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食べるという魔法

 伝承中、冥界(異界)を訪ねた際に見られる定番エピソードの一つに、「まずは食事をする」というものがある。

 例えば【美女と野獣】では、深い森で迷った主人公の父親が静まり返った美しい城に入ると、誰もいない部屋に湯気の立った美味しそうな食事が用意されている。日本の「お天道さまに届いた豆」でも、爺さんが豆の蔓を伝って天に登ると、誰もいない屋敷の臼の中にお菓子がどっさりあって食べ放題である。「ヘンゼルとグレーテル」のように森の中の家自体がお菓子で出来ていることさえある。「うぐいすの一文銭」や、「雷神の婿になろうとした息子」のように冥界の住人が姿を見せて普通にご馳走を提供することもある。そして「ジャックと豆の木」や「賢いモリー」のように、訪ねた主人公自らが「お腹がペコペコなんです。どうか何か食べさせてください」と食事を要求することもある。

 これらだけなら、さして気にならずに聞き飛ばしてしまうことかもしれない。しかしババ・ヤガー(山姥)が冥界の関守として登場する「竜王と賢女ワシリーサ」や「蛙の王女」「若返りのリンゴと命の水」のようなスラヴ系の民話を見たとき、特異な状況に首を傾げたくなる。主人公は目的を果たすため冥界の奥へ行く途中、その道の関であるババ・ヤガーの小屋を通過せねばならない。目の弱いババ・ヤガーは鼻をくんくんい言わせたり、物音を聞きつけたりして主人公の来訪に気付く。省略されていることも多いが、ババ・ヤガーは訪ねてきた主人公に最初から友好的なのではない。鼻をくんくん言わせるのは人食い鬼が獲物を嗅ぎつけた時の定型行動なのである。ところが、歯を剥き出し大きな乳房を垂らしたこの恐ろしげな人食い女を前にして、主人公は微塵も臆することなく要求するのだ。「まずは存分に飲み食いさせてくれ」と。更に驚いたことに、ババ・ヤガーはその要求に何ら不満もなく従う。そして主人公が食事を終えると、以降は最大の後援者になって尽力してくれるのだった。

 これは一体、何なのだろうか。一見して意味が通らない、しかし当たり前のように繰り返されているこの形は、何かの儀式めいている。「冥界を訪ねるとすぐに食事を出される、食事を要求する」。思い返せば多くの伝承に見い出せるこの行動には、恐らく意味があることを窺わせるのだ。

 たとえば「森の中の蛙」や「三人の従者」では、静まり返った城で出されたご馳走を食べ終えると、すぐに城の主が現れる。まるで食べ終えなければ姿を見せられない決まりでもあるかのように。「もの言う馬」では、洞穴の中の人食い老人が「お前が来るのをずっと待っていた」と言って主人公に食料を与える。主人公が食べ終わると、彼は洞穴の全ての財産を譲り渡して死んでしまう。「せむしのタバニーノ」では、満腹の人食い鬼は主人公に気前よく食事を分け与え、主人公がそれを食べ終わると非常に親しく接して、財宝の在り処さえ教えてしまう。そして全てを主人公に奪われて殺されてしまうのだ。

 

 どうやら、冥界神に認められ富や援助を得るためには、与えられた食事を食べる行為は不可欠であるらしい。しかしそれ自体は特異な思想ではなく、現代社会でも普通にある感覚だろう。

 日本には「同じ釜の飯を食う」という言葉があるが、同じ料理を共に食べる行為には、人間関係の結束を強める効果がある。結婚や義兄弟の契りを結ぶ際には「固めの盃」といって同じ杯の酒を飲み回すものだが、同じものを分け合って飲み食いする行為には同族になる、という意味があるのだ。同様に、神に捧げた穀物や酒…神饌を下げて人間が食べる、いわゆる神人共食も、神と一体化するための神事であるとみなされる。(日本で、お正月の祝い膳の箸が両方先細の形になっているのは、この神人共食の意味が込められているとも言われている。

 伝承の中で、主人公がババ・ヤガーの用意した食事を食べると、息子のように目をかけてもらえるようになるのは、こうした意味が根底にあるのだと思われる。「花世の姫」では、姫は山姥が分け与えた花米を気味悪く思いながら仕方なく食べたのだが、おかげでそれから暫くは食べずとも飢えないようになり、姥皮をまとっていた辛い期間を乗り越えることが出来た。いわば、その間 姫は山姥…冥界女神と一体化していたのである。

 

 しかし、ならば冥界へ行った際にはとにかく出されたものを食べればいい、そうすれば冥界神の加護が得られるのかというと、そう単純ではない。反対に、冥界の食物を強く忌避する風も、定番と言えるほどに数多く見られるのである。

 例えば「隅の母さんの娘に結婚を申し込みたかった若者」では、主人公は出された食物を気味悪く思い、食べるふりをしてこっそり捨てている。「黒い山と三羽のあひる」では、冥王の出す食事は決して食べないようにと冥王の娘が警告するので、やはり食べるふりをして捨てる。

 どうして食べないのか。恐らく、この根底にあるのも前に説明したものと同じ、神人共食の信仰である。冥界神の出した食事を食べれば身内となる。一体化する。……そうなりたくないのだ。

 神霊と一体化することを恐れない語り手は、堂々と「まずは食事だ」と要求できるのだろう。神の眷族となったうえで地上に凱旋する物語を紡げるのだろう。しかし恐れ気味悪くさえ思った語り手は、そう語らなかった。神霊は冥界……あの世に棲むモノだ。もしそれと一体化したなら、もう元の世界に戻れなくなってしまうのではないだろうか。

 その恐れをはっきりとした「決まり」として語った物語も数多い。日本人には、イザナギが亡き妻を取り戻すため黄泉に下る神話のエピソードがお馴染みだろう。妻のイザナミは夫を出迎えながら「何故こんなに遅く来たのですか」と言った。「れ既に黄泉戸喫よもつへぐいせり」と。 黄泉戸喫よもつへぐいとは「黄泉の(かまど)で煮炊きした食物を食べた」という意味だ。つまり、冥界の釜の飯を食って、その眷族になった…一体化した。だからもう戻れないとイザナミは言っている。黄泉の食べ物を口にしてしまえば、黄泉帰れないものなのだ。

 全く同じ設定が、前に<片目の神>で紹介したアイヌの伝承に出ている。洞穴の向こうの死者の村に迷い込んだ酋長は、先に迷ったという人物から「ここの食べ物を口にしてはならない。食べれば二度と戻れなくなる」と警告される。お伽草子の一つ『諏訪の本地』では、仲間の裏切りで地下の国(維縵国)に落とされた甲賀三郎兼家が、出会った老人から「日本に帰ろうと思うならこの国のものを一切口にするな」と警告される。エスキモーの信仰でも、死者が冥界へ下りると精霊が現れて木の実を与え、それを食べると二度と現界へは戻れないとされる。ニュージーランドのマオリ族の信仰によれば、生者と死者を隔てる川を渡ってもまだ戻れるが、霊たちの食物を食べた者は二度と戻れないという。北米のネイティブアメリカンの説話でも、水の主の出す食べ物を食べてはならない、さもなければ二度と地上に戻れなくなると、老婆が若者たちに警告する。『オデュッセイア』には、海の妖精カリュプソが、オデュッセウスに神酒と神饌を食べて自分のもとに永遠に留まるよう懇願するエピソードや、食べると今までのことを忘れてその島に留まってしまう果実ロースト(蓮の実?)のエピソードがある。同じくギリシア神話では、冥王ハデスに誘拐され妻にされたベルセポネが既に冥界のザクロを六粒食べていたため、年の半分は冥界に留まらなければならなくなったという話が有名であろう。

 なお、冥界と現界の事象は鏡のように反対になっているという概念があることを<片目の神>で書いたが、黄泉戸喫よもつへぐいの概念もそのように語られていることがある。例えば「ギンガモール」では、異界で結婚して楽しく暮らしていた主人公が現界に里帰りし、妻の忠告を忘れてそこに実っていたリンゴを食べると、たちまち老いて倒れた。現界では三百年経過していたからである。「天の水汲瓢」では主人公は天界の妻に馬から降りてはならないと戒められていたが、母がせめてこれを食べてくれと差し出した熱い粥を食べようとして馬から落ち、二度と天界へ帰れなくなったという。食べた、という直接の描写はないものの、現界の母の料理したものを食べたために天界の妻との縁が切れた、という根底思想があるように思える。

 

 冥界神と縁を結び助力を得るためには、共食する必要がある。しかし共食すれば冥界神の眷族になり、現界へ帰れなくなってしまうかもしれない。食べるべきか食べないべきか。

 この戸惑いが現れた物語も数多い。前述の「隅の母さんの娘に結婚を申し込みたかった若者」で、はっきり飲食を断るのではなく、食べたふりをしてそっと捨てているのもそうだし、「黒い山と三羽のあひる」では冥王の出すものは食べず、冥王の娘の出すものだけ食べている。唐の『玄怪録』にある話でも、冥府の法廷に召喚された男が茶を出された時、最初の茶は飲むなと警告され、次に黄衣の者が出した茶は生者も飲んでいいものだと許されるエピソードがある。冥界の飲食物にも口にしていいものと悪いものがある、ということになっている。

 シュメール神話のアダパの物語では、漁船を沈没させた南風の翼を折った罪で天空神アヌに天上に呼び出された賢人アダパに、その造物主たる知恵の神エアが「アヌの出す死のパンと死の水を口にするな」と忠告する。アダパは忠告を守って無事地上に帰って来たが、実は差し出されたのは命のパンと命の水で、それを飲食すれば神の眷族となって永遠の命を得るはずだったのだ。神が供す飲食物は「食べると(この世では)死ぬ」ものであると同時に「(あの世での)永遠の命をもたらす」ものだという二つの思想が同時に語られている。

