【シンデレラ】の広がり

シンデレラ】は民話の中でも最もよく知られたものの一つで、絵本に、小説に、漫画に、舞台にと、現代でもアレンジと再話が精力的に続けられている。その人気は《シンデレラ・ストーリー》や《シンデレラ・コンプレックス》といった造語を生み出し、定着させたほどだ。

 この物語がこれほどの知名度を有している理由の一つに、ディズニー社のアニメ映画『シンデレラ Cinderella』の存在があることは否めないだろう。1950年に公開されたこの映画は、フランスのペローが再話した「サンドリヨン、またはガラスの小さな靴 Cendrillon, ou la Petite Pantoufle de verre」を主な原作としている。

 ペローの再話は1697年に出版された散文集『寓意を伴う昔話、あるいはお話集 Histoires ou contes du temps passe.Avec de moralites』(翌年の再版で『鵞鳥おばさんの話 Contes de ma mere l'Oye』と改題)に収録されていたもので、この物語で描かれたガラスの靴やカボチャの馬車がディズニーアニメ映画でも採用され、よく知られるようになった。これらは今や【シンデレラ】譚に欠かせない定番の小道具として認識されている。

 

シンデレラ】譚は世界各地で伝えられており、九世紀に唐の段成式が著した『酉陽雑爼』中にも「葉限イェーシェン」という類話が見える。著者が中国南東部出身の下男から、彼の故郷の伝承を聞いて忠実に記録したものである。文献上最古の【シンデレラ】とされるが、継母に苛められる継娘、行かせてもらえなかったイベントに魔法で着飾って出かける、そこで落とした履物が証拠となり玉の輿に乗るなど、筋立ては既に、現在知られるものと殆ど変わらない。ただ、継娘が大事に飼っていた魚を継母が殺し、その死骸から魔法が生じるという前半部分は、西欧の【シンデレラ】譚では基本的に見られない。

 継娘が魚から魔法を授かるタイプの【シンデレラ】譚は北ベトナムを中心に分布しており、丁 乃通 Ting Nai-tung は『中国とインドシナのシンデレラ話』において、この物語はベトナムの主要民族であるベト族、または北ベトナムに住むチワン族、あるいはミャオ族(モン族)の間に発生した可能性があることを匂わせている。その根拠として、北ベトナムではこの類話が紀元前四世紀にカイ・カムとカイ・タムという継娘と実娘の間に起こった現実の事件だと信じられており、これにちなんで(十九世紀初めにだが仏塔パゴダまで建てられていたことを挙げている。

 もっとも、例えば日本では、浦島太郎桃太郎が伝説化して実在が論じられ幾つもの神社に祀られているけれども、それらの物語自体の起源が日本にあるとは言い難い。ただ、北ベトナムで【シンデレラ】譚が非常に親しまれ、深く浸透していたのは確かだと言えるだろう。

 いずれにせよ、中国南東部からベトナム北部一帯が【シンデレラ】譚の古い発生地の一つである可能性はあると、山室静は『世界のシンデレラ物語』で述べている。

 

シンデレラ】研究は早くから行われており、既に1897年にはイギリスのコックス夫人が類話三四五話以上を集め分類した『三四五話の異型から見た<シンデレラ><猫の皮><藺草の頭巾>』を著している。また、1961年にスウェーデンのアンナ・ビルイッタ・ルースが出版した研究書『シンデレラ・サイクル The Cinderella Cycle.』は、参照された類話の膨大な数からしても評価が高い。

 ルースは「アロエの木」のような、継母の虐待で飢える子供たちを亡母が雌牛や植物に転生して養うタイプの物語が、あらゆる【シンデレラ】譚の原型であるとした。彼女は、死者の魂が獣、植物、植物から作られた道具と、次々転生していくモチーフに着目し、紀元前1300年頃のエジプトのパピルスに記された「二人の兄弟の話」がそのモチーフを含むこと、そしてこの話によく似ているが継子譚である民話がアラビア半島の南に浮かぶイエメン領の島ソコトラで今世紀初頭に採取されたことを挙げ、継子譚であるソコトラ島の民話の方が原型に近いと想定して、原型は「二人の兄弟の話」より以前、紀元前1500年頃には近東で成立していたはずだと結論付けたのである。

 しかし、「二人の兄弟の話」にある人妻の讒言による迫害のモチーフが、継子譚のモチーフよりも新しいという根拠はない。それに【シンデレラ】譚は必ずしも継子譚とは限らず、姉妹間の葛藤や一夫多妻制社会の妻たちの葛藤譚として語られることも多く、それらが継子譚よりも新しいモチーフであると断定する根拠もないのである。




 研究者たちが【シンデレラ】話群に属すると定める話型やモチーフは、実にバリエーション多彩だ。継子譚、亡母が獣や植物に転生して助けてくれる話、善い継娘は玉の輿に乗るが悪い実娘は失敗する話、ライバルの女たちに妨害されながらも魔法で玉の輿に乗る話、家から逃げ出した娘が灰にまみれるか醜い皮をかぶるかした後に正体を現して玉の輿に乗る話……。これら全てを視野に入れて原型や源郷を探ろうとするのは、無謀かつ無意味な挑戦であるようにも思える。恐らくは、それぞれ異なる発生と過程を経ていて、しかも世界中に伝わっている以上、複数のルートで融合や分離が行われているだろうからだ。どこか注目するポイントを定めて、ごく狭い範囲を論ずる方が、むしろ実のある作業かもしれない。

魔法使いと死んだ母親

 ディズニーのアニメ映画版の印象が強いと、《妖精のお婆さんフェアリー・ゴッドマザー》は唐突に現れて、初対面なのに無償の魔法で助けてくれる、便利なお助けキャラクターに思えるかもしれない。だが原作の「サンドリヨン」では、彼女がどうして主人公を助けるのかの理由が説明されてある。彼女は元々サンドリヨンの名付け親であり、即ち後見人であったのだと。

 キリスト教圏では子供の洗礼の際に両親に任命された名付け親が立ち会い、その子供の成長を見守る後見人になる。似たような慣習は日本にもあり、士族・貴族階級の男児の元服(成年式)で有力者が自分の名の一字を取って成人名を与え、元服親または烏帽子親などと呼ばれて後見人になった。類似の慣習は一般にもあり、成年式の際に男子にはふんどし、女子には腰巻を贈ったり、髪型を変えてやったり鉄漿おはぐろを塗ってやる儀礼的な親役を立てていた。この仮親は、褌親、前髪親、兵児へこ親など、地域によって様々に呼ばれている。仮親は子供が結婚する際などに経済援助してやり、子供も仮親の畑を手伝ったり、親しく付き合うものだった。台湾の卑南プユマ族でも、少年が若者組に加入する際、普段可愛がってもらっている大人から腰巻を巻いてもらい、その仮親の名が以降の少年の通称名とされたと言う。これらは成年を《子供として死に、大人として生まれ変わる》新たな誕生とみなして、仮親をそれに立ち会った第二の親とする呪術的意味があったとされている。

 サンドリヨンを助けた妖精は彼女の代母であり、よって娘の結婚のために援助を行ったのだ。ペローは物語の最後に付けた教訓にも「機知や勇気、家柄といった才能は天の恵みだが、それだけでは役には立たぬ。見守り助けてくれる、名付け親の代父や代母がいないことには」などと書いている。

 これを引いて、森義信は『メルヘンの深層』で、グリム版ではしばみの木からドレスが落ちてくることまでもを「ペローの仙女の魔術と同じく、シンデレラの後見人によるしわざとしなければならないでしょう。」と結論付けている。はしばみの木は《シンデレラ》の生母の遺産の比喩であり、その挿し枝が木に成長したのは、後見人が財産を運用して増やしたことを意味すると言うのだ。

 けれども、それは合理化し過ぎた解釈ではないだろうか。はしばみの木から落とされるドレスが《シンデレラ》の亡き母親に由来するという考えには同意するが、それを与えたのは遺産を預かる後見人でしかないのか。死者自身は何ら干渉できないとするのは現実としては当然の感性だが、それをメルヘンにも適用すべきなのか。《魔法》は存在しないのか? そもそも、名付け親という習俗の導入自体が、魔法含みの伝承を合理化しようとする脚色ではないのだろうか。



 世界各地の【シンデレラ】譚を見ていくと、《魔法使い》の立場や姿は様々だ。僧侶や尼僧、聖母マリアや聖人とされることもあるが、それこそ後世の合理的・社会的脚色だろう。大抵は醜い山姥であったり、美しい妖精であったり、鳥や魚や牛などの獣であったり。ただ、どんな姿であろうとも、殆どの場合どこか母親〜養育者的で、その魔法に《死》の匂いがあることは共通している。山姥は人食いだし、魚や牛は殺されてしまう。

 思うに、《魔法使い》と死んだ母親は繋がっている。

 事実、「奴隷の娘ヨンシー」や「月の顔」や「ペペルーガ」のように母親が死んで牛に生まれ変わったと語る例は多く、「達稼と達侖」のように母の霊が鳥の姿で呼び掛けてくる例もある。「糠福と米福」の例に至っては、母の亡霊がそのまま現れて、山姥がやるのと同じように魔法を授けている。グリム版でも、ドレスの落ちてくるはしばみの木は、死んだ母親の墓に生えているのである。

