ブランコ娘と吊られた屍肉

 植物は様々な点で人間に恵みをもたらし、特に樹木は季節ごとに(見掛け上の)枯死と再生を繰り返す。その様子に生命力や不死性を感じ神性を見い出すことは、世界中で行われてきた。樹木は生命を生み育む。死者を蘇らせる。あるいは樹木と人の命が連動し、死者が樹木として再生する。また、樹木の枝や根の先が神霊〜冥界に通じているという世界樹信仰も、世界各地の伝承に見られる。

 北欧の神話によれば、世界は九つの層で構成されており、それらを中心で繋ぐみち、トネリコの大木が世界樹ユグドラシルであった。主神オーディンはこの木の枝で自ら首を吊り、更に槍で刺された。そうしてぶらさがったまま九日九夜後に縄が切れ、木から落ちて甦った。この《黄泉帰り》を経て、彼は冥界の神秘に通じる偉大なシャーマンとなったのである。この神話にちなんで、オーディンに捧げる生け贄は木の枝に首吊りにして槍で刺すものだったと言う。なお、大アルカナのタロットカード《吊るされた男》のルーツをこの神話に求める説もある。このカードが象徴するのは《英知、慎重、直観、(自ら望んだ)試練》である。

 イエス・キリストは十字架に架けられ槍で刺されて処刑されたが、後に復活して偉大な聖者となった。十字架を樹木の象徴とみなせば、オーディンの神話と似通っている。バーバラ・ウォーカーの『神話・伝承事典』(青木義孝/栗山啓一/塚野千晶/中名生登美子/山下主一郎訳 大修館書店 1988.)によれば、西欧では古くから木の枝を組んだ十字に人形を吊るしたものを畑に立て、穀物の守護とする慣習があったと言う。同様に、『世界樹木神話』によれば、ギリシアやクレタ島では果樹の枝に女神(主にアリアドネ)を模した小像をぶら下げたとある。樹木に《人》をぶら下げるという行為が、豊穣儀礼と結びついている。

 

 古代、ギリシアのアッティカではアイオーラという祭儀が行われていた。これは葡萄の収穫祭でもあり、木々には豊穣祈願のために小さな人形や仮面が吊るされた。一説には、元は人間の娘を吊るしていたが、円盤に顔を彫った面を吊るすように変わったのだと言う。その由来は、以下のような神話として伝えられている。

 ディオニュソス神が輝くような若者の姿でアッティカのイカリア村にやって来た時、歓待したのはイカリオスという農夫と、彼の娘のエリゴネだった。(イカリオスをアッティカの郷士、王とする説もある。)神は父娘のもてなしに満足し、葡萄の木を授けて栽培法を教え、更には葡萄酒の作り方を伝えて立ち去った。

 イカリオスは教えられたとおりに葡萄酒を作り、隣人たち(一説には、彼に仕える羊飼いたち)にふるまった。ところが人々は葡萄酒というものを知らなかったため水割りにせずにそのまま飲み(古く、ギリシアでは葡萄酒は水で薄めて飲むものだった)、しかも口当たりがよかったので飲み過ぎた。急激に酔いが回った彼らは毒を盛られたと思い込み、怒りのままにイカリオスを打ち殺して死体を始末したのである。(泉に投げ込んだとも、松の木の下に埋めたとも言う。)そこからはやがて一本の葡萄の木が生え出た。

 エリゴネは、酒袋を持って出かけたまま帰らない父を探してあちこち尋ね歩いた。その後にはイカリオスの愛犬である、猟犬のマイラがつき従った。長い捜索の旅を続けて乞食のようにぼろぼろになった頃、一本の葡萄の木が蔓を伸ばしている場所に差し掛かった。マイラが悲しげに吠えて報せ、エリゴネは父の死体を発見した。悲嘆のあまりに、彼女はその木(葡萄、または松)の枝に縄をかけて、首を吊って死んだ。犬のマイラは彼女の墓の傍で死んだとも、オニグロスの泉に飛び込んで自殺したとも言う。

※この他、原勝郎が『鞦韆しゅうせん考』で紹介しているところによれば、エリゴネ自身が父を殺し、それを悔いて首を吊ったという異伝もあるそうだ。

 この後、ディオニュソス神の怒りによってアッティカを災いが襲った。旱魃による飢饉が起こり、女たちは何かに取り憑かれたかのように錯乱し暴れ回って夫たちを苦しめた。娘たちはエリゴネのように木に縄をかけて、次々とくびれて死んでいった。

 人々はデルポイの神託を伺って、これがイカリオス父娘の死による祟りであることを知った。そこでイカリオスを殺した者たちが探し出され首吊り刑に処され、更には供養祭を毎年行ってイカリオス父娘を祀り、霊を鎮めることになったのである。これがアイオーラ祭の始まりである。

 なお一説によれば、ディオニュソス神はイカリオスを農夫座(牡牛座の辺り?)に、エリゴネを乙女座にして天に置き、忠犬マイラも忘れずに犬狼星シリウスに変えて農夫座の足元に置いたなどと言う。(また別説では、イカリオスは御者座に、マイラは小犬座になったとする。

 

※この物語を「神に祝福された者が気前よく人々に幸を分け与えるが、人々は妬みや恐れからその者を殺して埋めてしまう。人々は神罰を受け、一方で、殺された者は植物に再生して豊穣をもたらした」という話だと捉えれば、インドネシアの「ハイヌヴェレ神話」と同じである。父と娘、犬を連れての捜索、殺された者を捜す家族が埋められていた死体を発見するという部分的なモチーフも共通している。なお、エリゴネという名は《春に生まれるもの》の意味で、植物の再生・農耕・豊穣のイメージがある。