娘とバンパイア」「ブルゴーは悪魔」「物言う手」では少し複雑化していて、最初の主人公は食べたふりだけして捨てるが、冥王はそれを見抜いて怒り、主人公を殺してしまう。最後の主人公は特別な手法で巧妙に欺いたので、冥王は騙されて主人公を眷族とみなし、祝福を授けた。これらの話で冥王の出す食物は「人間の死体」「山羊の頭」「喋る手」という非常に不気味なものになっており、既に語り手の中で冥界神への明るい信仰が失われ、到底縁を結びたくない、忌むべき存在に堕ちていることがうかがえる。

 

 冥界の飲食物は冥王との一体化をもたらし、冥界の旅を助ける力を授けるものだ。

 物語の中で冥界を訪ねる主人公は「生きた人間」なのだけれども、この物語が本来は「死者の魂が冥界を巡る」というシャーマン幻視の記憶を基にしていたのだとすれば、主人公の冒険は「死者の旅」の再現ということになる。

 つまり、死んだ人間の霊は、まず冥界の入口へ行く。冥界への門を守っている番人がババ・ヤガー(山姥/奪衣婆/泣き女)だ。ここで死者は食物を食べなければならない。その食物は冥界と一体化するための、番人の差し出す黄泉の釜の飯だが、同時に、現界で遺族たちが死者のために供えた食物でもある。死者が無事に冥界への旅が出来るよう、あちらでお腹を空かせず力が付けられるように、遺族は食物を供えている。

 死者の霊が弱い影のような存在で、供物を飲食しなければ口をきくことも出来ないという思想は、例えば『オデュッセイア』にも見える。魔女キルケーの指示通りに、世界の北の果てのベルセポネの森の奥、二筋の川が合している場所に穴を掘って乳や蜜や甘い葡萄酒を注ぎ、最後に水を撒いて大麦の団子を供えた。黒いつがいの羊を屠って生贄とし、冥王夫婦に祈る。すると大地の底から影のような亡霊たちが湧きあがって血をすすり、それで初めてオデュッセウスを認めて口をきき、知りたかった予言を与えてくれたのだ。

 そのように考えてみると、スラヴの民話で「たっぷり飲み食いした後に」主人公が初めて用件を話し、ババ・ヤガーがこの先どう行動すればいいのかを、いわば予言してくれることの意味も分かってくる気がする。

 

 さて最後になるが、冥界神の出す食物を食べるという行為には、もう一つ別の意味が込められていることがある。たとえば「酒呑童子」では、酒呑童子(人食い鬼)の酒宴に正体を隠して潜り込んだ主人公たちが、出された人肉料理を恐れずに食べてみせる。すると鬼たちは彼らを仲間と認めて気を許し、隙を見せるのだった。

 ここにも共食すれば眷族になるという思想が現れているのだが、形骸化していて実際には機能していない。どちらかといえば「度胸を示す」というニュアンスの方が色濃くなっているように思える。




 少しずれるのだが、「女神(人食い女)の乳を吸うことで身内となり、援助を授かる」というモチーフが存在するので、併記しておく。

 以下に紹介するアフリカの民話「恩知らずの女」では、主人公は山姥にそっと忍び寄り、その垂れた乳房を掴んで乳を吸う。すると山姥は「今、お前は私の乳を飲んだから、私はお前を息子同然に扱うことにするよ。お前にはいいことばかりしてあげよう」と言って、実際、その後は様々に主人公を助けてくれるのだ。

 同様のモチーフはギリシア神話にも見られる。大神ゼウスは人間の女アルクメネを騙し、夫の姿で彼女と交わって、後に英雄となるヘラクレスを産ませた。一説によれば、ゼウスの正妻である女王神ヘラの嫉妬を恐れて、アルクメネは赤ん坊を平原に捨てたという。そこに偶然、戦女神アテナとヘラが通りかかった。アテナはこの赤ん坊の逞しさに感銘を受けて、ヘラに、この赤ん坊に乳を飲ませるよう勧めた。ヘラはそれが夫の子だと気付かずに自分の乳を飲ませたが、赤ん坊があまりに強く吸ったので、痛みに耐えきれずに払いのけてしまった。子供は乳を吐き、それが天の川になった。へラの乳を飲んだ赤ん坊は不死の神性を得て、アテナは満足してこの子をアルクメネに返したという。別説によれば、奸智の神ヘルメスがヘラが部屋で眠っている間に赤ん坊のヘラクレスを連れて行き、こっそり乳を吸わせた。しかし赤ん坊があまりに強く吸ったので痛みで目を覚ましたヘラは赤ん坊を振り払い、迸った乳が天の川になったという。

 ヘラは夫の浮気から生まれたヘラクレスを憎んで、彼に様々な災いを送ったとされる。しかし実は、「ヘラクレス」という名には「ヘラの栄光」という意味がある。本来的には、彼女はヘラクレスの守護者であったと思われる。苦難と名誉の人生をヘラクレスが終えると、ヘラは彼を息子として認め、自分の娘、青春の女神ヘベと結婚させて神の眷族に迎えた。

 アテナやヘルメスが赤ん坊のヘラクレスにヘラの乳を飲ませようとしたのは、ヘラの乳を飲めば神の力を得ることが出来るからだ。では神の力とは何か。何故、乳にそんな力があるのか。

 それは結局、「私の乳を飲んだから、私はお前を息子同然に扱うことにするよ」ということ。一種の養子縁組の儀式であり、大母神の後ろ盾を得るという意味ではないだろうか。

恩知らずの女  アフリカ カビール族

 ある首長アゲッリドに七人の息子があり、全員結婚していた。ある時、父親は重い病気を装って息子たちを呼ぶと、「わしを大切に思っているなら、お前たちの妻の心臓を食べさせてくれないか。そうすれば治るだろう」と言った。父親が美しい妻を持った息子たちに嫉妬しているなど露知らず、孝行者の息子たちは妻の心臓を差し出す決心をした。一番上の息子から毎晩一人ずつ、順に妻を殺して心臓を父親に持って行った。七日目の晩、最も逞しく優しい末息子の番になったが、彼は従妹でもある妻を非常に愛していたので、殺せずに一緒に森へ逃げて行った。

 森の中で、若者は遠くに明かりを見つけた。妻を待たせて一人で様子を見に行くと、農場があって、九十九人の人食い巨人ウーアルセンが、九十九人の死体の入った鍋を火にかけていた。若者が入って行って挨拶すると、ウーアルセンたちは「挨拶は返さないぞ。俺たちはお前とお前の歩いてる地面を食っちまうつもりなんだからな」と言った。

「何か用か」
「森の中で料理をしたいから、火を貸してくれないか」
「だったら鍋の下の火を持っていくがいい。鍋を持ち上げるんだ。出来なければお前を食っちまうぞ」

 九十九人のウーアルセン達はゲラゲラ笑ったが、若者は巨大な鍋を高く持ち上げて投げつけた。「さあ、俺と戦え!」と挑発され、ウーアルセン達はこの不遜な人間を食ってやろうと襲いかかって来た。若者は一人また一人とウーアルセンを捕まえて首を斬り落とし、建物の穴倉の中へ投げ込んだ。ただ、九十九人目のウーアルセンだけは首を傷つけただけで殺さずに穴倉に投げ込んだ。そして建物の扉を閉ざし、森の中の妻のもとへ戻って行った。

「あそこにとてもいい農場を見つけたよ。一緒においで」
 若者は妻をウーアルセンの農場へ連れて行くと、部屋を全部案内してから言った。
「どこを動き回っても、どこで仕事をしてもいいよ。だけどあの建物にだけは入っちゃいけない。絶対に入らないと約束してくれるね」
 若い妻は約束した。この時から若者は妻と、ウーアルセンの農場に住みついた。若者は毎朝早く狩りに行き、夕方戻るという生活だった。

 ある日、若者がまた狩りに出た時、一軒の家のところに出た。これは人食い魔女テリエルの家で、テリエルはちょうど中庭の入口の小部屋で小麦を粉に挽いていた。このテリエルの乳房は長く垂れ下がっており、邪魔にならないよう肩にかけて背中にぶら下げていた。若者は後ろからとても注意深く忍び寄り、右の乳房を掴んでその乳を吸った。テリエルは振り返って、人間がいるのを見つけて言った。

「今、お前は私の乳を飲んだから、私はお前を息子同然に扱うことにするよ。お前にはいいことばかりしてあげよう。おいで、私の食事をお食べ」

 テリエルは若者に食事を出して、お喋りをした。

「お前は従妹と結婚しているんだろう。そして、お父さんが心臓が欲しいと言った時に、この女の命を助けてやったんだろう」
「そうだよ」
「それだけのことをしてやっても、この女はお前に幸せをもたらさないよ」
「彼女が僕を不幸にするなんて信じられないよ」
「見てりゃ分かるさ。いつも私のところへおいで。そして何か難しいことが起こったら、私に言うんだよ」

 若者は狩りに出る時にはいつもこのテリエルの家に寄り、色々と相談するようになった。このことは妻には話さなかった。

 一方妻の方は、若者が狩りに出かけてしまうと、足を踏み入れてはならないと言われている建物に何があるのか知りたくてたまらなくなった。行って戸口に耳を押しあてると、中から呻き声が聞こえる。戸を開けて中に入り、彼女は傷ついたウーアルセンを見つけた。大きく逞しい男を見て若い妻は喜んだ。ウーアルセンは夫には何も言わないと誓わせてから、自分の身に起きた一切を話して聞かせた。妻はこの大きな男に好意を持ち、傷の手当てをして食事を食べさせた。ウーアルセンが「俺がお前の夫を殺す手助けをしてくれるなら、俺はお前と結婚したいよ」と言うと妻は承知し、それからは毎日、夫が狩りに出かけるとすぐにウーアルセンを訪ねるようになった。