 鳥、特に白いもの、あるいは逆に真っ黒なカラスは、死者の霊の化身とされることが多い。そして、木を異界へ繋がる道、冥界そのものとみなす世界樹信仰が存在する。その観点で見れば、墓に生えた木は冥界であり、それにとまった鳥は死霊である。

 グリム版の《シンデレラ》は、母の墓に行っては泣いて辛さを訴えていた。すると木に白鳩が現れて魔法を授けてくれる。【シンデレラ】譚と共通したモチーフを持つアフリカ民話「継子たち」では、継母に虐待され飢えた子どもたちが母の墓に行って泣くと、墓の中から母が呼びかけ、墓に穴が開いて中に美味しい蜂蜜とバターが溜まっている。しかし他者が盗んで味わおうとした時、それは血と膿に変わった。つまり、母の亡霊が我が子を養うために与えた食料は、彼女自身の血肉であった。これは、牛や魚が助けてくれるタイプの【シンデレラ】譚で、それらの獣の骨が食糧やドレスに変わるエピソードの原型を示していると考えられる。



《魔法使い》は死んだ母親に通じる。とは言え、ペロー版の《妖精のお婆さん》や魔法を授ける山姥が死んだ母親と同一人物である、というような一元的な話でもない。

 母親は死ぬことで霊となり、冥界で祖霊と一体化して、神霊〜太母神の一部となった。だから《魔法使い》は、死んだ母親でもあり、近くも遠くもある祖母でもあり、しかし赤の他人でもあって、名付け親のような第二の親であり、もっと大きな範囲での《お母さん》だと言える。そういうことではないだろうか。

かまどと灰

 一昔前に雑学ブームが沸き起こっていた頃、「シンデレラの本名は《エラ》である」と解説した雑学本が幾種類か売られていたことがあった。《シンデレラ Cinderella 》という単語を《灰まみれの Cinder エラ ella 》と解釈していたのだ。

 確かに海外のシンデレラ二次創作文学――C.S.エヴァンス『シンデレラ』(C.S.Evans『Cinderella』)やファージョンの『ガラスのくつ』(Ereanor Farjeon『The Glass Silpper』)ではそういう設定になっている。

 だが、これは一種の語呂遊びではないのか。日本や韓国には「灰坊」という男性版シンデレラ譚があるが、これを「灰坊は《灰まみれの坊》という意味で、つまり彼の本名は《坊》なんだ」と言っているようなものではないか。

 辞書を引く限り、Cinderella の ella は女性指小辞であり、日本語で言うなら「灰っ子」の「」の部分に相当する語で、名前ではない。



シンデレラ】譚の主人公たちは、男女問わず《灰》に関わる名で呼ばれることがしばしばある。物語上、それは主人公が継母の虐待等で下働きをさせられ灰に汚れていたからだと説明されるものだ。古代ユダヤの慣習から発して、キリスト教圏では《灰をかぶる、灰の中に座る》のは罪人の贖罪行為、苦痛や悔悟を意味する表象だが、ここでは無関係だろう。真に注意すべきは、主人公が灰に汚れる立場だった……火焚き番であったという点である。

 火焚き番とは、即ちかまどと火を管掌する者だ。「灰坊へーぼ」では、主人公は他の仕事では全くの無能だったが火を焚くことには非常な才能を発揮して重用されたとある。「月の顔」では主人公はかまどの中に隠れ、そこから出た時には美しい姿に変わっている。かまどと関わった時に特異な力を発揮しているのだ。

 かまどと火を神聖視する観念は世界中に見られる。火は人を温め、家を照らし、食材を調理する。生命を育むものだ。家庭の中心の火〜かまどを管掌する母親は太母神に重ねて考えられた。母親が火を使って料理を作り出し、子宮から新たな生命を産み出すように、大母神の子宮〜冥界には獄炎が燃え、そこに入った死者の魂は、食材のように切り刻まれ焼かれ煮込まれ咀嚼されて、新たな生命として再び産み直されるのだと。

 つまり、かまどと火には死と再生の呪力〜冥界の力が宿っているとみなされていた。火焚き番を行う主人公は、そんな不思議な力に関わる、冥界〜神霊と繋がることの出来る存在、いわばシャーマンであることが暗示されていると言える。これは、主人公たちが母の霊や山姥、妖精、魔法使いといった神霊的存在……特に母神的な……とコンタクトし、その守護を受けている点にも現れている。

 ドイツのヴェストファーレン地方では、五月祭メイ・デーの際に娘たちが焚き火を飛び越える儀式が行われ、この時に靴の片方を落とす娘がいると処女ではないと言って囃し立てたそうだが、火と女性の生殖活動、生命力を関連させる観念があったことが窺える。(靴と女性の性の関連付けについては<片方の靴>にて。)日本の主に関東と長野県、他に福岡県や熊本県、新潟県などには、嫁入りの際、嫁が火を跨いで、あるいは踏み消して婚家に入る、火のついた薪で嫁の尻を叩く真似をする、などという儀式が行われていた。同様の習俗は韓国や中国北方諸民族でも見られると言うが、女性が火を跨ぎ越える行為には、火の生命力を胎内に移す、というような子宝祈願の意味があったようである。原初に火が女性の胎内や女性器からもたらされたとする神話はパプア・ニューギニア、メラネシア、ポリネシア、南米などで見ることができる。日本神話でも、女神イザナミは火の神を産み落とし、そのため女陰ホトを焼かれ死んで冥界の女神となった。神武天皇の皇后である半女神・比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタラ イスケヨリヒメ)は真の名を富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタラ イススキヒメ)と言ったが、古代日本では溶鉱に使う大型のふいごをタタラと呼び、ふいごと土炉を繋ぐ木呂竹を差し込む穴を《ホト》と呼んだ。生命力と燃える火は同一視され、生命を産む女性が管掌するとする観念があったのだ。西欧には、死体の上に燃えるロウソクを通過させると起き上がる、という俗信もあると言う。

小町娘とあばた娘」や「タムとカム」、「狼と子ヤギたち」といった民話では、最後に主人公とライバルが焚火または煮えたぎる大釜を跳び越える勝負を行い、ライバルは落ちて死に、主人公は成功して死から完全に再生する。火を跳び越える行為には《冥界潜り》の暗示があり、火を制して跳び越えた〜冥界を潜り抜けた主人公は、シャーマンとして冥界の善き力を得たのだと考えることができる。



 神がみすぼらしい旅人の姿で訪ねてくる物語は世界中に伝承されている。その姿で嘲られ侮られた後、神は呪力を発揮して真の姿を示す。【シンデレラ】譚の主人公たちがみすぼらしい姿で嘲られ、後に美しく変身するのも、それと繋がる展開であろう。そしてこの観念は【シンデレラ】譚に限らない。「陸を走る船」や「草むらのお人形」のような民話でも、いつも温かな灰の中にうずくまり、《灰つつき》と呼ばれて嘲られていた怠け者の主人公が神霊の祝福を受け、やがて灰を拭って、立身出世する展開が語られている。

 灰はかまどや火に関連し、冥界と神霊に繋がっている。そして灰煤で《身体を汚す》ことにも、どうやら神霊に繋がる意味がある。

 訪れる神は粗衣を着たみすぼらしい旅人の姿をしているものだが、『日本書紀』第七段一書あるふみの三によれば、スサノオ神が高天原から追放された際、青草を編んだ蓑笠をまとって神々の家に宿を求めたとある。このため、蓑笠を着たまま人の家に入ることを忌む風習が生じたと。なお、古代日本では鬼は蓑笠をまとって顔や体を隠して現れるものとされていた。これは、鬼、即ち神霊が冥界から訪れる旅人まれびとであり、その姿は見えにくい、という観念があったことを示している。蓑笠を着た者が家に入るということは、得体のしれない神霊が家の中に入り込むというイメージに繋がるから、忌まれ、祓いを行う慣習があったのだろう。

 海外の伝承でも、地下世界の小人や山の小鬼、冥界の王は姿を隠せる魔法のマント(合羽)や帽子(兜)を持っている。これと同様に、神霊は現世の者には姿がよく見えない(神霊は現世の者の姿がよく見えない)という観念を示す表現には、《全身を白衣で覆う、または白く塗る》か《全身を黒衣で覆う、または黒く塗る》というものがあるようなのである。これは葬儀の際に白服や黒服を着ることとも関連するかもしれない。

千匹皮」の主人公は、千種の毛皮で作った奇妙な衣をまとい、手や顔に煤を塗った。「灰かぶり」の主人公は粗衣を着て自ら灰の中に横たわる。『千夜一夜物語』の「三番目の托鉢僧の話」では、異界から放逐された片目の男たちが、夜になると顔に灰煤を塗って泣き喚く。灰をかぶれば全体に白っぽく輪郭がぼやけた感じになる。煤を塗れば顔が黒く見分けづらい。特殊な衣を着て肌に色を塗る行為は、自分の姿を見えにくくさせる、個の判別をつきにくくさせるという呪的儀式であり、人の世から離れ《見えない》神霊と一体化するという意味があったと考えられる。