 来訪したディオニュソス神はイカリオスとエリゴネの歓待への謝礼として葡萄と関連技術を授けたわけだが、一説によれば、エリゴネはディオニュソス神との間にスタピュロスという息子をもうけたのだとする。この名は《葡萄の房》という意味である。そしてスタピュロスは、ディオニュソス神の唯一の妃とされるアリアドネが産んだ息子の名でもある。アリアドネに関する異伝の中に、英雄テセウスと駆け落ちしようとしたが捨てられ、首を吊って自殺したとするものがあることは注意すべきだろう。(その他、女神アルテミスに焼かれて死んだ、出産の際に子を産めぬまま死んだなどの説もあるが、いずれにせよ)死んだアリアドネは女神として再生し、ディオニュソスの神妃となった。

 

 アイオーラ祭では、人形や仮面を吊るす儀式と並行して、娘たちによる野外での《揺さぶり》の遊びも行われていた。木から縄で吊り下げた板に立って体を揺すったとも、木から縄でベンチを吊るして、娘たち同士で腰かけたり背中を押してもらったりして漕いで楽しんだなどとも言う。エリゴネの縊死の模倣が原型だとされるが、これをブランコの起源の一つだとする説がある。女性のブランコ遊びを含むこのディオニュソスの祭儀は、ローマにも伝わって隆盛し、オスキラと呼ばれた。

 祭儀の際にブランコが設置され、それに特に女性が乗るということは、古代から現代に至るまで世界的に行われているようだ。(以下、説明文中の白枠内のリンクは全て外部リンク

インド

ネパール

中国

韓国

日本

タイ

インドネシア

ロシア1900年、オレンブルグ近郊で撮影された、木製の小型観覧車タイプのブランコ。
現代、ネパールや東南アジアで見られるものと全く同じである。

 

その他、イタリアやスペインではクリスマスにブランコに乗る慣習があったと言う。

 

 唐代に宮女がブランコ遊びを行った寒食節とは、冬至から数えて百五日目で、旧暦で二〜三月、陽暦では四月初旬に当たる。春(新しい年)を目前にした節目を祝う祭である。この日には先祖の墓に詣でて霊を祀り、燈火を灯さず竈も燃やさず、酒、餅や果物、冷ご飯などを食べる。『荊楚歳時記』によれば、これを守らなかった者は雨雹で田を傷つけられるとする。

 中国では、この祭の由来を以下のような故事で説明している。

 晋の公子(王子)・重耳は迫害されて国外へ逃れ、十九年もの過酷な放浪生活を送った。従者たちは耐えかねて次第に離れていったが、それでも五人は残って忠節を尽くした。その中の一人、介子推(介推)は護衛として活躍し、重耳が肉を食べたいと言えば密かに自分の腕の肉を切り取って煮て与えるほどに忠節が厚かった。(しかし重耳に覚えられてはいなかったようだ。

 後に重耳は秦の穆公の助力で王位を継ぎ、晋の文公となったが、介子推は富貴を嫌って文公の与えた役職を固辞し、母親と共に緜山に隠遁した。(あるいは、他の従者たちの欲深い様子を見て嫌気がさして隠遁し、そのまま恩賞に漏れてしまっていた。

 その後、文公は介子推のことを思い出し、自ら車に乗って出かけて探させたが見つけられなかったので(または、仕官を勧めたが応じなかったので)、孝行者の彼ならば緜山に火を放てば母親と共に逃げ出してくるに違いないと考えた。火は三日三晩燃え続け、焼け跡から、柳の枯木に抱きついたまたは、木の洞の中で抱き合った)介子推とその母の焼死体が発見された。

 文公は山の名を介山に改め、母子の廟を建てて供養し、この日には全ての家庭で火は使わず、料理も作り置きした冷たいものを食べるよう命じた。

 

※文献上最古のシンデレラ譚『葉限』に、殺された魚(霊)の魔法で美しく変身した娘が元に戻ったとき、果樹に抱きついて眠っていた、というくだりがある。死が木の傍で起きている点に、介子推の聖木を通じての神への転生、という観念が透かし見える。

 寒食節に火を使うことを禁じるのは、この季節は風雨が激しいからだとの説もあるが、後付けの解説だろう。韓国でもこの祭儀は同様に行われていたが、この日には王が新たな火を起こして臣民に配ったそうで、新しい火種を授かる前日には各家庭の古い火は消しておかねばならず、よって寒食節には家庭に火がなかったのだと言う。つまりこの日は死ぬ太陽(古い命)と生まれる太陽(新しい命)の交代が行われると考えられていたのであり、よって先祖供養が行われたのだろう。この世とあの世が交代する日は互いのさかが曖昧になり、神霊が立ち現れ易いものだからである。そして訪れた神霊は幸(生命〜豊穣)ももたらす。韓国の寒食節では、新しく野菜の種を蒔いたり植樹をすることも行われていた。

 一方、復活祭は春分後の最初の満月後の日曜日に行われる祝祭である。十字架にかけられたキリストの復活を祝うものとされるが、ルーツの一つはオリエントの新年祭だと考えられる。つまり、古い年が死んで新たな年が生まれたことを祝う祭儀であった。そしてクリスマスのルーツは冬至祭で、弱っていた冬の太陽が力を取り戻し復活を始めることを祝う日であり、これもやはり新年の祭で、神霊が立ち現れる境界の時季だと考えられている。

 

 アイオーラ祭、寒食節、復活祭、冬至、クリスマス、ダサイン、イェクザ・アピュロウ。これらは全て、豊穣(新しい生命の来訪)を祝う祭りだ。こうした祭で、特に女性をブランコに乗せるのは何故なのか。共通した見解を、既に多くの研究者が提示している。女性が裾からチラチラと肢体を見せながらゆらゆらと体を揺らす。これは女性から男性へ向けてのセックス・アピールであり、エロティックな動作の比喩でもある。つまり、生殖行為を暗示した儀式だと言うのだった。ティージ祭やイェクザ・アピュロウ祭では、ブランコ乗りは夕方から夜に行われる点にも注意すべきかもしれない。