 そしてある日、とうとうウーアルセンと妻は計画を実行したのだ。恋人の指示に従い、帰って来た夫の前で妻はベッドに身を伏せて泣きじゃくってみせた。

「どうしたの」
「あなたが私を愛しているなら、甦りのリンゴを取って来てください」
「さあ起きて。僕は明日すぐ、甦りのリンゴの生る国へ旅立つからね」

 次の日、若者がテリエルのところへ行って相談すると、テリエルは言った。

「甦りのリンゴの生る国へ旅して、生きて帰った者は今まで一人もいないんだよ。お前の妻が何を望んでいるか分かっただろう。あの妻では幸せになれないって、いつも私が言っていたじゃないか。お前はそれを信じようとしなかったけれどね」
「どうしたら、その甦りのリンゴの生る国へ行けるんだろう」
「お前がどうしても行くつもりなら、こっちの方向へ行くんだね。そうしたら、餌に肉をもらっている牛と、餌に藁をもらっている犬が見つかるだろう。犬に肉を、牛には藁をおやり。ただし一番いい肉は取っておくんだよ。
 牛の中に一頭、大きな黒牛がいる。これに近付いて乗ろうとするんだ。すると牛が怒って、角でお前を宙に放り上げる。とても高く投げるから、七つの海を越えて、甦りのリンゴの生る国に届くだろう。そこで好きなだけもぎ取ればいい。
 リンゴの木の上には一羽の大きな鷲が巣を作っている。取っておいた一番いい肉を持ってこの巣に登り、鷲のひなにやるんだよ。そうしたら親鷲がお前を家に連れ戻してくれるからね」

 若者はテリエルにお礼を言って旅立ち、それからは言われた通りのことが起こった。甦りのリンゴを八つ取って胸ポケットに入れ、更に高く登って巣の中の鷲のひなに肉を与えた。帰って来た親鷲が「お前の行きたいところへ連れて行ってあげよう」と言うので「七つの海を越えて、向こうの故郷へ連れて行ってくれ」と言うと、鷲は若者は乗せて飛び、いつもの森に下ろした。

 若者はテリエルのところへ行って甦りのリンゴを四個渡し、残りは家に持ち帰って妻に与えた。

 妻はガッカリして、翌日にまた夫が森へ狩りに行くと、「夫は死ななかったわ。どうすれば殺せるかしら」とウーアルセンに相談した。そしてウーアルセンが指示したとおり、夕方に夫が帰ってくると、またベッドに伏せて泣いてみせた。

「何があったの、どうしたの」
「あなたが狩りに行くのが、私いつも怖いの。だってここには野獣が沢山いるんですもの。ねえ、あなたがまだ昔のように強いかどうか確かめるために、あなたを縛ってみてもいいかしら」
「いいよ。試してごらん。縛ってくれよ」

 妻は夫の両手足を丈夫な縄で柱に縛り付けた。しかし彼は難なくそれを引きちぎった。妻は今度は七本の縄で縛ったが、これも引きちぎった。三回目には妻は沢山の綱を使って縛ったが、これもた易く引きちぎってしまった。「ほら、分かっただろう。安心おし、僕にはまだ力があるよ」と若者は言った。

 次の日、いつものように訪ねてきた若者からこの話を聞くと、テリエルは言った。

「ほら、これで分かっただろう。お前の妻はきっとお前を不幸にすると、私が言っていた通りじゃないか。もうじきとんでもない不幸が来るよ。
 いいかい、もしお前が家の中で殺される日が来たなら、やっておくことがある。殺される前に『僕を食べる時には骨を砕かないでくれ。僕の骨を入れた袋を驢馬に負わせて、驢馬よ、お前がいつも大麦をもらうところへ行くんだ、と言ってくれ』と妻に頼んでおくんだ。約束しておくれ、決して忘れずに言う通りにするって」

 若者が家に帰ると、妻が言った。

「あなたは何本の縄でも引きちぎることが出来るわ。でも女の髪の毛を千切れるかしら」

 若者は笑って試させてやった。彼の両手足を柱に縛りつけるのに使われたのは妻の髪の毛たった一本だったが、若者は全く身動きが出来ず、囚われた。それを確認するなり、妻は大声で言った。

「さあ、出ておいでウーアルセン!」

 しかしウーアルセンは若者を恐れて出てこなかった。すると妻は鉄棒で夫の頭を殴りつけた。

「ほら見てごらん。私は夫を打つことが出来るわ。この人、動けないんだから」

 するとウーアルセンは出てきた。若者は二人に言った。

「お前たちが僕を殺して食べてしまうつもりなんだと分かったよ。そうするなら、せめて僕の骨は砕かないでくれ。骨は集めて袋に入れて、驢馬に乗せて『驢馬よ、いつも大麦をもらうところへ行け』と命じてくれ」

 若者は殺された。ウーアルセンは若者を食べたが、彼らは若者の遺言には逆らわず、集めた骨を入れた袋を驢馬に乗せ、放ってやった。

 驢馬はテリエルのところへ行き、テリエルは骨を地面の上に元通り並べて、それを絹と羊毛で覆った。毎朝ミルクを注ぎかけてやると、やがて骨に肉が付いて次第に育って行き、しまいに元のような肉体に再生した。テリエルは若者からもらった甦りのリンゴを一つ持ってきて、若者の鼻の下に置いた。若者はくしゃみをして、初めて体に息吹が通った。甦った若者にテリエルが毎日、卵一個とミルクを与えてくれたので、若者は次第に健康を取り戻していった。

 ある日、若者はテリエルに言った。「おばさん、僕、家に帰ってみようと思うよ」
 テリエルは塩の入った袋と鉄の入った袋を指して、「袋を一つずつ手に持って、持ちあげてごらん」と言った。若者は袋を掴んだが、殆んど持ち上げることはできなかった。
「まだその時じゃないね」とテリエルは言った。
 しばらく経って、また若者は言った。「おばさん、僕、家に帰ってみようと思うよ」
 テリエルは袋を持ち上げるよう命じた。膝まで持ち上げることが出来た。
「まだその時じゃないね」とテリエルは言った。
 しばらく経って、若者はまた言った。「おばさん、僕、家に帰ってみようと思うよ」
 テリエルは袋を持ち上げるよう命じた。肩まで持ち上げることが出来た。「まだその時じゃないね」とテリエルは言った。
 またしばらく経って、若者は言った。「おばさん、僕、家に帰ってみようと思うよ」
 テリエルは袋を持ち上げるよう命じた。若者は高く持ち上げ、肩越しにずっと後ろに投げ飛ばした。
「息子や、今こそ その時が来たよ。家に戻ってごらん」とテリエルは言った。

 若者は乞食のような身なりをして出かけて行った。戸口を叩いて「何か食べるものを恵んでくれませんか」と頼むと、家の中から妻が返した。
「夫は家にいないの。だから今は家の戸を開けてあげられないわ。でも夕方には帰ってくるから、それまで待つのね」

 乞食は農場の前に腰をおろして待った。夕方になるとウーアルセンが帰って来て、妻が出迎えて戸を閉めた。忘れられていることを知って、乞食は戸口で咳払いをした。思い出した妻はウーアルセンに言った。

「あら、そうだったわ。外に乞食がいるのよ。中に入れて何か食べるものをやりましょうか」
「入れてやれ」とウーアルセンが言ったので妻は戸を開け、乞食は部屋の隅に座って食べ物をもらった。ウーアルセンは彼を見て訝しんだ。

「俺はこの男を知っている気がする。おい、これはお前の前の亭主じゃないのか」
 しかし妻は笑った。
「どうしてそんな。だってあいつは殺して、あなたが食べちゃったじゃないの」
「そうか。そうだったな」

 食べ終わると、乞食は「昔話を語り合いましょう」と呼びかけた。ウーアルセンが「俺たちはこの森から出たことがない。お前はあちこち旅しているのだろう。お前の話を聞かせてくれ」と言ったので、彼は語った。自分自身の物語を。どんな風にウーアルセンと戦って家を奪ったか、どんな風に妻とウーアルセンが結びついたか、どんな風に妻が自分を騙し、鉄棒で殴ったか。

 この話の間、地面はゆっくりとウーアルセンと妻を呑み込んでいった。二人ともとても静かに座って何も言わなかった。話が終わりに近付いた時にはもう頭まで呑まれていたが、全てが呑まれる直前に若者は乞食の服を脱ぎ捨て、剣を抜いてウーアルセンと妻の首を斬り落とした。

 若者は家の中を見回して揺り籠を見つけ、小さな子供がいるのを見つけた。その子を抱いてテリエルのところへ戻ろうとした途中で、子供は目を覚まして叫んだ。

「ああ、お前の耳は真っ赤だな。食べたいよぅ」
「へえ。それじゃお前はウーアルセンの子か」

 若者は言って、その子供を掴んで石に投げつけた。子供は死んだ。これがこの土地最後のウーアルセンだった。

 若者はテリエルの家に行って「もうすっかり終わったよ」と言った。テリエルは優しく迎えて食べ物を与え、世話をした。若者はテリエルのところで とても良い暮らしをした。けれども次第に故郷を懐かしむ気持ちが募り、悲しくなってきて、ある日テリエルに告げた。

「テリエルおばさん。お父さんのところに帰ることを許してください」
「息子や、お前の言うことはもっともだよ。旅の支度をしなさい。私はお前に二つの贈り物をしよう」

 テリエルは若者に、蓋を閉ざした箱と一人の黒人の従者とを与えた。
「この箱はお父さんの家に着くまでは決して開けないと誓っておくれ。そうしないと大変な不幸が襲うだろうからね」
 若者は誓い、箱を持ち黒人を連れて旅立った。けれども途中の森で、若者は疑う気持ちを強くした。箱の中に悪いものが入っていて、父の家に帰った途端に殺されるのではないかと危ぶんだのだ。そこで箱を開けてみると、中にはこの世のものとは思えぬほど美しい娘が入っている。彼女はテリエルの娘で、その美しさで周囲が明るく輝くほどだった。指に一つ指輪をはめていて、これで財宝でも何でも望むままに出すことが出来るのだ。