 沖縄県宮古島の島尻集落には、旧暦九月に祖霊神に扮装した人が家々を巡る、青森県のナマハゲと似通った行事パーントゥ・プナハがある。ナマハゲは藁蓑を着て鬼の面をつけるが、パーントゥは草で作った蓑を頭からかぶり仮面をつけ、全身を黒い泥で塗り固める。そして出会った人にその泥を塗りつけて汚すのである。ナイジェリアでは葬儀の際に親族の女性が顔や手に灰や白い粉を塗る慣習がある。

 なお、「ペペルーガ」を見れば、主人公は全身を灰で汚されただけではなく、身体を洗うことや髪を切ることも禁じられている。「ラグナル・ロズブロークのサガ」でも身体にタールを塗られ洗い落とすことを禁じられた。このモチーフは【シンデレラ】譚以外の多くの民話でも見出せるもので、例えば『グリム童話』の「悪魔の煤だらけな兄弟分」(KHM100)や「熊の皮を着た男」(KHM101)にも出てくる。この二つはよく似た話で、いずれも食い詰めた退役兵が森で悪魔と出会うところから始まる。悪魔は次の条件を満たしたならお前を一生安楽にしてやると持ちかける。

「お前はこのさき七年の間、身体を洗ってはいけない。櫛でも手でも髪を梳かしてはならない。髪や髭や爪を切ってはならない。眼を拭ってはならない。今から与えるこの服をずっと着ていなければならない」

 約束を守った男は恐ろしく醜く不潔な姿になり、七年後に宿を求めた先でひどい目に遭わされる。しかし悪魔が男の髪を切って梳かし身体を洗ってやり、立派な姿にする。そして彼の醜い外見に惑わされなかった善良な娘と幸せな結婚をするのだった。

「悪魔の煤だらけな兄弟分」の方では、男は七年のあいだ悪魔に仕えて地獄の釜の火焚き番をし、沢山の黄金を得て現世に帰り、悪魔に身体を洗ってもらってからは白い麻の服を着て放浪しながら地獄で習い覚えた音楽を演奏したとなっていて、まさにシャーマン的である。

 一定期間体を洗うことを禁じられた恐ろしく汚い者は、誰なのか見分けがつかない存在で、つまり見知らぬ旅人まれびとである。そして人が見ることを避ける存在であり、つまり姿が見えない存在である。灰をかぶった《灰かぶり》は、《お化けちゃん》とでも呼び換えることが可能かもしれない。

 現世から離れている間は髪を切らないという観念は「マリアの子」や「ラプンツェル」にも見える。茨の垣に囲まれた荒地や森の奥の塔の上に隔離されている娘は、恐ろしく長い髪を垂らしている。《身体を洗わない》例からの流れで考えれば、何年も切らずに恐ろしく伸ばした髪というのも、神霊との繋がりを示す表象の一つなのだろう。

灰まみれの尻

 燃えるかまどと繋がる太母神はこの世のあらゆる生命を生み出し育む豊穣の母神であるが、盛んな生殖活動を行い続ける淫蕩な女神だと解釈されることもあった。

 近東からエジプトにかけて、かつて神殿娼婦と呼ばれる女性たちがいた。彼女たちは寺院や神殿に属する巫女として、訪れた男性と関係を持つことを義務としていた。(一生に一度だけの地域もあれば、一定期間勤める地域もある。)

 キリスト教の修道女、そして日本の神道の巫女には、男性との一切の関係を絶たねばならぬかのようなイメージがある。何故なら彼女たちは神の妻であり、それに独占される者だからである。正反対の行為を行っているかのようだが、実は神殿娼婦たちも同じ信仰の上に存在していて、訪れる男性を《夫たる神》に見たてて交わっていたものらしい。

ホレおばさん」では、井戸の底の異界に燃え盛るパン焼きかまどがある。ホレおばさんは北欧の冥界の女王ヘルの零落した姿だとされる。「悪魔の煤だらけな兄弟分」の退役兵が地獄の釜の火焚きをしたように、井戸の底に降りた継娘はホレのパン焼きかまどの世話をするわけだが、かつてローマの神殿娼婦たちは《パンの婦人たち》と呼ばれ、彼女たちの性の狂宴はかまどの祭フォルカナリアと呼ばれたと言う。キリスト教はこれを不道徳として禁じたが、本来神殿娼婦たちは多産――豊穣そのものを体現していたのであって、快楽や淫蕩のためだけに存在していたのではなかった。



 英語の《シンデレラ Cinderella 》の語義が《灰っ子、灰かぶり》であることはよく知られている。ところが、ペローの「サンドリヨン、またはガラスの小さな靴」では、《灰っ子 Cendrillon 》と呼ぶのは一番優しい下の姉だけで、上の姉や継母は《灰まみれのお尻 Cucendron 》と呼んでいた。

 西欧の【シンデレラ】譚の主人公には、多くの場合《灰》を意味するあだ名がつけられている。ドイツのグリムの Aschenputtel 、スコットランドの Aessiepattle や Ashpit 、デンマークの Askepotte 、スウェーデンの Askepott 。しかし、これらの単語の前半が《灰》を表すことははっきりしているが、後半の puttel 、 pattle 、 potte といった語が何を指すのかは長い間定かではなかった。

 アンナ・ビルイッタ・ルースは『シンデレラ・サイクル』において、この点に回答をつけている。彼女によれば、それはギリシアのキオス島で採取された《シンデレラ》の名前からはっきり知ることが出来るという。その名 は《灰 》と《女性器 》との合成語で、大変露骨な女性への蔑称なのだそうだ。つまり、女性器を表すこの《プータ》という語が、意味を忘れられたままプッテル puttel 、パトル pattle 、ポット potte といった語となって欧州各地のシンデレラたちの名に残りつづけたのだと。

 一方で、あまりに露骨なこの名を避けて《かまど猫 Hearth-Cat 》という名が用いられたとする。(メス猫、という名を女性に与える場合、やはり性的に侮蔑したニュアンスがあるのはお分かりだろう。)この呼び名をバジーレは「灰まみれのメス猫 La Gatta Cenerentola」として採用し、猫という名詞が省略されてペローの「サンドリヨン Cendrillon」になり、その名がイギリスに渡って「シンデレラ Cinderella」になったのだと結論付けた。

 しかし、こういった直に性的な侮蔑語を投げかけられているのは西欧のシンデレラだけで、それ以外の地域では基本的に見られない。《灰》という単語が呼び名につくのすら「灰坊」くらいである。(中国の研究者は【シンデレラ】譚を灰娘、灰掃娘、灰姑娘と称することがあるが、これは西欧の《灰かぶり》に倣ったものだ。)ただ、日本には主人公とその分身たるライバルの名を「紅皿・欠皿」としている話群があるが、《欠けた皿》には処女性の欠如のイメージがあることは付け加えておく。



 西欧の《シンデレラ》たちに性的に侮蔑した呼び名がつけられているのは、ただ、彼女たちが不当に卑しめられていたことを示す意味しかないのかもしれない。しかし灰にまみれた《シンデレラ》がキリスト教以前の太母神信仰に繋がる存在であると仮定すれば、また違う意味を見出すことも可能ではあろう。古代に女神の神殿に仕えた巫女たちは娼婦とも呼ばれていた。だからその記憶の延長上に存在する、巫女のすえたる《シンデレラ》たちにも娼婦を指すかのような呼び名が残った。そういうことかもしれない。

牛と魚

シンデレラ】譚の中には、[魚とシンデレラ]や[牛とシンデレラ]のように、《シンデレラ》が愛していた身近な動物の死骸から魔法が生じるものが少なくない。西欧では牝牛であることが多く、ごく稀に山羊になっている。対して中国南部から東南アジアでは魚、特に金色の魚になる。

 どうしてこのような変化が生じたかについて、ルースはインド人が牝牛を聖なるものとし、殺す物語を忌んだからだとした。【シンデレラ】譚を近東発祥と仮定し、そこから東西に伝播したと見ての推論である。一理あるが、山室静が指摘するように疑問点もある。牝牛から魔法が生じる展開はむしろその聖性を強調するとも考えられ、必ずしも変更すべきとも思えない。何より、どうして牝牛の代わりが魚なのか。原話が牝牛だったのなら、生贄として日常に使われてもいる山羊にでも入れ替えるのが、イメージ的にも近く、妥当ではないだろうか。

 結論が出るものではないが、[魚とシンデレラ]の序盤、《シンデレラ》が特定の文言で魚を呼び出して餌を与えており、それを知った(継母/姉妹)が真似をして魚を呼び出して食べてしまうくだりが、インドネシアの「ラオと魚」や西アフリカの「美しい娘と魚」など、【シンデレラ】譚とは無関係の、独立した説話として世界各地に分布しているのは確かである。魚ではなく蛇、蟹として語られることもある。

 思うに、これらの説話は魚を神霊とみなす信仰に基づいている。水は冥界と交わるとされる場所の一つであり、水辺はこの世とあの世の境界とみなされる。特定の文言によってそこに立ち現れる水生動物は、シャーマンに呼び出される神霊のイメージではないだろうか。西欧の《シンデレラ》が灰にまみれることでシャーマンであることを暗示しているように、中国南部や東南アジアの《シンデレラ》は魚と交霊することでその力を聞き手に示しているように感じられる。

