運命のくびき

 この世に、定められた運命は存在するのだろうか。

 思えば、私たちは好んで「運命」という言葉を使う。例えば、意中の異性とめぐり合えたときにこう言うだろう。「僕と君は運命で結ばれた相手なんだよ」

 これが、親が生まれたときに決めた婚約者だったりしたら反発しそうなものなのに、未知なる意思……神の手によって定められたとなると、そこに恍惚感を感じるものらしい。

 そう、私たちは運命という言葉に神秘を感じ、惹かれている。この【運命説話】のカテゴリ内で紹介している説話は、生まれたときに神的存在がその子の運命を定める、産神問答型のものを中心にしているが、もっと細かなもの、たとえば誰かが死ぬときにその前兆のようなことがあった、夢で未来を見たなど、そういう「運命示唆」のエピソードは世界中の説話に無数に溢れていて、いちいち把握することなど出来ないくらいである。

 これらの物語群の語るところは、『運命のくびきから逃れることは出来ない』ということ。運命の神の定めには何人も逆らえない。たとえ、結末がわかっていたとしても。それゆえに悲劇性は際立ち、陰鬱なドラマが完成する。しかし一方で、それに反旗を翻す物語群もある。人は、己の行動次第で定められた運命を回避することが出来る。運命の神は矮小な魔物へと堕ち、人はそれを退けて己の望む未来を手に入れる。これは人の要望が生み出した、「もう一つの結末」である。

 とりあえず、ここでは運命を授ける運命の神に関することを中心に、運命説話に関してたらたらと述べてみたいと思う。

運命の神と産神うぶがみ

【運命説話】は、産まれた子供の運が定められるところから始まる。この《運を定める者》は概ね四種類に分けられる。

  1. 運命の神
  2. 産婆
  3. 占い師、巫女
  4. 旅人、乞食

 2、3は時に混じりあう。つまり、産婆が占い師を兼ねることがある。また、4は「客人神まろうどがみ」である。乞食や旅人は神の化身であるとする考え方は世界中にある。神はみすぼらしい姿に身をやつして現れ、人の家に泊まってその心を試すものなのだ。故に、(神そのものではなかったとしても)彼らは神に通じる力を持ち、普通は聞けない運命の神の声を聞くことが出来る。そういう意味では、4も3と重なっていると言える。

 西欧の民話に現れる運命の神の多くは「子供が産まれた後」に現れ、その運を定める。ところが、日本の民話に現れる運命の神は「子供が生まれる前」に現れ、出産に立ち会った後、生まれた子に運を定める。

 日本の産神の本職は、「出産を行わせる」ことである。この神々がお産のある家に着くのが遅れると、子供がなかなか産まれない難産になる。出産の神でありながら運命の神でもあるわけだ。これはドイツやロシアでも同じで、運命の女神と出産の女神は同一の存在であり、難産なのは女神がまだ来ていないからだ、と言ったりする。対して、ギリシア周辺では運命の神と出産の神は分化して考えられているようである。ギリシア神話の運命の女神はモイラたちモイライまたはテュケだが、それとは別に出産の女神(たち)エイレイテュイアが存在する。女神レアがアポロンとアルテミスの双子を産もうとしたとき、夫の愛人が子を産むことに嫉妬した女神ヘラがエイレイテュイアたちを留めたため、レアはひどい難産で苦しんだ。また、アルクメーネーがヘラクレスを産もうとしたときも、ヘラの指示でエイレイテュイアが印を結び、その出産を遅らせたという。彼女たちは出産の時期を操るが、人の運命を予言することはない。

 ところで、西欧の運命の神は判で押したように女神だが、日本の産神はどうなのだろうか。……箒神だの便所神だの臼神だの、なんだか性別がよく判らない。ただ、産神の一柱とされる山の神だけは、多くの伝承で言及されていることから、女神だと判別することが出来る。

 

 各国の運命の神に関して、別ファイルに簡単に名称や機能をまとめてみたので、参照していただきたい。

 各国・民族の運命の神

産婆と名付け親

 日本の産神は「産土神うぶすながみ」でもあって、その土地の一族を守護する、守護神である。同じように、西欧の運命の女神も、時にその子供の守護神のような役を担うことがある。例えば「怠け者の花嫁」や「眠れる森の美女」では、運命の女神たちは後々までのアフターケアを忘れていない。

 この、子供を後々まで守り、いわば後見する運命の神の姿には、《名付け親》の要素も混じりこんでいる気がする。実際、民話を見ていると、運命の予言を聞いてしまった旅人や乞食が産まれた子の名付け親になり、後々までその子に関わって運命から救おうとする筋立てになっているものが数多い。

 名前には特別な呪力があるとされる。神や悪魔でさえもその呪力からは逃れられない。己の名を知られ、唱えられれば、相手に支配されてしまう。「産まれ児の運1」「水の神4-4」では、産まれた子供が道具や魔物に《名前をつけられた》ために、ある年齢に達するとそれに《命を取られる》定めになったことになっている。「名前を付けること=運命を定めること」なのである。

 名前は、神も悪魔も人も産まれた後に授けられるもので、名を付けられ最初の食べ物を与えられることによって、その者は初めてこの世に「存在する」ことになる。そんな重要な名前を付けることになる名付け親は、その子供の親代わりであり、後見人である。一生の縁が出来ることになる。