 若者は喜んで、箱を壊してこの若い花嫁を外に出した。いてもたってもいられずにすぐ出立すると、まだ夜の明けきらないうちに父の支配する町に着き、指輪の力で父の家の向かいに大きな家を建てた。

 町の人々は、夜が明けると突然立派な屋敷が出来ていたので、驚いて首長アゲッリドに報告に行った。それが出奔した末息子の家だと知って首長は出向いて行ったが、息子の新しい妻を見て驚き、またぞろ嫉妬に囚われた。自分がこの美しい娘と結婚したいと思ったのだ。

 首長は家に戻ると、家臣を集めて「息子を追い払うか殺してくれた者には、たっぷり褒美をやろう」と持ちかけた。一人のユダヤ人が名乗りをあげた。

 次の日、ユダヤ人は沢山の塩漬け肉とひょうたんたっぷりの水を持って若者を訪ね、林や砂漠を案内して回った。そして塩漬け肉を食べさせて水を少ししか与えなかったので、若者は乾いて死にそうになり、水と引き換えに目玉を一つ、暫くしてまた一つと、両方とも与えてしまった。ユダヤ人は死人同然になった若者を捨て置いて帰り、首長に目玉を渡して褒美をもらった。

 首長はさっそく、家臣を引き連れて息子の家へ出かけ、美しい息子の妻を我が物にしようとしたが、家の入口に黒人が剣を持って立っていて、こう告げた。

「ご主人様がお戻りにならないうちは、どなたもお通しするわけにはまいりません。家の中に入ろうとする者は、殺します」

 首長は家臣たちに「この黒人を殺せ」と命じたが、襲いかかって来た彼らを、黒人は全て殺してしまった。その日から首長の家臣たちは毎日 黒人と戦ったが、誰も打ち負かすことはできなかった。黒人は向かって来る者を全て殺した。首長は国中の若者を徴兵して黒人と戦わせ始めた。

 さてその頃、両目を失った若者は手探りで這いまわり、木陰に辿りついてその下でまどろんでいた。その木にはとても年取った鷲が巣を作っていた。あまりに老いていたので羽根がなく、夕方になると寒さで凍えるのだ。そこにひな鳥たちがやって来た。老いた鷲は頼んだ。

「お前たち、羽根で私の体を覆っておくれ」
「いやですよ。してあげませんよ」
「どうしてしてくれないんだ。私はお前たちを育て、温めてやった。今、私がこんなに凍えているというのに」
「年寄りの言うことなんてアテになるもんですか。お父さんが僕たちをどんな目に遭わすか分かったもんじゃないですからね。この下にいる男を見てください。実の父親が人に命じて、可哀想に、彼の目を抉り出させたんですよ!」
「この男なら助けられるよ。この木の葉っぱをほんの一枚取って両手で揉み潰し、目の上に乗せればいい。そうすれば前よりも見えるようになる」

 若者はその言葉通りにした。老いた鷲の知恵は正しく、全てが前よりもよく見えた。ひな鳥たちは父親の体を覆って温めた。

 若者は家路を急いだ。父の町近くの農場まで来て、泊めてもらおうと中に入ると、年老いた女が一人で泣いていた。

「どうしたんですか、おばさん。幸せそうには見えませんが」
「私が幸せでいられるものですか。首長アゲッリドは死んだ息子の妻と結婚したくて息子の家に押し入ろうとしているのですが、家の前には黒人がいて、みんな殺してしまうのです。明日は私の息子も、他の若者たちと一緒に、黒人と戦わなければならないのです。息子も友達も、他の人たちと同じように打ち殺されてしまうでしょう」
「力がつくよう、そこの鶏を夕食に食べさせてくれて、それから息子さんの服と僕の服を取り換えてくれたら、僕は息子さんの代わりに行って黒人と戦いましょう」

 女は喜びのあまり大声をあげ、鶏どころか羊を潰して調理してくれた。

 次の朝、若者は百姓の服に身を包んで町の首長のところへ行った。首長は自分の息子だとは気付かなかった。

「もし僕がたった一人で黒人を倒したら、何をいただけますか」
「そうしたらわしは辞職して、お前が何者であろうとも首長にしてやろう。更に、わしの娘と財産もやろう」
「いいでしょう。それなら黒人を倒します」

 若者は自分の家に行って、剣を持って黒人と戦った。力は拮抗し、日が暮れるまで戦いは続いた。家に戻った黒人は女主人に報告した。
「今日戦った男は、旦那さまと同じ血と力を持っております」

 若者の妻は言った。
「明日はお前はお休み。私がお前の代わりに戦います」

 次の朝、テリエルの娘はその男と戦った。二、三度打ち合いをして、初めて相手が自分の夫だと気づき、喜びの声をあげようとした。しかし若者は声を潜めて言った。

「そ知らぬ顔をしているんだ。このまま戦って、どんどん打ってこい」

 戦い続けながら、若者は妻に語った。

「黒人を倒したら辞職して僕に首長の座を譲ると、父は約束した。だから、明日は黒人に、血のいっぱい詰まった獣の腸を結びつけてやってくれ。それを僕が打ち破るから、血が流れたら黒人は倒れるんだ。これで僕が首長になる。そうなったら、僕は父を裁くことが出来るんだ。
 このことを黒人に詳しく説明してやってくれ。明日、事が全て片付くようにね」
「分かりました、あなた。全てあなたのお指図の通りに整えます」

 その日も勝負は付けず、次の日には黒人が家の前に出てきた。若者は剣を持って斬りかかりながら黒人に尋ねた。

「血の入った腸を首の周りに巻いてきたか」
「はい。さあ、斬ってください」

 若者は腸めがけて斬りつけた。弾けた腸から血がほとばしり、全身を血まみれにして黒人は倒れた。若者が遠くからこの戦いを見物していた野次馬たちに「僕が黒人を倒したのを見たろう」と確かめると、人々は「確かに。私たちが証人だ」と言った。

 若者は野次馬たちを連れて首長のところへ行き、約束の履行を求めた。

「よろしい。約束は守ろう。ただ、首長アゲッリドとして最後に一度、この町の七人の賢者に一つ質問がしたいのだ」
「いいでしょう」

 首長は七賢者を呼び集めて訊いた。
「わしが息子の妻と結婚することは許されるか」

 六人の賢者が答えた。「はい、許されます」。ところが七人目の賢者は言った。「いいえ、許されません」。

 首長は怒り、家臣を呼んで命じた。
「こいつを打て! もっと賢い応答をするようにな」

すると若者が言った。
「やめろ! この賢人の言うことは正しい。今は私が首長アゲッリドだ。そんなことは許さないぞ」

 若い首長は剣をとると、前の首長の首を斬り落とした。そして自分の目を抉ったユダヤ人と六人の賢者を罰し、七人目の賢者を報いるよう命じると、妻の待つ家へ帰って行った。



参考文献
『世界の民話 アフリカ』 小沢俊夫/中山淳子編訳 株式会社ぎょうせい 1977.

 

※この話には様々なモチーフが詰め込まれている。父親が息子たちに自分のために妻を殺すよう求めるくだりは【嫁の乳、孫の肝 】、妻が夫の留守中に禁じられた部屋に入ってしまうくだりは【青髭】。主人公が愛する女が密かに魔物の恋人を持っていて、その入れ知恵で主人公を害そうとする辺りは【謎かけ姫】系にあるモチーフに似ている。剛力の男が女の裏切りで縛られて殺されるくだりは「補江総白猿伝」に似ているが、そこに髪の毛が絡んでいる点は『旧約聖書』のサムソンとデリラの物語をも連想させられる。

 その他、異界から帰還する際に鷲の背に乗る、馬(驢馬)が主人の死体を運んで行く、骨を並べて反魂を行う、一度害されるが姿を変えて帰還し復讐する、異界で楽しく暮らすが故郷が懐かしくなって帰郷する、お土産に箱(つづら)をもらって帰るまで開けるなと言われる、鳥の会話を聞くなど、よく見かける細かいモチーフがぎっしり詰まっており、はっきり「●型の話」とは言えない独特の物語が出来上がっている。

 それはともかく、黒人の従者とテリエルの娘がカッコ良すぎる。

 上記の話では、乳を吸う以外にも「特別な食事」のモチーフが幾つか重なって現れている。山姥の乳を吸った後、山姥は主人公に食事を与えてから助言を始める。その後、乞食の姿で家に帰った(冥界から戻った)主人公は、与えられた食事を終えてから自分の身の上を話し出す。

英雄は泥棒

 ジャックは豆の木を伝い、人食い巨人の家に三度に渡って盗みに行く。三度繰り返されるのは物語に厚みを出すための定石だが、繰り返すことで「どうしてジャックは盗みに行くのか?」という動機付けへの疑問が気になるようになったかもしれない。

 

 主人公が冥界(森/洞穴/地下/島/鬼の城/天国)へ行って宝を得て戻る話は無数にあるが、原型は《霊になって冥界へ行く》という、シャーマンの幽体離脱・臨死体験的な幻視の記憶だったろうと考えている。その体験…霊的知識そのものが貴重な宝だ。古代社会では神霊と繋がる力(霊力)を持つ者は畏敬され、集団の長ともなれたからである。成年の通過儀礼や宗教の加入儀礼で行われた儀式や講談は、その疑似体験を目指したものだっただろう。

 通過儀礼や加入儀礼でこれら《冥界巡り》の物語が使用されたことで、主人公の旅は「成長のための試練」という位置づけになったように思われる。主人公は大人になるため、あるいは聖人・王者になるために冥界へ行く。(冥界から戻った後に、一人前の大人/聖人/王になる。)

