。間もなくそれらは堂の前に集って、大将らしいのが大きな声で「竹箆しっぺい太郎はいないのか」と尋ねる。すると手下の者が「竹箆太郎は今夜も来ない」と答えた。そして社の戸を開けてゾロゾロと中へ入って行った。和尚が松の洞穴で聞いていると、

  あのこと このこと聞かせんな
  竹箆しっぺい太郎に聞かせんな
  近江おうみの国の長浜ながはま
  竹箆太郎に聞かせんな
  すってんすってん すってんてん

と、繰り返し繰り返し歌っているのだった。

 和尚はその晩の内に村の娘の家に帰り、それから近江の国の長浜へ竹箆太郎を探しに出かけた。一軒一軒廻っては「竹箆太郎という人はいないか」と訪ね歩いたが、どこへ行っても、そんな人は知らないと言われるばかりであった。

 期限の七日は過ぎようとしている。和尚はがっかりして、道端の石の上に腰をかけてぼんやりしていた。そこへ仔牛のようなぶち犬がやって来た。(これは大きな犬だ。こんな犬なら少々の化け物にも勝てるだろう)と思っていると、後ろから飼い主が来てその犬の名を呼んだ。

竹箆しっぺい太郎!」

 和尚はたちまち元気を取りもどし、飼い主に訳を話すと、その人も快く犬を貸してくれた。かくして和尚は竹箆太郎を連れ、元の村へ急ぎに急いだ。

 さて山村では、七日目がきたが和尚は戻らない。家の者は仕方なく娘を入れる長持を用意し、娘に白い着物を着せておうおうと泣いていた。集まった村人たちの中には気の毒がって泣く者もいたが、「いつまでも何をしている。早く娘を出せ、またこの前のように大嵐になるじゃないか」と憎らしいことを言う者もいた。娘の両親は「いま少し待ってけらえ」と言いながら和尚が帰るのばかりを待っていたが、帰らない。とうとう娘は長持の中に入れられて、村人たちが担ぎ出そうとしていた。

 そこへ和尚が竹箆太郎を連れて、はあはあと息を切らしながら駆け込んできた。そして打ちしおれていた娘を長持から出して、その中に竹箆太郎を入れ、和尚も入った。

「この娘の代わりに、俺たちを神様に上げてくれ」

 和尚のこの頼みを聞いて、村人たちの中には「こんなことをしては、神様の祟りがある」と言う者もいたが、結局望みどおり和尚と竹箆太郎を長持に入れて、山の上へ担ぎ上げて行った。そして長持をやしろの前に置くと、後も見ずに逃げ帰ったのである。

 夜中頃になると、大勢の化物が集ってきて、和尚が入っている長持の周りをぐるぐる廻りながら歌い始めた。

  あのこと このこと聞かせんな
  竹箆しっぺい太郎に聞かせんな
  近江おうみの国の長浜ながはま
  竹箆太郎に聞かせんな
  すってんすってん すってんてん

 そしていよいよ長持の蓋に手をかけて引き剥がそうとしたとき。竹箆太郎が高く吠えて飛び出し、化物に飛び掛った。和尚も飛び出して化物を斬り倒した。

 

 次の朝、村人たちは(今頃、あの坊様も神様に喰われてしまったべな)と思いながら山に登って行った。すると、そこにもここにも猿が死んでいるではないか。中でも一番大きな、針金のような毛をした狒々ひひは、竹箆太郎に喉を噛み切られて死んでいたのであった。

 それからは人身御供というものはなくなり、みな安心して暮らすことができるようになったのだという。



参考文献
『桃太郎・舌きり雀・花さか爺 −日本の昔ばなし(U)−』 関敬吾編 岩波版ほるぷ図書館文庫 1956.