 日本では母方の祖父が名付け親になったり、成人するときに元服名をつける烏帽子親が生涯の後見人になったりしたのだが、「取り上げ婆」の慣習にもそれに近いものがある。取り上げ婆は地域の(主に)老女が自ら志願してなるもので、出産の準備から産後にまで関わる。子供が産まれた後、何かのお祝いなどがあれば、取り上げ婆は招待される。現在の助産婦や産婦人科医とは違って、結婚の際の仲人と言うか、もっと重要で身内的な扱いをされるようになるのだ。助産婦と名付け親を兼ねている感じである。

 なお、西欧でも名付け親には元々老女がなることが多かったらしい。名付け親を意味する古風な英語を"ゴシップ" Gossip というが、これは元々"神の眷属" Godsibb の意味だった。名付け親は神に連なる者なのだ。年配の女性たちは尊敬を込めてゴシップと呼ばれたが、この言葉はいつしか「おしゃべり」の意味に変えられ、今では噂話や陰口を意味する言葉になってしまっている。

 産婆は、自分が取り上げた子に対して特別な呪力を持つ。それは世界中で言われていることだ。産婆は産まれた子の運命を知ることが出来る。産婆自身が占うこともあれば、運命の神の話を聞くこともある。ロシアには、産婆が窓ガラスを見ると産まれた子の一生の光景が映って見えた、という話がある。

産飯と「招かれなかった仙女」

 家庭で出産が行われなくなった現代では私たちにとって見知らぬ慣習なのだが、かつて日本では、出産が無事に済むとすぐ(地域によっては産後三日目、または五日目、または七日目)に白飯を炊いておかずを添えて、神棚と産まれた子に供えていたという。これを「産飯うぶめし」と呼ぶ。これは、産家を訪れている(はずの)産神に対する供え物である。産飯のおかずは、魚、豆腐汁、ぜんまい、麩、イモなどありふれたものだが、地域によっては川原から拾ってきた丸い石を一つ、おかずとしてお椀に置くことがある。子供の首が据わるようにだとか頭が固くなるようにだとか、そういう理由付けがなされてはいるが、実のところは「石=産神」なのだと思われる。出産が近づくと石を拾ってきて、それを産神として祀る地域があるからだ。石は産神が乗り移って産家に滞在するための依り代というわけである。

 この産飯、供え終わったら下げて、取り上げ婆が食べる。産婆=名付け親=神の眷属=産神なのだとすれば、まことに理にかなっている。

 けれども、産婆だけがご馳走をパクパク食べるというのはやはりあまり落ち着かないものと見えて、いつしか、出産を手伝った人お見舞いに来た人、そこにいた全員が食べるようになっていったようである。産飯を多くの人に食べてもらえればその子は沢山の家族を得て栄えるだとか、食べた人はお七夜まで産土神の鳥居をくぐったりお宮参りをしてはならないと言うが、これも「産飯を食べた人=産神」と考えられているからであろう。産神にご馳走を食べさせれば子供に良い運をくれるだろうし、産神は出産三〜七日目までは産家に滞在しているとされるから、それより早くお宮に帰られては困るのである。

 興味深いのは、福岡県八女郡では、産飯を早く供えないと産まれた子供が水難に遭う、と言われていることで、怠りなく産神をもてなさねば、子供に悪い運命を与えられる、と考えられているわけだ。これと同じ考えが、フランスの「眠れる森の美女」などにも現れている。王様は仙女の一人を出産後の祝いの食事に招待し忘れた。そのため、産まれた姫には死の運命が与えられたのだ。

 西欧にも産飯の慣習はある。少なくとも近代まではあった。

 ギリシア人は子供が産まれると、家を掃除し、番犬を繋ぎ、戸を開け放ち、ロウソクを灯して、ご馳走を並べて運命の女神を待ち受けた。ご馳走はケーキと蜂蜜、甘いもの、パン、ワインか水、アーモンド三つ、絹のハンカチ三枚。更にはその家の財産の全てを陳列する。これは運命の女神たちを歓待するのに何も惜しんでいない意思を示すためである。そして赤ん坊自身も清潔にしておくのを忘れてはならない。運命の女神たちは不潔な子供を見ると炎で焼き殺してしまうかもしれない。

 アルバニア人は、子供の生後三日目か洗礼後四、五日目に産飯を用意し、食卓に並べる。これは産婆が用意することもあったようである。三個のパン、三杯の水、三杯の蜂蜜、三個のアーモンド。そして家の財産。家人は番犬を遠ざけ、戸を開けたままにして眠った。運命の女神たちは動物の姿でやってくる。もし食事に手がつけられていなかったら、その子には不運が訪れるとされた。

 ルーマニア人は、出産後三日目の食卓に塩、パン、肉かベーコンの料理、泉の水の入ったカップ三つ、オリーブ油の入ったグラス三つ、ゆでた小麦の皿三枚を並べる。その側に家中のお金を入れた木の鉢や、子供の性別に合わせた高級服を置いたりもする。産婦と赤ん坊の部屋は花で飾られ、一晩中明かりが灯されて窓は開け放たれる。子供の肉親たちは二日目までは運命の女神たちを滅入らせないよう朗らかに過ごすが、三日目のこの晩は静かに祈りながら待つ。産婆は歌を歌って運命の女神たちをたたえ、その歌が終わったとき女神たちが窓の外に現れ、窓越しに子供を見て運命を定める。