 やがて物語が家庭の炉端に娯楽として持ちこまれ、信仰から切り離されると、人々はもっと理解しやすい脚色を求めた。《霊的知識》などという曖昧なものではない、目に見える《宝》が欲しい。結果、主人公は冥界から「珍しい食物」「霊力を行使できるようになるアイテム」などを持ち帰るようになり、挙げ句「何でも欲しいものを出せるアイテム」「沢山の金貨」などという俗的・即物的なものさえ持ち帰るようになった。《物質的な宝を得ること》そのものが目的となり、「成長のための試練」という意味すらもぼやけるようになったのだ。

 宝を得るために主人公は冥界に行く。それが目的になってしまうと、ただ行って取って来るだけでは物語が単調になる。盛り上げ要素として《宝を守る番人》が投入されたのだろう。元々キャラクター化された《死》として臨死体験談内に存在していた冥界神たちが、竜や魔犬、人食い鬼などになって主人公に立ち向かって来るようになった。

 しかし、やがてここに問題が起こったように思われる。《死》はキャラクター化されて冥界神となり、冥界神は零落して人食い鬼や魔女になり。しかしキャラクターの零落は止まらず、しまいに《普通の人間とさして変わらない存在》にまで普遍化されてしまった。場合によっては、人食い鬼は小さな家に家族と住んで、毎日夜明け頃から起きて畑を耕し、豆煎りをしたり粉を捏ねてパンを焼いたり、平々凡々と日々を営んでいる。

 かつて福沢諭吉は桃太郎を「鬼の宝を奪うのは卑怯千万」と批判したものだし、芥川龍之介は「桃太郎こそが、平和に暮らしていた鬼たちを襲って宝を奪った侵略者」と解釈して強烈に皮肉ったパロディを書いている。キャラクター化された《死》は、とうとう普遍的な一個人になった。主人公を食い殺そうとする要素は残されていても、主人公に負かされてしまう姿は愚鈍に見え、ユーモラスに感じられていっそ善良に見えてくる。知恵と勇気で彼らを出し抜く主人公の方が狡猾な悪人に見えてしまい、類話によっては、むしろ加害者は主人公の方に見える、とさえ感じられるようになってしまった。

 人食い鬼や盗賊を出し抜く知恵者の主人公を、「悪賢くて残忍な、悪魔のような奴。宝は得たけど人々には白い目で見られた」と結論付ける語り手さえいる。(「クラキュ」/『世界の民話 コーカサス』 小沢俊夫編訳 株式会社ぎょうせい 1978.)

 

 ジャックは豆の木を伝って人食い巨人の家に行き、三度に渡って金貨や呪宝を盗む。何度も冥界へ行く動機は、ジェイコブス版では最初は好奇心。二度目は「最初に盗んだ金貨が尽きたから」。そして三度目は「運だめし」となっている。二度目に盗んだ鶏が十分な富を与えてくれているのに、それでもジャックは豆の木を登るのだ。冥界下りを「成長のための試練」とする認識が、うっすらと現れているように思う。

 もっとも、この辺りは語り手や再話テキストによって異なっていて、二度目以降の動機を「母親が病気になってお金が必要になったから」などと語っていることもある。様々な類似の冥界下りの物語を見ていけば、「隅の母さんの娘に結婚を申し込みたかった若者」では富を使い果たしたので取りに行く、という行動を三度繰り返しているだけだし、「せむしのタバニーノ」のように、二度目以降は権力者に命令されて仕方なく向かうこともある。主人公が冥界へ向かうこと自体が重要なのであって、理由は後付けの動機。各語り手の加えた脚色に過ぎないようだ。

 

 この脚色は、物語が娯楽として炉端に持ち込まれ、やがて子供に語られるおとぎ話となると、特定の方向により明確化したように思われる。つまり「教材として役立つものであるべきだ」と考えられるようになったのである。

(再話された民話の結末に道徳的か宗教的な《教訓》が書き連ねられるのが定番だった時代が長かったのは確かであり、現代でも民話には必ず教訓がある、あるべきだと考えている人は少なくないようだ。)

 ジャックが巨人の宝を《盗む》のは教育上宜しくない。ではどう語ったか。……巨人の宝は(場合によっては城すらも)元々、ジャックの父親から奪ったものであった。ジャックの父はこのために死んでしまい、ジャックと母親が貧乏暮しをしていたのも全て巨人のせいだったのだ。だからジャックがそれを奪い返すのは正当な権利だし、最後に巨人を殺すのも仇討ちであって当然である。……と理屈づけたのであった。

 このタイプの脚色はジェイコブス版以前の再話テキストに既に見られるそうで、現代に至るまで多くの再話で採用されている人気バージョンである。ジャックが天に登って最初に出会った老婆(魔女)…《冥界の関守》がその因縁を教えて助言してくれるなどする。脚色が進むと、魔女は元々ジャック一家の守護者で、不思議な豆をジャックが得たことすらその魔女の差し金だったとされ、ジャックが巨人を倒すと美しい仙女に変わって有り難い訓示を垂れてみたり、もはや別の話に変わりかけている印象を受ける。

外部参考リンク >> 「ジャックと豆の木」(青空文庫)

 ともあれ、これは確かに出色しゅっしょくの脚色ではあるだろう。「ジャックの行動は犯罪じゃないの? いくら魔物でも巨人が可哀想じゃないかな」などと引っかからなくて済む。スッキリした気分でジャックの冒険を楽しめる。

 同様の脚色は、同じイギリスの民話「魔女婆さん」でも見られるそうで、主人公の少女が魔女の家から金貨を盗んで逃げのびる呪的逃走譚なのだが、類話によっては「金貨は元々、主人公の母親から魔女が盗んだものだった」と説明されることがあるという。

 

せむしのタバニーノ」では、最後に人食い巨人を殺してしまうと、唐突に「人々はもうあの化け物を恐れなくてもよくなったのだ」と語られる。物語中、たとえば巨人が人里に現れて襲うような描写は全くないのだが、最後の最後に慌てて付け加えたかのように、人々がこの巨人に脅かされていたことが指摘され、退治の正当性が主張されている。これも物語をスッキリと楽しむための脚色だろう。「桃太郎」にも同様の脚色が行われ、「鬼が人々を襲っていたので退治に行った」と説明されることがある。

 

 全くの余談になるが、少し昔まで、人は物語の主人公の戦う動機を「世界のため、国のため、みんなのため、主君への忠義」などの《大義》で納得していたが、近年はもっと個人的な動機…「家族のため、友のため、恋人のため、自分の利益」などでなければ、なかなか共感しないそうである。民話は現代でも漫画や演劇や様々な分野で語り直され続けているが、ジャックが宝を盗む理由、桃太郎が鬼を退治する理由も、時代のニーズに合わせて、今後も様々に変化し続けていくのだろう。 

呪的逃走

 伝承中に現れる定番モチーフの一つに、[呪的逃走(マジック・フライト)]と呼ばれるものがある。故郷へ帰ろうとする主人公を人食い鬼が追って来る。その追手から魔術的な手段を用いて逃げのびるというもので、具体的な手段には「呪物を投げて追手の前に障害を作る」「食物を少しずつ投げ与え、追手が食べている間に逃げる」「途中で誰かに会う度に匿ってもらう」「様々なものに変身する」など、幾つかの系統がある。

 簡単に言ってしまえば、このモチーフは「冥界からの脱出」を意味していると考えられる。追って来る人食い鬼は《死》そのものだ。

 持っていた食物、あるいは同行者の体、時には自分自身の肉を少しずつ投げ与えて逃げる行為は、冥界の番犬の前を通過する際にパンや甘い菓子を投げるという定番モチーフと根が繋がっているかもしれない。霊を供物で慰撫している。シュメールの女神イナンナ(イシュタル)は冥界へ下る際に七つの関門を通り、その度に一つずつ身に付けていた衣服や装飾品を関守に渡したが、少しずつ与え・失って黄泉路を進むという点で共通するイメージかもしれない。また、仲間に裏切られ地底に落とされた主人公の帰還を語る民話のモチーフに、「大鷲に少しずつ肉を与えながら飛翔し、肉が尽きた最後には自分の肉を切って与える」というものがあるが、これも関連しているだろうか。

 呪物を投げて出す障害物……山、森(イバラの藪)、川、炎の海は、冥界そのものであり、この世とあの世を隔てる境界でもある。用いられる呪物は櫛(ブラシ)、鏡、石などが一般的だが、ロシアの伝承ではタオル(布きれ)を投げることも多い。液体入りの瓶、宝玉、札であることもある。

 『日本書紀』神代一書六に、イザナギが櫛の歯に火を灯して妻の腐乱死体を見てしまったことにちなんで、今の世の人々は夜に櫛を投げることを忌む、と書いてある。投げ櫛を不吉とする習俗は現代日本では廃れているが、かつての人々は(この神話にちなんでか)櫛を投げることに呪術的なイメージを強く持っていたようだ。『吾妻鏡』第四十巻に該当シーンがあるが、投げ櫛…配偶者に櫛を投げつけて相手が拾う…は離婚を意味した。また、櫛をなくすことは不吉とされた。一方で落ちていた櫛を拾うと苦死を拾う(島根県)、櫛を拾って使うと頭痛が起きる(群馬県)、櫛を拾って帰ると家内に諍いが起きる(滋賀県)などという俗信もある。しかしまた逆に、厄落としとして女が櫛を投げる、櫛を拾うと若くなるなどとする地域もある(長野県)。櫛を拾う際には、踏んでから拾う(長野県)か、「悪事災難を逃れるべし」などと唱えてから拾うとよい(熊本県)とされる。

 なお北アメリカのトラトラシコアラ族の伝承には、神人ナトリビカクから火を盗んで逃走する主人公(鹿の精)が背後に魚脂を投げて湖を、何本かの髪の毛を投げて大森林を、最後に四個の石を投げて四つの高山を作るというものがあるが、毛髪を投げて森を出しているのは面白い。というのも『日本書紀』神代上第八段の一書あるふみ(第五)にあるスサノオの事績に、似たものがあるからだ。

