1937年、ウォルト・ディズニー社は自社制作の長編アニメーション映画第一作の原作に、グリムの「白雪姫」を選択した。このアニメの印象はあまりに鮮烈であり、現在「白雪姫」と言えば誰もがこのディズニーアニメ版を思い浮かべるように思われる。民話の中ではメジャーとは言えなかったこの物語は、アニメ化によって、一躍、世界中の誰もが知る有名タイトルになったのだ。
ただ注意しておくべきことがある。ディズニーアニメ版は牧歌的でロマンチックな映画的アレンジを加えたものであって、原作とはニュアンスや細部の展開が異なっている。たとえば、アニメでは白雪姫は王子の愛のキスで目を覚ますが、原作では王子の従者のもたらした偶然によって口から毒リンゴの欠片が転がり出て目覚める。これは民話の【白雪姫】話群の基本展開でもあるのだが、アニメの印象があまりに強かったからか、本来の展開の方は世間には知られていないものになってしまった。
文献上では、この民話の形を確認できる最も古いものはシェイクスピアの戯曲『シンベリーン』(1609-1610年)だという。
シンベリーン イギリス シェイクスピア
古代ブリテンの王シンベリーンは、二人の王子と一人の王女を持っていた。しかし妻は亡くなり、王子たちは幼い頃に行方不明となって、その分も残った王女イモージェンを可愛がっていた。
シンベリーン王は美しい後妻を得た。彼女にはクローテンという息子があり、王夫妻は彼とイモージェンを結婚させようと考えていた。ところがクローテンはとんでもないロクデナシ。イモージェンは父に相談もせず、身分は低いが立派な若者、ポステュマスと結婚してしまった。王は激怒し、イモージェンは軟禁、ポステュマスは追放した。
かつて父の友人だったローマ人・フィラーリオの館にポステュマスは身を寄せる。彼をやっかんだフィラーリオの友人・イアーキモがあれこれ揶揄すると、ポステュマスは我が妻ほど完璧な女性はいないと豪語した。むきになった二人はとうとう指輪と大金を賭けて、イモージェンが本当に貞節かどうか賭けをすることになった。イアーキモはブリテンを訪れてイモージェンを誘惑し、唇を奪おうとするが、彼女は毅然とした態度で跳ねのける。イアーキモは誘惑を諦めざるを得なかったが、賭けに負けたくなかったので策を弄した。明日の出発まで貴重品の入ったトランクを預かってくれませんかと頼み、イモージェンは快く引き受けてそれを寝室に置く。実はそのトランクの中にイアーキモが潜んでいたのだ。彼はイモージェンが寝静まってから外に出て、イモージェンの寝ている姿を観察し、寝室の様子を書き留め、ポステュマスからの愛の贈り物である腕輪を、眠る彼女の腕から抜き取った。それからまたトランクに戻り、翌朝には何食わぬ顔でローマに帰ったのである。
イアーキモから「イモージェンと甘美な一夜を過ごした」と寝室の様子も交えて告げられても、ポステュマスはまだ半信半疑だったが、腕輪を見せられると絶望し、妻の裏切りを信じ込んだ。嫉妬に狂い、召使いのピザーニオに手紙を送って、彼女の殺害を命じたのである。
さて、イモージェンの継母である王妃は、なんとかして玉座を我が息子のものにしたいと考えていた。彼女は宮廷お抱えの医師に命じて次第に衰弱する毒を調合させた。犬や猫で実験して薬品への知識欲を満たしたいのだと彼女は言ったが、医師は怪しんで、一時的に仮死状態になるだけの薬を調合していた。そうとは知らない王妃は、偶然を装ってピザーニオに薬を見せ、「これは万病に効く希少な薬です」と言って与えた。ピザーニオの手からイモージェンに渡り、それで継娘が死んだら勿怪の幸いだと思っていたのだった。
ピザーニオはポステュマスからの呼び出しの手紙をイモージェンに見せ、宮殿から離れた地へ彼女を連れ出した。夫に逢えると喜び勇んでいたイモージェンは、ピザーニオから残酷な真実を打ち明けられた。ポステュマスはイモージェンが裏切ったと思っており、殺害を命じたのだと。怒り嘆くイモージェンに、ピザーニオは勧めた。今は身を隠して生き延びよと。予め用意しておいた男物の服に着替えさせ、明日にはローマの将軍リューシャスがこの地を訪れるはずだから、彼の従者になってローマに行けば、ポステュマスの様子も探れるに違いないと道を示した。また、彼は王妃に渡された薬を、貴重な薬だと思い込んで女主人に渡したのだった。
少年の姿になったイモージェンは、フィディーリと名乗ってローマの将軍の居場所を目指した。しかし道に迷い、誰かが住んでいる洞穴を見つけた。空腹のあまり、そこに用意されてあった料理を食べて眠りこんだ。
やがて洞穴に三人の猟師が帰って来て、この綺麗な少年を見つけた。彼らは老父と若い二人の息子で、母は既に亡くなっていた。嘘の身の上話に納得して、彼らはイモージェンを受け入れてくれた。特に二人の息子はこの少年を非常に気に入り、本当の妹か弟のように思える、と話し合うのだった。それもそのはず、実は彼らは行方不明になったイモージェンの実の兄たちだったのである。濡れ衣を着せられて宮殿を追われた武将が、せめてもの報復にと王子たちを連れ去り、そのまま我が子として育てていたのだった。彼らは自分の出自を知らずに猟師を本物の父だと思い込んでいたが、血は争えないものか、自然に威厳と気品を備えていた。
あくる日、猟師たちが狩りに出た間に食事の支度をしようとしたイモージェンは、疲労を回復させようと、ピザーニオにもらった王妃の薬を飲んだ。途端に彼女は仮死状態になって倒れた。
一方、ピザーニオを脅してイモージェンがどの方へ行ったか聞きだしたクローテンが、洞穴の辺りにやってきた。彼はポステュマスの服を着ていた。その姿でイモージェンを犯し、嘲笑ってやるという卑劣な企みのためだった。そんなクローテンと、猟師の長男がばったり出くわした。クローテンは「俺は王妃の息子だぞ」と威張り散らしたが、長男はまるで怯まず、クローテンと戦って、その首を切り落としてしまった。
猟師たちは、仮死状態のイモージェンを死んだと思い込み、嘆き悲しみながら首なしのクローテンと共に埋葬した。
やがてイモージェンは目覚め、ポステュマスの服を着た首なし死体を見て、てっきり夫が殺されたものと思って絶望し、全てはピザーニオの企みだったのだと誤解して呪った。そこにローマの将軍リューシャスがやって来て、イモージェンを救い出した。少年の姿のイモージェンは彼の従者となった。
まもなくブリテンとローマの間に戦争が起きた。猟師一家ははブリテン側に加勢して華々しい活躍を見せ、ブリテンの勝利となった。一方、ローマの陣営にいたイモージェン、彼女に濡れ衣を着せたことを後悔していたイアーキモは捕虜になって囚われていた。妻を殺したと思って自暴自棄になっていたポステュマスは、死を願うあまりにローマ人と偽り、自ら捕虜になっていた。
ちなみに王妃はといえば、息子が死んだことを嘆くあまりに衰弱し、全ての罪を告白して病死してしまった。
人々が一堂に会した時、全ての誤解は解かれ、真実は明かされた。ポステュマスとイモージェンは手を取り合い、シンベリーン王は失ったと思っていた三人の子供を取り戻したのだった。
※眠る女性の寝室に入り込み、愛の証の腕輪を奪うくだりは[ニーベルンゲン伝説]と共通している。【白雪姫】話群と【眠り姫】話群が近しいことを示している。
参考 --> 「あなたはだれ?」
また、イタリアのバジーレによる民話集『ペンタメローネ』に収められた「奴隷娘」(1634年)も、【白雪姫】的モチーフを含んでいることで知られている。
奴隷娘 イタリア 『ペンタメローネ』二日目第八話
昔、セルウァスクーラの某男爵に、リッラという妹があった。リッラはよく同じ年頃の友達と庭で遊んでいたものだが、ある日、美しい満開のバラを見つけて、この木を葉っぱ一枚触れずに跳び越せた者が賞品をもらうという遊びを思い付いた。少女たちはカエルのように跳ねて挑戦したが誰も成功しなかった。リッラの番になった時、上手に跳び越せたが、薔薇の花びらが一枚だけ散ってしまった。咄嗟に、リッラはそれを誰にも見られないように素早く拾って食べてしまい、一等の賞品をもらった。
それから三日もしないうちに、リッラは自分が妊娠していることに気がついた。何一つ心当たりなどないと言うのに。不安に泣いて、リッラは親しい妖精たちのところへ行って相談してみた。すると妖精たちは「心配しないで。薔薇の花びらを食べたせいですよ」と教えてくれた。
原因が分かって落ち着いたリッラは、大きなお腹をごまかして密かに愛らしい女の子を産んだ。リーザと名付けた赤ん坊を妖精たちに見せに行くと、それぞれ良い贈りものをしてくれたが、最後に駆けつけた妖精が転んで足をねじり、怒って「この子が七つになったら、母親がこの子の髪にさした櫛が元で死ぬだろう」と定めてしまった。
七年後に本当にリーザは死に(具体的に何が起こったのかは原文でも語られていない)、リッラは七重のガラスの箱に娘の亡骸を納めて、屋敷の端の部屋に置いて鍵をかけた。悲嘆のあまりリッラもまた、まもなく死んだが、兄の男爵に部屋の鍵を渡して「私の持ち物は全てお兄様に。けれど屋敷の一番端の部屋だけは開けないで。この鍵はしっかり箱にしまっておいてください」と言い遺したのだった。
男爵は妹の遺言を守り続けていた。何年も過ぎ、その間に彼は結婚した。ある時、狩猟の集いに招かれて留守にすることになったが、その時に妻に家のことを頼みながら、こう忠告した。「この箱の中に鍵があるが、屋敷の隅のあの部屋だけは決して開けてはならないよ」と。
夫が出かけてしまうと、妻は猜疑心と好奇心に駆られて箱から鍵を取り出し、例の開かずの間に踏み込んだ。するとガラスの箱の中に女の子の姿が見える。一つずつ、七つ全ての箱を妻は開けた。ガラスの箱に入ったままリーザは成長しており、箱の方もそれに合わせて大きくなっていたのだが、妻の知るところではなかった。
美しいリーザを見て、妻は嫉妬に狂った。
「まあ、なんて綺麗な人かしら。しっかり見張っていたつもりだったのに、あの人ときたら浮気していたのね。ここを開かずの間にしておいて、お棺の中のマホメット様を拝んでいたんだわ」
妻はリーザの髪を鷲掴んで箱から引きずりだした。その拍子に髪にささったままだった櫛が抜け落ち、リーザは目を覚まして母を呼んだ。
「お母様、お母様」
「いいとも。お母様だろうとお父様だろうとくれてやるわよ!」
妻はひがみ屋で怒りっぽい性質だったので、リーザの髪をバッサリ切ってボロを着せ、毎日殴る蹴るした。リーザの目の周りは黒ずんだあざになり、口元は血まみれになった。狩猟から戻った男爵が「これは誰か」と尋ねると、妻は「叔母にもらった奴隷ですわ。物覚えが悪くて、しょっ中殴らなければ役に立たないんです」と答えた。
市が立った日、男爵は屋敷中の者、猫に至るまでに土産は何がいいか尋ねた。最後に彼がリーザに目を向けただけで、妻はカッとして「まあそうですか。こんな奴隷まで一緒にするなんて、身分も何もありませんわね! こんなろくでなしの奴隷なんて放りだしてやるわ。くたばっちまえ!」と喚いた。優しい男爵は構わずにリーザに何が欲しいか尋ねた。
「人形とナイフと軽石が欲しいのです。これをお忘れになったら、お帰りの時、最初の川をお渡りになれないでしょう」
果たして、男爵がリーザへの土産だけを忘れて帰ろうとすると、川辺に石や流木が積み上げられて通れなかった。あの娘の魔法だな、と気付いた男爵は市に戻って約束の品を買い、無事に帰ることができた。
男爵に土産をもらうと、リーザは台所に行って人形に今までの辛い身の上を語りかけた。布製の人形は相槌など打ちはしない。リーザはナイフを出して軽石で研ぐと「さあ、何か言わなきゃこれで刺してやるから」と脅した。すると人形は風になびく葦のように揺れて答えるのだった。「はい、分かりました。聞こえますよ」
こうして二日間、リーザは人形を相手に自分語りを続けていた。二日目にやっと、台所の隣の小部屋にやってきた男爵がこの声に気がついた。鍵穴から覗くとリーザが語っている。男爵の妹のリッラが薔薇を跳び越えて花びらを食べ、妊娠したこと。こうして産まれた自分に、妖精が祝福と呪いを授けたこと。髪にさされた櫛のために死に、七重の入れ子のガラス箱に納められて開かずの間に置かれたこと。母の死。部屋の鍵は伯父が持っていたが、言いつけに背いた伯母が鍵を開けて、自分の髪を切って奴隷にしたこと。
「何か言ってお人形ちゃん。でないと私、このナイフで死んでしまう」
リーザが泣きながら軽石でナイフを研いだ時、男爵は扉を蹴破って台所に躍り込み、姪の手から危うくナイフを取り上げた。
男爵はリーザからもっと詳しい話を聞き出すと、暖かく抱きしめてやった。見るも哀れに痩せ細っていた彼女を家から連れ出し、親戚の家に預けて養生させた。
数ヵ月経って、女神のように美しく回復した彼女を連れ帰ると、人々に自分の姪だと紹介して宴会を開いた。食事が終わったところで、男爵はリーザに身の上を話させた。伯母の残酷な仕打ちも何もかも。誰もが彼女に同情した。男爵は妻を追い出して実家に帰し、リーザには素敵な婿を選ばせてやった。
参考文献
『ペンタメローネ』 バジーレ著 杉山洋子/三宅忠明訳 大修館書店 1995.