 ロシア人には、子供の出産や洗礼に際して粥を作って捧げる風習があるらしい。同様に、北欧では運命の女神に食事を供え、産婦が「ノルンの粥」を食べる慣習があるようだ。

 ブルガリア人は、出産後三日目に白い布の上にお膳を作って一晩子供の枕元に置く。家族は一晩中女神の来訪を見張るが、誰もその姿を見ることは出来ないとされる。お膳に並べられるのは蜂蜜を塗った白パンとケーキ、ワイン、様々な料理、バター、くるみ、ネギ。ロウソクが灯され、小さな金貨が添えられる。翌朝になると、それらの食事は全て、産婦の世話をした《おばあちゃん》に譲られる。

 セルビア人とクロアチア人の間では、十九世紀ごろから既に運命の女神への信仰は薄れてしまっていたらしい。女神は子供の誕生から三日目まで、毎晩揺りかごの傍らに現れる。人々は家を掃除して明かりを灯し、食卓にろうそく、パン、食塩を並べる。しかしこの儀式の意味は忘れ去られかけていて、人々は供え物をすることにより悪魔から子供を遠ざけることが出来ると考えている。女神のことがほぼ忘れられた地域では、人々は子供の揺りかごの中に魔除けの薬草、小麦の粒、硬貨を入れた。女神たちは疾風のように飛んで軒下か窓か煙突から入り、子供の運命を定める。

 スロベニア人は、運命の女神たちのために一山のパンと一甕のワインを用意する。

 ジプシーは、子供の誕生の日か洗礼の日、または誕生二、三日目か七日目に産婦と子供の枕元にご馳走を並べる。蜂蜜で煮た黍や小麦の入った鉢、三切れのベーコン、三切れの白い鶏肉、グラス三杯のブランデー。産婦は子供と二人きりになり、女魔術師だけが近くにいることを許される。何故なら、彼女だけが運命の女神を見ることが出来るとされるからである。女魔術師はテントの前か小屋の入り口に座り、歌か呪文で女神たちを引き寄せる。スウェーデンのジプシーは、子供が生まれて三日目の夜、三個のプレッツェルと一瓶のワインまたは一瓶の砂糖水を供える。この供え物は、翌朝みんなで飲み食いする。

 フランスやドイツにも同様の慣習があった。フランスでは別の部屋にたっぷりの料理と三人分の食器を用意したし、ドイツでは料理やパンとワインをそろえ、乞食であろうと誰だろうと訪れた者に大判振る舞いをしなければならなかった。

 なお、韓国にも産飯を供える慣習はあるようである。産後すぐの時に何かをするのか寡聞にして知らないが、生後百日目に大きな祝いをするようで、その日の朝にご飯と汁を産神に供え、その後に産婆がそれを食べるそうである。また、その日には沢山の餅を皿に乗せて隣近所に配る。それは百人の家に配れば子供が長寿で金持ちになると言われているからだそうで、この点も日本の慣習によく似ている。ただ、この産飯の慣習は韓国でも既に廃れつつあるものだそうだ。

 産飯は、運命の神々の機嫌を取り、よい運命を授けてもらうためのものだ。逆に言えば、怒らせれば悪い運命を授けられてしまう。

 だが、一度定まってしまった悪い運命は二度と覆すことが出来ないわけではない。[子供の寿命]「寿命の取替え」など、中国系の話にはそれが露骨に出ている。たとえ産まれた時に悪い運が定められたとしても、人々は自分のために運命の神への酒食を供え、饗応し、幸運を願う。たとえば、ギリシアでは若い娘たちが蜂蜜やケーキを運命の女神に供えて良い結婚が出来るように祈りを捧げていたという。

 ところで、日本では出産後三〜七日目に産神が立ち去ることになっており、その日に産飯を供える地域もある。そして西欧では、殆どの民族で出産後三日目に運命の女神が現れ、その日に産飯も供える。女神たちはその日のうちに去る。洋の東西を問わず、出産後三日目に運は定められるものらしい。

結婚の日に死ぬ

【運命説話】を見ていくと、結婚の日または花嫁の送迎の道中に運命の死を迎える話がかなり目に付く。これは何故なのだろうか?