鬚髯ひげを抜きて散つ。即ち杉に成る。又、胸の毛を抜き散つ。是れひのきに成る。尻の毛は、是れまきに成る。眉の毛は、是れ橡樟くすに成る。
(中略)
素戔嗚尊スサノオのミコトの子を五十猛命イタケルのミコトと曰す。妹は大屋津姫命オオヤツヒメのミコト。次に爪津姫命ツマツヒメのミコト。凡て此の三の神、亦能く木種を分布す。

 高知県の民間伝承では、お大師様が山に木の種を蒔くという。しかし同時にアマノジャクがイバラの種を蒔く。他県にも類似の伝承があり、山の神が作物の種を蒔いて回ると、後から山姥やアマノジャクが雑草やイバラの種を蒔くという。神が種を播き散らすことで山野の草木が生じるという信仰があり、その《種》を、『日本書紀』や北アメリカの伝承では《体毛》としているのだ。細くてうじゃうじゃ生えている体毛が木々に変わるというイメージは分かりやすい。これは(細い歯がうじゃうじゃある)櫛やブラシを投げると森林が生じる、という呪的逃走モチーフとも繋がっているかもしれない。

 

 主人公が逃げながら次々変身するパターンは、研究者によっては「変身逃走譚」として、他の呪的逃走モチーフとは区別している。たとえば「海の王と賢いワシリーサ」では、冥王の娘(乙姫)ワシリーサが夫たるイワン王子を羊飼い・神父・雄鴨に、馬を牧場・木・湖に変え、自分は羊・教会・雌鴨に変身する。『グリム童話』の「めっけ鳥」(KHM51)では、山番の娘レンが義兄弟の少年《めっけ鳥》を薔薇の木・教会堂・池に変え、自分は薔薇の花・シャンデリア・鴨に変わる。

 これらの例では、主人公たちは植物や池や、あげく建物に変身して、その場から動かずに追手をやり過ごしている。しかし、変身逃走にはまた少し異なるパターンもある。

 ギリシア神話によれば、大神ゼウスが女神アステリアとの交わりを望んだ時、彼女はうずらに変身して逃げた。しかしゼウスは鷲に変わって追った。追いつかれた女神は石になって海中に落ち、浮島オルテュギアになったという。また、大神ゼウスが女神ネメシスとの交わりを望んだ時も、彼女は魚になって大海に逃げたがゼウスは波を立てて追う。獣となって陸を逃げたがゼウスはまだ追って来る。最後に鵞鳥に変身したが、ゼウスは白鳥となって捕え、彼女と契りを交わしたという。日本では岡山県の吉備津神社にまつわる温羅うら伝説に類似モチーフがある。吉備津彦の矢に射抜かれ片目になった温羅は、雉となって山中に逃れ、鯉になって川に隠れ去ろうとしたが、それを追う吉備津彦は鷹になって追い、鵜になって捕らえた。このモチーフは民話の【魔法使いの弟子】話群でも見られる。魔法使い(冥王)に弟子入りした主人公は師をしのぐ魔法使いになり憎まれる。主人公は魚や鳩や宝石などになって逃げるが、師も大魚や鷹などになって追って来る。が、最後に師が小さく弱いものに変身した時、主人公は大きく強いものに変身して捕え、食い殺してしまう。

 退治する二英雄が互いに変身し続けて勝負するエピソードは朝鮮半島(韓半島)の高句麗の神話駕洛の神話(『三国遺事』)にもあるが、こちらは一方が逃走するのを追うわけではなく、その場で「化け比べ」しているので、少々趣が違う。

 このような、互いに鳥や獣に変身して行われる追走劇は、何を現しているのだろうか。実は、これもまた「冥界からの脱出」を意味しているのだ、と解釈することが出来る。

 シベリア諸民族の間では民話の語り手とは即ちシャーマンであったそうだが、ウラジーミル・プロップによれば、ブリヤート族のシャーマンが語る幻視体験が、この変身逃走譚によく似ていたという。シャーマンは病気になった(魂の抜けた)患者を治療するべく、自らも幽体離脱して患者の魂を探しに出かける。患者もしくはその身代わりとなる魂は小鳥のように逃げていくので、シャーマンの魂は猛禽になってそれを追い、捕らえる。

 魂が鳥の姿になって飛翔するというイメージは世界的にある。また、死者の霊が獣や蛇や蛙の姿になってこの世に現れるという信仰も普遍的である。こうした幻視の記憶が信仰から切り離されたとき、冥界を巡る物語のワンシーンとして語られるようになり、いつしか《魂の転生》という意味が忘れ去られて、湖や教会のような無生物にまで変身したと語られるようになったのではないだろうか。

 

 魂の転生…変身を模して、古く人々は、毛皮をまとったり仮面を被ったり羽を飾り付けるなど、様々な扮装を行っていた。が、いつしか意味が変わっていき、変装のための道具の欠片… 一枚の羽根や数本の牙や、そういうものをお守りとして身につけるようになった。自分自身ではなく、道具アイテムの方に呪力があると認識されるようになっていったのだ。物を投げるタイプの呪的逃走譚は、そんな心理が根底にあるように思われる。主人公は何の力も持たないが、持っている特殊アイテムには魔法の力があり、それを使うことで魔法を行使できる。

 

>>参考 <シンデレラのあれこれ〜シンデレラの呪的逃走

冥王は魂をさらう

 一昔前の日本では、親は子を「夕方遅くまで遊んでいると、人さらいが出るよ」と脅すものだったという。人さらいは大きな籠だか箱を背負っていて、それに子供をヒョイと放り込んで、そのまま連れ去ってしまうのだ。

 このイメージの原型は山姥や山父のような「人食い鬼」だっただろうと、私は思っている。というのも、民話の世界では山姥はそうやって人間を連れ去っていくもので(たとえば「食わず女房」)、しかもこのモチーフは世界各地の人食い鬼の登場する民話でも同じように見られるからだ。

 クリスマスに現れる精霊たち(サンタクロースのようなもの)の中にも、よく似たイメージで語られているものがある。例えばドイツのヴァイナハツマンは、良い子にはプレゼントを、悪い子には鞭を枕元に置いて行くが、特に悪い子は腰に提げた袋や籠に入れて連れ去ると言われていた。フランスのハンス・トラップも、良い子にはプレゼントを与えるが悪い子は袋に入れて連れ去るとされた。プレゼントと死の双方を与えるこれらの精霊のイメージには、山姥ら「人食い鬼」たちと同じ、古代の信仰の片鱗を感じる。

「人食い鬼」が負っている容器は、袋、網袋、桶など幾らかバリエーションがあるが、それに人間をヒョイと入れて、軽々と背負って運んでいくというイメージは、どの国の話でも変わらない。

>>参考 [人さらい

 

 人食い鬼はどうして人間を網袋や籠に投げ込んで運んで行くのだろう。

 その答えはきっと単純で、昔の人々が獣や魚貝を獲った時、そのように袋や籠に入れて運んでいた、その日常動作を模しているだけだろうと推察出来るが、もう一段階、「死者の霊魂は鳥獣魚の姿に変身している」というイメージが絡んでいるかもしれない。というのも、冥界神が漁(猟)のように死者の霊を捕らえる、という伝承が世界各地に見出せるからだ。

 メラネシアのベレプ諸島では、死者の魂はポット島の北東海底にある冥界チアビロウムに行くとされるが、ポット島の岩の上にキエモウアという恐ろしい神がいて、この追撃をかわさなければならないという。キエモウアは何故か怒り狂っていて、爆発するように激しく巨大な網を投げ放ってくるのだと。

 キエモウアの網から逃れてこそ黄金のみかんの実る楽園チアビロウムへ行けると語られているが(網に捕らえられれば地獄へ行くということか?)、恐らくこれは幾つかの冥界関連のイメージを合成したもので、「恐ろしい冥界神(人食い鬼)に網で捕えられる」=「死ぬ」というイメージがあったのではないだろうか。人が死ぬ、それは魂を呑み込む神に命魂を捕らえられ、深淵に連れさらわれたからなのだと。

 ドイツの水の精ニクスや、アイルランドの海の精メロウは、水底の宮殿に置いてある壺や魚籠の中に溺死者の魂を集めているとされる。これは水中に冥界があるという古い信仰の名残だという説がある。まるで魚を獲るように冥界神は死者の魂を魚籠に収めている。

 


 冥界神が命魂を袋や籠に詰め込んで冥界へ連れ去る、というイメージは、【死神/命のロウソク 】系の民話にも現れているかもしれない。民話には「入れ」と命じるだけで何でも詰め込んでしまえる袋、というマジックアイテムが登場するが、【死神/命のロウソク 】系の話では、主人公がその袋に死神(悪魔)を閉じ込めてしまう。彼は死神入りの袋を高木の上に吊るす。おかげで世界から《死》が消えるが、そんな世界はかえって苦しいものだと分かり、後に自ら袋を開けた。

枝にとまる魂

 人食い鬼の出る話を見るとしばしば現われてくる定番シチュエーションの一つに、「樹上や天井などの高所に主人公がおり、その下に人食い鬼がいる」というものがある。

もの言う馬」や「アリ・ババと四十人の盗賊」、【地蔵浄土】などでは、人食い鬼(盗賊)がやって来ることに気付いた主人公が木の上や地蔵の上に隠れる。

天道さん金の鎖」「シュパリーチェク」[牛方山姥]「脂取り」などでは、人食い鬼に追われた主人公が樹上や天井裏、天井から吊るされた袋の中などに隠れる。

袋の中の男の子」「イラクサとヨモギ」などでは、主人公は果樹の枝に座り、人食い女が下で物欲しげに口を開けている。

 共通しているのは、樹下の人食い鬼が樹上のモノを食べようとしている、という点である。

 