※この話は、正統な立場にもかかわらず虐げられた主人公が、その胸のうちを非生物に向かって語って、横で聞いている父親的存在に知らせるという点で、グリムの「がちょう番の娘」にも似ている。
人形に語りかけると返事をするというのはシンデレラ系話群でも見かけるモチーフだが、一種の交霊術なのだろう。亡き母親が遺した人形が、特定の儀式を施すと動き口をきいて、継母に苛められる主人公を助けたり、意に沿わぬ結婚を強いられた主人公を地に呑み込んで逃がしたりする。-->「うるわしのワシリーサ」
リーザが納められる棺桶が七重のガラスになっているのは、冥界を示す表象である。説話では、ガラスはしばしば《この世ならぬもの、あの世のもの》として扱われる。ガラスの靴を履くシンデレラは冥界の力で美しく転生した存在だし、登るのが困難なガラス山は、日本的感覚で言うなら地獄にある針の山である。そして、メソポタミアの神話で女神イナンナが冥界に下る際に七つの門を通ったように、七つの山、七つの海、七つの扉、七重の箱の奥に冥界がある…大切なものが隠されてあると語る民話は数多い。
ヨハン・カール・アウグスト・ムーゼウスの『ドイツ人の民話』に収められた「リヒルデ」(1782年)は宗教的要素が強いものの、魔法の鏡や半分に毒を仕込んだ果実、真っ赤に焼けた鉄の靴での懲罰が出てきて、グリムの「白雪姫」(1812-1857年)にかなり近い。また、この物語は民話にかなりの小説的アレンジを加え、なんと主人公を白雪姫ではなく継母の方にしてある。視点は常に継母の方にあり、リヒルデというのも継母の名前なのである。
リヒルデ ドイツ 『ドイツ人の民話』
十字軍の遠征が行われていた頃のこと。
ブラバンドのグンデリヒ伯爵は人の模範となるほど信心深く、彼の城は常に祈りの声と鐘の音で満たされてあった。しかしそんな彼にも、ただ一つ苦しみがあった。子宝に恵まれなかったのである。
夫に、子に恵まれぬのはお前の信心が足りぬせいだと責められた妻のヒルデは、城に滞在していた高位の聖職者アルベルトゥス・マグヌスに相談した。彼はローマ法皇の用のために旅をしている途中だった。アルベルトゥスは「帰りにまたここに立ち寄るが、その時には身体に変化が起きているでしょう」と予言した。その通りになり、アルベルトゥスが再訪した時にはヒルデは愛らしい女の子を抱いていた。娘に記念の品を贈ってほしいとせがまれて、アルベルトゥスは九日間部屋にこもり、ある細工物を作って贈った。
やがて伯爵が亡くなり、ヒルデは修道院で娘・リヒルデの教育に力を注いだが、リヒルデが十五歳の時に亡くなった。死に際に、ヒルデは娘にアルベルトゥスから贈られた品を渡した。それは純金の枠にはめられた金属製の鏡であった。
「呪文を唱えれば、この鏡はお前の質問に何でも答えてくれるでしょう。ですが、愚かな質問で鏡を煩わせるようなことをしてはいけません。……この白く光る鏡が、悪徳の有害な息を吹きかけられて、お前の顔の前で曇ることがありませんように……」
リヒルデは美しい娘に成長していた。誰もが彼女の美しさを褒めたたえたが、本心からの言葉だろうかとリヒルデは危ぶんだ。その時、母の形見の鏡のことを思い出し、呪文を唱えて「ブラバンドで一番美しい女の姿を見せておくれ」と言うと、そこに彼女自身の姿が映った。自信を得たリヒルデは高慢の虫に取りつかれた。
多くの求婚者が現れたが、リヒルデは彼らの血筋や功績に関心を持たなかった。優しさや誠実さもどうでもよかった。彼女はただ、最も美しい男性を夫にしたいとしか思わなかったのだ。彼女は鏡を取り出し、呪文を唱えてから言った。「ブラバンドで最も美しい男性の姿を見せておくれ」。そこに映ったのは知らない男だった。リヒルデは夢のお告げと偽って男の特徴を人に告げ、その男がゴンバルト伯爵であることを知った。
絶世の美女・リヒルデが運命の相手を夢に見た、それはゴンバルト伯爵である……という噂は、やがてゴンバルト伯爵自身の耳にも伝わった。彼には既に妻子があり、幸福な結婚生活を営んでいたが、リヒルデの美貌の魅力に負けて、優しい妻への愛情を捨てた。大金を積んで大僧正から離婚特許状をもらい、妻を修道院に押し込めた。妻は間もなくやつれ果てて死んだ。遺された一人娘を別邸に連れて行って、数人の下女と小人に世話を命じた後、伯爵は身支度を整えてリヒルデの元に急いだ。
しかし、二人の結婚生活は長続きしなかった。ひどい喧嘩をした後で伯爵は聖地イェルサレムで心の平安を得たいと旅立ち、一年後に、彼がシリアでペストにかかって死んだという報せが届けられた。リヒルデは悲しまなかった。求婚者は後を絶たなかったし、最上の美女であるという誇りが彼女を支えていた。
ところがである。その誇りを確認するために魔法の鏡に問いかけると、なんと、自分ではない女性の姿が映し出されたではないか。「優雅な女神のように美しく、穢れを知らない」というその若い女性は、ゴンバルト伯爵の遺児であり、リヒルデにとっては継娘になるブランカ(白姫)だった。
リヒルデは宮廷お抱えのユダヤ人医師・ザムブールを呼んでザクロを渡し、その半分に、食べて数時間のうちに死ぬ毒を仕込むよう命じた。金貨五十枚をもらった医師は、針で果実に三つの穴を空けて毒を注入した。
リヒルデは従者たちを連れてブランカの住む別邸へ出向き、「今は亡き、あなたの父であり私の夫である人を、共に悼みましょう」と優しく語りかけた。食事が済むと、リヒルデは食後に果実を食べる習慣だと言って、持参した果物の半分をブランカに与えた。リヒルデの一行が帰ってから数時間後、ブランカの心臓に痛みが走り、血の気を失って息を引き取った。小人たちが彼女を棺に横たえた。
リヒルデが魔法の鏡の覆いを取ると、金属の表面のそこかしこに大きな錆びの斑点が出来ていて、鏡像は歪んでいた。それでも映るのが自分の姿であることに満足し、それからも何度も見ては快感を味わっていた。
ところがある日、鏡は唐突に、再びブランカの姿を映すようになった。どうやってか彼女は蘇生したのだ。リヒルデはまた医師に金貨を握らせて、阿片入りの石鹸を作らせた。リヒルデの命により、年老いた乳母が化粧品売りに変装して、アンチエイジング効果があると言ってその石鹸をブランカに売った。計画は成功し、鏡は再びリヒルデを映すようになった。しかし斑点は広がり、鏡像は殆ど見えなかった。実質的に、魔法の鏡は失われたのだ。しかしリヒルデは満足していた。
そんなある日、旅する騎士が城に立ち寄って宿を乞うた。客人としてもてなせば、彼はブランカを見たことがあると言う。ブランカは死んだはずだ。だが彼は生きた彼女を見たと言い、宴席で酒に酔った勢いで、ブランカ嬢をブラバンド一の美女と思わぬ者がいたら決闘してやるとまでまくし立てた。
リヒルデは激怒した。ブランカは死ななかった、お前の毒薬が効かなかったのだと医師を責め、その髭を抜き両耳を削いで塔に投げ入れた。そうしてから、今度こそ確実に殺せと、ブランカあての手紙の封印に猛毒(芥子の実)を仕込ませた。手紙の封を切るとブランカは倒れ、それからずっと、リヒルデの耳にブランカの消息が届くことはなかった。
ここで物語の視点は一度ブランカに移る。ブランカは今まで二度死んだが、二度息を吹き返した。しかし三度目は長い間甦らず、人々はもはや絶望していた。
そんな時だ、ゴットフリートという青年が現れたのは。彼はアルデンネの貴族で、罪を重ねて非業の死を遂げた父の供養のために巡礼の旅に出てローマ法皇を訪ね、帰路にある全ての教会で祈りを捧げるという条件で父の罪の許しを得た。そうして故郷へ戻る旅の途中だったのだ。ブランカの死を悼む鐘の音を聞いて、祈りを捧げるべく立ち寄ったゴットフリートは、小人たちから哀れな娘の話を聞くと墓地への案内を求めた。
彼は墓室に入り、横たわるブランカの胸の上に、ローマ法皇から賜った聖遺物を乗せた。すると彼女は息を吹き返した。ブランカから継母の迫害について聞いたゴットフリートは、もう少しここに身を隠しているように忠告して、急いで故郷に帰った。母親に様々なことを報告すると、取って返してブランカを連れ出し、アルデンネの城に迎えて保護した。
日々が過ぎるうちに、若い二人を愛の感情が結びつけた。結婚式の準備が行われるなか、ゴットフリートはブラバンドへ向かった。結婚をする前に継母への報復をしてやると、彼はブランカに誓っていたのだった。
訪ねてきた若く美しい騎士を、リヒルデは女神のように豪奢で妖艶な装いで誘惑しようとした。ゴットフリートは誘惑に負けたふりをして、老いた母を置いてはおけないので、アルデンネへ来てほしいと持ちかけた。ゴットフリートにすっかり心奪われていたリヒルデは承知し、耳を削いだ医師を含む多数の供を従えてアルデンネへ赴いた。
一行がアルデンネの城に到着した時、(かねてからの打ち合わせに従って)ゴットフリートの小姓が「私の愛する女性が、継母の嫉妬で殺されてしまいました」と報告した。ゴットフリートはリヒルデに尋ねた。
「そのような罪を犯した女には、どのような復讐が相応しいと思いますか?」
何も気づかずにリヒルデは答えた。
「そんな残酷な母親は、殺された女の代わりに、燃えるほど熱い鉄の靴を履いて花嫁の列に加わるがいいわ。それが亡くなった方の心の傷を癒す薬になるでしょう。だって、復讐は愛のように甘く素敵なものですもの」
その瞬間、隣室の扉がさっと開かれ、花嫁衣装を着たブランカの姿が見えたので、リヒルデは衝撃のあまりに気を失って倒れた。
結婚式が済んだあと、器用な小人たちが鋼鉄で靴を作り、真っ赤に焼いてリヒルデに履かせた。彼女は踊るように飛び跳ねて苦しんだ。ただし殺されることはなく、足の火傷も、医師ザムブールの調合した膏薬のおかげで癒された。罪の報いとして、彼女は長い間、塔に幽閉された。
一方、ゴットフリートとブランカは幸せに暮らした。そして医師ザムブールに充分な礼を尽くした。
ブランカが三度蘇ったのは、実は医師ザムブールが良心にのっとって、毒ではなく麻酔薬として働くように加減して調合していたからだった。三度目は効き目が強すぎて回復に時間がかかったのだ。
ザムブールの家系は栄え、その子孫の一人はモロッコ王に仕えて、今日まで幸せに生きている。
参考文献
『メルヘンの履歴書 時空を超える物語の系譜』 宮下啓三著 Keio UP選書 1997.