 結婚は、誕生や死と並ぶ人生の大きな節目である。かつては成人=結婚の資格を得ることと認識され、また、成人するとは「子供として死んで、大人に生まれ変わる」ことだという思想があり、それを模した通過儀礼も多くの地域で行われていた。つまり、子供は結婚して大人になるとき(観念的に)必ず一度死ぬ、という思想が広く認識されていたのであり、それ故に「結婚の日に死ぬ」という物語が多く語られたのではないだろうか。物語的にも、晴れがましいこの日に運命の死を迎えたとなれば、ドラマチックで大いに盛り上がる。

 

 だが、結婚式の日に死ぬ運命説話を並べて見ていると、そこに何か別の要素が見え隠れしている気がしてくる。結婚式に死ぬ話は、溺死や倒木や落石での死もあるにはあるが、獣、それも蛇に噛まれての死が圧倒的に多い。

【運命説話】に限らない民話全体を見ていても、結婚初夜に花婿が蛇に殺されるモチーフを目にすることがある。

 その花嫁は、何度花婿を取り替えても初夜に死んでしまい、未亡人になってしまう。主人公たる最後の花婿は、その蛇を殺して無事に初夜を終える。西欧の民話に現れるこのモチーフでは、蛇がどこから現れるのか言及されていないことが多い。蛇は寝室のどこかから忽然と現れて花婿に襲い掛かる。しかし、もっと素朴な形の伝承を伝えている、パプアニューギニアの民話を見ると、蛇は花嫁の膣の中から出てくるのだと、はっきりと語られている。胎内に蛇を宿している女は、交わった相手を噛み殺してしまう、有歯膣の持ち主である。あるいは、両性具有と考えてもいいかもしれない。彼女と交わり妻とするには、その男根――蛇を打ち殺し、去勢しなければならない。

【運命説話】で結婚の日に獣に殺される話としては、他に狼や虎に食い殺される話群があるが、それらも女性がキーワードになっていて、はっきり言えば、花嫁が獣に変身して、花婿を貪り食ってしまう。

 いずれにせよ、結婚、ことに初夜は、晴れがましく嬉しいことであると同時に、若者にとって命に関わるほどの危険なものであるらしい。

 私の知る限り、日本の結婚にまつわる運命の死の話は、喜界島近辺に伝わっている二話と『日本霊異記』に出ている菴知村の万の子の話くらいだ。喜界島のものは、隣の村に嫁いで行く途中で花嫁が事故死する定めになっていて、それを知っていた父親もしくは父代わり的な男が娘を救う、という話。『日本霊異記』のものは、結婚初夜に花嫁が魔物の花婿に貪り食われて死んでしまう話。これらの話の類話は全て西欧にもあるが、面白いのは、そちらでは運命の死を与えられているのが花婿なのに対し、日本では全て花嫁になっている点である。この男女の転換には一体どんな意味があるのだろう? そういえば、[子供の寿命]の類話も、恐らく原型であろう中国の話では男の子の寿命を延ばす話なのに、日本では殆どが女の子の寿命を延ばす話になっている。はて……?

 ところで、『日本霊異記』の話では、運命の予言は神でも産婆でも占い師でもなく、流行り歌によって行われている。どこの誰が歌い出したのか判らない奇妙な歌の通りに、娘は無残な死を遂げる。謎めいた歌による予兆は、日本の文学にはよく現れてくる。

運命は与え、奪い去る

【運命説話】を見ていて気付くことの一つに、悲劇的な死の運命を与えられる子供は、その両親にとって「やっと授かった子供」であることが多い、というものがある。

 長い間子供の出来ない夫婦が神に祈り、あらゆることをして授かった一粒種。あるいは、子供は沢山産んだが、みんな小さなうちに死んでしまった母親の子供。その一層かけがえのない子供が、産まれてすぐに無残な死の運命を定められてしまう。親にとってこれほど苦しいことはないだろう。神が祈りを聞き届けて子を授けたならば、何故すぐに奪い取るようなまねをするのか?

水の命15」では、「あの家は血筋が絶える運命にあるが、あまり頼むので水難の相のある子を授けた」とはっきり語られている。元々子供が出来ない運命の家だが、あまり祈るので一時期だけ子供を与えた、というのであった。これは幸せなのだろうか、不幸なのだろうか。

 

 ギリシアの運命の女神はモイラというが(現代語ではミーラ)、これは「分け与える」という意味である。生命の長さは女神から「分け与えられる」もので、どの程度の長さ与えてもらえるかがその者の「運命」である。

 時に、人々は「死」を「運命の女神が奪う」と表現する。死んだ人間は運命の女神たちのものになるらしい。ギリシアには、「モイラたちに返す」という死者への哀悼の言葉がある。生命は女神から分け与えられ、また奪われるものなのだ。

秘密を漏らすな

【運命説話】の基本構造は、

  1. 神が産まれ子の運を予言をするのを、ある人が聞く

  2. その人は運命を回避させようと努力する

というものなのだが、よくよく物語群を読んでいると、ここに小さな分枝があることに気が付く。つまり、定められた予言を知っている人間は果たしてどのくらいいるのか、ということだ。

  1. 予言を聞いた人は早速それを子供の家族たちに教える。時には、運命の子自身にも告げて注意する。家族全員が一致団結して運命を回避しようとする。

  2. 運命の予言を知るのはあくまで聞いた人ひとりだけ。その人は秘密を誰にも明かさず、たった一人で運命と戦う。

 この違いは何なのだろう。Aの方がはるかに楽なのに、どうしてBのような行動を取る話があるのか。たとえば、「水の神1」の父親は、定めのことを妻や息子に言えば息子が川に行くのを止められたかもしれないのに、決して言わない。一人で悩み、一人で運命と戦い、一人で失望しているのだ。