 なお、(特に金色の)魚を可愛がって飼ったり、網から放してやったりすると、それが後に竜宮(冥界)に招待して歓待してくれるという説話が東洋では好まれていることも注意すべきかもしれない。例えば中国のチワン族の「竜宮女房」や、韓国の「鯉を放ち龍女を得る」など。助けた魚に魔法を授かるモチーフ自体はグリムの「漁師とその妻」(KHM19)など西欧にもあるが、東洋ほど好まれてはいないように思える。

 

 一方、牛はルースが想定した【シンデレラ】譚の発祥地たる近東では、まさに聖獣として崇められていた。ゾロアスター教の経典『アヴェスター』によれば、善神アフラ・マズダが最初に作った動物が月のように白く輝く牡牛、《牛霊ゲウシュ・ウルヴァン》であった。牡牛は悪神アングラ・マイニュに殺されたが、その精液が月で清められ、そこからあらゆる動物が生じたと言う。原初の巨人の死体から世界が生じたとする神話は世界各地にあるが、ここでは原人より先に原牛が現れている。牛は聖なる創造物であり、あらゆる動物の祖であり、そして《殺されることで全てを生み出す》。

 インドでは今も牛は聖なるものとみなされており、ヒンドゥー教のシヴァ神の乗騎、聖牛ナンディンにちなむと言われる。ナンディンの母はスラビという白い牝牛で、乳を出すように望む全ての物を無尽に出して与えるとされる。自らの体の中から食料を無尽に排出して飢えた《シンデレラ》に与えていた牝牛と、イメージが共通していないだろうか。

 自らの身体から無尽に食物を排出して周囲を養う女神は、世界各地の神話に存在する。日本でも、『古事記』で大宜都比売オオゲツヒメ、『日本書紀』で食神ウケモチのカミが伝えられている。彼女は訪ねてきた男神を排出した食物で歓待したが、覗き見た男神は汚いと思って怒り、女神を斬殺してしまった。このため無償無尽に食物が与えられることはなくなったが、彼女の遺体から有益な作物が生じ、それによって農耕・工芸が始まったとする。彼女は《殺されることで全てを生み出した》のだ。死体が有用な物……いわば宝に変わるのは、継母に殺された牝牛の死骸が、《シンデレラ》のドレスに変わる展開と繋がっているように思われる。

 あらゆる幸を身体から生み出し、殺されることで幸の種を授けた女神は、原初の母、太母神である。【シンデレラ】譚の牝牛が、多くの場合、死んだ母親の化身であったり、そうでなくとも母親的な存在として語られるのは、そのキャラクター原型そのものが《母》だからなのだろう。



 ところで[牛とシンデレラ]の中には、「木のつづれのカーリ」のように《シンデレラ》が牡牛に導かれて異郷に旅立つ展開を持つ話群がある。娘が牡牛に連れられて旅し、辿り着いた先で結婚する話と言えば、ギリシア神話の王女エウロペと大神ゼウスの変じた白い牡牛の物語を思い出さされるが、それよりももっと関連深そうに思えるのは、やはりギリシア神話に含まれる、王子プリクソスと黄金の雄羊の物語である。

 ボイオーティアの王・アタマースは、ネペレー(雲の意)との間にプリクソスという男児とヘレーという女児を設けた。しかしネペレーは彼の元を去ったので、イーノーという女性と再婚した。ところが、イーノーは二人の男児、レアルコスとメリケルテースを産むと、継子の兄妹を疎んで虐待するようになった。

 そしてある年、小麦の種籾を煎っておくように、ただし男たちにはそれを言わないようにとイーノーは女たちに命じた。果たしてその年は小麦の芽が出なかったので、アタマースはデルポイの社に使いを送ってアポロンの神託を伺わせた。それを知ったイーノーは密かに使者を呼び寄せ、「プリクソスをゼウスへの生け贄として捧げれば、凶作は止むだろう」という神託があったとアタマースに伝えるよう命じた。

 神託を伝えられてアタマースは困惑したが、国民たちが神託を信じ込んで王に迫ったので、仕方なくプリクソスを犠牲にしようとした。少年がまさに殺されようとした瞬間、生母ネペレーが我が子を雲霧に包んで引き上げ、妹のヘレーと共に空を飛ぶ金色の雄羊に乗せた。この雄羊はヘルメス神から授かったものであった。

 二人の子供は雄羊に乗って海山を越えて行ったが、ヨーロッパとアジアを隔てる海峡に至ったとき、ヘレーが下を覗き込んで眩暈を起こし、そのまま海に落下してしまった。それ以来、この海峡を《ヘレーの渡し》、即ちヘレースポントスと呼ぶ。現代のダルダネル海峡だと言われている。このとき黄金の雄羊は人語を発し、妹を失って嘆くプリクソスを励ましたと言う。

 それから尚も天空を駆け続けて、彼は遂に黒海の果てのコルキスの国に着いた。その王アイエテスは彼を客分として迎え、自分の娘のカルキオペーの婿にしたと言う。

(この後、物語は王子イアソンが金羊毛皮を求めてコルキスへ旅するアルゴー船冒険譚へと続いて行く。)

 継子が兄妹あるいは姉弟で、継母によって死にかけたところを亡母に救われる展開は「アロエの木」「継子たち」のようなアフリカの継子譚を思わせる。そして何より、雄羊に乗ってコルキス国……異郷へ逃れるくだりは、《シンデレラ》が牡牛に連れられて異郷へ行くエピソードとよく似てはいないだろうか。

《シンデレラ》が牡牛に連れられて異郷へ渡るとき、不思議な森や川を越えることになっている。これらは冥界と交わる地であり、境界線でもある。それらを越えようとすると現れる魔物は冥王であり、《死》だ。一方、プリクソスとヘレーは羊に乗ってヨーロッパとアジアを隔てる海峡を越える。この海峡は当時のギリシア世界の人々にとってまさに異郷との境界線であった。その向こうの世界は暗黒で、想像の中の冥界とさして変わりはしなかったのだ。黒海のほとりにあるとされたコルキスは架空の国で、その王アイエテスは太陽神ヘリオスの息子とされ、一説によれば彼の館で太陽が休むと言われた。つまりコルキスは太陽が死んで冥王となり、また甦って昇る世界の果て。冥界の一バリエーションであった。

 プリクソスの旅は冥界への旅である。このことは、雄羊が本来はヘルメス神のものだという点でも示唆されている。どこにでも現れる霊のごとく一瞬で移動できる羽根サンダルを履き、太陽と霊感の神アポロンを唸らせた竪琴の製作主でもあるヘルメスは、死者の霊を冥界へ導く霊魂導師だと言われる。また、雄羊が黄金に輝いて天空を駆けるのは、雄羊自身が太陽神であることを暗示している。太陽をその目とする天空神ゼウスは大鷲に変じて美童ガニュメデスを神界オリンポス〜冥界へ連れ去ったが、同じように雄羊が太陽の休む地へ子供たちを連れていく。グルジアの民話にも、雄羊に乗って冥界へ行くものがある。霊魂が太陽に乗って冥界の奥へ向かうという観念は、エジプトの『死者の書』にも見える。善き死者たちは太陽神ラーの天空船に乗るのだ。

 コルキスに到着して結婚し王となったプリクソスが、ある意味では死んだと解釈できることは、この神話の別伝の中に、プリクソスはアイエテス王に殺されたとするものがある点にも表れているだろう。ロシアの民話「海の王と賢いワシリーサ」では、父王によって海の王に捧げられた王子イワンが、海や森やババ・ヤガーの小屋を通り抜けて海の王の宮殿へ行く。彼は海の王の娘ワシリーサと結婚するが、海の王は彼を殺そうとするので二人で逃げ出し、呪的逃走を経て境界を越え、ロシアに帰ってくる。結婚と殺害、死と再生は、連なり合って語られる。

片方の靴

 フランス南西部のトゥールーズにあるサン・セルナン大寺院は十二世紀初頭に建てられたが、その壁面の浮き彫りの中に、片足が裸足の二人の女の姿があった。(現在は『獅子座と牝羊座の女』としてオーギュスタン美術館に収蔵されている。)池上俊一は『歴史としての身体』(柏書房 1992.)において、これを以下のように解釈している。

裸足には象徴的意味があった。図像ではキリストや聖なる人物は、しばしば裸足で描かれる。ところが片足のみ裸足なのは、悪徳・堕落の印であり、12世紀初頭、南フランスやスペインで彫られたレリーフに片足裸足の女が彫られているのがその例である。

 しかし《裸足であること》が宗教的清浄を意味するなら、堕落・悪徳者を表すには両足に靴を履かせるべきではないのだろうか。逆に、素足は情欲を象徴するという説もあるようだが、それでは聖人が堕落していることになってしまう。どうして《片足だけ》裸足なのかがこれらの解説では分からない。



 意味ありげな《片方だけの靴》というモチーフは、ギリシア神話の中にも見出せる。

 王子イアソンが、叔父が王権を奪っていた自分の国に帰還したとき、片足にだけサンダルを履き、片足は素足という姿であった。これを見て叔父は恐れ慄いた。というのも、「片方のサンダルを履いた男モノサンダロスの手にかかって死ぬ」という予言を受けていたからである。そこで叔父は甥に尋ねた。「もしお前がある者に殺されるだろうと予言されたら、その者をどうするかね」。イアソンは答えた。「私なら金羊毛皮を取りに行かせるでしょう」。「では、お前が行ってそれを取ってくるのだ」。こうしてイアソンはアルゴー船を建造し、多くの仲間たちと共に、打ち合う岩門の向こうのコルキスの国、竜の腹の中、つまり冥界に下っていくことになる。