※白雪姫の蘇生を「医師が麻酔薬を調合していたから」と合理化している。これは二百年近く前のシェイクスピアの『シンベリーン』の段階ですでに現れている筋つけだが、おかげで物語の締めが医師の手柄の賞賛と家系の繁栄話になるという、ちょっと不思議なことになっている。尤も、「花世の姫」でも締めは花世の姫に親切にした秋野の家の繁栄話になっていたが。そういえば「父不在の寂しさを共に慰め合おう」と言って継母が継子に近づくが、実は殺害を目論んでいるという展開も、この話と「花世の姫」は共通している。継子殺害計画に継母の乳母が参加するのも同じだ。
主人公を継母にしているのは面白い。信心深いが子に恵まれない夫婦の間に、聖人の予言によって誕生した美しい娘。十二分に正統派ヒロイン設定だ。しかし美しさにこだわりすぎたために、彼女の心は錆びて曇ってしまう。
この小説は『グリム童話』の三十年ほど前に書かれたものだが、内容から見て、グリム版「白雪姫」とほぼ同じ形にまとまった民話が、これ以前から世間に流布していたことは確実である。
この小説で継母が毒を仕込む果実を最初ザクロ(Granatapfel)と記述してあり、後の記述ではリンゴ(Apfel)にしてあるという。ザクロの「半分」に毒を仕込むのもおかしな感じだし(毒針を刺したのは三か所)、なにより、医師はこの果実でエデンのリンゴやトロイア戦争の原因となった黄金のリンゴを思い浮かべている。以上のことから物語的にはリンゴの方がしっくりくるようにも思えるが、はて…?
実は西欧各国では古く、現在言うところの《リンゴ》はベリー系以外の果実全般を表す言葉だった。つまり後の記述でApfelと書いてあるのは、単に「果実」というほどの意味ではないかと思われる。
ゴットフリートの贖罪のためのローマ巡礼、魔的な美女の誘惑を退けて清純な乙女と結ばれる展開には、ほのかにタンホイザー伝説の匂いが感じられる。
【白雪姫】系民話は西欧全域の他、アフリカにも分布しているという。日本民話にも「お月お星(お銀こ銀)」という類話があることが知られている。(この話では、小人役と王子役を、白雪姫の異母妹が兼ねている。棺に入れられた白雪姫の《目を開かせる》のは、妹の姉を想う涙である。王子はその後に通りかかり、類話によっては白雪姫と結婚したと語られるが、影が薄い。姉妹の、父との再会の方が感動的に盛り上げられている。)視野を【眠り姫】系にまで広げれば『千夜一夜物語』にも類話があり、インドにも見いだせる。
グリムの「白雪姫」の冒頭には、黒檀の枠の窓辺で縫い物をしていたお妃が、針で指を突いて雪の中に血を三滴落とし、その色のコントラストの美しさに感銘を受けて、雪のように白く血のように紅く黒檀のように黒い子を望む、というシーンがある。
昔々、真冬のこと。雪がちらちら鳥の羽のように空から降っていたとき、ひとりのお妃が黒檀の枠の窓の側に腰かけて縫いものをしていた。そして外を見上げた拍子に針で指を突いてしまい、血が三滴、雪の中へ滴り落ちた。
その紅い色が、白い雪の中で大層きれいに見えたものだから、お妃は独りごちた。
「雪のように白くて、血のように紅くて、黒檀のように黒い髪をした子がほしいものだわ」
それから間もなく、お妃に愛らしい女の子が産まれた。その姫は雪のように色白で、唇と頬は血のように紅く、黒檀のように黒い髪の毛を持っていたので、白雪姫という名を付けられた。この子を産むと、お妃は死んだ。
昔から、この印象的なシーンには特別なメッセージが込められていると考える者は多かったようだ。フロイト派の心理学者ブルーノ・ベッテルハイムが、著書『昔話の魔力』において、雪に滴った三滴の血を「経血もしくは破瓜の血」の暗示だと説いたのは有名である。彼はメルヘンとは即ち童話であって子供を教育するために存在すると定義しており、滴った三滴の血というシーンから子供たちは「出血なしには性行為〜出産は有り得ない」と無意識に学ぶのだと主張した。白い雪は無垢、赤い血は性的情動で、この二つの心の内面的葛藤、思春期の少女の《婦人》への成熟こそが「白雪姫」という物語のテーマなのだと。
だが実を言えば、「雪の上に滴った血を見て、そのような容姿の人間を望む」というモチーフは「白雪姫」独自のものではない。同じ『グリム童話』内でも「杜松の木」にある。
奥方は子供がほしくてほしくてしょうがないものだから、子供が出来ますように、子供が出来ますようにと、昼も晩も一生懸命お祈りした。
夫婦の家の庭に、
「血みたいに赤くて、雪みたいに白い子供がほしいものだわ」
ところが、そう言っているうちになんだかうれしくなってきて、それが現実になるような気がした。
やがて春になり、七月になると、杜松の木には実が重くみのった。奥方はそれをとって、がつがつと食べた。そして九月に雪のように色白で血色のいい男の子を産んだ。そして、「私が死んだら杜松の木の下に埋めてください」と言って、死んでしまった。
「黒色」の要素こそないが、「白雪姫」の冒頭に非常に近い。なお、この物語の主人公は少年である。
同様のモチーフは、ケルト伝承に起源がある騎士パーシヴァルの聖杯探索譚や、同じくケルト伝承の
ディアドラ(災いと悲しみを招く者、の意)は母の胎内にいる時に叫び声をあげた呪われた娘だった。彼女のために多くの戦士が命を落とすことになるだろうとドルイド僧は予言した。コノール・マックネッサ王は周囲の反対を押し切って、この赤ん坊を殺さずに森の中の高い塀に囲まれた砦で育てさせた。彼女の厄を祓い、成長した暁には妃にしてやろうと言うのだった。砦の中に入るのが許されたのは乳母夫婦と女詩人(家庭教師)の三人だけで、ディアドラは他の誰も知らずに成長し、絶世の美女となった。
そんなある冬の日、乳母の夫が夕食のために小牛を殺し、その血が白い雪を真っ赤に染めた。するとカラスが飛んできてその血をすすり始めた。この光景を窓から見ていたディアドラは、側にいた女詩人に言った。
「私は、あの三つの色をした方と結婚したいわ。カラスのように黒い髪、血のように赤い頬、雪のように白い体をした方と」
この後ディアドラは、その通りの容姿をした、赤枝戦士団に属する、強く美しく甘い歌声の青年ノイシュと出会い、強く求婚して彼に自分と駆け落ちさせる。ノイシュは二人の弟と共に、治める一族数百人を連れて逃亡の旅を始める。やがて落ち着いて幸せな日々を過ごすが、間もなく美しいディアドラを巡って様々な争いが起こり、戦争となり、最終的にノイシュはコノール王の謀略によって大槍で殺され、ディアドラはコノール王の手に奪い返される。だが一年の間、彼女は笑わず、殆ど飲み食いせず、じっとうずくまって過去の幸せな思い出に浸り、悲しそうに歌うばかりだった。王は腹いせに、ノイシュ殺害を実行したイーガン王に一年間ディアドラを与えることにした。馬車に二人の王に挟まれて乗せられたディアドラは、「お前は二頭の雄羊に挟まれた牝羊そっくりだな」というコノール王の嘲りを聞くと、走る馬車から飛び降りて岩に頭を打ちつけ、自ら死んだ。ディアドラとノイシュの墓からはそれぞれイチイの木が生え、高く伸びて教会の屋根の上で枝を絡ませ、夫婦木となって、どうしても引き離せなくなったという。
参考文献
「悲しみのディアドラ」/『ケルトの神話 女神と英雄と妖精と』 井村君江著 ちくま文庫 1990.
ここでは、白く赤く黒いのは産まれてくる子供ではなく、既に結婚している妻や、将来の理想の結婚相手である。そして【三つの愛のオレンジ 】話群にも、しばしばこのモチーフが現れる。イタリアの『ペンタメローネ』五日目第九話の「三つのシトロン」の冒頭はこうなっている。
ある日の食事中、王子はクリームチーズを半分に切ろうとして、自分の指を切ってしまいました。というのも、カラスが飛び回っているのに気を取られたからです。血が二滴チーズの上にしたたりました。これがとても美しい色のコントラストを作り出したものですから、突然に、王子はこのような白と赤の色を備えた花嫁を持ちたいという願望に取り憑かれました。
ここでは血が落ちるのは雪ではないし、「黒色」には触れられない。だがディアドラの物語と同じようにカラスが現れているし、そのような色合いの結婚相手を熱望している点は共通している。
さて、このように類例を並べてみて、「白雪姫」の当該シーンにはどんな意味が込められていると推測できるだろうか。
私は、ここにはおおよそ二つの意味が込められていると考える。一つは、単純に「美しい」という詩的表現。もう一つは《受胎告知》である。
ベッテルハイムが雪に滴った三滴の血に「女性の生殖に関わる血」のイメージを持ったことを、私は根本的には否定しない。このシーンが「特別な子供の誕生を予告する」意味で置かれていることは間違いないと考えるからだ。
ただし、血を「経血または破瓜の血」に限定されるものだとは思わない。
世界中で、古くから血液には霊力が宿ると考えられていた。昔の日本語では「霊」を「シ」または「チ」と呼んだが、その語源は「
インドネシアのヴェマーレ族の伝承によれば、一人の猟師が酒を造るためにココ椰子の花を切ろうとして指を傷つけ、血が花に滴った。数日後に見に行くとそこに女児が生じていた。この少女ハイヌヴェレは宝を排泄する不思議な力を持ち、人々に殺されたが、作物となって再生して人々に幸を与えた。また中国の伝承には、老人が指を傷つけてその血が岩穴または水または葉に落ち、後にそこに行くと小蛇が現れたので我が子として育てる、という話群がある。この蛇は水神となって祟りをなし、一つの街を水の底に沈めた。
血が滴ったところに神秘的な子供…柳田國男が言うところの《小さ子》が誕生している。これらの伝承では滴った血に精液のイメージを読み取ることもできるだろう。(特に、中国の伝承では男が《洞穴》の近くの《岩穴》に血を滴らせたとある。)とはいえ、例えばチベットの「斑竹姑娘」でも傷つけられた指から滴った血が竹にかかり、その竹から娘が誕生しているが、血を滴らせたのは女である。滴り落ちる血は精液でも破瓜の血でもどちらでもよく、それらをひっくるめた《生命源の液》と考えるべきだろう。そして、この特別な方法で生まれる子供は、霊力を持つ、特別な存在なのである。
白雪姫は何度も殺され、その度に蘇る。ハイヌヴェレと同じ、再生の霊力を持つ女神の小化身である。そしてハイヌヴェレが植物から誕生したように、「杜松の木」の男の子も母親が杜松の実を食べたことで誕生した。彼は白雪姫やハイヌヴェレと同じく、殺された後で蘇る。同様に、白い皿やクリームチーズに滴った血に心打たれた王子が手に入れた花嫁は、果実の中から生まれ、何度も殺されて、しかしその度に再生したのである。
つまり、「白雪姫」の冒頭で王妃が雪に血を滴らせて娘の誕生を願うのは、これから特別な子供が誕生しますよ、と聞き手に報せるための前置きである。桃太郎が桃から生まれた、と語るのと同じことだ。英雄(神の子)は異常な誕生をするものなのである。
もう一つの「美しさを表す詩的表現」に関しては、現時点では詳しく語れるほどのものを私は持たない。ただ、ディアドラの物語や「三つのシトロン」において、カラスが現れていることは示唆的ではある。屠られた小牛の血をすするカラスの姿は、現在の私たちにはおどろおどろしく不吉に思えるものだが、ディアドラも女詩人も屈託がない。悲劇の前兆というわけではないらしい。岩波文庫の『完訳グリム童話』によれば、「肉をくわえて雪の中にいるカラス」「血を流して雪の上にいるカラス」「殺されて血みどろになったカラスが白大理石の上に横たわる」という美の表現例もあるそうだ。……個人的にはあまり美しさは感じられない。ゴシックホラー的な恐ろしげな印象を受けるが……。
よくよく考えれば、牛の血をすすりに現れるカラスは聖別された生け贄の血をすすりに現れる神霊の姿を思わせるかもしれない。カラスは中国やシベリアでは太陽を運ぶ(盗む)者だし、北欧では天女ワルキューレの化身である。犠牲による神の来訪、のようなイメージの匂いが微かにあるようにも思える。