 この理由は、「倒木による死の回避」を読むと分かってくる。ここで、一人の漁師が仲間の娘に神が下した不幸な運命を知るが、彼はそれを仲間に告げない。しかし他人事として放置したわけではなく、誰にも理由を告げずに体を張って娘を運命から救っている。そうまで親身にしているのに、なぜ秘密を明かさないのか。――それは、神の言葉を人に告げると罰が当たる、と言われていたからであった。同じように、グリムの「忠臣ヨハネス」でも、王の不幸な死の運命を家臣のヨハネスが知るが、その秘密を王に明かせば石になるため、一切を秘密にしたまま一人で運命と戦っている。

 神が人の運命を定める声は、本来、人が聞いてはならないものである。聞いてはならない秘密を軽々しく吹聴したなら、その者の命が失われる。元々、そういう禁忌があったのではないかと思う。

牛馬の導き

 説話の中には、娘が牛や馬に導かれることで生涯の伴侶と出会い、結婚するモチーフがある。例えば、シンデレラ系の「青い雄牛」や「かわいい子牛」や、【炭焼長者】型の話群では、進退窮まった女が牛や馬に乗ってあてもなく出発し、止まったところで出会った男と結婚する。シンデレラ系の「白檀の木」や「達稼と達侖」のように、男の馬がある一点から動かなくなったりし、そこで女や女に関わるものを見つけて結婚する場合もある。中でも【炭焼長者】型話群ではこれらの牛馬の導きを"神意"とし、"運命"の結婚として語っている。

 牛馬は冥界の神に生贄として捧げられるもので、冥界の神そのものの化身ともされ、冥界へ死者を運ぶ乗り物と考えられることも多い。結婚は成人を前提とするものであり、成人は観念的に「子供としての死〜冥界下り」を乗り越えてなされるものなので、結婚の仲立ちをするものとして牛馬が登場してくるのだろう。

 

 とはいえ、神意のある牛馬の導きは結婚に限らない。菅原道真が亡くなった時は牛が停まって動かなくなった所にその亡骸を葬ったというし、ギリシア神話ではカドモス王子が牛の停まった所にテーバイを建国している。「コースチンの息子」では、馬が橋の手前で進まなくなり、橋の下に隠れている敵の存在を知らせている。

 岩手県の遠野地方では、陣痛が始まると馬を放して産神を迎えに行く慣習があった。馬には鞍を付け、しかし手綱は持たずに自由に歩かせる。馬が立ち止まり、ぶるっと体を震わせたなら、それは産神が馬に乗ったという印だ。手綱を取って産家に戻ると、ただちに出産が始まるのだという。

神も運命には逆らえない

狼に殺される3」にも現れているように、神は運命の女神の決め事には手出しできないものらしい。ギリシア神話の主神ゼウスも、運命や愛の女神たちの定めには抗えない。彼自身が「自分の子に玉座を奪われる」という予言に振り回され、様々な女性に心奪われ、愛する我が子の死の定めを回避できない。では、運命の女神は主神よりも上位に位置しているのか? というと、組織的にはそうではないのだが……。組織上の立場はともかく、《運命》は独立したこの世のシステムであって、神であっても好き勝手には干渉できない。そういうものらしい。

 ただ、好き勝手には干渉できないとはいっても、多少なら誤魔化したり、いじることも出来るようだ。裏技というヤツであろうか。「運命の身代わり3」では、身内に寿命を分け与えさせることで死すべき運命を回避させている。しかしこれも、「運命の身代わり1」のように身内が寿命の分与を拒んでしまえばそこでおしまいだが。

 ジプシーの民話に、こんな話がある。

 父なる神と聖ペテロがある女の家に泊まった。女は産気づき、聖ペテロが産婆を呼ぶ間、神が付き添った。男の子が生まれて三日経つと、二人の客は運命の女神たちの予言を聞くために屋根裏部屋に隠れた。真夜中に女神たちはやってきた。

 一番目の女神は言う。「この男の子は幸せになるだろう」

 二番目の女神は言う。「この子は生きている限りみんなに愛されるだろう」

 最後に三番目の女神が言った。「この子は二十歳になったとき結婚するだろう。しかしその日に溺れ死ぬだろう」

 こうして女神たちは帰っていった。聖ペテロは父なる神を見据えて言った。

「あなたは女神たちが言ったことをお聞きにならなかったのですか? あなたは父なる神でいらっしゃるのに、可哀想な男の子のひどい運命を変えることは出来ないのですか?」

「親愛なるペテロ、それはどうすることも出来ないのだ。この子の運命も、他の運命でも。勿論、万物を支配しているのは私たちだ。しかし運命の女神は私からその力を得たのだ。この力をそう簡単に女神たちから取り返すわけにはいかない。……ペテロよ、運命というものは誰にも変えることは出来ないのだ」

 二十年後、二人は若者になった男の子の結婚式に現れた。婚礼の列は小川を渡らねばならなかったが、それを避けて大きく迂回させた。帰り道で霧雨が降り始め、行列の馬の尾が少し濡れた。馬の一頭が尾を振ったとき、一滴のしずくが花婿にかかった。途端に、花婿は死んだ。

 父なる神は聖ペテロに言った。

「見たかねペテロ。運命の女神たちは今、役目を果たしたのだ。さぁ、私にこの上で何が出来るか見ていてごらん」

 そして父なる神は死んだ花婿を甦らせた。

 父なる神は、運命の女神の力は自分が分け与えただとか、しかしその権限を侵すのはよくないなどと、色々と言い訳をしているが、結局のところ何一つ運命に干渉できない。だが、彼は裏技を使った。一度 死の運命を成就させてから、《生き返らせた》のだった!