 イアソンが片足にしかサンダルを履かずにやってきたのは、国への帰還の道中で老婆(実は女王神ヘラの化身)を背負って氾濫していた川を渡してやり、その際に失ったためだと説明される。《川を渡る》行為にも象徴的意味があり、境界を越える、冥界と現界を行き来すると解釈できる。グリムの「三羽の小鳥」(KHM96)では不思議な老婆が主人公を背負って川を渡してくれたものだが、結局同じことを言っているのだろう。川で出会う老婆は、三途の川の渡し守であり、奪衣婆であり、ババ・ヤガーでもある。死と生を司る大母神だ。イアソンは冥界を潜り、母神の守護を受けた。その証として片方のサンダルは失われたのだ。片方の靴がないのは片足がない、一本脚であることと観念上は等しい。姿の見えない神霊には足がない。片足がないということは、半分だけ冥界に属するという意味であり、即ち、冥界と現界を繋ぐ存在、シャーマンを象徴する風体なのである。(欠損するのは足とは限らず、片目、または片手の小指が欠損するモチーフも多く見られる。)

 このように考えてみれば、サン・セルナン大寺院の浮き彫りの女が片方にしか靴を履いていないのは、彼女たちが古い冥界信仰に属する巫女であるという暗示かもしれない。であれば、キリスト教の見地では確かに堕落者であろう。異教に属する魔女だからだ。

 ギリシア神話の冥界の女怪エンプーサは、美しい女の姿をして片足は青銅(黄金色)の美しさだが、もう片足は糞で汚れたロバの足、または水鳥の足だとされる。これは西欧の説話の中で魔女(妖精)の特徴の一つとしても挙げられ、片足には黄金のサンダルを履いていたがもう片足は鳥の足だったなどとする。スペインの伝承によれば、ビスケーの領主ドン・ディエゴ・ロペスが狩りに行くと歌声が聞こえ、大岩の頂に美しい娘が座っているのが見えた。彼女を連れ帰って妻にし熱愛したが、その唯一の欠点は片足に山羊の蹄があったことであったという。後に夫が戒めを破って聖母マリアの名を唱えたために妻は娘を連れて天女のように岩山に飛び去る。更に後に夫に命の危機が訪れた際には息子に神馬を与えて守護し、救わせたが、彼女が人間の世界に戻ることは二度となかった。神霊は冥界と現界を行き来し、その際には自在に獣の姿をとるという観念は世界的に存在している。その表現の一つとして、片足は人間、片足は獣という形象が選ばれているのだろう。



シンデレラ】譚の主人公たちの多くが靴を片方落としてしまうことはよく知られている。この点について、多くの研究者が様々な説を述べてきた。例えば、《シンデレラ》の靴をサンタクロースの贈り物を入れるブーツ(靴下)と関連付け、靴は《善い娘》に女神が授けた贈り物〜大地の豊穣であり、農耕儀礼に由来するとする説。しかし人気が高いのは、靴の男女間での譲渡に現実の結婚儀礼の習俗を見出そうとする説だろう。ヤーコプ・グリムは『ドイツ法古事誌』において、【シンデレラ】譚のスリッパ・テストモチーフの根源を、婚約の際に靴を履くゲルマン民族の習俗に求めている。類似した風習はフランスやイタリアの一部地方にも残っており、婚礼の前に花嫁の古い靴を花婿が脱がすと言う。中国にも婚約の証として靴を贈る慣習があったと言われる。山室静は日本にも新婦が夫に下駄を贈る慣習があったと指摘している。なお、東北から愛知、静岡、関西の一部等には《草履捨て》と呼ばれる習俗があり、花嫁が嫁入りの道中で履いた草鞋の緒を屋根の上に投げ上げたり、川に流したり、鼻緒を切って使えなくしたり、履き換えたりして厄を払った。

 なお八丈島の伝説によると、昔、男女は別々の島に住んで年に一度逢瀬をしたが、女たちは浜辺に手作りの草履を並べ、くじ引きのように、自分の作った草履を履いた男を夫にしたと言う。沖縄の民話にも、自分が恋人に贈った草履が脱いで置いてあるのを見て、てっきり恋人が洞窟の中にいると思った男が、自分の妹と知らず契りを結んでしまう話がある。

 これに関連してよく引き合いに出されるのは、靴は女性器を、足は男性器を象徴し、靴を履くことは性交、結婚、ひいては子宝に恵まれた繁栄を暗示するという説である。女性の性と《シンデレラ》の靴を結びつける解釈は人気があり、精神分析的見地では、ガラスは壊れやすいので処女性を意味する、などと解釈される。また、《シンデレラ》の靴は小さくて他の誰にも履けなかったとされることがあるが、これと中国の纏足の風習を結びつける説もある。唐の【シンデレラ】譚「葉限」では、靴は《小さく、羽のように軽かった》と語られるが、この時代頃から纏足が広まっており、布で縛って小さく形成した足は良家へ嫁入りするための条件だった。常につまさき立って歩くような形になるので足首や膣の筋肉が鍛えられるともされ、その意味でももてはやされていたのである。

 女性の靴が片方だけ失われ、それが偶然貴人の手に渡って、靴の美しさに焦がれた貴人が持ち主を探し当てて妻にするというモチーフ自体は、【シンデレラ】譚とは別に世界各地の説話に見られ、紀元前一世紀の文献上にあるエジプトの伝説にすら見える。よく似た伝説は日本の島根県出雲市にもあり、そちらでは靴を手に入れた天皇が全国を御幸して合う女を探し回っていて、より【シンデレラ】的だ。このモチーフは因縁の妙を重視する東洋が起源だろうとされる。《失われて再び見つけ出されたもの》は必ずしも靴とは限らず、髪の毛、絵姿、変わったところでは身体から洗い落とされた香油ということもある。要は《女性の美しさを連想させるもの》であって、靴がその一つとみなされていたことが分かる。



 このように現実の習俗をも交えた説を紹介していくと、最初に述べた、片足だけ靴を履いた姿はシャーマンを象徴するという説は荒唐無稽に思えてくるのかもしれない。

 イタリアの歴史家カルロ・ギンズブルグは『闇の歴史』において、【シンデレラ】類話中に殺された獣の骨を集めて皮や容器で覆うと宝に変わるモチーフが多く見られることに着目し、これと北欧のトール神の山羊の神話のような、鍋で煮て食べた後に骨を集めて並べて皮で包むと再生するモチーフとを結びつけた。トール神の山羊は復活したが片足を引きずっていた。というのも、片足の骨の髄がすすられていて不完全だったからだ。「黒い山と三羽のあひる」のような民話でも、冥王の娘は鍋で煮られたあと骨を並べてもらうことで再生するが、足の小指の骨を忘れていたためその部分が欠けてしまっていた。ギンズブルグは、こうした再生者の片足の欠損と《シンデレラ》の片足だけの靴を同一視し、死者の国へ行った者の印だと説いたのだ。

 ギンズブルグは骨を皮で包んで再生を祈願する狩猟時代のシャーマニズムに比重を置いたようだが、私は先に述べたように、片足の欠損は《神霊の姿は見えにくい、足がない》という観念に関係し、その観念と《並べる骨が欠けると再生者も不完全になる》というモチーフが結びついたものが「トールの山羊」系統の説話だと考えていて、大筋では同意するが細かい考えは違う。

 ともあれ、このギンズブルグ説は多くの批判を浴びたのだそうで、岩波新書の『グリム童話の世界』でも、「シンデレラがなくした片方の靴を死者の国へ行った印と見なすことには、明らかに無理がある。」と強く批判している。考え方は様々である。



《シンデレラ》が冥界と現界を行き来するシャーマンであるということは、なにも靴を片方落とす点だけに表れているわけではない。「川に落とした片方の靴」「小町娘とあばた娘」「月の顔」のような、主にアジア系の【シンデレラ】譚では、《シンデレラ》はイベントへ出かける(変身する)時、あるいはイベント会場から逃げ帰る(変身を解く)時に川や溝を渡り、池を飛び越えている。川を越えることが、多く説話では現界と冥界の越境を意味することは、先にイアソンの神話の例で述べたとおりである。

 川や池を越える《シンデレラ》は、時に、靴をその水の中に落とす。『千夜一夜物語』にある類話では馬用の水桶の中に落としているが、元はやはり水を越える際に落としたのだろう。グリムの「灰かぶり」では《シンデレラ》が靴を落としたのは王子が予めべたべたするチャンを道に塗っておいたからだった。チャンはタールと同一視されることがある。「蛙の皮」などに現れているが、地獄には煮えたぎったタールがあるという観念がある。靴が女性器の象徴であり、その持ち主自身を表すものであるならば、《シンデレラ》自身が冥界に渡り、落ちている様子を、水やチャンの中に落ちた靴は暗示していると考えることもできるのではないか。落ちている靴に遭遇した時、《王子》の馬が怯えることがあるが、世界各地の神話や民話を参照するに、馬が怯えて、または涙して動かなくなるのは多くの場合、神霊の出現に遭遇し、この世とあの世の境界に立った時である。