猿神退治  日本 滋賀県

 昔、旅の和尚がいた。ある村に入ると、庄屋の前に村人たちが集って泣いている。この村では毎年秋、十五歳の娘を神様に人身御供に捧げねばならず、今年は庄屋の一人娘が選ばれた。その証として、家に白羽の矢が突き立ったと言うのであった。

 果たして、神がこのようなことをするであろうか。怪しんだ和尚は神社に行って隠れて様子を見た。夜中になるとぞろぞろと黒いモノが出てきて、歌い踊った。

  でんずく ばんずく すってんてん
  古沢古坂古街道ふるさわ ふるさか ふるかいどう
  丹後たんご天橋立あまのはしたて
  このことかまげで
  丹後の国の すっぺい太郎に聞かせんな

 和尚はすぐに丹後の国へすっぺい太郎を探しに行った。それは大きな黒犬で、それを借りて戻り、長持の中に娘の代わりにすっぺい太郎を入れ、和尚は神社の陰に隠れていた。

 夜中に化物が出てきて、なにやら騒ぎが起こったようであった。夜明けに静かになり、和尚が行ってみると、すっぺい太郎が化物を退治していた。それは年取った大猿とその家来であったと言う。



参考文献
『決定版 日本の民話事典』 日本民話の会編 講談社+α文庫 2002.

 これは[竜退治]として世界中で語られている話のバリエーションの一つだが、夜中に化物自身が自分の弱点を歌い、それを手がかりに主人公が助っ人を探す点が独特である。類話は『今昔物語』巻26-8にもあるが、これには夜中に歌を聞いて犬を連れてくるくだりが無い。室町期の『藤袋の草子』もこの話の類話と紹介されていることが多いが、個人的には、「猿神が娘を奪うが、容器の中の娘と犬を入れ替えて猿を不意打ちし退治する」というモチーフだけは共通しているものの、異なる話だと思う。(どちらかと言えば[猿の経立ふったち]型により近いだろう。)『今昔物語』系のものと『藤袋の草子』系のモチーフが混ざり合って[猿神退治]になったのかもしれない。ちなみに、嫁入りの輿の中に花嫁の代わりに牛や虎などの獣を入れ、好色狡猾な婿をギャフンと言わせるというモチーフは、笑話として世界に分布している。

 化物の正体が猿とされる事が多いので[猿神退治]と呼ばれるが、化物は蛇や狸、狢の場合もある。犬の名も定まっておらず、早太郎、へーぼー太郎、べんべこ太郎、ししん太郎、こんぶの太郎、権兵衛太郎、日向太郎、あるいは三毛犬四毛犬、藤三郎、おさく丈、黒右衛門、しきゃあ犬、しゅけん、権吾呂太夫などともされる。

 竹は神木であり、竹箆は神の宿る神器とされる。また、座禅や学習の際に、指導者が生徒を叩く道具として使われる。「しっぺ返し」の「しっぺ」とは竹箆のことだ。つまりは「叩く、攻撃する」という意味が見て取れる。これらのことから竹箆しっぺい太郎とされるのだろう。「疾風」と掛けているのもあるかも知れないが。異名の一つのへーぼー太郎は灰坊へーぼー太郎か。かまどを管理する灰坊は神に通じる力を持つという観念があるので、そこに通じるのかもしれない。こんぶの太郎は、こぶの太郎、即ち蜘蛛太郎か?

外部参考リンク >> 伝説「猿神退治の話」青柏祭でか山保存会 official web site

 ともあれ、これらの話群では人身御供…すなわち神の花嫁に選ばれた娘の家には白羽の矢が立つことになっている。

 矢によって神の花嫁が選ばれる伝承と言えば、『古事記』などにある、川を丹塗りの矢が流れ下ってきて娘の女陰に当たる話もある。それを基にしたのであろう十五世紀の謡曲『加茂』では、川を流れ下ってきたのは白羽の矢となっている。娘が神に供える水を加茂川で汲んでいると、白羽の矢が流れ下ってきて止まる。娘がそれを拾って軒に挿しておくと、娘は懐妊して男児を生んだという。

 恐らくこれらの故事から、現代日本では「大勢の中から選ばれる」ことを「白羽の矢が立つ」と表現する。[猿神退治]では人身御供の意味であったが、現在では良い意味に使われており、川を流れ下る矢が花嫁を選ぶ伝承の方が意味的には近いようである。

 

 なお、「蛙の王女」で矢を放って選婚することを、キューピッドの矢と結び付けて考える向きもあるようだ。

主な参考文献
『魔法昔話の起源』 ウラジーミル・プロップ著 斎藤君子訳 せりか書房 1983.
『決定版 世界の民話事典』 日本民話の会編 講談社+α文庫 2002.
『神話・伝承事典』 バーバラ・ウォーカー著 山下圭一郎ほか訳 大修館書店 1988.

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