 キリスト教化が進んでいくと、「万能であるはずの主なる神が、運命の妖精の決定ごときに逆らえないのはおかしい」と思われるようになっていったようで、このように、神が運命の女神を《出し抜く》話も現れてくる。あるいは、運命の女神そのものが聖人や天使や神に入れ替えられる。逆に、運命の女神は悪魔や魔物の地位に貶められ、戦って殺したり神に祈ることで撃退される存在にさえなってしまう。

 一方、[子供の寿命][寿命の取替え]など中国系の話では、運命はその担当の神が独立して決めているものではなく、役所の中で事務仕事として定められているもののようである。饗応したりワイロを渡せば、下っ端役人(死神)でも比較的簡単に運命を変えてくれる。

運命の書と運命の印

 先に牛に導かれてテーバイを建国したカドモス王子の例を引いたが、この牛には月の印が付いていたとされる。月の印といえば、シンデレラ系民話の「月の顔」では、精霊に気に入られた主人公が額に月、あごに星の印を付けられ、そのおかげで幸運な結婚をする。この、額に輝く印を付けられる主人公の話は他にも見かけるのだが、これは一体何なのだろうか。

 ギリシアの民間信仰によると、運命の女神たちは生まれたばかりの子供の額や鼻の上に運命の定めを書きつけ、神秘的な予言の印を残すのだという。もし子供の肌に斑点があったら、それを運命の女神の筆跡とみなし、消えないように気をつける。鼻の上の黒い斑点は災い、白い斑点は吉祥の印だという。ブルガリア人は、運命の女神は目に見えないペンで、運命の全てをその赤ん坊の頭に書く、という。アルバニア人の民話には、こんなものがある。

 ある裕福な商人が旅の途中、三日前に子供を産んだばかりの女の小屋に泊まる。その夜、三人の運命の女神がやってくる。彼女たちは用意されていたパンと蜂蜜を食べると、揺りかごの側に行って、年上から順に、子供の額に運命を書き付けていく。

「時は過ぎ去るもの。客としてこの家の炉辺にいる男が、お前を娘婿にするだろう」「炉辺の男は、お前を殺す犯人を雇うだろう」「姉たちの定めは全て成就するだろう。だが、雇われた犯人はお前を殺すのではなく、そこの炉辺の男を撃ち殺すであろう」・・・・・

 特別な運命を持つ者の体には、その印が刻まれているものらしい。[夫婦の因縁]系の話で、妻の額や喉に傷跡が残ったり頭にピンが刺さったままになっているのは、その変形なのではないだろうか。それを印として運命の成就を知るのだから。夫の足の傷も同様である。

 日本には「あやつこ」といって、産まれた子供の額に鍋墨で「・」や「×」を描く慣習があった。これは魔除けなのだが、喜界島では神に悪い運命を授けられないようにそうしたという。あらかじめ印を描いておくこと、あるいは鍋墨などで塗り潰すことで、運命の神の書き付けを阻止しようとしたものだろうか。

 さて、運命の女神たちは子供の顔に運命を書き付けるばかりではない。時に彼女たちは「運命の書」を持っていて、それに定めた運命を書き記す。ルーマニアでは、運命の書に書かれたことはたとえ神や聖書であっても変更できない、という。けれども、中国系の運命の神の持つそれは、書き足したり書き直したり、場合によっては変更可能である。フィンランドの運命の女神は黄金の本に子供の運命を書き付けるという。

 興味深いのは、フィンランドの運命の女神は、ある説によると「特別の杖」に運命を書き付けることになっている点だ。日本の私たちが信仰する七福神、その中の寿老人(または福禄寿)の杖の頭には、人の寿命の書かれた巻物が巻きつけてあるという。白髭の老仙人と女神では、だいぶ違った印象を受けるが……。

 

>>参考  雑学考「地を這う冥府の星の話

神々の贈り物

月の顔」で主人公が顔に幸運の印を付けてもらえたのは、主人公が善良に振舞って、魔物に好感を持ってもらえたからであった。しかし、それを真似した義姉妹は醜くされてしまう。

 この、「善い娘が魔物のところに行き、正しく行動して美(良い結婚)を授かる。それを悪い娘が真似するが、失敗して醜くされる(不幸な結婚をする、または死ぬ)」というモチーフは、民話の中でかなり多く見かける。たとえばグリムの「森の三人の小人」では、主人公は森の中で三人の小人に会い、イギリスの民話「地の果ての井戸」では、主人公は地の果ての井戸で三つの頭に出会う。三人の小人または三つの頭は相談し、主人公に「美・富・幸福な結婚」といった三つの幸運を授けてくれる。それを真似した娘は、逆に三つの悪運を授けられてしまう。