尤も、単に「白と赤と黒のコントラストは綺麗。白いものと言えば雪、赤いものと言えば血、黒いものと言えばカラス!」という程度の、最初の語り手によるシンプルな連想なのかもしれないが。
カラスの出てこないものには「射たれたウサギの血が雪に滴る」「鼻血が雪の上に滴る」という、赤と白二色のみの表現例もあるそうである。
個人的に、この系統の表現で共感できるのは「ミルクのような肌と血のような頬をした娘」という慣用句だ。(必ずしも実際にミルクに血を滴らせたりせず、単なる比喩的な言い回しとして使う。)血色がよくて肌の美しい、新鮮で健康的なイメージを浮かべることができる。なおオーノワ夫人の「春爛漫の姫君」では、「百合と薔薇のような顔色をして、春よりも新鮮で明るかったからだ」という、赤と白による美の表現が使われている。これは全く血生臭さがない。
なお、グリムの「白雪姫」では、《黒》を表しているのはカラスではなく黒檀の窓枠だが、実は初版以前の草稿…エーレンベルク稿と呼ばれている、語り手から聞き取ったままを書きつづった文書にある幾つかの別バージョンの一つには、黒檀ではなくカラスで黒色が表されたものがある。
昔、伯爵とその夫人が、白い雪の山が三つ積み上げられている側を馬車で通りかかった。その時伯爵が言った。
「この雪のように白い肌の娘が欲しいものだなぁ」
二人は先へと走り、赤い血がいっぱいに溜まった三つの穴の側に来た。その時伯爵はこう望みを言った。
「この血のように赤い頬の娘がいたらなあ」
ほどなく、炭のように黒い三羽のカラスが飛んで行った。伯爵はまた、そのカラスのような黒髪の娘を欲しがった。
最後に彼らは、雪のように白く血のように赤くカラスのように黒い、一人の女の子と出会った。そしてこの子こそが白雪姫だった。伯爵はすぐに馬車に乗せたが、夫人はその子が気に入らなかった。そこで夫人は、見捨てること前提で自分の手袋をわざと外に放り投げ、白雪姫に拾ってくるように言いつけた。その子が降りた途端に、馬車はこれ以上速くは走れないと思われるほど速く走り去った。
(以降、さまよう白雪姫は七人の小人の家に行き、通常の「白雪姫」と変わらない展開になるようだ。)
最後に蛇足ながら。雪に滴った血が「三滴」であることに意味を見出そうとする人もいるかもしれない。
ベッテルハイムは「三」という数は性を表していると解釈した。女性は乳房を二つと性器、男性は睾丸を二つと性器。それぞれ三つずつ性を象徴する器官を持っているからと言うのである。また、男女の三角関係にも関係すると言う。
「白雪姫」に限らず、民話には「三」の数が現れてくることが多い。三人兄弟に三姉妹。物事は大抵三度繰り返される。このことにも様々な人間が様々な解釈を与えているようだ。キリスト教など幾つかの宗教において、三位一体や三神一体が唱えられることも、よく例に挙げられる。三は神秘的で特別な数であり、魔力があるとする。
とはいえ、そう難しく考えることでもないかもしれない。民話で「三度の繰り返し」が好まれる最大の理由は、恐らくそれが適切なエピソード量だからだ。そこから自然に(何かに挑戦する)兄弟姉妹の数も三人になるのだろう。
「三」は少な過ぎもせず多過ぎもしない、ちょうどいい数なのである。
そして「三」を使った語りが積み重ねられていくと、後代の語り手たちは「三度繰り返すのがスタンダードだ」と考えるようになる。「白雪姫」でも、「白、赤、黒」の三色、三度の殺害と、「三」が繰り返されている。こうして多用され、最終的に「こんなに沢山の人が『三』を語るなんて何かある」と神秘的なものを感じる人が現れるに至ったのではないだろうか。
なお、グリムの「がちょう番の娘」では、母親の血が三滴染み込んだハンカチが、王女(霊威を持つ者)としての力を保つ重要なアイテムになっている。また、ドイツには未婚の女性が大晦日の夜に自分の指を切って血を三滴飲み物に垂らし、それを意中の男性に飲ませれば想いが成就するという言い伝えがあったという。
白雪姫を殺害する王妃が、初版では継母ではなく実母であった事実は、一部の読者にはかなりの衝撃をもたらすようだ。
一般に、グリムは初版の出版後に受けた批判……文体が粗雑だ、性的表現が強い、残酷性が高い……を受けて二版以降に手を加え続け、ショッキングな「実母による子供殺害」を「継母による継子殺し」にして和らげたのだとされる。とはいえ草稿に集められた数種の類話の時点で、白雪姫のライバルは継母だったり実母であったり実姉であったり様々で、どれを選ぼうとも「ありのままに民話を伝える」という彼らの命題には反さなかっただろう。
子宝を願う神聖な印象の母親と、自分より美しい娘に嫉妬して執念深く殺害を目論む魔女が同一人物であることは、やはり衝撃ではある。だが、母娘であるからこそ葛藤に意味があるのだと、心理学的な見地から「白雪姫」を読み解こうとするベッテルハイムは言った。彼はこのメルヘンを(後のユング派の用語で言えば)エレクトラ・コンプレックスの物語とみなした。女児は精神発達の過程で父親を異性として認識し、母親をライバルと見なす。お妃は(物語上で実母だろうと継母だろうと関係なく)《ライバルとしての母》であり、森に逃がしてくれる猟師が《守ってくれる理想の父親》だという。
※猟師が《父親》のポジションにいる、あてはめることの出来るキャラクターだという解釈は、どうやらそう的外れではない。例えば日本の継子譚「灰坊太郎」を見ると、継母は夫に継子の肝を食べないと病気で死ぬと言い、父親は仕方なく山へ子供を連れて行くが、そこで身代わりに犬を殺して子供を逃がす。イギリスの「金樹と銀樹」でも、娘を殺して肝を食べさせてくれと王妃が頼むと、王は娘を外国へ逃がして妻には野生の山羊の肝を与える。以上は妻に完全には逆らえないもののそこそこ頼りがいのある父親像だが、「手なし娘」のように命は取らなかったが証拠として腕を切り落としたり、「アルスマン」のように全く妻の言いなりになって子供を殺す父親もいる。
ベッテルハイムはまた、白雪姫は「オトナのオンナになりたい」と思うあまりに魔女(母)から紐や櫛を受け取るが、それは未熟な少女には強すぎて毒だったために昏倒したのだとする。
対して、『屋根裏の狂女』のサンドラ・ギルバートとスーザン・クーパーらのようにフェミニズム的観点から「白雪姫」を読み解く者は、これを家長(夫〜父親)…即ち父権社会の価値観に支配された女たちの葛藤譚であるとした。男性の愛を競うと考えればベッテルハイムの解釈とそう遠くなく思えるが、ベッテルハイムがあくまで思春期の少女の心理的葛藤の具象化と読んで、魔法の鏡の声を白雪姫(少女)自身の「お母さんより私の方が綺麗だわ」という声だと説いたのに対し、彼女たちは鏡の声は家長のものであると説いた。男が求める理想の女性像。最も美しい女。それから外れ無価値になることを恐れたお妃は暴走して身を滅ぼした。そして今は男の理想を体現している白雪姫も、この父権的価値観から抜け出せない限り、いつか容色が衰えたとき同じ道を辿るだろうと批判したのである。
白雪姫がお妃と同じ末路を迎えるかは別にして、鏡の声が実は父親(夫)の声……男性からの評価を意味している、という解釈は説得力がある。異性からの評価が人間に多大な影響を及ぼすことは世の真実の一つであるし、類話を参照すれば、事実そう語っているものもあるからだ。チロルの「三人の姉妹」では、三人姉妹を訪れる王子が最も美しい末妹にばかり好意を見せるので姉たちは妹を憎む。フランスの「魔法の靴下」では、一人の兵士が通りすがりに「王妃も綺麗だが王女はもっと綺麗だな」と言ったのを王妃が耳にしてしまい、娘を憎むようになる。
そもそも、魔法の鏡とは何なのだろうか。「白雪姫」を元にした二次創作などを見ていると、時に、これを《お妃自身の心の声》と捉えているものを見かける。確かに、鏡を覗き込む行為は虚栄心の高さや自己愛の強さを感じさせると同時に、己自身の心を覗き込み問いかける作業をもイメージさせる。
たとえばこんな風に考えることもできるだろう。「鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰?」それはお妃が鏡に映った自分自身へ向けた問いであり、だからこそ「それはあなたです」という望む答えが返っていた。しかしお妃が自分の心を騙しきれなくなった時、「娘の方が美しい」という真実が返された、と。
グリム版より三十年ほど前に書かれたムーゼウスの再話小説「リヒルデ」は、また少し違った形で鏡をお妃自身の心であると暗示している。その鏡は彼女、リヒルデ誕生の際に聖者の手で作られたもので、どんな質問にも答えてくれる聖なるアイテムであった。だが彼女の母は「愚かな質問をしてはなりません、この鏡が曇ることがありませんように」と言い遺す。そしてその懸念通り、リヒルデが行った質問は「私は国で一番美しいか」というものであり、最終的に自分より美しい継娘の殺害を目論む。鏡は次第に錆びて歪み、しまいに殆ど何も映さなくなる。リヒルデはその後に出会った美しい若者を誘惑して再婚しようとするが、実は彼は継娘の夫であり、復讐のために籠絡されたふりをしていただけであった。鏡を曇らせたリヒルデは現実を見極める目を失っていたのであり、また、一人の男の愛を競う女として、継娘に完全敗北したのだった。
他方、穿った考え方をせずに、《鏡》そのものからの考察もできるかもしれない。リヒルデの鏡は金属を磨いて作った古代じみたものであった。無論、《次第に錆びていく》という演出のための設定なのだろうが、古代の祭具としての鏡をイメージさせる。光を反射し、ものの影を映す鏡は、古くから神霊を宿し捉える力を持つとされ、この世とあの世を繋ぐ力があると考えられた。真夜中きっかりに合わせ鏡をすると悪魔が現れる…という俗信は現代にもあり、或いは鏡には死者の顔が映る、未来の結婚相手が映るなどとも言う。
未来の結婚相手が見えるという俗信は水鏡、特に穴の底の水…即ち井戸にも適用される。スコットランドの「金樹と銀樹」では、王妃が問いかけるのは谷底の井戸である。ただ、この井戸の中には鱒がいて、これが質問に答えている。世界の果ての井戸に霊的な魚もしくは頭がいて、訪れた者に情報や富を与えてくれるというイメージは、ケルト系の伝承にはしばしば現れる。世界の果てや谷底、井戸の底は冥界の暗示であり、そこにいる魚や頭は精神だけの存在…霊、即ち神である。
つまり鏡に問いかけるという行為は、神霊に呼びかけるというシャーマニズム的イメージの残滓ではないかと推測できる。実際、鏡はお妃の知らないこと…七つの山の向こうの小人の家で白雪姫が生きている、生き返ったことを知っている。
さて。ギリシアやイタリアなど東洋に近い地域の類話では、娘たちに美の判定を下すのは太陽もしくは月である。太陽もしくは月は毎日三姉妹の家の側を通りかかり、「みんな美しいが、末娘が一番美しい」と言う。これはチロルの「三人の姉妹」で訪ねてくる王子が末娘だけに好意を寄せるエピソードに似ているし、「魔法の靴下」で通りすがりの兵士が美の評価を零すエピソードにも似ている。インドやペルシア、ギリシアでは太陽神は光り輝く男性として表されることからも、毎日通りかかって娘たちを評価する日月には娘たちが愛されたいと願望する《男性》という暗示があるのだと考えられる。一方で、太陽や月は全知の神でもある。魔法の鏡が何でも知っているように、毎日天空を通行する太陽や月は、世界で起こったあらゆる出来事を知っているのだと世界各地の伝承は語る。(太陽や月は神の目だなどとも言う。)
このように考えていくと、お妃は《男》の評価に振り回され《母》であることを捨てた虚栄心強い《オンナ》であり、同時に《全知の神霊》に呼びかける古代じみた《シャーマン》でもあると結論付けることが出来る。
お妃の命令で殺されるために森に連れて行かれた白雪姫は、そこから一人、七人の小人の家に行く。
小人は、原文では「Zwerge(ツヴェルク)」とある。伝承上、ツヴェルクは人間よりも小柄で、地下世界に住み、宝石や金属の加工を得意とし、またそれらを財産として蓄えるとされる。