木のつづれのカーリ」では《シンデレラ》はイベント会場から消え去る際に「前は明るく、後ろは暗い」と歌うが、似た文言の出てくる民話「隅の母さんの娘に結婚を申し込みたかった若者」を参照するに、これは本来、冥界から抜け出す際に唱える呪文なのだと考えられる。そもそも《シンデレラ》の変身そのものが冥界の呪力の顕現なのだ。事実、それは多くの場合、死者から与えられる。

 イベントに行くために川や泥沼を越える、または《シンデレラ》が靴を落としたように自分自身が水に落ちて溺れると、みすぼらしかった娘が美しい王女に変身するモチーフは、「森の中の蛙」や「草むらのお人形」や「森の花嫁」など、【蛙の王女】系の民話でもお馴染みである。次の<ガラスの靴、かぼちゃの馬車>で述べるが、この民話群とペローの「サンドリヨン」には一つ関連がある。



 なお、《シンデレラ》は片方の靴をなくすが、ライバルたる《意地悪な姉妹〜偽の花嫁》が、靴を無理に履こうとして片足を切った、不自由になったと、しぱしば語られている点にも注目しておく必要がある。彼女はいわば《シンデレラ》の闇の分身であり、《シンデレラ》が冥界の《生》の面を具現するなら、こちらは《死》の面を具現していると言える。彼女も冥界に繋がる巫女〜小女神であって、故にその印として、片足を失った姿を見せるのだろう。

>>参考 <童子と人食い鬼のあれこれ〜片目の神

ガラスの靴、かぼちゃの馬車、夜中の十二時

 シンデレラの落とす《ガラスの靴》は非常に有名だ。これと《かぼちゃの馬車》は、現代人にとっては【シンデレラ】譚を象徴するアイテムと言っても過言ではなかろう。これらを有名にしたのはディズニーのアニメ映画版で、その原作であるペローの「サンドリヨン」から引かれたものである。

 しかし、注意せねばならないことがある。【シンデレラ】譚は世界中に類話があるが、その中で《ガラスの靴、かぼちゃの馬車》が出てくるものは、基本的に「サンドリヨン」だけ。「小さな赤ずきんちゃん」の赤い頭巾と同じく、ペローが再話の際に新たに付け加えた創作要素らしいのである。



 多くの類話を見て行けば、《シンデレラ》が落としていく靴で最も多いのは《金の靴》だ。他は《刺繍した絹の靴》や《草で編んだ靴》など、様々で定まっていない。なのにどうしてペロー版ではガラスなのか。そこに意味を見出そうと、多くの研究者たちが論を戦わせてきた。

 最も知られた説は、フランスの文豪バルザックが1836年の著書『カテリーヌ・ドゥ・メディチについての哲学的研究』にて唱えたもので、古語である《銀リスの毛皮 vair 》と同音異語の《ガラス verre 》をペロー(またはその息子)が勘違いして聞き取り、そのまま再話してしまったとする。フランスの言語学者リトレも近い説を唱えており、初版でペローは《銀リスの毛皮の靴 Pantoufle de vair 》と書いていたのに後の版で《ガラスの靴 Pantoufle de verre 》と誤植され、それがそのまま定着したとする。彼らが主張するには、銀リスの毛皮はかつて王侯貴族しか使用を許されない高級素材だったので王家のパーティーで履くに相応しい。対して、ガラスで出来た靴を履くなど、およそ現実的ではないではないか、と言うのである。『ブリタニカ百科事典』もこの説を評価し、シンデレラのガラスの靴は、ペローのフランス語の原典が英語に翻訳された際、毛皮がガラスと誤訳されたことに由来する、と明記している。

 けれども、これらの説は近年では否定される傾向にある。初版の時点で間違いなく《 Pantoufle de verre 》だったことが確認されたので、リトレの説は否定されたし、『ブリタニカ百科事典』の記述も正しくない。また、二十世紀半ばにフランスの民俗学者ポール・ドラリュが、スコットランドやアイルランドやカタロニアに伝わる、ペロー版の影響を受けていないと思われる古風な類話に《ガラス》もしくは《水晶》を素材にした靴を履くものがあることを指摘し、毛皮錯誤説を真っ向から批判している。

 しかし、この説への反論もある。口承民話に見られるガラスの靴はペロー版からの逆輸入ではないかというのである。コックス夫人が『三四五話の異型から見た<シンデレラ><猫の皮><藺草の頭巾>』に集めた類話でもガラス・水晶の靴は三四五話中、六例しかないのだから、意に介することではないのだと。確かに、その可能性を否定することは出来ない。しかし逆に、ペロー版の影響だという証拠もない。

 

 実を言えば、《ガラスの靴》は【シンデレラ】譚に限定されたアイテムではない。悪魔が契約した男を探し当てて冥界から訪ねて来た時、「俺はつるつる滑るガラスの靴をすり減らすほどお前を探したのだぞ」などと言うことがある。民話には、冥界に去った夫(妻)を追って旅立つ主人公に《七足の鉄の靴をすり減らすまで歩き続けなければならない》などという試練が課されるモチーフがあるが、これは、その旅がいかに困難であるかを示す比喩表現だ。ここで「鉄の靴を履いてすり減らすなんて、およそ現実的ではないから、何かの間違いだろう」などと言い出すのは滑稽である。悪魔がすり減らすまで履き、しかもつるつる滑って歩きにくかったという《ガラスの靴》は、冥界と現界を行き来する旅がいかに辛く困難であるかを暗示するための小道具である。ゲルマン民族を中心に西欧には《ガラス山、水晶の山》の信仰があるが、つるつる滑って登るのが困難なこの山は、日本仏教で考えれば《地獄の針の山》に相当するもの。死者の魂が登る冥界である。白雪姫がガラスの棺に安置され山の頂に置かれるのも、この信仰に由来すると思われる。

 グリムの「七羽のカラス」(KHM25)では、主人公の娘は死んだ(カラスになって飛び去った)兄たちを取り戻すため、自分の手の小指を切り落として鍵にし、ガラス山を開ける。冥界への道〜ガラス山を開けた証として、娘は小指が欠損した姿を現すことになる。ガラス山のある世界の果てには太陽が住んでいて、むしゃむしゃと子供を食べている。冥界の王と太陽神は表裏一体の存在だ。冥界の城(太陽の館)は黄金に輝く館とされることが多いが、稀に光り輝く水晶の城とされることもある。黄金は太陽を象徴する色であり、冥界の力を象徴する色でもある。太陽のように輝くが透き通っていて見えにくい、ガラスまたは水晶で出来た《現実的ではない》靴は、冥界神〜神霊の眷属たる《灰かぶり》が履くものとして相応しい。



 一方、《かぼちゃの馬車》はどうなのだろう。他の【シンデレラ】類話では馬車や馬が魔法で(冥界から)現れることはあっても、カボチャやねずみなどの別の物質がそれらに変化する、といった描写は全く見られない。ではペローの完全な創作かと言えば、実はこれも【シンデレラ】譚以外の民話……【蛙の王女】系話群に似たものが存在していて、ペローはそこから取って「サンドリヨン」に導入したのではないかと言われている。

蛙の王女】は、小さな蛙やネズミの姿をして《地下や森の奥〜冥界》に座している王女が、来訪した《王子》と結婚する物語だ。彼女は《王子》に課せられた難題を呪力で解決してやり、最後に嫁比べに出席するために《王子の父の城〜現界》に出て来るのだが、その際に木靴やスプーン、蕪などをネズミに引かせた小さな馬車に乗るのである。そして道中で川を渡るか泥沼にはまるか水に落ちて溺れて、そこを潜り抜けると、彼女は美しい人間の姫君に変わる。馬車も輝く本物になり、ネズミは馬になり。鮮やかに眩く変身するのだった。フランスの類話「小さなジャンと蛙」(『フランスの昔話』 アシル・ミリアン/ポール・ドラリュ著、新倉朗子訳 大修館書店 1988.)では、蛙姫自らが庭に出てカボチャを採り、中をくり抜いて車を作り、ネズミ捕りにかかっていた二十日ネズミ六匹を馬にし、大きなネズミ一匹を御者にし、トカゲ一匹を従者にしたとあり、ペローの「サンドリヨン」でかぼちゃの馬車を作る描写とそっくりである。

 グリムの類話「三枚の鳥の羽根」では、馬車は黄色い蕪をくり抜いて作られている。余談ながら、蕪やカボチャをくり抜いて作るランタンは、ハロウィン……即ち、冥界から来訪する祖霊を祀る祭で使用されるものだ。日本には七夕に藁で馬を作ったり、お盆に茄子や胡瓜で馬を作る地域がある。祖霊が冥界から訪ねてくる際の乗り物として用意するものだ。カボチャや蕪のランタンや馬車にも、もしかしたら冥界から来訪する祖霊の依り代、という意味付けがあるのだろうか。