 中国ではブランコを鞦韆、または秋千と言う。《鞦》は牛馬の尾に掛ける革製の引き綱、《韆》は軽やかに動くという意味だが、『閑敲棋子落灯花』(韋明[金華]著 雲南人民出版社 2007.)では、《鞦》は《手偏に秋…しっかり握る》、《韆》は《遷…遷移する》という意味が含まれ、革紐を握りしめて動く様子を表していると説いている。最も古くは千秋と呼んだが、皇帝の長寿を祝う言葉「千秋」と重なっていたため、忌んで秋千としたと。中野美代子は『鞦韆のシンボリズム 』(『奇景の図像学』 角川春樹事務所 1996.)において、中世中国の富貴層はブランコを邸宅の中庭に設置して性具としても使用したと指摘し、中国語の「吊」と、男性器を示す言葉が同音異声であることから、だらりと吊り下がっていた紐〜ブランコに若い娘がまたがって体を揺らし、ついに天高く舞い上がる……このイメージこそが鞦韆の隠された本質ではないかと論じている。

 思えば、ヒンドゥー教のクリシュナ神は愛人と共にブランコに乗った姿でよく表される。彼は既婚未婚の数千人の愛人がいると言われる精力盛んな神だ。彼が愛人ラーダの目を盗んで乳搾りの女たちと野でブランコ遊びに興じる様子を描写したラーガ音楽「ヒンドゥール」は、《ブランコ》という意味である。ヒンドゥー教では男女和合とブランコは関連付けられているらしく、結婚式で新郎新婦がブランコに座る儀式も行われる。思えばインドのティージ祭も結婚と結び付けられており、台湾、韓国、タイのアカ族、ロシアのブランコ儀礼は、歌垣に近い、男女の縁結びイベントの性格をも帯びている。

 

 ところで、ラーガ音楽「ヒンドゥール」は春の演目である。というのも、クリシュナが女たちとブランコに興じたのが新芽萌え出る季節だったからなのだが、日本でもブランコは春の季語だ。(北宋の蘇軾の詩「春夜」に由来するとされる。)どうも、ブランコは性交・生殖、そして春・植物の繁茂と結びつけられているようだ。

 豊穣を呼び込む農耕儀礼として、性交・結婚を模した儀式が行われることは珍しくはない。裸で(夜に)種蒔きや耕作を行うとよく育つという俗信はインドにも西欧にもあったし、種蒔きの期間に夫婦共寝が推奨されたり、実際に畑で男女が共寝をしたりすることもあった。儀礼化されると、男女が種蒔き前の畑を転がされたり、麦穂などで身を飾った夫婦のダンスや嫁入り行列というような娯楽的な行事になった。このような結婚の模倣は、収穫の際にも行われることがある。デンマークでは、麦の最後の束を刈り取った娘はその束で作った奇怪な人形と踊らねばならない。その人形と結婚したと見なされ、かつ、寡婦として悲しむことを要求された。収穫された穀霊神は、まさに死んだところだからである。

 

 穀霊神は種蒔きによって生まれ、収穫されると死ぬ。そして次の種蒔きの際に再び生まれてくる。つまり来年の良い収穫のためには、穀霊神は収穫時に死なねばならない。西欧のケルンテン(カリンティア)地方では最後の刈り束を《小麦の女王》と呼び、人々はこれに女物のガウンを着せて村中を練り歩き、最後に川に投げ込んで次の収穫に必要な雨を願い、あるいは灰にして畑に撒いて大地の肥沃を願った。スウェーデンでは収穫の時期に見知らぬ女が通りかかると、彼女を藁で縛って《小麦の女》と呼んだ。フランス西部のヴェンデ地方ではこの役を農夫の妻が務めた。彼女は藁でくるまれて脱穀機の下に置かれ、脱穀される穀物のように打たれ、籾殻を吹き分けられる穀物のように毛布に乗せられて上へ下へ弾まされた。ドイツでは、通りすがりの見知らぬ人を刈り手たちが縛り、罰金を支払うまでは自由にしなかったと言う。このような慣習は西欧の各地にあって、通りすがった人は殺すぞと脅されたり、指を噛まれたり、大鎌を首に当てられたりした。

 豊穣祈願の人身御供を思わせる農耕儀礼や伝承は世界各地に見られる。中央アメリカ、北アメリカ、インド、アフリカ、オセアニアの一部などでは、実際に殺人と八つ裂きが行われていたことも確認されている。しかし類似の片鱗を窺わせる慣習のある地域の全てで、それが実際に行われていたのかどうかは分からない。ただ、儀礼化されたものや物語だけが伝わっていたのかもしれない。

 

 アイオーラ祭をもたらしたエリゴネは、木で首を吊って死んだ。彼女に倣って多くの娘たちも首を吊った。この負の連鎖を止めるために祭りは行われ、娘たちの身代わりのように、人形や仮面が木に吊るされるようになった。とくればこの神話も、かつて豊穣のために生贄が捧げられていたこと、けれど人形で代用するようになった歴史を物語っているのだろうか。

 それははっきりしないが、この祭が《死》に関わっているものであることは確かだ。霊を供養し、神の祟りを鎮めることが元々の目的だと説かれているのだから。《死》を宥める目的と《幸》を授かる目的が一つの儀礼の中に同居していることは奇異にも思えるかもしれないが、幸を授けるのは神霊であり、神霊は死者でもあるのだから、混じり合うのは必然だったのだろう。死者を慰撫することで幸を授かるわけである。

 