 樹上樹下に「若い/老いた」「高貴な/卑しい」「白い/黒い」「/」などの対照的な存在がいて対峙している、というシチュエーションは、伝承の世界ではしばしば見られるものだ。

 例えば日本神話で山幸彦が竜宮(冥界)を訪ねた時、あるいは沖永良部島の民話「天の庭」では、妻を探す若者が木の枝に座り、その下の泉に水汲みに来た女が彼を発見し、結婚が行われる。

 例えばパミール高原の民話「白檀の木」や『グリム童話』の「六羽の白鳥」(KHM49)では、乙女が樹上に座り、下を通った男が、降りるよう誘って結婚する。

 例えば[三つの愛のオレンジ]では、樹上にオレンジ生まれの白い女が隠れていて、下の泉に水汲みに来た黒い女が、降りるよう誘って殺してしまう。

 

 思うに、木は「世界」であり、木の枝に座る童子は「命魂」であり、木の下に立つ人食い鬼は「死」だ。そして木の枝の「命魂」は彼方から舞い降りた来訪者であり、鳥の姿で枝にとまるモノでもあり、「太陽」にも通じる。一方、木の下で巨大な口を開けている人食い鬼は底なしの泉でもあり、世界の果てで待ち受ける目迎者であり、大地の深淵…「冥界」なのだ。

 これに関しては、<三つの愛のオレンジのあれこれ〜太陽の娘>も参照していただきたい。中国の伝承では太陽は鳥の姿で天空を飛翔し、夕方には世界の果ての木の枝にとまる。その木の下には泉があり、太陽はそこで沐浴して(溺れて)翌朝新たに飛び立つとされる。

 この泉こそが冥界であり、大きな口を開いている怪物でもあるのだと、私はイメージしている。

 中国やロシアの伝承には、天を横切る太陽を巨人または大蛇が追っていると語るものもあるが、同様に、怪物が日月を追って食べてしまうという伝承は、世界各地で見られるものだ。中国の天狗(天犬)や蛙、韓国の天犬、インドやタイのラーフ、ロシアの人食い鬼(名前は部族によって異なる)、北欧のフェンリル狼の子供たち。

 太陽は大地に沈む…命は死に呑まれる。そして太陽はまた昇り…命もまた生まれてくる。口を開けて待っている人食い鬼は貪欲に呑み込む「死」であるが、同時に無数の命を胎内に憩わせ産み出す「妻」であり「母」なのだろう。

 だからこそ、樹上樹下で対峙する構図は、「人食いが樹上の命魂を食べようとしている」と語られる一方で、「樹上の若神(女神)と樹下の女神(聖王)の結婚」といった、「豊穣を産み出す聖婚」のイメージとしても使われるのではないだろうか。

 

 中国やロシアの伝承では、追われて樹上に登った人間と下で根を齧って木を倒そうとしている人食い鬼が、月の影の由来として語られている。満ち欠けを繰り返す月は「永遠に繰り返される生と死のサイクル」の象徴とされるが、月の影となった人食い鬼はどんなに齧って(伐って)も木が元に戻ってしまうので、永遠に齧り続けているとされる。あたかも、北欧の伝承で世界樹ユグドラシルの根を毒竜が齧り続けているとされるように。

 木の下の人食い鬼は、消え去ることなく「生」と対峙し続ける「死」そのものであろう。

 

 ところで、最初に<人食いは神>で述べたように、人食い鬼に齧られる太陽自身が、一方では人食い鬼自身でもあることも注意しておかねばならない。世界各国の多くの伝承の中で、月や太陽は時に舞い降りてきて人間を冥界に連れ去る。ギリシアの太陽神アポロンと月女神アルテミスの双子神は輝かしい光明神であると同時に、その矢で多くの獣や人間を射殺す支配者でもあった。彼は母の胎内にいた頃から一頭の竜に追われ続けていたが、生まれてすぐにこの竜を洞穴の奥に追い詰めて射殺し、その洞穴を自分のものにしたという。

 人食い鬼(太陽神…冥界神)は樹上にいる童子を自分の住処へ連れ去る。多くは「呑み込む(食い殺す)」と解釈されるが、自らの眷族に加える…「結婚する」「養子にする」と解釈した伝承もある。しかし結婚したり養子にした後で破局が訪れたと語る伝承も多い。

めっけ鳥(KHM51) ドイツ 『グリム童話』

 男の子が母親の膝から鷲にさらわれて、深い森の奥の高木の上に置き去りにされる。

 その森を支配している山番が泣き声を聞きつけ、木の上の子供を発見した。木に登って子供を助けおろし、《めっけ鳥》という名を付けて家に連れ帰り、養子として、自分の娘のレンと共に育てた。

 山番の家の料理番の老婆は《めっけ鳥》を釜茹でにしようと考えていた。それを知ったレンは《めっけ鳥》と一緒に逃げる。老婆は追手を掛けるが、追いつかれそうになる度にレンは《めっけ鳥》と自分を「薔薇の木と薔薇の花」「教会堂とシャンデリア」に変えてやり過ごす。

 すごすごと戻っては「花の咲いた薔薇の木しかなかった」「シャンデリアの下がった教会堂しかなかった」などと報告する部下を、老婆は「それこそがあの子たちだったのに!」と叱る。

 三度目には老婆自身が追ってきたが、子供たちは「池と鴨」に変身し、池の水を飲み干そうと老婆が腹ばいになったところで、鴨が水に引きずり込んだので、老婆は溺れて死んだ。子供たちは仲良く家に帰った。


※この話だけでは分かりにくいが、ロシアの類話「海の王と賢いワシリーサ」を併せて読めば、山番が冥王であり、その娘であるレンが冥界女神(仙女)であることが読み取れる。だからこそ彼女は変身の魔法を使えるのである。

参考 --> <小ネタ〜鷲の育て児

火の起源 ブラジル カヤポ・ゴロティレ族  『世界神話事典』 大林太良/伊藤清司/吉田敦彦/松村一男編 角川書店 1994.

 義兄に金剛インコのひなを取ってこいと命じられた少年ポトクは、梯子で岸壁の上に登ったが、あったのは卵だけであり、投げ落すと石になって義兄の手を傷つけた。怒った義兄は梯子を外してボトクを岸壁の上に置き去りにした。

 崖の下を、弓矢を携え沢山の獲物を持ったジャガーが通りかかり、地面に映ったボトクの影を見て獲物だと勘違いし、捕まえようとした。やがてそれが影だと気づき、崖の上で痩せ細って死にかけていたボトクを発見した。梯子をかけ直してボトクに降りろと促し、背に乗せて家に連れ帰り、養子として育てた。そこには火があり、ボトクは生まれて初めて火で調理した料理を食べた。

 ジャガーの妻はボトクを憎んで虐待していた。それを訴えられたジャガーは対抗するための力として弓矢を与える。ところがボトクはそれでジャガーの妻を殺してしまった。ボトクは故郷へ逃げ帰った。

 その後、ボトクの話を聞いた人間たちはジャガーの家に忍び込んで火と弓矢と(一説によれば、更に木綿の糸)を盗み、文明を手に入れた。ジャガーは恩知らずの人間を憎んで逆にそれらを捨て、素手で狩りをして生肉を食べるようになったという。

 異界で暮らしていた冥王(人食い鬼)が、高所に現れた童子を発見し、眷族に迎え入れている。

  

>>参考 <三つの愛のオレンジのあれこれ〜太陽の娘><赤ずきんちゃんのあれこれ〜木の上の悪童と木の下の人食い鬼><瓜子姫のあれこれ〜木をめぐる葛藤><小ネタ〜ブランコ娘と吊られた屍肉




おまけ:小子部チイサコベの栖軽スガル

『日本書紀』や『日本霊異記』に、小子部チイサコベの栖軽スガルなる人物の活躍が描かれている。(『日本書紀』では小子部連チイサコベムラジのスガルスガルだが、Web上では漢字表記が難しいので「栖軽」で統一する。)

日本書紀 雄略紀 巻十四

 雄略帝の治世六年の三月七日、天皇は后たちが桑葉を摘むことを望み、それによって養蚕を行おうと考えた。天皇は栖軽スガルに命じ、国内の(かいこ)を集めさせた。これによって、栖軽は誤って嬰児(乳児)を集め、天皇にたてまつった。天皇は大笑いし、嬰児を栖軽に与えて言った。

「汝が自ら養え」

 栖軽は嬰児を宮殿の垣の下で育てた。これによって姓を賜り、小子部連チイサコベのムラジとなった。

 

 雄略帝の治世七年の秋七月三日、天皇は小子部連にみことのりして言った。

ちんは三諸丘(三輪山)の神の姿を見たい。汝の腕力は人より勝る。行って捕らえてこい」 栖軽は答えて言った。「行って、捕獲を試みてみましょう」

 よって三諸丘に登り、大蛇を捕らえ、天皇に奉ってみせた。天皇は斎戒ものいみをしていなかった。その雷は輝々として、眼光は赤々。天皇はおそれ、目を閉じて見ず、殿中に入って隠れた。(再び栖軽を)派遣して(神を、三諸)丘に放たせた。これによって改めて名を賜り、雷となった。

※何に「雷」の名を与えたかには諸説あり、定説が無い。文脈から言えば栖軽に「雷」の名が与えられたと思えるが、三諸丘にその名を与えたと解釈する人もいる。個人的には、雷を制した栖軽が、すなわち雷神そのものだという意味だと思うが、百年ほど後に書かれた『日本霊異記』では後者の解釈になっている。とはいえ『日本霊異記』でも、栖軽の死体を帝が七日七夜保存し、その墓に現れた雷神は七日七夜留まったとある。やはり、栖軽が雷神になったことが暗示されているように思う。