歴史的観点から伝承を読み解こうとする研究者は、ドイツの先住民族が彼らのモデルだと唱える。彼らは五世紀から十世紀にかけて侵入者たちに敗北し、山に逃げて洞窟に隠れた。それを見かけた人々がツヴェルクとして語ったのだと。
その可能性を否定はしないが、伝承中のツヴェルクは超自然的存在… 一種の神霊として現れるもので、信仰と深く結び付いていることがうかがえ、それを無視するわけにはいかない。「ニーベルンゲンの歌」に登場する小人・アルブリヒは、隠れマントという呪宝を持ち、地下の宝の番をしている。隠れマントとは着ると姿が見えなくなるという、日本でいう天狗の隠れ蓑に相当するものだ。「ニーベルンゲンの歌」では、加えて「どこでも好きな場所へ一瞬で移動できる」という機能も持つ。自在に姿を消し、一瞬で好きな場所に現れる。それは《霊》の特質である。ギリシアの伝承では、隠れ兜は冥王ハーデスの持ち物となっている。つまり、小人の住む地下や洞穴というのは現実的な場所ではなく、観念的な《下》の世界、《裏》の世界…即ち冥界であって、小人は冥界神のキャラクターバリエーションの一つ、とみなせるのだ。
世界の各地で、人々は冥界(神魔の世界)にはあらゆる《素敵なもの》があるはずだと想像した。緑の園、豊かな食べ物や水、美しい乙女、金銀財宝、全知の知識や最先端の技術……。だからこそツヴェルクたちは豊かな地下鉱脈から採掘し続け、自ら加工する技術を有し、莫大な金銀財宝を持つとされるのだろう。
だが、冥界神の一形態である彼らは、《死》をもたらす恐ろしい存在でもある。彼らは気前よく富を授けるが、一方では無慈悲に命を奪う。日本民話の山姥が、時に人食い鬼として襲い掛かり、時に迷い込んだ継子を救う優しい保護者として登場するように。グリムのエーレンベルク草稿には、小人は洞穴に住んで、迷い込んだ子供を殺す恐ろしい人食い鬼であり、白雪姫のことも最初は食い殺そうとしたと語る類話も見える。しかしグリムは出版する「白雪姫」にはそのニュアンスが薄いものを選び、「人が好い、優しい」という性格を強調した。ディズニーアニメ版はこのデフォルメを更に進め、小人たちは無邪気で善良で、全く無害な存在として描かれている。
ツヴェルクは通常、地下か洞穴に住むとされるが、「白雪姫」の小人たちは森の奥に住んでいる。何故なのか。答えは単純で、《森の奥》は地下や洞穴と同じく、冥界を暗示する場所の一つだからである。小人の家に行くために、白雪姫は尖った石を踏み越え、茨の藪を突っ切り、恐ろしい獣の傍をすり抜けた。これは黄泉路だ。なお、後に変装したお妃が訪ねてくる際には「七つの山を越えた」と語られてある。額面通りにしか受け取らないならば、白雪姫は森をさまよいながら七つも山を越えたということになるが、実は「七つの門をくぐる、七つの山を越える」というような言い回しは、伝承の世界では「冥界(異界)に行く」という比喩表現なのである。これに関しては後段<毒リンゴとガラスの柩>でも説明する。
前段<意地悪な継母と魔法の鏡>で、鏡に呼びかけるお妃はシャーマンであると書いたが、実際、七つの山を自ら越えて小人の家へ行き、そこから逃げ帰ることのできる彼女は、この世とあの世を行き来する方法を知っている強力なシャーマンだとみなすことができる。それはそう簡単に行えることではない。行ったまま帰れなくなる者が大半だろう。「かわいい小鳥」や「三人の姉妹」のような類話では、母や姉は自分では憎い《白雪姫》を殺しには出かけない。第三者の魔女に依頼している。「ジーリコッコラ」や「水晶の柩」では、そこは飛ぶものに運ばれて辿り着く《月の家》や《水晶で出来た妖精の城》で、明らかに普通の人間が行ける場所ではない。ただ、魔女や占星術師だけは行って逃げ帰ってくることができるのだ。「あなたはだれ?」になると、シャーマン自身が《白雪姫》を憎んで、殺そうと尋ねてくる。
白雪姫は小人の家に辿り着き、家事を引き受けて暮らし始める。この物語をフェミニズム的観点から読み解こうとする研究者は、ここに「女は家で家事をするべきだ」というグリムの時代の社会思想を感じ取る。草稿の時点では「あなたたちの所に置いてくれないかしら、あなたたちの食事を作るから」としか書いていないのに、発売版では「お前がわしらの家の世話をして、煮炊きをしたり、ベッドを整えたり、洗濯や縫い物や編み物をしてくれて、なんでもきちんと始末してくれるなら、ずっとここにいてもいいよ」と、家事の種類が詳細になっていることを、グリムが女児教育の意図でそうしたと指摘する。それは正しいだろう。だが、このエピソードの根本にある意味は、女のあり方の教育でも男女差別の刷り込みでもなく、「冥界に行って神に仕える」ということではないのだろうか。
グリムの「森の三人の小人」(KHM13)も、継母に迫害されて森に入った継娘が三人の小人の家に行く話だ。彼女は礼儀正しく振舞い、小人たちに自分のパンを分け与え、言いつけられた通りに雪かきをする。すると富を与えられ、美しくなった。しかし真似をして森へ行った継母の娘は、礼儀知らずに振る舞い、パンを分けなかったし、言いつけられた仕事を拒否した。彼女は何も手に入れられなかったばかりか醜くなった。
この話の小人は「Haulemnnerchen(ハウレメンヒェン)」であり、ツヴェルクではない。しかし状況的には白雪姫とよく似通っている。伝承では、ハウレメンヒェンは森の洞穴に棲む頭でっかちの小人で、洗礼を受けていない子供を盗むとされる。この話のケルト系の類話では、継娘が行くのは地の果ての井戸であり、そこには三つの頭(もしくは三匹の魚)がいる。三つの頭は娘に、自分に食べさせ、洗い、髪を梳かしてくれるように要求する。その通りにした娘は幸を得るが、逆らった娘は不幸になる。
井戸にいる頭は、頭だけになったとも知恵の泉を守るともされる北欧神話の知恵の神ミーミルと関連するだろう。森の奥の洞穴や地の果ての井戸…即ち冥界にいる、頭(精神、知恵)だけの存在。それは《霊》だ。継娘は人里離れた地にある神霊たちが憩う場所…冥界へ行き、彼らに仕えて世話をした。白雪姫が七人の小人の家で家事をしたことも、これと同様に解釈できるだろう。
だが、白雪姫が七人の小人と暮らしたことに全く異なった解釈を下す人々もいる。そしてこの解釈は人気が高い。端的に言ってしまえば、白雪姫は七人の男たちと同棲していたと言うのだ。アメリカのパロディには「後で白雪姫の身体検査をしたら、処女膜に七つの小さな穴が開いていた」などというものがあるそうだし、日本のパロディ作品でも比較的見かける解釈であるように感じる。面白いことに、1856年に発行されたスイスの伝説集『Schweizersagen aus dem Aargau』(Ernst Ludwig Rochholz著)に、既にその系統の解釈が見える。
七人の小人の死 スイス アールガウ州
ブルックとヴァルツフートの間の高原の一つにある黒い森の近くで、七人の小人は一緒に小さな家に住んでいた。ある日の夕方遅く、魅力的な若い百姓娘が道に迷い、お腹を空かせて近付いてきて、泊めてほしいと頼んだ。小人は七つのベッドしか持っていなかった。そこで娘のために自分のベッドを諦める誰かを選ぶために彼らは激しく舌鋒を戦わせた。最終的に、最も年長の者が彼のベッドに娘を案内した。
彼らが眠りに落ちる前に、百姓女が彼らの家に現れてドアを叩き、中に入れてくださいと頼んだ。娘はすぐに起きて、小人が七つしかベッドを持っていないこと、そして他に泊められる部屋がないことを女に話した。女は酷く怒り、娘を七人の男と同棲している売春婦だと告発した。邪悪な商売は終わりにしろと脅し、激怒して去った。
その同じ夜、彼女はライン川の土手から二人の男を連れて戻ってきて、彼らはただちに小屋を破壊し、七人の小人を殺害した。彼らは外の庭に死体を埋めて、家の全てを燃やした。
誰も、娘がどうなったのかは知らない。
参考文献
Ernst Ludwig Rochholz, Schweizersagen aus dem Aargau, vol. 1 (Aarau: Druck und Verlag von H. R. Sauerlnder, 1856), no. 222, p. 312.
「Death of the Seven Dwarfs」/『D. L. Ashliman's Home Page』(Web)
人は「若くて綺麗な娘と、複数の男たちが同じ屋根の下に暮らす」という状況に、下世話な想像を掻き立てられずにはいられないものらしい。何かあったに違いない。何かあったんでしょう? と、古今東西で勘ぐっている。もっとも、類話では妙齢の娘が複数人の盗賊または猟師の家に住み込むというシチュエーションであることが多いので、そんな想像をされても無理はないのだろう。語り手たちもそれを感じ取っていたのか、妙な勘ぐりをされないように色々と工夫しているらしく見受けられる。つまり《白雪姫》が身を寄せる家に住んでいるキャラクターを、小人、女妖精、老人など、まず男女関係が有り得ないだろう人物設定にしてある。《騎士》としていることもあるという。ちなみに巌谷小波は自らの翻訳「雪姫」において七人の小人を「身の丈一尺五、六寸位の、荘厳しい七人の武士」とした。
なお、説話に登場する「森の奥や洞穴に住む盗賊、猟師、森番」もまた、冥界神の一形態である。例えばお伽草子の酒呑童子は山奥の岩屋に住む盗賊の首領で、同時に人殺しの人食い鬼として描かれている。《人食い鬼》はキャラクター化された冥界神のバリエーションの中では最も基本的なものだ。神は気まぐれに富(生命)を与え奪い去る存在だからである。【青髭】話群では、盗賊たちは森の奥の《死体の転がる部屋》がある家、もしくは《(開閉する)岩穴》に住んでいる。開閉し財宝の詰まった岩穴を持つ盗賊と言えば 「アリ・ババと四十人の盗賊」を思い出すが、洞穴や地下に財宝を持っているのは、多くの伝承では(喋る)サルやウサギやライオンのような獣か、鬼……つまりツヴェルクと同じような超自然的存在、冥界神である。《白雪姫》が仕える相手が、小人でも妖精でも月や太陽でも人殺しの盗賊でも白髭の老人でも、全て冥界神のバリエーションであって内実的には変わりがない。
>>参考 <眠り姫のあれこれ〜奪われた腕輪>
だが、民族学・歴史寄りの観点から考察して、《森に住む兄弟たちと、そこに迷い込んだ妹分》の性的関係を示唆する研究者もいる。ウラジーミル・プロップは著書『魔法昔話の起源』において、これはかつて氏族体制の中にあった《若者宿》の制度を語ったものだと説いた。
若者宿とは地域の男性の一部……大抵は性的成熟期〜結婚前までの青少年たちが共同生活を送る特別な宿泊施設のことで、東南アジア起源の制度と推測され、日本にも普遍的な慣習として根付いていたものだ。プロップは民話にしばしば登場する、「森の中に入ると大きな家、または塔があった」「その家は塀に囲まれていた」「塀の上や家の周囲に骨があった」という情景を、若者宿を描写したものだとした。若者宿の外観や形態は一律ではないが、とても大きかったり塔だったり周囲を柵や生け垣で囲まれたものがあった、しかも中にはしばしば骸骨や氏族の宝重品が保管されるものだったと例を挙げ、それは説話に現れる《森の中の大きな家》の特徴と一致する、と語ったのだ。
森の家に住む兄弟たちが、時に《盗賊》だと語られることにも、プロップはその習俗に沿った考察を行っている。若者宿に新加入した者に「特定の期間、好きに食料を盗む」権利が与えられていたことに由来するのだと。これに近い慣習はかつて日本の一部にもあり、ひな祭りや七夕の際に、子供たちが集まったり自分たちの秘密基地を作ってキャンプをしたりする。近隣のひな人形を飾った家や隣村の秘密基地をみんなで襲撃して、その食べ物を奪い盗って良かった。襲われる家は子供たちのためにお菓子を用意して待っていたわけで、アメリカのハロウィンの習俗にも通じる。