 死〜神霊とブランコの関わりは、スラヴのルサルカ(ルサールカ)の伝承にも窺える。

 ルサルカは妖精(妖怪)の一種で、普段は川の水に棲んで、長い髪を櫛けずったり人を水に引き込んだりするが、大地が緑に覆われ始めた頃……復活祭前の木曜日か聖霊降臨節(復活祭後の七番目の日曜日…復活祭から数えて五十日目。五〜六月)に水から上がって、次の日曜日、あるいは晩秋まで森や野や畑をうろつくと言う。その点では日本の山童やまわろ〜河童に少し似ているかもしれない。河童は地域によっては田の神と同一視され、春に山から里の水辺に降りて来て秋の収穫後に山に帰ると言われるが、ルサルカも、例えばウクライナで「ルサルカが走り回り暴れ回った場所にはよく草が茂り、穀物が豊かに実る」などと言い伝えられるように、水から出てくると畑を守る豊穣神になるとみなされているからだ。

 ただし大きな違いは、異形だと想像される河童に対して、ルサルカは一応は人間の女の姿をしているとされる点だろう。ただ、具体的なイメージは一定していない。馬鍬で髪をとかす怪女だとか、下半身が魚だとか、長い乳を肩にかけた不気味な山姥として想像される一方で、髪の長い裸の女、女神のような美女として想像されることもある。

 ルサルカは非業の死を遂げた女子供の霊がなるものだと言われる。自殺した女、溺死した女、殺された女、若くして(結婚できずに)死んだ女、死産だった子供、洗礼前に死んだ子供。呪われて死んだ女子供。つまり成仏できない(供養を求めている)死者の霊としての側面を持つ。ルサルカが水(即ち、冥界)から出てきて活動を盛んにするとされる聖霊降臨節から翌週のペテロの斎日までの期間は《緑のクリスマス》または《ルサーリヤ(ルサーリイ)の週》と呼ばれる。これは春を送って夏を迎え、ライ麦や亜麻の生育を祈願する祭で、古代ローマで行われていた死者供養・豊穣祈願の薔薇の祭ロサリア(ロザリイ祭)に由来する。この祭の主役を務める娘もしくは人形をルサルカと呼び、これが妖精ルサルカの語源と思われる。もっとも、水と森の女妖精自体は、この祭がロシアに導入される以前から、ナフカまたはマフカ(《死んだ女》の意)と呼ばれて存在していたようだが。

 ルサーリヤの週の間は、ルサルカのために夕食を供えねばならない。また、家の床を磨くことや、裁縫・糸紡ぎ・機織りを控えねばならない。ペチカに漆喰を塗ってはならない。洗濯・水浴をしてはならない。畑を掘り起こしてはならない。森へ行って木を伐ってはならない。要は、死者を敬い、霊が宿るとされる場所を騒がしてはならない。

 復活祭から数えて五十日目の日曜日に始まったこの祭りは、五十四日目の木曜日にクライマックスを迎える。娘たちは森に集って二人組を作り、隣り合う立ち木の枝を結んだり、キスを交わすなどして姉妹の契りを結ぶ。彼女たちは娘組への加入を認められ、白樺の木の周りを太陽と同じ方向に輪舞する。これは娘たちの成人儀礼であり、豊穣祈願でもあった。

 祭の最終日の夜更けには《ルサルカ送り》が行われる。ルサルカ人形を村外れのライ麦畑へ運び、焼いて灰を撒き散らす。もしくは川へ投げ入れて流す。あるいは墓地へ運んで破壊する。ルサルカ役が村娘である場合は、彼女のかぶっていた花冠をそうする。このようにして、幸を携えて来訪していた神霊を冥界へと送り返し、また来年の幸を願うわけだ。迎えた神霊の依り代を水に流して送ること、ルサルカは雨をもたらすと言われる点を含め、七夕の慣習にどこか似ている。

 

 ルサーリヤの祭では娘たちはブランコを漕いでいないが、並ぶ木の枝を結び合わせることをしており、ブランコとの関わりが見える。ネパールや東南アジア、台湾等で特設される祭儀用のブランコの枠は、木や竹を立てて先端を縄で結び合わせたものだ。並んだ木の枝を結び合わせる行為は、この簡略版ではないだろうか。ルサルカは森の木(特に白樺)の枝に座って揺らすと言われるが、それこそがブランコ漕ぎのことらしいからである。

●ルサルカのために二本の白樺の先端を結び合わせて輪を作る。これはルサルカがブランコに乗るためのものである。(ロシア スモレーンスク県)

●ルサルカは木の枝に座ってブランコをしながら、奇麗な声で「ねえ、いらっしゃいよ」と娘たちに呼びかける。(ロシア オリョール県)

●ルサルカは聖霊降臨節後の週に森に集まり、特別なブランコを木からぶら下げる。そして近隣の若者や娘の名を呼んで「私たちのブランコに乗りにいらっしゃい」と呼びかける。(ロシア モギリョーフ県)

●ルサルカは白樺の枝でブランコをしたり、籠を持って木の下に座っていたりする。籠の中には木の実や胡桃や丸パンが入っていて、それで子供たちを誘って、くすぐる。(くすぐり殺す。)穀物の花が咲く頃、ルサルカはライ麦畑をぶらつく。(ロシア トゥーラ県)

 死霊であるルサルカが生きた人間に呼び掛けてくる時、森の奥のブランコ(聖木の枝)が揺らされている。先に、(特に女性の漕ぐ)ブランコは性交の模倣で豊穣儀礼であるという説を紹介したが、ここには別の意味が見えるように思える。ブランコには交霊儀式という意味があるかもしれない。

 かつてロシアで復活祭の期間等にブランコが特設された時、ブランコから転落して死んだ者は通常の方法では弔われないという決まりがあった。十九世紀末〜二十世紀初頭のシベリアではその場に埋葬せねばならないとされていたし、奥バイカル地方で1969〜1975年に行われた調査でも、ブランコから落ちて誰かが死ぬと、キリスト教の聖職者はその埋葬を拒否したとある。聖職者たちにとってブランコは《悪魔の楽しみ》だったからと言うのだ。こうした観念は、1936年にニジェゴロドの聖職者が出した訴状にも既に見える。