日本霊異記 上巻 第一 雷神を捉えし縁

 小子部栖軽は、泊瀬朝倉宮ハツセのアサクラのミヤで二十三年天下を治めた雄略天皇の随身、腹心の侍従である。天皇が磐余いわれの宮に住んでいた頃、天皇が后と大安殿おおやすどのに寝て夫婦の交わりをしていた時に、栖軽が知らないで参上してきた。天皇は恥じて動きを止めた。

 その時まさに、空に雷鳴が響いた。そこで天皇は栖軽にみことのりして言った。

「汝、鳴雷なるかみを連れてこれるか」

 栖軽は答えて「承りました」と言った。「ならば連れてこい」と天皇は言い、栖軽は勅命によって宮殿を出発した。緋色の飾りを額に着け、赤い旗を付けた鉾を捧げて、馬に乗り、安部の山田の前の道と豊浦寺の前の道から走って行って、かる諸越もろこしの辺りに至り、叫んで言った。

「天の鳴雷神なるかみ、かくかくしかじかの訳で、天皇がお呼びだ!」

 そしてここから馬を戻して走って「雷神といえども、どうして天皇の命令を聞かないことがあろうか」と言う。走り帰る時に、豊浦寺と飯岡いいおかとの間に鳴雷なるかみが落ちて在った。栖軽はこれを見て、神司かみづかさを呼び、(雷神を)篭の輿に入れて大宮に持って行き、天皇に奉って「雷神を連れてまいりました」と言った。

 その時、雷は光を放って明るく輝いた。天皇は見て恐れ、丁重に幣帛みてぐら(神への供物)たてまつり、落ちたところに帰すように命じたので、(その場所を)今も雷の丘と呼ぶ。古京(飛鳥時代の都)小治田おわりだの宮の北にある。

 こうした後、ある時、栖軽は死んだ。天皇はみことのりして、遺体を七日七夜留め、彼の忠信を偲び、雷の落ちた同じ場所にその墓を作った。墓碑に柱を立てて「雷を取りし栖軽が墓」と碑文を書いた。これを雷が怨んで鳴り落ち、碑文の柱を蹴り踏んで、この柱の裂けた間に挟まって捕らえられた。天皇がこれを聞いて雷を解放したので死ななかった。雷は呆けて七日七夜留まっていた。

 天皇の勅使が碑文の柱を建て直して「生きても死んでも雷を捕らえし栖軽が墓なり」とした。古くより名付けていかずちの岡という、その本当の理由はこれである。

 小子部連チイサコベのムラジという氏族について詳細は分かっていない。『古事記』には神八井耳命(神武天皇の子で、綏靖天皇の弟)の子孫から生じた氏族の一つだと書いてあり(『古事記』を編纂した大安万呂おほのやすまろの一族である意富臣おほのおみも、神八井耳命の子孫に数えられている)、『日本書紀』巻二十八には壬申の乱の際に援軍を率いて天武天皇を助けたが後に山に入って謎の自殺を遂げた尾張国の国司・小子部連鋤鉤チイサコベのムラジ サイチなる人物の名がある。

 歴史的な視点から栖軽の物語を読み解く研究者は、小子部連は養蚕や馬などの渡来技術に関わる氏族だと考えているようである。実際、大陸から渡来した氏族が、一緒に運んできた「物語」に自分たちが養蚕技術をもたらしたことを含ませつつ、それを利用して氏族の由来を語ったものかもしれない。しかし、ここではその視点には踏み込まない。伝播の背景を考えず、ただ「物語」としてだけ見た場合、栖軽の伝説は今でも世界各地の伝承で見かけるお馴染みのモチーフに過ぎないのだ。

>>参考 [童子と人食い鬼〜王の命令

 結論から言えば、栖軽の物語は「横暴な王が英雄に無理難題を命じ、英雄は冥界に下って命じられた宝を取って来る」というモチーフの一バリエーションである。ギリシア神話のヘラクレスの十二功業が有名で例として挙げやすい。

 雄略天皇は苛烈な英雄王だったとされ、なのに雷神を前にして怯え隠れるのはおかしい、という感想を持つ人もいるようだが、なんのことはない。愚かで傲慢な権力者(古い王)が英雄(新しい王)に無理難題を命じては冥界から宝を取ってこさせ、最後に冥界神そのものを連れて来いと命じ、しかし連れて来られた冥界神に殺されてしまう(失神する、怯えて隠れる)…というのは、このモチーフの結末の一つの定番パターンなのだった。

 お伽草子の「梵天国」には帝が雷神を連れて来いと主人公に命じるが、いざ雷神を連れて行くとその雷鳴と雷光で半死半生になってしまうエピソードがある。ロシアの「魔女カルトとチルビク」では、王は最後に人食いの魔女を連れてくるように命じ、主人公が魔女を箱に詰めて持っていくと、王は箱の中から飛び出た魔女に呑まれる。ヘラクレスの十二功業でも、王に人食い獅子退治を命じられたヘラクレスがその死骸を担いで戻ると、王は恐れてそれを捨てるように命じたとされている。一説によれば、それ以降はヘラクレスと相対しようとせず、常に大きな青銅の甕に隠れていたという。(これは「死」の暗示である。冥界下りする英雄と命じる王は表裏一体なのだ。)最後にヘラクレスが命令に従って冥界の番犬ケルベロスを連れてきた時も、甕の中から怖々とこれを見て、すぐに連れ去るように命じた。雄略帝が自分で命じたのに怯え隠れて、雷神を放てと命じたのと同じである。

 そんなわけなので、雄略帝の物語としてこの話が語られているのは一種の皮肉だと想像できる。とはいえ、原型では「無理なものを持って来いと命じられた英雄がトンチを効かせ、わざと違うものを持って行って王にぎゃふんと言わせる」という話だったろうものを「栖軽の勘違いを天皇が笑って許してやる」という形に歪めたり、天皇が雷神に怯えたのを「斎戒していなかったから」と理屈付けてみたり、原型は「王の命令で冥界に行った英雄が神を従えて戻り、新たな王になった」だったのであろう話を「栖軽の墓に雷が捕らえられ、天皇が祀った」という形に改変していたり、かなり天皇に気を遣っているのだが。『日本霊異記』では栖軽は天皇の「肺腑しふの侍者(腹心の侍従)」だったとまで語っているし、この物語を伝えたのだろう氏族(小子部連?)の複雑な恭順ぶりが見える。それでも伝承の原型を知っている者がこの話を読めばニヤニヤ出来たに違いない。なにしろ、このモチーフは基本、「古い王が新しい王に取って代わられる」話だからである。

 栖軽の死後、その遺体を七日七夜そのままにしたというエピソードは、栖軽の黄泉返りを暗示していると思われる。天皇は彼が甦ると考えていたから遺体を留めておいたのだ。また、栖軽は意味なく死んだのではなく、「天皇に命じられて雷神を捕らえに行った=冥界の神に会いに行った=死んだ」と見るべきだと考える。雷神は栖軽を怨んで墓に落ちたのではなく、栖軽が神として黄泉帰ったのである。前半の「栖軽が天皇に命じられて雷神を連れ帰る話」と後半の「栖軽の墓に雷神が宿る話」は、実際には同じことを、語り口を変えて語っているだけだと思う。

 

 栖軽の体格について『日本書紀』にも『日本霊異記』にも一切記述は無い。しかし「小子部」という姓から「小人」を連想する読者は多いらしく、それは恐らく間違っていないと思う。中国の「ちびっこの甘露」は、金柑の実から生まれた小さな少年が横暴な権力者に知恵で立ち向かう話だ。話型分析の視点から見れば、栖軽の物語はこれと根が同じである。その視点で見れば「小子部」の姓は子供を沢山育てたことに由来するのではなく、単に「ちびっこの栖軽」くらいの意味しかないと思われる。

 小さいものが大きなものに立ちむかって倒す話は、現代でも漫画等で好まれるものだ。「小さいもの」は本当に体が小さいのでなくてもよく、子供、若者、貧者でもよい。対する「大きいもの」は必ずしも巨人でなくてよく、大人(老人)、権力者(冨貴者)、魔神として語られる。

 

 ところで、栖軽の墓に雷神が挟み込まれて身動きできなくなってしまうエピソードは、『古事記』で大穴牟遅神オオナムチのカミ(大国主)が兄弟たちに迫害され、楔を打った木の幹の裂け目に入らせられて挟み殺されたエピソードとの相似を思わせるが、イタリアの民話「せむしのタバニーノ」にもよく似たエピソードが出てくる。タバニーノはヘラクレスと同じように、王に無理を命じられて何度も人食いの野蛮人の家(冥界)を訪れては宝を盗み、最後には栖軽のように野蛮人自身を連れて来いと命じられて、それを箱に閉じ込めて連れ帰る。この物語の中で、タバニーノは野蛮人を騙して楔を打った木の幹に手を差し込ませ、楔を外して挟み込ませているのだ。野蛮人は身動きできなくなり、自力でどうにか抜け出せたものの半死半生になった。(木に挟まれて死に、木の裂け目から復活するという暗示が見える。

「英雄の冥界下り」のエピソードと、この「神を騙して木に挟み込んで捕らえ、半死半生にする」というエピソードは、近い、セットにして語るべきものであるらしい。

 どうしてなのかは、今の私には分からない。単に「木への落雷は神の来訪」というイメージから「神を捕らえるには木に挟み込まれて宿っているのを捕まえればいい」と発想し、それが未消化の断片モチーフのまま、なんとなく世界中に流布しているのかもしれないが。

主な参考文献
『魔法昔話の起源』 ウラジーミル・プロップ著 斎藤君子訳 せりか書房 1983.
『あの世の事典』 水木しげる著 ちくま文庫 1989.
『妖怪談義』 柳田國男著 講談社学術文庫 1977.
『神話の系譜 日本神話の源流をさぐる』 大林太良著 講談社学術文庫 1991.

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