 この、良いか悪いか両極端の贈り物をしてくれる魔物たちは、恐らくは運命の女神たちと同類の存在である。【運命説話】の話群を見ていても、新生児の揺りかごの側に現れた女神たちは、不幸な死の運命を告げる前に、富だの美だの勇気だのといった贈り物をしていて、シーン的によく似ている。「森の三人の小人」や「地の果ての井戸」では、魔物がまさに運命の女神のごとく三人で現れているので、より分かり易いだろう。先に挙げたように、ギリシアでは娘たちが運命の女神に供え物をして、よい結婚を願ったという。赤ん坊ではない娘の前に運命の神々が現れたとき、その告知する運は「美と結婚」に関することなのである。

 

 一人の娘が「創られた」とき、そこに大勢の神々が集まって、三人の小人たちがしたように、美だの富だのをプレゼントするモチーフがある。有名どころはギリシア神話のパンドラの話だろう。パンドラはこの世で最初の人間の女性で、神々は粘土をこねて彼女を作り、美、手工芸や家事の技術、愛と魅力を与えた。けれども狡猾な心をも与えたので、これにより世界に罪悪が広がることになった。彼女の名・パンドラは、「全てを与えられた女」という意味である。古代エジプトの物語「二人の兄弟の話」でも、神々が一人の女を創造してあらゆる神の力を分け与えたが、運命を司る七人のハトホル女神が口を揃えて言ったという、「この娘は無残な死に方をするだろう」。そして実際にその通りになった。

運命の赤い糸

 日本では、生涯の伴侶とするべき異性と出会ったと思ったとき、「あの人と赤い糸で結ばれている」という表現を使うことがある。この糸は見えないものだが、手の小指と小指で結ばれている。

 何故、運命の相手とは赤い糸で結ばれているのだろうか。一体何に由来するのか。

 ちょっと調べてみると、最も有力とされているのが「月下老人」系の中国の話が元になっている、というもの。運命の結婚相手とは、生まれたときから見えない赤い縄で結ばれている、だからどうあがいてもその相手と結婚することになる……という話である。なるほど、確かによく似ている。縄と糸という違いはあるが、この話の韓国の類話では赤い糸になっている点も注目すべきだろう。

天が定めた夫婦の縁  韓国

 遠い昔、ある田舎の村に凛々しく勤勉な独身男チョンガクが住んでいた。彼は科挙を受けるため漢陽ハンヤン(今のソウル)に出かけ、旅を急ごうと、夜になってもまだ歩き続けていた。

 明るい月に照らされた中に古寺があり、ここを宿にしようと中に入ると、中庭に一人の老婆の姿があった。彼女は二つの袋を腰に下げており、青い袋から青い糸を、赤い袋から赤い糸を出して、鼻歌混じりにそれを結び合わせては傍らの籠に入れているのだった。

「お婆さん、こんな夜中に何をそんなに一生懸命にしておられるのですか」

「ああ、私は媒酌神なのさ。月夜の晩にこうして男女の縁を結んでやるから、月下老人とも呼ばれている。この青い糸が男、赤い糸が女。私が青糸と赤糸を結ぶと、きっと夫婦になる」

「お婆さんがそうすると必ず夫婦になるのですか」

「勿論そうだとも。私が結んでやったとおりに生きていく、これが運命なんだよ。どうしてそれを避けられる。もし逃げたとしても、必ずまた結ばれることになるのさ」

「そんな馬鹿な。互いに嫌いあっていてもどうしようもないのですか」

「今まではそんなことにはならなかったね」

「それでは、私の妻になる人はどこに住むどんな人なのですか」

「ちょっと待っていなさい。まだ出来ていないから」

 そこで男は何時間か待っていた。月が傾いて夜が明けるころ、老婆はこう言った。

「お前さんの連れ合いはまだ子供のようだね。この先きっかり十里行ったところの市場の入口に食堂がある。ちょうどお前さんが通りかかる時、食堂の女店主が店の外に仕掛けてある釜で飯を炊くために出てくるだろうが、彼女に背負われて寝ている幼女が、お前さんの運命の相手だよ」

 男は驚き、憤った。これから役人になって嫁取りをしようと考えていたのに、自分の妻になる女性が金持ちでもなく身分も高くなく、なにより、未だに子供だなんて。

 男は鍛冶屋へ行って刀を一振り買い、市場に行って例の幼女を確認すると、眠っていたその子に斬り付けた。そして、これでこの子を殺したから青糸赤糸の絆から逃れられたとほくそ笑んでいた。

 その後、彼は科挙に合格し、ある村の郡主になった。早速嫁取りをすることにして、降るように舞い込む縁談の中から一つを選び、めでたく結婚した。ところが花嫁は新婚初夜に急死してしまった。それから二回、花嫁を娶ったが、二人目は三日、三人目は十日で死んでしまい、それからというもの誰も彼に縁談を持っていこうとする者はいなくなった。

(ああ、月下老人よ、恨みます。どうして私にこんなに悲しい因縁を結んだのか。あの幼女を殺したからには、私は永遠に妻を得られないというのだろうか)

 それからは、罪滅ぼしの気持ちで仕事に専念した。四十歳近くなった頃、罪がすすがれたような気分になって、もう一度嫁取りをしたいと思うようになった。容姿も身分も財産もどうでもいいから、長生きしそうな人がいい。そう仲人に頼むと、すぐに縁談が来て話がまとまった。