偉大な聖なる週の主の祭日に、熊つかいや放浪芸人どもが家々や通りをめぐっておる。彼らは恥ずぺき遊戯を行ない、キリスト復活の祭日を罵っておる。さらにこの同じ週には市の中心地にブランコがしつらえられ、多くの者どもがやって来てはブランコをし、それから落ちて命を失なうが、これはむろん繊悔なしにあの世に行くのである。

 ブランコがただの遊戯ではなく、キリスト教以前の宗教儀式に繋がるものだと認識されていたことが窺える。

 ロシアでは観覧車をチョルトボ・コレソ、《悪魔の車輪》と呼ぶ。「悪魔がブランコを介してロープを張り、そこに乗って揺れる者はいきなり地上に落下する」と書かれた文献もあるようだが、ただ転落事故死者が多かったというだけではなく、これに乗った者は悪魔の世界〜異教の冥界へ行ってしまうという観念があったのではないだろうか。ルサルカはブランコを揺らして人を誘い、くすぐったりダンスをさせたりして冥界へ連れ去ってしまう。ルサルカはキリスト教以前の土着信仰に属する存在だ。いわば悪魔である。バリ島のウサバ・サンバ祭のブランコ儀礼は、漕ぐことで地上を離れ天国を垣間見ると言うし、ネパールのダサイン祭でのブランコ儀礼は、地上から足を離すことが縁起がいとされている。古代インドや近代のタイでバラモン僧がブランコを高く高く漕いだのは、地と天を結び、神霊に働きかけるためと思われる。ブランコをすることで神霊と交わり冥界へ渡れさえすると考えられていたのではないか。

 パプア・ニューギニアのブーゲンビル島、ハリア族の伝承に、ブランコを揺すって子供が天界へ行くものがある。

フゲン  パプア・ニューギニア

 ある朝、幼いフゲンが母と祖母に連れられて森へ水汲みに行くと、天の住人が水汲み場の近くに蔓草を下ろしていた。フゲンがそれに掴まってブランコ遊びをするうちに蔓草は引き上げられ、フゲンは天の人々のところで暮らすようになった。

 フゲンの母は大宴会を開いてあらゆる鳥を招待し、ご馳走を与えてから、天に昇ってフゲンを連れ戻すよう頼んだ。鷲や犀鳥や様々な大きな鳥が挑戦したが、みんな天に達することができず、途中で諦めて帰って来た。

 最後に、鳥たちに馬鹿にされて食べかすをぶつけられていた山七面鳥とケルル鳥とピピフニ鳥の、三種の小鳥が飛び立った。彼らは無事に天界に着き、ごみ溜めの陰から山七面鳥が鳴いてフゲンを呼んだ。天の人々と共に踊りの準備をしていたフゲンは三羽の小鳥に気づき、天でもらった様々な宝物を「ネズミに齧られた」などと言ってごみ溜めに運んで小鳥たちに与えた。それから体調が悪いと偽って踊りに行かず、ケルル鳥の背に乗った。他の二羽が荷物を持った。そうしてケルル鳥の指示通りに目を閉じているうちに降りて行き、一度ウアツィルの木の梢で休んでから、再び飛び立ってついに地上に着いた。

 三羽の小鳥は太鼓を鳴らして帰還を報せ、集まった村人たちの前で仕事を果たしたことを告げると、自分たちをいつも馬鹿にしていた大きな鳥たちを見返した。フゲンの両親は祝宴を開いて三羽の小鳥にたらふくご馳走した。



参考文献
『世界の民話 パプア・ニューギニア』 小沢俊夫/小川超編訳 株式会社ぎょうせい 1978.

参考 --> 「もと月は大きかった」「天の水汲瓢

 日本の神道には魂振たまふりという祭儀があり、手や呪具、神輿などを振り、激しく揺らすことで神霊を活性化し招き寄せ、最終的には慰め鎮めるとする。ヒンドゥー教では八〜九月にクリシュナ神の生誕祭ジャナマーシュトミーを祝うが、その際に寺院に赤ん坊のクリシュナの人形が乗ったブランコが設置され、揺らすと縁起がいいとされる。これは揺り籠を思わせるが、アイヌ族の伝承では神々が飛来する際にシンタという物に乗るとされ、一方で赤ん坊の揺り籠もシンタと言う。シンタは天井から吊り下げるタイプの揺り籠である。

 森の中でブランコを揺らすルサルカのイメージは、タイのアカ族の始祖伝承の妖精と似ているが、鳥の姿で水辺に飛来した神霊を捕らえて妻にする【白鳥乙女】モチーフの羽衣のように、ブランコも、神霊がこの世に立ち現れる〜渡ってくる、また立ち去る際に使用するに相応しい道具と認識されていたのではないか。

 インドネシアのカヤン族の伝承では、この世とあの世を隔てる大河に架かった丸木橋は常に巨人に揺さぶられており、落ちた死霊は大魚に呑まれる。イランの民話「月の顔」では、娘が井戸の底の山姥の家から帰ろうとすると山姥が梯子を揺さぶる。何も落とさなかった娘は祝福されたが盗んだ宝を落とした娘は呪われた。灰かぶりは母の墓から生えた木を揺さぶって落ちてきた宝を得た。「雁とり爺」や「狗耕田」でも墓から生えた木を揺さぶって死者からの幸を受け取っている。揺さぶり振動させる行為が神霊との交感を可能にするという観念が世界的なものならば、ブランコや木から吊るされる人形や仮面、そして首を吊るシャーマンも、《揺れる》ことで聖木に振動を与え、神霊に働きかける意味があったのかもしれない。また、儀礼用の巨大ブランコは高く激しく漕ぐもので、現実に転落死する者も稀ではなかったようだから、それもいっそうブランコと《死》を結びつける観念を強めたかもしれない。