プロップは《森の兄弟の家》に入り込む女主人公にも、この流れで考察を加える。アフリカのボロロ族には、娘を強制的に若者宿へ連れて行き、そこに所属する若者たち共有の愛人、性欲処理の相手にする習俗があったという。とはいえ、この娘は尊重されるべき存在で、若者たちから物品を贈られて大事にされた。一方で南太平洋のペレ島では、若者宿に住む娘は非常に紳士的に扱われ、与えられた個室に若者の誰かが入ることはないし、性的関係を強要されもしなかったという。娘の仕事は宿の掃除と火の管理(炊事)である。食事は豊富に与えられ、若者たちは彼女に豪華な贈り物を工面する。(近代になると、この贈り物は《賃金》になったという。)これら若者宿に住む娘たちは敬われ、決して蔑まれることがない。一定期間を終えると村に戻り普通に結婚をする。近代になると複数の若者たちと性的関係を結ぶより特定の若者を選ぶ傾向が強くなり、その若者は娘を独占する代償に若者宿の兄弟たちに金銭を支払ったという。そして二人は宿を出ると結婚した。
プロップはアファナーシエフが採取したロシア民話「足のない勇士と盲目の勇士」を例に挙げ、自説の補強としている。高慢なアンナ姫に両足を切り落とされ廃棄された勇士カトマは、やはり彼女に両目をえぐられた勇士と知り合い、二人で森の中で狩りをして暮らし始めた。しかし一緒に暮らしてくれる女が欲しいと思い、ある金持ちの慈善家の娘を強引に連れ去り、こう言った。
「どうか血を分けた妹の代わりになってくれ。わしらと住んで、面倒をみてもらいたい。なにしろ不具者のわしらには、食事を作ったりシャツを洗ったりしてくれる者がいないのだ。神様はきっとその親切に報いてくださるだろうよ」
娘は彼らの元に留まって、彼らが狩りに出ている間は留守番をして、食事を作ったり下着を洗ったりし、勇士たちは彼女を実の妹だと思って可愛がったという。しかし、白雪姫のもとを老婆に変装したお妃が訪ねて殺そうとしたように、そのうち
日本にも娘が若者宿の恋人を訪ねる地域はあったが、住み込む風習はなかったようだ。しかし《独身娘は、その村の若者組の共有物》という考え方があったことは確かで、恋人の出来た若者が彼女のもとへ通う際には、その地域の若者たちへの金銭や物品の上納が要求されたこともあったようである。-->参考<眠り姫のあれこれ〜初夜権と純潔の刀>
プロップは、ロシアのヴャトカ県の民話に、家を出された継娘が二人の盗賊の住む森の家に行き、そこであらゆる御馳走や服を与えられて大事にされるが、そのうち《彼ら二人との間に》小さな女の子をもうけた、とあることを例に挙げ、《森の兄弟の妹》は若者宿に住み込む娘、彼ら共有の愛人がモデルなのだと結論付けた。
なお、《森の兄弟の家》に住み込んだ《白雪姫》が突然死し、後に復活して結婚することも、彼はこの流れで説明する。若者宿に入った少年は、一族の呪的な秘密を知る責任を負い結婚も許される、社会的に一人前の男になるために加入礼を受ける。その儀式は多くの場合、一度殺されて蘇る、というなぞらえの形態をとる。《若者宿の娘》は女性であるが、普通は女には知らされないはずの宗教儀式や呪物を見ているので、彼女も若者たちと同じように加入礼を受けた…ということを、《白雪姫》の死のエピソードは意味していると言うのだった。
しかし、民話の中の《大きな家》は人里離れた森の奥深くにあるのに、現実の若者宿はそのような場所に建てられることはない。それに《森の兄弟》たちが時に盗賊とされることに関しても、《盗みを働く》ことより《人殺しを辞さない恐ろしい存在》だというキャラクター性の方が、民話の中では重視されてはいないだろうか。また、白雪姫が辿り着いた小人の家は大きくはなく塀もない。《小さな家》だ。プロップは《小さな家》を、若者が加入礼を施されるため一時的に連れて行かれた森の中の仮小屋に由来すると説いたが。では、時に《森の盗賊》が洞穴や地下に住んでいることに関しては、どう説明するのだろう。
森や山の奥または中心に建っていて、その周囲は塀や堀で囲まれ大きな門で閉ざされている。もしくは出入りに梯子が必要な高い塔である。こうした《家》は説話の中にしばしば現れるが、住んでいるのは若者たちとは限らない。恐ろしげな大男や美しい女の場合も多いのである。しかもそこから《命からがら逃げ出す》という筋立てになっている場合の、なんと多いことか。
深い森の中心で塀や堀によって外界から隔絶されている。これは《冥界の城》のイメージなのではないか? 実際、そこに至る道には恐ろしい獣がいることが多いが、ギリシア神話の冥界の番犬ケルベロスの例を引くまでもなく、それも冥界に付き物のオプションなのだ。東南アジアの若者宿の外観が民話の《大きな家》に似ているとしても、逆に、伝承の中の冥界の情景を模倣しているのだと考えることは出来やしないか。
確かに、例えば「魔法の靴下」で猟師の三兄弟が《白雪姫》に手を出さずに妹として扱おうと牽制し合うエピソードには生々しさがあり、プロップの説への信憑性を感じさせる。しかし一概に判断は下せまい。無数の語り手の中には《森の大きな家》を若者宿のイメージで語った者もいるかもしれないが、イメージの根本がそうであるとも思えない。
とは言え、森の中の家が冥界の城で、そこに住む小人や盗賊が冥界神で、そこに入り込んだ娘は神に仕えたのだと考えても、やはり男女関係的な臭いは感じられる。神に仕える娘を《神の花嫁》と考える向きは古くからある。そういう意味でも、白雪姫を小人たちの花嫁であるように連想するのはた易いことだ。【青髭】話群では、女主人公は一度《森の大きな家に住む男》と結婚するが、やがてその家を逃げ出して、普通の人間の男と再婚している。一度神と結婚し(死に)、しかし神の国を去って(再生して)、真の結婚をした(社会的な大人になった)と読める。白雪姫が小人の家で暮らした後に王子と結婚したことにも同じ意味を見出せるかもしれない。
――しかし、考え過ぎ、穿ち過ぎてもよくないのだろう。
どんなに想像たくましく裏事情を勘ぐってみたところで、物語上、《白雪姫》は《森の小人》と結婚などしていない。それが動かしようのない事実だ。家事をするのは妻だけではない。娘とて父親のためにそうするだろう。《白雪姫》は冥界に入って神の
余談。イギリスに、「白いペチコートの王女」という民話がある。(『イギリス民話集』 河野一郎編訳 岩波文庫 1991.)この話、恐らく元は【白雪姫】系統の類話だったのだと思われるが、まるでアドベンチャーゲームで異なる選択肢を選んで話を進めたかのように、色々な点で違う話に仕上がっている。
この物語でも、継母の王妃が継娘の王女の自分より美しいのを憎む。(でも魔女じゃありません。魔法は使わないし、継娘を殺そうとするほど悪い人じゃないの。)王妃は自分の実娘にいい結婚をさせるためにも、邪魔者の王女を自分の親せき筋の年老いた王と結婚させようとする。だが王女は老王がどんなに甘言を弄しても毅然として全くなびかない。(主人公ちゃんは高潔で、はっきりした自我を持っているの。)そこで王妃は王女を森に連れ出し、誘拐して強引に老王に嫁がせようとする。鳥が歌って警告したので、王女は自ら逃げる。
王女は茨の茂みを越えてさまよううち、小屋を見つけて入り、外に大勢の気配を感じて咄嗟に隠れる。(主人公ちゃんは勝手に人の家の食物を食べたりベッドに寝るようなはしたないことはしないわ。)中に入ってきたのは狩りの服装をした若い男たちで、飲み食いして騒ぎ始める。この若者たち、実は全員王子である。(主人公ちゃんは盗賊や小人なんかと関わり合いになりません。)
そのうち彼らは王女が隠れていることに気付く。王女が自ら姿を現したところ、なんと彼らは王女に乱暴を働こうとした。中に一人だけ助けてくれようとした王子がいたが、多勢に無勢。王女は金のベルトを引きちぎられたものの、その半分だけを残して逃走に成功した。(主人公ちゃんは複数の男性と同棲するようなふしだらなことはしません。モテモテでしたが未遂で逃げます。それに大人しく家事をしたりもしません。)
王女はある王の宮殿に入り込み、白いペチコートのジェニーと名乗って召使いとして雇ってもらった。料理番の助手として働き始めたが、次第に認められて地位が上がり、若い王女の侍女の一人に抜擢された。(主人公ちゃんは仕事がしっかり出来て、自分の力でキャリアを積めるんです。お妃に何度も騙された挙げ句に毒リンゴを食べて死ぬようなバカじゃありません。)
ジェニーの仕える王女には弟がいた。彼は花嫁を探しており、宮廷に出入りする貴婦人の何人かに好感をもって目星を付けていたが、真の愛を感じたのはジェニーに対してだけであった。(王子様は主人公ちゃんに逢って本当の愛を知ったんです。)しかしジェニーとは身分が釣り合わないことに悩み、姉に誰が花嫁に相応しいかと相談した。
そこで姉はテストをすることにした。仮病を装って一人ずつ花嫁候補の娘たちを呼び出し、「実は私は従僕の子を宿しているのです」と嘘の相談をしたのだ。すると貴婦人たちはみんな「心配しなくていい、自分も従僕の子を産んだことがあるが、誰にも気づかれないし、処女として通っている」と慰めた。ところがジェニーだけは「従僕の子を産むなど王家の恥辱、王女の資格などありません。火炙りの刑が当然でしょう。わたくしも処刑のお手伝いをいたします」と言った。(主人公ちゃんは高貴で高潔なんです。)
姉はテストしたことを打ち明け、あなたは貞節だ、あなたさえよければ弟の花嫁に推薦しようと言った。(あくまで結婚は主人公ちゃんの自由意思にゆだねられます。でも相手からは熱烈に求められてるの。)ジェニーは承諾した。
実はこの宮殿の王子こそが、森の小屋で乱暴されそうになった時に庇ってくれた若者だったのだ。ジェニーは記念に取っておいた半分に千切れた金のベルトを出すと彼に見せ、初めて身の上を打ち明けた。王子は喜び、二人は幸せな結婚をした。このことはジェニーの父王にも伝えられ、後に二人を訪ねてきた。こうして二人は末永く幸せに暮らした。(継母は何の罰も受けません。それでいいんです。残酷だもん。)
千切れた金のベルトが再会の証となるのは、「命の水」や「ニーベルンゲンの歌」のような、性行為の証として男がベルト(帯)を持ち去るモチーフが原型なのだろう。
さて、こんな「白雪姫」はどうだったろう。高潔で自立心に溢れ騙されず、ずっと好きだった王子を自分の意思でゲット。当然、森の小屋で家事なんかしない。城で賃金をもらって働き、めきめきキャリアアップ。「白雪姫」を批判してきたフェミニストも納得の女主人公、かも?
アダムとイブが禁じられていた知恵の実を食べて分別を持ち性知識を得て、神に保護される子供ではなくなった…という『旧約聖書』のエピソードは、あまりにも有名である。「禁断の果実を味わう」という言い回しには性的なニュアンスが付きまとう。そして知恵の実は一般にリンゴであるとみなされる。厳密には、かつて西欧ではリンゴや梨やマルメロのようなタイプの果実全般をリンゴ(希:melon/羅:malum/英:apple/仏:pomme/蘭:appel/独:Apfel/古ノルド語:eple)と呼んでいたのだが。リンゴ即ち《果実》は、西欧では生命・性愛・豊穣の象徴とされ、女神の持ち物とされている。
リンゴを味わう、という表現が現れた時、インテリ階層の多くがそこに性的な何かを読み取りたがる。ベッテルハイムはリンゴは女性の性的欲望、特に赤い色は激しい情動を象徴し、それを食べた時に白雪姫の無垢な少女時代は終わったのだと説いた。森義信は『メルヘンの深層』において、ドイツに「Sie hat des Apfels Kunde nit.(彼女はリンゴの知識を持っていない=彼女は男性を知らない)」という慣用句があることを例に挙げ、「白雪姫がリンゴを食べたことは、なにか性的な事柄を表現しているとしてよい」と述べている。その上、リンゴの丸い形は「完全」を意味し王権の象徴となるのに、白雪姫が食べたのは毒の入った赤い半分だけなので、彼女は王の聖と俗の二面のうち俗のみを受け入れたことになり、近親相姦的なイメージがついて回る、としている。どうして王の俗の面を受け入れると近親相姦になるのかは説明されていない。(王=白雪姫の父親、という連想なのだろうか?)