《ガラスの靴》《かぼちゃの馬車》に並んで、【シンデレラ】譚に欠かせないと思われている要素に《夜中の十二時で魔法が解ける》というモチーフがある。またまたこれも、ペローの創作だと言われている。グリムの「灰かぶり」の初版にも《真夜中までに帰ること》というモチーフがあるが、これはペロー版の影響だとされる。グリム決定版では削除・変更され、舞踏会が行われたのは昼間で、「そのうちに日が暮れて、灰かぶりが立ち去ろうとすると」王子が後を追ってきた、と描写されている。

 他の多くの【シンデレラ】譚を並べてみても、夜中の十二時をタイムリミットに設定した例は、ほぼ見られない。基本的にイベントは昼に行われていて、継母や姉妹より先に帰宅しなければと、イベントの終了する少し前に急いで帰ったと語られるのみで、明確な時間の指定はされないものなのである。

 ではペローは、どうして《夜中の十二時》というタイムリミットを付け加えたのだろうか? よく言われているのは、ペローがフランスの上流階級の娘たちに向けての警告、教育的配慮としてこの要素を付加したという説だ。このような要素を入れておけば親世代にも受けがいい、と言うのである。

 けれども親視線からの警告だと考えると、夜中の十二時と言うのは、あまりに遅すぎる門限ではないだろうか。当時の舞踏会がどのようなタイムテーブルで行われていたのかは分からないが、夜中の十二時をまたいで行われ続ける、良家の独身娘が参加出来るイベントなど、現代でも多くはない。

 思うにこれも、他の民話から印象的なモチーフを抜き出して来て付け加えたものなのかもしれない。グリムの「命の水」(KHM97)では、王子が父王の病を癒すために冥界の城へ命の水を取りに行く。この城は十一時から十二時までの一時間だけこの世に出現しており、一分でも過ぎれば城の中に永遠に囚われてしまう。《死》だ。王子は時間ギリギリに閉じ行く門から駆け出し、けれども片足のかかとの肉を門にもぎ取られる。冥界から帰還した印として片足を欠損したのである。

 十二時を過ぎると消えてしまう魔法の城。ペローはこうした民間伝承から《夜中の十二時で魔法が解ける》というモチーフを抜き出し、「サンドリヨン」に加えたのかもしれない。それにしてもどうして魔法が消えるのが十二時なのかと思えるが、十二時は《境界の時間》であり、この世とあの世が混じり合う瞬間でもあって、神霊(魔法)が現れる、そして消え去るに相応しいということかもしれない。現代でも、夜中の十二時に合わせ鏡をすると悪魔が現れる、という俗信がある。

シンデレラの呪的逃走

 舞踏会から帰るとき、あるいは結婚を迫る父や兄から逃げるとき、《シンデレラ》たちは[呪的逃走]を行う。[呪的逃走]とは呪術的な方法で追手の目をくらませ、その隙に逃げるというモチーフで、幾つかのバリエーションがあるが、《シンデレラ》が行うのは、追手に金品を投げて気をひいた隙に逃げるものと、道具や動物に代返してもらっている間に逃げるものである。

 

灰まみれのメス猫」や「灰娘」、「木造りのマリーア」では、イベントから逃げ帰る際に金貨や宝石を投げて、追って来る《王子》の部下の目をくらませている。イザナギがタケノコやぶどうを投げて鬼女たちが貪り食う間に逃げた日本神話や、黄金のリンゴを転がしてアタランテの気をひいて逃げきったギリシア神話を思い出させる、シンプルな方法だ。

 しかし【シンデレラ】譚に見える[呪的逃走]で目を引くのは、何と言っても、道具や動物に代返してもらっている間に逃げ出すタイプである。このモチーフが現れるのは[火焚き娘]系で、実の父や兄に結婚を強要された主人公が逃げ出す際、その呪術を用いる。この呪法を教えるのが乳母や親しい老婆のような《母親的存在》か、墓の中の母親の亡霊そのものとされる点は興味深い。

 例えばフランスの「皮っ子」(『フランス民話集』 新倉朗子編訳 岩波文庫 1993.)では、以下のようになる。

 ある女が死ぬ時、自分と同じように額の真ん中に金の星のある女とでなければ再婚してはならないと言い遺す。夫は唯一条件を満たした自分の娘と結婚することにする。

 娘が母の墓に行って嘆くと、母の霊がするべき行動を指示する。言われたとおりに、娘は私室にロザリオとシャベルと櫛を用意した。初夜に部屋の外から父が「ベッドにおいで」と呼ぶと、最初はロザリオが「まだ行けません、お祈りをしているところですから」と娘の声で答える。次に父が呼んだ時には、シャベルが「まだ行けません、火を掻き集めているところですから」と答える。三度目には櫛が「まだ行けません、髪を梳いているところですから」と答える。父は一晩中娘を呼び出せず、娘はその間に家を抜けだした。

 母の指示通り続けて牝牛を殺し、その骨盤の中から黄金の珠を取り出す。こすって願いを唱えれば何でも出てくる呪具だ。更に牝牛の皮を剥いですっぽりかぶり、異郷へ旅して、その地の王子のガチョウ番になり、皮っ子と呼ばれた。人の見ていないところで皮を脱いで髪をとかすと片側から小麦が、もう片側からは米がこぼれたので、ガチョウはよく肥えた。

 王子が三日連続で舞踏会を開くと、娘はその度に皮を脱いで、黄金の珠で出した銅、銀、金のドレスで出席する。王子は指輪、首飾り、ブローチを贈って身元を尋ねるが「鞍の国からまいりました」などと言われて馬で逃げられる。三日目には家来たちに追わせたが、娘はお金をばらまいて、家来たちが拾う間に逃げる。

 王子は恋煩いで床に臥せる。彼は何かに思い当たり、皮っ子に食事を作るよう命じ、鍵のかかった部屋の中で臭い牝牛の皮を脱いだ彼女の姿を鍵穴から覗き見る。皮っ子は料理の中に王子にもらった装身具を入れ、それを確認した王子は彼女と結婚する。人々は驚いたが、皮っ子が皮を脱いでドレスを着て現れると納得した。

 他の民話群の《代返による呪的逃走》で多く使われる道具は、楽器壁に刺した針、滴らせた自分の血、吐き捨てた自分の唾自分の糞などだが、【シンデレラ】話群では人形が使われることがある。例えば、ウクライナに伝わる[火焚き娘]系の類話では以下のようになる。

 意に染まぬ結婚を強いられた娘は絶望し、亡母の墓に行って相談する。亡母が墓から出現し、するべきことを指図する。それに従って三枚の晴着と豚の皮を用意した娘は、三体の人形を自分を囲むように地に置いた。

 人形は順番に「濡れた大地よ、開け。そして美しい乙女をお前の中に入れてやっておくれ」と叫び、三体目の叫びが終わると地が開いて、娘と人形は下界へと降りていった。

 その後、娘は豚の皮をかぶって城の下働きになり、晴着で舞踏会に出て王子に見染められ、結婚する。

 また、シンデレラ譚ではないが導入部に共通した要素を持つロシア民話「ダニーラ・ゴヴォリーラ王」(AФ114)にも同じモチーフが見える。(『ロシア民話集〈上〉』 アファナーシエフ著、中村喜和編訳 岩波文庫 1987.)

 昔、老いた女王がいて立派な息子と娘を持っていた。それを妬んだ魔女が女王に指輪を渡し、この幸運の指輪を王子にはめてやりなさい、そしてこの指輪の合う娘と結婚するようにと言いなさいと勧めた。女王はそれを信じ、息子にその通りに遺言して亡くなった。

 王子は成人すると母の遺言に従って花嫁を探したが、国中を巡っても指輪の合う娘はおらず絶望する。不思議がった妹姫が試みにはめてみたところ、ぴたりと合った。王子は妹と結婚することに決めた。妹姫は敷居に座って泣いていたが、二、三人の老婆が連れ立って通りかかったのを見ると、招き入れて食べ物をふるまった。老婆たちは妹姫の泣いている訳を尋ね、するべきことを教えると立ち去った。

 老婆たちに言われたとおり、妹姫は小さな人形クコルキを四つ作って部屋の四隅に置き、兄との婚礼の席には大人しく座った。夜になり、兄が寝室から「羽根布団にお入り」と呼ぶと、妹姫は答えた。「イヤリングを外しましたら、すぐに」。すると部屋の四隅で人形たちが郭公のような声で歌った。

  カッコー。ダニーラ王は
  カッコー。ゴヴォリーラは
  カッコー。自分の妹を
  カッコー。お嫁にするよ。
  カッコー。大地よ、裂けよ
  カッコー。王女を呑み込み隠せ。

 大地が二つに裂けていき、妹姫は沈み始めた。王子がまた呼んだ。「妹カテリーナよ、さあ、羽根布団にお入り」。妹姫は答える。「帯をほどきましたら、すぐに」。人形たちがまた歌った。

  カッコー。ダニーラ王は
  カッコー。ゴヴォリーラは
  カッコー。自分の妹を
  カッコー。お嫁にするよ。
  カッコー。大地よ、裂けよ
  カッコー。王女を呑み込み隠せ。

 もう見えるのは妹姫の頭だけだった。兄がまた呼んだ。「妹カテリーナよ、さあ、羽根布団にお入り」。妹姫は答える。「靴を脱ぎましたら、すぐに」。人形たちがまた歌い始めた。