 そうして、《死》を介し神霊に働きかけることで豊穣を呼ぼうとしていたのだろう。アカ族のブランコ儀礼には、天に向けて勢いよく漕ぐことで稲の生育を良くする呪的意味があるとの説があるが、台湾の布農ブヌン族では漕ぐブランコが高く上がるように粟も高く育つと言われている。神霊と交わることの出来るブランコを《命を産み出す力》を持つ女性が漕ぐことで、より確実に幸が得られると考えられていたに違いない。



 パミール高原の民話「白檀の木」には、一夫多妻制の妻たちが揃ってブランコで遊ぶ場面がある。妻たちは夫に最も愛されている一番若い妻を妬み、ブランコを揺するふりをして池に突き落として溺死させてしまう。同様の場面はインドネシアの「リンキタンとクソイ」にも見られ、妬んだ姉たちがあまりに激しくブランコを揺さぶったので、妹は飛ばされて海に面した崖に突き出した木に引っ掛かり、髪の毛が絡んで身動き出来なくなり、歌って呼びかけることしかできなかったとある。無論、これは《死》の比喩である。

 日本の「瓜子姫」の西日本に多い型でも、結婚を控えた娘が妬まれて木の上に縛りつけられ、歌って訴えることしかできない状態になる。もしくは木から吊るされて目を刺された、木から落ちて死んだなどと語られる。鹿児島県の類話「やまんしゃんご」では娘は髪の毛で木からぶら下げられて殺害されている。

 女たちのブランコ遊びというモチーフの根底には現実のブランコ儀礼の引き写しという面があるのだろうが、それにしても、《ブランコに乗る女》と《自分の髪で木に絡まっている女》というイメージが結び付けられているのは面白い。

 女が髪で果実のように木からぶら下がるというモチーフは、「達稼と達侖」や「手の無い娘」などの民話にも見られるが、よく知られているのはアラビアのワークワーク(ワクワク/ワクワーク)島伝説によってだろう。この島については九世紀半ばのアッバース朝の地理書『諸道諸国誌 Kitab al-Masalik wa I-mamalik』を始まりとして幾つかの地誌や博物誌に記載されているが、『千夜一夜物語』中の「バスラのハサン(バッソラーのハサン/ハサン・アル・バスリの冒険 )」にも白鳥乙女の故郷として現れてくる。世界の東の果てにあり、七つの島で構成されているとも、七つの海七つの山を越えた向こうにあるとも言う。これは七層の世界の最奥、天国の七つの門の向こうという意味の、冥界を示す定番表現の一つだ。要は異界の島(山)である。島は(太陽の象徴である)黄金に満ちており、様々な不思議な生物に満ち、一説によれば女人島だとも言う。この島には人の形の実のなる不思議な木があり、実は風に揺れると声をあげる。一説によれば実は瓢箪に似ていて、人の頭のようであり、木からもぐとすぐにしぼんでしまう。また別の説によれば人間の女そっくりの形をしていて、イチジクに似た実から生じて髪の毛によって木からぶら下がっている。実が熟すると「ワークワーク」と悲しげな声をあげながら木から落ちて死ぬ。島民はこの声を不吉の前兆とみなす。

 

 人の形の実または花をつける不思議な木の伝説はどうやらアラビアを発祥とし、西と東にそれぞれ伝わっていったものらしい。日本には中国から伝わり、『和漢三才図会』巻十四「外夷人物」等に記載されてある。

大食だいし

三才図会に云う、海の西南一千里に在り、山谷の間に居る。

樹有り、枝の上花を生ず。人首のごとく、ことばを解せず、人 借問すればただ笑うのみ。しきりに笑わば たちまちしぼみ落ちる。

 大食とは宋代に中国でアラビア人を指して言った言葉で、ペルシア語でアラビア人を指す《タジク》または《ターズィー》の音訳と考えられている。引用文中にあるようにこの記事は明の『三才図会』を元とし、『三才図会』の記事の元は『酉陽雑爼』らしく、そこではこの木を《人木》と呼び、大食の西南二千里にある国の山谷に生えるとしている。

 一方で、『酉陽雑爼』より六十年ほど古い『通典』巻百九十三には、やや異なった人木の記事がある。

また言う、その王(大食の王)は人を遣わして船に乗せた。衣服と食料を持って海に入り、進んで八年を経たが未だ西の果ての岸には着かなかった。

海中に一つの四角い石を見た。石の上には樹があり、枝は赤く葉は青く、樹の上には小児がぎっしりと生っていた。長さは六〜七寸、人を見ると喋らないが皆よく笑い、その手足を動かした。頭は樹枝にくっ付いている。人が摘み取り、入手するとたちまち乾いて黒くなった。その使者は一枝を得て帰還し、今それは大食王のところにある。

 人型の実を木から摘み取る(落ちる)とたちまち駄目になる点は、ワークワークの樹と同じである。

 ワークワークの樹の実は風に揺られる時、落ちる時、または日出と日没の際に「ワークワーク」と声をあげることになっているが、人木の実は人語を発さず、ただ笑う。笑って笑って独りでに落ちていく。この落花の様子は、日本の秋田県横手市に伝わる民話「座頭の木(坊様ぼさまの木)」を思い起こさせる。

座頭の木  日本 秋田県横手市

 昔、雨ばかり降って大水が出て大変だった年のこと。渡し守が川で流木を拾っていたところ、流れてきた座頭の遺体を見つけた。可哀想に思って畑に埋めてやると、三、四日後に見たこともない芽が出て、ずんずん育って大木になった。村の子供たちが「座頭を埋めた所から生えた、座頭の木だ」と触れまわったので、見物人が見に来るようになった。

 やがて大木は沢山の花を咲かせたが、五色ごしきの花がとりどりに開いて、その珍しいこと美しいことと言ったらない。しかも、よくよく見れば花の真ん中には座頭が一人ずつ座っており、それぞれが三味線やら太鼓やら横笛やらの楽器を持っていて、きちんと演奏するポーズをとっているのも面白いことだった。