一方、ギルバートとクーパーは、毒リンゴの赤い半分は女性の能動性、白い半分は受動性を意味するとした。父権社会では能動的な女性は忌まれ、排除される。白雪姫は赤いリンゴを食べたために《死の眠り》という制裁を受けたとする。
だが、流石にこれらは穿ち過ぎではないだろうか。果実の半分に毒を仕込んで毒のない方を自分、毒のある方を継子に食べさせるエピソードは「リヒルデ」にもあるが、果実の色に《女性の性衝動、奔放さ》の意味が込められているとは思えない。毒の仕込まれた方が赤いのは、単に白雪姫が食べたくなるほど熟れて美味しそうというだけの表現で、毒の入っていない方をお妃が食べてみせるのは、白雪姫を油断させ信用させて食べさせるための、物語進行上の仕掛けにすぎないのではないか。
【白雪姫】話群全体を見渡すと、《白雪姫》を殺すアイテムは概ね四系統に分けることができ、その他は稀である。
>>参考 <眠り姫のあれこれ〜死に針と眠りの棘>
《白雪姫》を殺す毒入りの食べ物は必ずしも果実ではなく、菓子として語られることもある。「水晶の柩」の主人公は、リンゴを食べた白雪姫と同じように、菓子を食べて死に、それを第三者が吐き出させることで生き返る。しかし「ミルシーナ」の主人公は自分が食べる前に犬に与え、毒入りだったと気付いて難を逃れたことになっている。同様のモチーフは「お月お星」や「幸せ鳥パイパンハソン」にもあり、広く継子譚に見られるモチーフでもある。
このように見ていくと《リンゴ(果実)》にこだわるのは愚かにも思えてくるが、実は果実を一口食べると死ぬ、というモチーフは世界各地の伝承で見出すことができる。例えば「オジエ・ル・ダノワのロマンス」や「ギンガモール」では木からリンゴをもいで食べるとたちまち瀕死になる。「
どうして果実を食べると死ぬのだろう。「リヒルデ」や「白雪姫」のように誰かが毒を仕込んだわけでもないのに。
最初に、《果実》は生命・性愛・豊穣の象徴であると書いた。食べると死ぬ果実はその鏡像であり、同じものなのだと考えることができる。この世とあの世は全てがあべこべだという信仰が世界中にある。死ぬことは冥界側から見れば生きることであり、生きることは冥界側から見れば死となる。「オジエ・ル・ダノワのロマンス」でオジエは不思議な園のリンゴを食べて瀕死になり、しかし女神の指輪をはめると回復してそこで永久に彼女と暮らす。死んで冥界に転生した…神霊になったと解釈できる。《果実》は女神の持ち物であり、女神は死と誕生を司る存在だ。つまり、《果実》を食べて死ぬモチーフには、《一度死んで復活する》という暗示がある。白雪姫がリンゴを食べて死ぬのも、元はそこから引かれたイメージなのではないだろうか。彼女は死から復活するのだから。
リンゴを食べて白雪姫は死んだ。ベッテルハイムはこれを精神的成熟のための最後の熟成期間とする。対して森義信は、近親相姦的な何かで穢れた白雪姫が女性として仮死の状態になったと説く。彼女は「ガラスという透明で清浄なるもので作られたひつぎに、かたとき安置されることで、肉体と精神の浄化を、いわば象徴的にはたしおえ」るのだという。
浄化効果があるかどうかはともかく、説話の世界では、ガラスは《死》を暗示するアイテムである。ゲルマン系の民話に現れるガラス(水晶)の山は遠い世界の果てにあり、太陽のように輝き、つるつる滑って登るのが非常に難しい。地獄の針の山を登るのに鉄下駄が必要であるように、鉄のスパイクの付いた特別製の靴、あるいは階段や鍵の代わりになる骨、でなければ一跳びできる神馬が必要である。その山頂、もしくは山を割り開いた中には、霊妙な姫君か、恐ろしい人食いの大男や小人たちの住む城か、鳥になって飛び去った家族の休む家、または三つの卵や不思議な果樹がある。それらは全て《神霊》を暗示している。そこは冥界なのだ。かつてドイツのプロイセン地方には火葬の際に熊や山猫の爪を一緒に焼く風習があったが、死者がガラス山を登り易いようにだった。
なお、北欧には
ちなみにインドネシアのボルネオ北部に住むズスン族には、死後に魂はキナバルという険しい岩山の上の天界に行くという信仰があり、死期が近づくと山を登り易いように爪を伸ばす風習がある。
あるいは、『ペンタメローネ』二日目第二話の「プリンス・ヴェルデプラート」のように、娘の元に夜な夜な王子がガラスの通路を通って逢いに来るという話もある。この王子は人間ではあるが、不思議な魔力を操るということになっている。根底には《冥界から訪ねてくる神の夫》というイメージがあるのだろう。通路が破壊されて彼は瀕死になり、一度は二人の仲は断絶しかかるが、娘の治療で彼は甦る。ここでも死と再生が暗示されている。
白雪姫はガラスの柩に入れられ、更に山の上に置かれる。ガラス山の民話や[ニーベルンゲン伝説]で、山頂の城には美しい姫君が待ち、時に眠っているように。ゲルマン的な《死後の世界》のイメージが、ここにはかなりはっきりと表れている。(天に届く木の上に冥界があるという信仰もあるが、実際、類話によっては《白雪姫》の柩は木の上に置かれる。)
ハンガリーの民話「伯爵と従僕のヤーノシュ」(『ハンガリー民話集』 オルトゥタイ著 徳永康元/石本礼子/岩崎悦子/粂栄美子編訳 岩波文庫 1996.)では、死んだ伯爵が成仏しない理由を知るため、従僕のヤーノシュが伯爵の墓の隣に置いたガラスの棺の中に横たわる。やがて伯爵の亡霊が墓から現れるが、ヤーノシュを同じ死者だと認識し、色々と秘密を物語ったのだった。
「奴隷娘」ではリーザは七重のガラスの箱に収められるが、七つ重なった箱や扉も《死》を暗示するものだ。というのも、メソポタミア近辺の地域には、世界は七重構造になっている……この世から最も離れた神の世界(冥界)へ至るには、七つの関門を通らねばならないという信仰があったからである。キリスト教やユダヤ教、イスラム教においても、天国は七層になっている、もしくは七つの扉があるとの教えがある。実際、説話にこの信仰が根底にあるのだろうモチーフはしばしば見られる。人食い鬼を七重の箱に閉じ込めたり、七つの扉の奥へ宝を取りに行ったり、七つの扉の奥に怪物的な夫に追われる娘を匿ったり、七人の老婆の家を順に通って姫君のいる城へ行ったり。「白雪姫」にもそれはあり、小人の家は七つの山の向こうにあると語られている。七人の小人たちの住む《森の奥》が即ち冥界であることは、こうした表現によっても暗示されている。
さて、このようにガラスには《死》のイメージが込められていると考えられるが、【白雪姫】話群を見渡すと、その全てで《ガラスの柩》が使われているわけではない。金の柩、銀の柩、宝石で飾られた柩、石の唐櫃などと語られることもあり、そもそも柩に入れないこともある。チロルの類話などでは、娘の遺体は家の中のベッドの上に置かれ、四方にろうそくを立てて、その火は常に燃やされている。現代日本でも、誰かが亡くなるとろうそくを灯し、一晩じゅう消さずに通夜をするものだが、何かそれに近い、遺体を悪霊から守って保とうとする信仰のようなものを感じる。
「白雪姫」といえば、毒リンゴを食べて死の眠りについたお姫様を王子様の愛のキスが目覚めさせる話……と認識している人は多いように思われるが、これはディズニーアニメ映画版のオリジナル要素で、原作のグリム版にそんなシーンはない。民間に伝承されている多くの類話も同様である。民話では、姫は王子の愛によってではなく、大抵は第三者の行動から偶然、《死の眠り》をもたらしていた食物が吐き出されたり、衣服や針、櫛を取り外されるなどして目覚める。
目覚めはロマンチックとは程遠い方法でもたらされることも多く、イタリアの「水晶の柩」では、若い王の留守中、世話を任された母の女王やメイドたちが放置したために、眠る《白雪姫》の顔や手は埃とハエの糞だらけに。王が帰ってくるので慌ててスポンジで拭いていると着ていた服が汚れ、交換するために脱がせたことで魔法が解けて目覚める、などという展開である。
キスで死の眠りから目覚めるといえば、グリムの「いばら姫」だ。ディズニーの「白雪姫」の目覚めのキスはそこに想を得たものなのかもしれない。【眠り姫】は【白雪姫】とは非常に近しい話群だが、あちらでは眠る姫を目覚めさせる役が殆どの場合王子自身に振られている。ロマンチック度では【眠り姫】の勝ちだろう。
グリム決定版の「白雪姫」では、王子が姫の入った棺を持ち帰ろうとした時、担いでいた従者がつまずいて棺を揺らし、おかげで姫の喉から毒リンゴが出て目覚める。初版とは異なるエピソードだが、グリムの創作というわけではなく、別の語り手から聞いた類話と部分的に差し替えたのだという。実際、ロシアの類話「あなたはだれ?」にも同系統のモチーフが出ている。
では初版はどんな目覚め方だったのか。常に棺を運ばされる従者が怒り、姫の背を殴ったところ、毒リンゴが喉から飛び出して息を吹き返した、となっている。やはり喉が詰まった時には背中を叩くのが一番。……じゃなくて、王子のキスどころか従者に殴られて目覚めるなんて、本当にロマンチックじゃない。
とはいえ、暴力による再生のモチーフは説話では珍しいものではない。例えばグリムのエーレンベルク稿に書かれた「白雪姫」の原型民話で、白雪姫が蘇るシーンにこんな但し書きがしてある。
「他の話では、小人たちが小さな魔法の槌で三十二回軽く叩くことによって、白雪姫が再び生き返る。」
民話では、心根の悪い、あるいは年老いて醜い女(魔女)を、男が棒で殴って殴って叩きのめして、そうすると若く美しい女、あるいは従順な良き妻になる、というモチーフを見ることがある。これは男尊女卑的思想の発露だと思えるが、恐らく死者の再生を促す行為の、拙いデフォルメ化でもある。例えばグリムの「小さい野鴨」では、殺された王妃が白い水鳥…即ち亡霊となって夜毎に現れ、彼女を蘇らせるためにはその首を夫が剣で落とさなければならない。「白猫」でも、白猫姫の首を夫が斬り落とさなければ彼女の魔法は解けない。死んだ、いわば死の国に転生している(獣や老人の姿になっている)者を、もう一度殺す(皮を脱がせる)ことによってこの世に転生させ直すという考え方だ。
日本の「たにし息子」の類話には、たにしの夫を妻が叩き潰すと若く美しい男に変わったと語るものがあり、この話群と近い婿入り型の「一寸法師」では、一寸法師を打ち出の小槌で軽く打つ(もしくは、上で振る)と大きく立派な男に変わったとする。雪白ちゃんを魔法の槌で叩くと蘇るのは、これと同じモチーフであると思われる。
世の中には様々な性癖を持つ人間がいるものだが、「白雪姫」の王子はロリコンで、尚且つ
ロリコン、即ちロリータ・コンプレックスは幼い少女に対する成人男性の性愛的嗜好のことである。原作を参照すると、序盤の部分に白雪姫の年齢について明記してある。
白雪姫は大きくなるにつれて次第に美しさを増し、七つの時には輝く太陽のようになった。
そう。白雪姫はまだたったの七歳だったのである。七歳の女の子を見るなり夢中になって花嫁にしてしまった王子は、間違いなくロリコン……いや、待ってほしい。確かに、継母に森にやられて心臓を取られそうになったり、七人の小人の家に住み込んだりした時には、白雪姫は七歳だっただろう。だが王子と出会った時もまだ七歳だったかどうかは分からないのだ。というのも、白雪姫が死んだ後のシーンにこう書いてあるからである。
こうして白雪姫は長い長いあいだ棺の中に入っていたが、生きていた時と変わらずに雪のように白く、血のように紅く、黒檀のような黒い髪で、まるで眠っているだけのようだった。
白雪姫は棺の中で長い長い間眠っていたという。とすれば、王子と出会った時には結婚に相応しい年齢に育っていたとしてもおかしくないのではないか……?