 男は、今度の花嫁もすぐに死んでしまうのではないかと不安だった。初夜の晩に灯火の中で花嫁を見れば、若く、絶世の美女である。ところが、よくよく見れば額から片頬にかけて、長く大きな刀傷が付いていた。驚いて訳を尋ねると、彼女は言った。

「私は権勢ある大監の娘でしたが、父は職を追われて家族ともども殺されました。乳母は私を背負って逃げ出し、ある田舎の市場で食堂を開いて育ててくれたのです。ところが私が二歳の時、乳母の背に負われていたところを、何者かに斬りつけられました。きっと、父たちを殺した一味の刺客だったのでしょう。乳母が山草で治療してくれて一命を取り止め、その後はあちこち隠れ住みながら暮らしました。

 私は幼いころ、死ぬ目にあっています。ですから厄払いした身です。郡主さまが嫁取りをするとみな死んでしまうとの噂を聞きましたが、私は安心して嫁いできました」

「そなたは、その傷をつけた刺客を憎んでいるのだろうね」

「はい、最初はそうでした。この顔の傷のために何度も死のうと思った。けれど、もう二十年も前のことです。その人もきっと悔い改めているでしょう」

「許すと言うのか。そなたは優しい人だ」

 男は、これこそ天の定めた運命であると思い知り、その妻を心から愛した。けれども自分が犯した罪については、生涯、心に秘めたままであったという。


参考文献
 『世界の運命と予言の民話』 日本民話の会/外国民話研究会編訳 三弥井書店 2002.


参考 --> 「月下老人」「湛慶阿闍梨、還俗して高向公輔となれる語

 ただし、韓国版では糸は糸同士で結ばれており、人間の体には結びつけられていない。また、日本では運命の赤い糸は手の小指に結びつけられているとされるが、中国の月下老人伝承では足首に結ばれているという違いがある。ちなみに、日本で小指に糸が結ばれているのは、小指が「契り」や「恋人」を示すからだ、という説がある。

 

 足首の縄糸による運命の結婚というと、モンテネグロの民話「踵を縫った糸」を思い出す。この話はギリシア神話の「オイディプス」の類話で、実母との結婚を予言された赤ん坊が踵を糸で縫い合わされて捨てられ、しかし成長して後に、知らずに実母と結婚してしまうという話。

 踵を糸で縫い合わせたのは木にぶら下げて捨てるためで、その傷が運命成就を知らせる証拠となる。この話と中国の赤い縄の伝説に何か関連があるのかは不明である。ではあるが……。

 思うに、運命の女神たちが子供の額に印をつけるように、足にも運命の印は付けられるものなのではないだろうか。オイディプスは足に金のピンを差し込まれて捨てられた。何故そんなことをして子供を捨てたのか、神話は理由を語らない。だが、私は思う。足に差し込まれたピンは、運命の印。逃れえぬ婚姻の運命を持って産まれた子を示す刻印なのだと。中国の異界の役人が、運命の相手同士の足に赤い縄を結び付けて、その印とするように。

 

 そもそも、運命の女神と「糸」は関連をもっている。ギリシアに伝わる運命の三女神モイラたちモイライが、糸を紡ぎ機を織り、その糸を断ち切ることで人間の人生の終わりを定めるという神話は有名だ。

 シベリアのニヴフ族の伝承によれば、魔物が先回りして運命を定めるのを防ぐため、子供が産まれると、長生きできるように糸を結ぶそうである。魔物に運命を決められてしまうことを「魔物が《糸を結んで予約した》」と言うという。(「化け物のせいで早死にした子供」(外部リンク)/『北東ユーラシアの言語文化』(Web) 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)ニヴフ人はサハリン島にも居住し、そこには朝鮮系の人々も多いというから、あるいは韓国の青糸赤糸伝承と、何らかの関わりはあるのかもしれない。

 なお、同じくシベリアのヌナガサン族は月を大地の母のお姉さんと呼び、この女性が生命の糸を握っていると考えた。母なる月から太くて丈夫な糸を投げてもらった人は長生きするが、短い糸を与えられた人は寿命も短い。ブリヤート族は、太陽や月は人間の生命、特に幼児の生命を左右する運命の神とし、出産前には月に祈ったという。

 

 ところで、赤い糸の伝承は西欧にもあるそうだが、足や手の小指など、特に結ばれる場所は決まっていないようだ。

 キューピッドが矢を放つと、その矢に赤い糸が付いていて、その時 初めて糸が結ばれるそうである。必ず一人の相手とつながっているわけではなく、三本くらいの赤い糸を持つこともあるとか。その絆の強さによって太さが変わるらしい。赤い糸の他にも、男女を越えた敬愛関係の白い糸、アソビの関係の男女のピンクの糸、同性愛の紫の糸、お金だけで結ばれた男女の金銀の糸、憎みあっている男女の黒い糸など、様々な愛情関係の糸があるそうだ。
参考 --> 「蛙の王女

主な参考文献

『運命の女神 その説話と民間信仰』 ブレードニヒ著、竹原威滋訳 白水社 1989.
『日本昔話集成(全六巻)』 関敬吾著 角川書店 1950-

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