 評判が評判を呼んで、見物人が四方から大勢押しかけた。おかげで渡し守はたいそう儲かったそうだ。

 そのうちに風が吹くと座頭の花はポチャンポチャンと落ちて川を流れて行ったが、その時にはそれぞれが楽器を鳴らして、テンテンじゃんじゃんピーヒャラと、それはもう賑やかだった。もっとも、中には無芸な座頭もいて、その花は川に落ちると早々にプクンプクン沈んでいった。

 花が全部落ちて流れ去ってしまうと、座頭の木には子供たちの欲しがるものが沢山ぶら下がっていた。赤い着物、赤い帯、赤い前掛け。下駄もおもちゃもある。子供が木の下に行って「あの帯が欲しいな」などと願うと、風が吹いて、ちゃんとそれが落ちてきたということだ。



参考文献
座頭(ボサマ)の木」/『スーちゃんの妖怪通信』(Web)

 また、人木の花にいくら話しかけても応えず、ただただ笑うという様子は、ケルトの海上冥界巡り譚「フェヴァルの息子ブランの航海」にある《笑う島》のエピソードを思わせる。女人国を求めての航海の途中、住人が笑い続けている奇妙な島を発見する。船から問いかけても返事をしないので船員を一人派遣したところ、上陸した途端に彼も笑い始めて応答しなくなり、仕方なく置き去りにして立ち去ったというものだ。

 思うに、この《笑う島》は『オデュッセイア』のロートパゴス人の国に相当し、冥界の一バリエーションである。笑い続けている人々は死者なのだ。「ブランの航海」の影響下にあると思われる、ケルトの「メルドゥーンの航海」にも類似エピソードがあるが、そちらでは全身真っ黒の人々が嘆きの声を上げ続ける島として描写されている。船員の一人が突然船から飛び降りてその島へ泳いでいき、上陸した途端に全身真っ黒になって嘆き始め、他と見分けがつかなくなったのでやむなく置き去りにしたと語る。《嘆き》、《黒》と、分かりやすいキーワードで《死》を象徴させている。

《死》と《笑い》は正反対だが、表裏一体の近しいものとしても扱われる。世界中の説話で《笑い》は《死》を《生》に転換する呪力ある行為として描かれるのだが、一方で、ルサルカが人をくすぐって笑い死にさせるように、河童が泳ぐ人の肛門から尻子玉(魂)を抜くと笑いながら死ぬと言われているように、《死》の姿の一つとしても扱われることがある。だから「ブランの航海」では死者たちは笑い続けているのだろう。

 人木の花は笑い続けて散る。座頭の木の花も散って、笑ったり「ワークワーク」と叫ぶ代わりに楽器を鳴らす。座頭の木は座頭の遺体から生え出たもので、花には小さな座頭が座している。これは、死んだ座頭の魂ではないのだろうか。

 古代エジプトの「二人の兄弟の話」では、ワニの守る川の向こうの谷に去ったバータが、自らの心臓をアカシア樹の花の上に置く。樹が倒されて心臓が地に落ちた時、彼は死んだ。落ちた心臓はしぼんでいたが、後に清い水に漬けられることで膨らみ、これをバータの遺体に呑ませると蘇った。この心臓がバータ自身の霊魂であることは疑いようがない。であれば、同じように木から落ちるとしぼむワークワークの樹の実や人木の花も、やはり人の魂……神霊なのではないか。

 イギリスの民話「地の果ての井戸」には、地の果ての水の底から立ち現れる《三つの頭》が出てくる。これは吉凶を託宣し、丁重に世話すれば幸を授ける。ロシアの民話には若者が道で《生首》を発見し、丁重に葬ることで幸を得るものがある。日本の「唄い骸骨」では殺された人間の頭蓋骨が唄い、復讐をする。オーディンは殺されたミーミル神の首だけを甦らせ、これに問いかけては必要な答えを得たという話があるが、シャーマンたる彼が語りかけ知恵を授かる存在とは何か。そう。説話に登場する《喋る生首、頭だけのモノ》は、《思考のみで肉体のない存在》、即ち神霊を表している。聖木は冥界に通じ、頭は神霊を意味する。ならば、木に人頭が鈴生りになった人木は、無数の霊魂が憩う(囚われている)冥界そのものを比喩したものではないだろうか。

 霊は多くの場合姿が見えにくく、《歌声や口笛で存在を示す、またはそれらによって召喚される》モノだとい観念がある。だからこそ座頭の木の花は散りながら楽器を鳴らし、ブランコの果てに木に髪で絡まった娘は唄うことでしか世界に働きかけることができないのだろう。なお、聖木の枝に憩う神霊の姿は必ずしも人の形で表されるものではなく、(人型ではない)果実、卵、鳥として表現されることも多い。鳥のさえずりと死者の歌声、神霊の託宣はしばしば同一視される。マルドリュス版の『千夜一夜物語』では、「ワークワーク」と声を上げるのは木の実ではなく鳥だということになっている。

 人木の花は笑って身を揺らし、やがて自ら落ちる。ワークワークの樹の実は風に揺られて声を上げ、枝から落ちて叫ぶ。死者の霊が聖木の枝から落ちるということは、人間として生まれ変わることでもあるのかもしれない。オーディンがユグドラシルの枝から落ちて蘇り、シャーマンになったように。そして実が枝から落ちるためには、揺さぶられねばならない。揺さぶられることで神霊は活性化し、この世に立ち現れる。



 木の枝からぶら下げて揺さぶるブランコは、交霊の儀式であり、《死》と関わる。そう考えてみれば、木や高い場所からぶら下がる死者の説話は数多い。

 ギリシアの伝承によれば、マルシュアス神はアポロン神に音楽勝負を挑んで敗退し、罰として生皮を剥がれて、皮は松の木に打ち付けられたと言う。マルシュアスは馬の蹄と耳と尾を持っていたとされる。あるいは、羊の蹄と小さな角を持っていたとも言う。いずれにせよ半人半獣の神で毛むくじゃらであった。木に吊り下げられた獣皮というイメージは、アルゴー船を率いた王子イアソンが探求した金羊皮の有様を思い起こさせる。それは竜口(冥界の入口)の傍らの木の枝に掛けられ、ぶら下がっていた。