  カッコー。ダニーラ王は
  カッコー。ゴヴォリーラは
  カッコー。自分の妹を
  カッコー。お嫁にするよ。
  カッコー。大地よ、裂けよ
  カッコー。王女を呑み込み隠せ。

 妹姫の姿はすっかり土の中に消えてしまった。兄はもう一度、いっそう大きな声で呼んだが返事はなかった。腹を立てて駆け出して妹の部屋の戸を激しく開けると、勢いで戸が吹っ飛んだ。中には妹の姿はなく、四隅で人形が「大地よ、裂けよ。王女を呑み込み隠せ」と郭公のように歌っている。王子は斧を引っ掴んで人形の首を切り落とすと、暖炉にくべて燃やしてしまった。

 

 一方、妹姫は地の下をどこまでも歩いて行った。ふと気付くと鶏の足の上に一軒の小屋が建っていてグルグル回っている。妹姫は唱えた。「小屋よ、小屋よ、いにしえのままにしっかりと止まりなさい。森に背を向け、私の方を向きなさい」。小屋は止まり、扉が開いた。

 小屋の中には美しい娘が座っていて、金糸と銀糸でハンカチに刺繍をしていた。娘は優しく妹姫を迎えたが、ため息を一つついた。

「ようこそいらっしゃいました、お目にかかれて嬉しいわ。歓迎しますが、それも母が戻るまでです。母が飛んできたら最後、私もあなたもひどい目に遭うわ。なにしろ、母は魔女なのですから」

 妹姫は驚いたが、他に行く場所も隠れる場所もないので、娘とお喋りしながら刺繍をしていた。やがて母親が帰る時間になると娘は妹姫を一本の針に変え、白樺のほうきに刺して部屋の隅に立てかけた。まさにその瞬間、魔女が入って来て鼻を嗅ぎ鳴らした。

「私の大事な可愛い娘や、ロシア人の骨の匂いがするよ」
「母さん、何人かの人が通りすがって、ここで水を飲んでいったのよ」
「どうして引き止めておかなかったんだい」
「その人たちは年を取っていて、母さんの歯には合いそうになかったもの」
「これからは誰一人逃さないようにするんだよ。私はもう一度、獲物を探しに行くからね」

 魔女が出掛けてしまうと娘たちはまた仕事をはじめて、楽しくお喋りをした。やがて魔女が帰って来て、くんくんと部屋の中を嗅ぎまわった。

「私の大事な可愛い娘や、ロシア人の骨の匂いがするよ」
「母さん、たった今、お年寄りたちが手を温めに立ち寄ったの。引き止めたけれど行ってしまったのよ」

 魔女は小言を言ってまた出かけた。二人の娘は刺繍の手を動かしながら、どうやったら魔女に食べられずに済むか相談し合った。そこに、幾らもしないうちに、だしぬけに魔女が帰って来た。

「私の大事な可愛い娘や、ロシア人の骨の匂いがするよ」
「母さん、奇麗な娘さんが母さんの帰りを待っていたの」

 妹姫は年老いた魔女の姿を見るなり気を失った。ヤガー婆さんババ・ヤガーは骨の一本足で、鼻は天井につかえるほどだった。

「私の大事な可愛い娘や、かまどをうんと熱くしておくれ」

 母娘はかまどに樫や楓の薪をくべて、火が噴き出すほどカンカンに熱した。魔女は大きなシャベルを持ち出すと妹姫に言った。

「さあ、美人さん。このシャベルに乗りな」

 妹姫が腰かけると、魔女はシャベルをかまどの中に入れようとした。けれど妹姫が何度も片足を炉の外に踏ん張って入るまいとするので、魔女は「お前は座り方も知らないのかい」と怒り、「ほら、こうだよ。私を見てごらん」と、シャベルに座って両足をそろえて前に突き出して見せた。その瞬間、二人の娘は大急ぎで魔女をかまどの中に押し込み、ふたを閉めて丸太を積み上げ、更にしっくいで塗り込め、ついでに樹脂を詰めると、自分たちは刺繍したハンカチと刷毛はけと櫛を持って逃げだした。

 散々走ってから後ろを見ると、かまどから抜け出した魔女が追ってきていて、娘たちを見てピューイと口笛を吹き鳴らした。

「ヤアヤアヤア、お前たちはそんな所にいたのかえ」

 娘たちは刷毛を投げた。するとびっしり葦の茂った広大な野原に変わった。とても通り抜けられそうにもないそこを、魔女は爪で引きむしって道を開いて駆け抜けてきた。次に、娘たちは櫛を投げた。びっしり樫が生えて蠅も飛び越せないような森が現れた。魔女は歯をむき出してかぶりつき、手当たり次第に根こそぎ引き抜いて四方八方に投げ捨てて道を開いて、またも近くまで迫ってきた。もう手が触れそうである。二人の娘は精根尽きはてて逃げ場を失い、最後に金糸で刺繍したハンカチを投げた。それは深く広い火の海に変わった。魔女はこれを跳び越えようとしたが、火の中に落ちて燃えてしまった。

 

 行き場を失った二羽の小鳩のように座り込んでいた二人の娘を、兄王子の家来が見つけた。二人の娘は顔立ちも体つきも気品も瓜二つなのだ。どちらかが妹姫なのは確かだが、見分けることが出来なかった。

 報告を受けた兄王子がやって来たが、本当に見分けがつかなかった。妹姫は腹を立てていて自分からは名乗りを上げなかったので、兄は頭を抱えた。すると家来が言った。

「ご主人さま、こうしましょう。血を詰めた羊の膀胱を脇の下に挟んで娘さんたちと話をしていてください。そこへ私が行って、ナイフで羊の膀胱を刺します。血がほとばしり出たとき、姫が本心を表すでしょう」

 果たして、兄が血をほとばしらせて倒れると、妹姫が飛びあがってすがりつき、泣いて悲しんだ。

「ああ、お兄様。私の大切なお兄様」

 すると兄王子はすっくと立ち上がり、妹を抱きしめた。

 それから、彼は妹を立派な男に嫁がせてやり、自分は妹と一緒に来た娘を妻に迎えた。と言うのも、この娘の指に例の指輪がぴったり合ったからである。それから二人は幸せに暮らした。

 人形が叫んで地下への道を開くのは、いかにも呪術的で面白い。人形は神霊の依り代、身代わりとして認識されるもので、死者の供養にも用いられてきた。「うるわしのワシリーサ」や「奴隷娘」など、母を亡くした娘が人形に語りかけ、人形が答える物語もある。また、地下へ沈む、大地に呑まれることは、古くから《死》の比喩表現として使われてきた。地の底には冥界があり、《人形》の力を借りてそこへ降りて行くのだ。現れる鶏の足の上の小屋は、この世とあの世の境界、冥界への入り口である。よって何人もの人間(ロシア人)たちがここを通過して行き、時に水や暖を求める……。

 このように考えていけば、火焚き娘の家出には《死》のイメージが重ねられている。そして多くの[呪的逃走]が人食い鬼から逃れる……冥界から脱出する際に行われるものであることを考えれば、これは《甦る》ための呪術でもあるのだろう。



 なお、夫がベッドに呼ぶのを代返等で先延ばしする様子は、【青髭】系話群で、悪魔的な夫が妻を殺すために呼ぶのを、妻が「着替えているところ」「祈っているところ」などと答えて時間稼ぎするモチーフとも共通している。「白い鳩」参照。なお、【青髭】話群の中には、人形を用いた逃走のバリエーションもある。「銀の鼻」や「フィッチャーの鳥」「貧しいみなし子の娘と盗賊」など。そちらでは人形または死体に自分の服を着せ、それを身代わりに置いて逃走する。人形自体が声を出すことはない。

 

>>参考 <童子と人食い鬼のあれこれ〜呪的逃走

主な参考文献

『世界のシンデレラ物語』 山室静著 新潮選書 1979.
『魔法昔話の起源』 ウラジーミル・プロップ著、斎藤君子訳 せりか書房 1983.
『決定版世界の民話事典』 日本民話の会編 講談社+α文庫 2002.
『婚姻の民俗 東アジアの視点から』 江守五夫著 吉川弘文館 1998.
『世界神話事典』 大林太良/伊藤清司/吉田敦彦/松村一男編 角川書店 1994.
『メルヘンの深層 歴史が解く童話の謎』 森義信著 講談社現代新書 1995.
『グリム童話の世界 ――ヨーロッパ文化の深層へ』 高橋義人著 岩波新書 2006.
『ギリシア神話 英雄の時代』 カール・ケレーニイ著、植田兼義訳 中公文庫 1985.
『ギリシア神話〈上、下〉』 呉茂一著 新潮文庫 1969.
完訳 グリム童話集』 金田鬼一訳 岩波文庫 1979.
『妖精の誕生 ―フェアリー神話学―』 トマス・カイトリー著、市場泰男訳 現代教養文庫 1989.
『シンデレラ ―9世紀の中国から現代のディズニーまで』 アラン・ダンダス著、池上嘉彦編、三宮郁子/山崎和恕訳 紀伊國屋書店 1991.
『神話・伝承事典 ―失われた女神たちの復権―』 バーバラ・ウォーカー著 青木義孝/栗山啓一/塚野千晶/中名生登美子/山下主一郎訳 大修館書店 1988.

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