と言うと、「待て待て」と思う人もいるだろう。「白雪姫は死んでいたんじゃないか。死体は成長しないから、何年経っても死んだ時の七歳のままのはずだろう?」と。いや全くの正論…なのだけれど、ファンタジーの世界には不思議なことが起きるものなのだ。
グリム版より二百年近く昔に書かれた類話「奴隷娘」では、リーザという娘がやはり七歳の時に死の眠りにつくのだが、数年後に発見された時、「ガラスの箱に入ったままリーザは成長しており、箱の方もそれに合わせて大きくなっていた」とある。白雪姫にも同じことが起こっていないと、どうして言えるだろうか? つまり、王子が発見した時には白雪姫は年頃になっていて、だからこそ王子は「私の妻になるのです」と言ったのだし、白雪姫も承知してすぐに結婚式が行われたと考えられるのである。
日本で初めて本格的に翻訳された「白雪姫」は、巌谷小波の「雪姫」(1908年/明治41年)だが、巌谷はこの辺りの行間を見事に読み込んでいて、原文にはない説明を書き加えている。
穿った考え方をすれば、肉体が成長していたとしても白雪姫の精神は七歳のままのはずで、アンバランスなことになっているのではと懸念してしまうが、恐らくその心配はない。白雪姫が長い間死んでいて結婚できる女性として目覚める。ただの甦りではない。常識では有り得ない描写がされたこのシーンには、何かの寓意があると見るべきだ。
死の眠りにつく前、変装したお妃が持ってきた美しい櫛を見て、小人の戒めを破って白雪姫が戸を開けてしまうシーン。ここには「それが気に入ったものだから、子供はついつい戸を開けた。」とある。七歳なのだから確かに子供だが、精神的な幼さをも言っているように感じられる。幼稚だった白雪姫が精神的にも成熟した。長い長い眠りの後の目覚めは、そのことを表現しているようにも思われる。
それにしても、どうして死ぬ時、白雪姫は七歳なのだろう。
私見なのだが、現在の私たちが《二十歳》や《六十歳》を節目の年齢と考えるように、どうも《七歳》を節目の年齢と考える思想があったらしく思う。というのも、【運命説話】を見ていくと、世界各地で運命の神が人に死を与える年齢は、主に「成人する、または成人を過ぎた歳(15〜21歳)」か「結婚するとき」なのだが、「七歳」というものもかなり見かけるからだ。結婚を人生の節目、「生まれ変わりの時」とするのは現代にもある考え方だが、成人の歳や七歳にも同じような意味が持たされていたらしい。日本には「七つまでは神のうち」「男女七歳にして席を同じうせず」という言葉があるが、七歳はそろそろ「(自我を持ち、身体もしっかりした)人間に生まれ変わる」節目の年齢として認識されていたと思われる。
さて、王子のロリコン疑惑は解けた。それでは死体性愛者疑惑は……どうだろう。流石に言い逃れができない。ディズニーアニメ映画版の王子が棺の中の白雪姫にキスをしたのは、彼女と生前からの知り合いで互いに好ましく想い合っていたからであるが、グリム版はどうなのか……。
ただ、白雪姫の死体はいつまでも生き生きしていて眠っているだけのようだった、というのだから、本当の死体とは違う。むしろ人形を愛したり女性の人格を認めずに都合よく可愛がる
物語の結末、お妃は白雪姫の結婚式に知らずに招かれ、真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされて死ぬまで悶え踊った。
残酷だという感想を抱く読者は古くから多く、1823年の最初の英訳版で既に、結末を「花嫁衣装の白雪姫を見て驚きのあまりショック死した」と単純な形に改変されている。巌谷小波によるほぼ最初の和訳では、死んだと思っていた雪姫を見て立ちすくんでいるうちに「雪姫を苦しめた罪が知れて、直ぐ其場に於て王子の手にかかって、斬殺され」ており、やはり改変されている。ディズニーのアニメ版では、白雪姫に毒リンゴを食べさせた直後に、駆け付けた小人たちによって崖まで追い詰められる。それでも小人たちに岩を落として殺そうとするが、雷に直撃されて死ぬ。白雪姫や王子は彼女の死には関わらず、手を汚さない。
グリム自身、全く手を加えていないわけではない。「白雪姫」は草稿(民話の聞き取りの記録)を兄のヤーコプが行い、初版の原稿に起こす際と二版発行の際に弟のヴィルヘルムが書き直しているが、問題の処刑シーンにも、ごく些細ではあるが改変がある。
(草稿)
結婚式のとき王妃は、まっ赤に焼かれた鉄の靴を履いて、死ぬまでダンスを踊らなければならなかった。
(初版)
そこでは鉄の上履きが火の中で真っ赤に焼かれていて、妃はそれを履いて踊らなくてはならなかった。足はひどい火傷になった。けれども死んでしまうまで踊りをやめさせてはもらえなかった。
(二版以降)
けれどその時にはもう、鉄の上靴が石炭の燃える火にかけてあり、それが火ばさみで挟んで運ばれてきて、邪悪なお妃の前に差し出された。それで彼女は真っ赤に灼けた靴を履いて、死んで倒れるまで、とても長い間踊り続けなければならなかった。
草稿の段階では非常にシンプルだったものを、初版では「足はひどい火傷になりました」と火傷の程度について描写して残酷さを増してある。ところが二版以降それは消え、「とても長い間踊り続けなければならなかった」という時間描写にすり替えてある。
森義信『メルヘンの深層』によれば、焼いた鉄の靴を履かせる処刑は、中世ヨーロッパの魔女裁判において実際に使われた拷問道具だという。スコットランド王ジェームス六世は1590年からの二年間、残虐な魔女裁判を主宰したが、その際、悪魔に通じたとされた人間に真っ赤に焼いた鉄の長靴を履かせたうえ、ハンマーで靴ごと足を叩き潰すことを行った。
グリムは童話集を七回改訂し、子供に読ませたいという読者の声を受けて性的要素や残酷描写を削除・改変して薄めていったとされる。初版でお妃が実母だったのを二版以降継母に変えたのもその一環とされるし、にも拘らず「焼けた鉄の靴を履かせる」という残酷極まりない描写を削除しなかったのは、「悪人は罰される」という教訓をより明確に子供に伝える教育的意図のためだ…などと解釈されることもある。
しかし、単にグリムはこれをそれほど残酷だとは思わなかっただけなのかもしれない。といって、グリム兄弟が残酷を好む性癖を持っていたとも思わない。説話の世界には殺戮や食人や悪人の処刑は頻繁に出てくる。例えばスプラッタ映画を何本も観れば「スプラッタ映画とはこういうものだ」と思うようになり、残酷だからスプラッタシーンを削除しようなどとは考えないだろう。
そしてまた、鉄の靴を履かせる処刑が魔女裁判を描写したものだとするなら、グリムはそれを知っていて、民話の中に残る人々の記憶…歴史を伝える意味で、あえて削除をしなかったのではないか、とも思えてくる。
ところで、グリムの「森の三人の小人」や「がちょう番の娘」の結末で行われている、内側に釘の出た樽に入れて転がすという処刑法も、現実に民間で行われた私刑を描写したものだと言う。日本含む世界各地の民話で見られる「馬の尾に結び付けて引き回し、バラバラにする」「二頭の馬(牛)の尾に片足ずつ結びつけて身体を引き裂かせる」という処刑法も、現実に近代まで西欧等で似たものが行われていた。牛馬や車等に四肢を結びつけて引き裂くもので、八つ裂きの刑、四つ裂きの刑などと呼ばれる。中国では車裂、五馬分屍などと呼ばれた。最も重い刑罰である。、日本には戦国時代に牛裂きの刑というものがあった。
「白雪姫」を読んでいて不思議に思うことがあった。小人の家に住む白雪姫を訪ねたお妃が最初に使った殺害道具。それは《胸ひも》だという。これできつく締めあげたので、白雪姫は息が詰まって一度死んだ。……だが、《胸ひも》って何なんだ?
森義信『メルヘンの深層』には、こう解説されてある。
白雪姫が継母から得た胸ひもは、さぞかし高価な品物であったにちがいありません。この胸ひもは、ふくらんできた胸の下あたりの胴周りを、衣服の上からしばり、胸の線を美しく見せるとともに行動もしやすくするというものでした。
しかし図像がないので、具体的にどんなものなのかが分からない。紐一本を胸の下で縛るのだろうか。それだけで胸の線が綺麗に出て動きやすくなるのだろうか。
一方で「白雪姫」の原文を参照したところ、白雪姫を締めたものはカラフルな絹の「Schnrriemen シュヌーアリーメン」とあった。しかし最初、手持ちの小さな辞書ではこれが何のことなのかよく分からなかった。Schnr が紐(組紐)や糸、索のことなのは分かる。しかし何の紐か? すると、近い言葉のSchnrenには「(コルセットを)締める」という意味がある。
森義信の解説では胸紐は胸の形を美しく見せ、かつ動きやすくするためのものだとする。それは下着の役割だ。古代のクレタ島では胸の下に革製の胴衣を着けて胸を高く《寄せて上げた》と言い、12世紀の西ヨーロッパには、今で言うビスチェのような、服の上に着けて腰を細く胸を高く見せるコルスレという胴衣が現れたと言う。これは前で紐で締める。後のコルセットである。16世紀頃からコルセットは下着として扱われるようになり、前部に
もしかすると胸紐とはコルセットを締めるための紐なのではないか。思えば、類話にもコルセットを締められて死ぬものがあるではないか。グリムの時代のおしゃれな女性は身につけているものだったろうし、(独りでも着ることはできるが)通常は誰かに後ろから紐をぎゅっと締めてもらうものである。それに、コルセットの締め過ぎで体調を崩す女性は現実にいたと聞く。
そこで検索してみると、白雪姫はコルセットを締められて倒れたと書いてあるページがちらほらある。どうやら英語の絵本の中にもそのような説明を書き加えたものがあるらしい。同じように考えた人は多いようだ。
だが同時に、「白雪姫は紐で首を絞められ、絞殺された」と書いてあるページもかなりの頻度で目にした。これはどうしたことか? ……どうも、青空文庫で閲覧できる菊池寛訳の「白雪姫」が原因らしい。その訳文では首を絞められているからである。
実を言えば、原文ではSchnrriemenでお妃が白雪姫のどこをどう締めたのかは全く説明されていない。そのため、Schnrriemenをどんなものと解釈したかによって、翻訳者ごとのずれが生じているようなのだ。
もう一度辞書を開こう。SchnrriemenはSchnrとriemenという二つの単語から成り立っているように思われる。「Schnr 紐、糸」+「Riemen (細い、索状の)ベルト、帯、革紐」なので、「組紐の細い帯」という意味になろうか。
そう。Schnrriemenとは、色とりどりの絹糸を編んで作った帯(ベルト)だったのである。帯と言えば、普通は腰に締めるものだ。よって白雪姫は胸でも首でもなく、胴を締められて息が詰まったのだと判断できる、が……。
岩波文庫版『完訳グリム童話』(金田鬼一訳)をはじめ、日本の関連本の大半が、白雪姫は「胸ひも」で胸を締められて死んだと語っている。近い言葉のSchnrbandに「靴紐、胸衣紐」という意味があるので、流石に靴紐を締めても息は詰まらないだろうから、「胸ひも」と訳したとも想像できる。
ここで言う胸ひもが胸衣紐のことなら、結局、コルセットの紐と言ってしまってもいいのかもしれない。胸衣(ストマッカー stomacher )とは通常はコルセット前部に着ける逆三角形の美しい前あてだが、コルセットと一体化していることもある。これに紐を交差させて掛けることもあった。コルセットは胸から腰までを覆う。色紐で編んだ細い帯でコルセットを締めたと解釈することも可能だろうか。
なお、かつてコルセットは貴重品で、母から娘へ花嫁衣装として贈られることもあったという。類話を見渡すと、《白雪姫》を殺すアイテムとしてしばしば指輪が現れるが、この指輪は多くの場合、「(死んだ)母から娘へ譲られたもの」とされることにも注目できるかもしれない。《白雪姫》に対して、櫛や髪飾りや帯や指輪やストッキングや素晴らしいドレスが、母から贈られる。これはもしや、花嫁衣装ではないだろうか。結婚は人生の節目であり、新たな人生のスタート、つまり「生まれ変わる時」だ。《白雪姫》は一つずつ花嫁衣装をまとって一度死に、新たに生まれ変わって花嫁となり、母親の手から離れる。「白雪姫」はそういう話なのだ…と、読み解くことも可能なのかも?
一方、首を絞めたと訳している方は、Schnrriemenをただの「紐」と解釈したのだろう。紐で絞めて殺すなら、絞めた部位は首に決まっているということで、その言葉を訳文に書き加えたのだと思われる。
>>参考 ストマッカー(Wikipedia/英文)
主な参考文献
「グリム童話/メルヘンの深層」 鈴木晶著 『Sho's Bar』(Web) / (初出)『グリム童話 メルヘンの深層』 講談社現代新書 1991.
『メルヘンの深層 歴史が解く童話の謎』 森義信著 講談社現代新書 1995.
『魔法昔話の起源』 ウラジミール・プロップ著 斎藤君子訳 せりか書房 1983.
『婚姻の民俗 東アジアの視点から』 江守五夫 吉川弘文館 1998.
『メルヘンの履歴書 時空を超える物語の系譜』 宮下啓三著 Keio UP選書 1997.
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