 ところで、この金羊皮の持ち主だった黄金の雄羊は、人を背に乗せて空を駆け、異界へと運ぶ能力を持っていた。「若返りのリンゴと命の水」や「梵天国」など、多くの説話では主人公は馬に乗って冥界に出入りする。また中国の七夕伝説蚕の起源伝説では主人公は牛や馬の皮に包まれて昇天する。このように、馬・羊・牛のような獣、そしてその皮(死骸)には、人を神霊のもと…死の世界、冥界へ運ぶ力があると考えられていた。

 自ら世界樹に吊り下がったオーディンはスレイプニルという八本脚の神馬を持っており、ヘルモード神にこの馬を貸し与えて冥界の女王の城を訪ねさせたことがある。そして世界樹の名《ユグドラシル》の語源は《恐るべき者の馬》、すなわち《オーディンの馬》だという説がある。オーディンは世界樹に九日九夜ぶら下がった。つまり、神馬に乗って九層の世界の扉を順に通り抜け、神霊の世界〜冥界の最奥へ旅したのだと読める。

 シベリアのタタール人の伝承によれば、冥王エルリクハーンの王宮の前には九つの根のあるモミの木がそびえ立っており、エルリク汗はこの木の幹に自分の馬をつなぐと言う。また、モンゴル人の伝承によれば、世界は四面体の山で、その頂に宇宙樹が生えており、神々はその樹を自分たちの馬をつなぐ杭として使用すると言う。オーディンが自分を樹に繋いでぶら下がったように、神馬は世界樹につながれており、その情景そのものによって《冥界と現界の行き来》を暗示しているとも取れる。

兵士と死神」では、恐れを知らぬ退役兵が死神を叩きのめして袋に入れ、高い木に吊るしてしまう。「青髭」では、壮麗な屋敷の奥の開かずの扉の向こうに、悪魔的な夫の前妻たちの死体が吊り下げられている。「アリ・ババと四十人の盗賊」では、盗賊の洞穴に忍び込んだ男が四つ裂きにされ吊るされる。「脂取り」では山奥の壮麗な屋敷の奥で半死人を吊り下げて脂を取っている。

 死体にまでならなくとも、主人公が人食い鬼に捕まった時、或いは逃げて隠れた時に、袋や箱に入れられて吊り下げられたと語られることは少なくない。「賢いモリー」がそうだし、「三枚のお札」ですらそうだ。人食い鬼とは冥王であり《死》そのものなのだから、この場合もやはり、吊り下げられることと冥界は関連付けられているように思われる。

 

 要は、《人間が吊り下げられてブラブラしている》というシチュエーションは、冥界の光景を示す、説話の定番表現の一つであるらしい。

 どうしてこれが冥界の光景なのだろうか。前述のように、揺さぶる行為が交霊儀式だからなのか。聖木に宿る果実という霊魂のイメージからか。それとも跳ね枝の罠にかかった獣が木から逆さにぶら下がっているイメージなのか。あるいは、狩った鳥獣は軒先や貯蔵庫に吊るして保存されることがあったから、その日常的経験がこのイメージを生んだのだろうか。説話の世界では冥界神(太陽神)は人食い鬼として語られることが多い。人が鳥獣をむしゃむしゃ食べるように、《死》は人の魂をむしゃむしゃ食べるものだから、人間が食肉を保存する方法と同じやり方で、神も人間の魂を保存する……ぶら下げておく、と考えた可能性もある。またあるいは、これら幾つものイメージが複合しているのかもしれない。結論は容易には出せない。



 ベラルーシの伝承によれば、ルサルカは白樺の木によじ登り、自分の髪の毛を枝に結ぴつけて飛び降りて、ウウ、グゥと叫びながらブランコをすると言う。この有様は木で首を吊ったエリゴネを思わせるし、髪の毛で木からぶら下がって声を立てるワークワークの樹の実をも思わせる。そしてこれは、女性のブランコ遊びでもある。

 女神は聖木の枝からぶら下がり、不吉な声で呻きながら、あるいは鳥の声で笑いながら、ゆさゆさと妖しく揺れて豊穣を呼んでいる。

参考文献
『世界樹木神話』 ジャック・ブロス著 藤井史郎/藤井尊潮/善本孝訳 八坂書房 1995.
『ギリシア神話〈上〉』 呉茂一著 新潮文庫 1979.
『ギリシア神話小事典』 バーナード・エヴスリン著、小林稔訳 現代教養文庫 1979.
『ギリシア・ローマ神話辞典』 高津春繁著 岩波書店 1960.
『ディオニューソス――神話と祭儀』 ワルター・F.オットー著、西澤龍生訳 論創社 1997.
鞦韆考」 原勝郎著/『日本中世史の研究』 同文館 1929./『青空文庫』(web)
ロシア鞦韆考」 坂内徳明著/『一橋大学研究年報 社会学研究 20』 一橋大学 1981./『一橋大学機関リポジトリ HERMES-IR』(Web)
ぶらんこのはなし」/『書迷博客』(Web)
『大地・農耕・女性 ―比較宗教類型論―』 M.エノアーデ著、堀一郎訳 未來社 1968.
『ロシアの妖怪たち』 斎藤君子著、スズキコージ画 大修館書店 1999.
金銀島」/『望楼夢』 長谷川 亮一著(Web)
『ケルト神話と中世騎士物語 「他界」への旅と冒険』 田中仁彦著 中公新書 1995.
『あの世の事典』 水木しげる ちくま文庫 1989.



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